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2022年3月16日 (水)

生誕110年 香月泰男展(5)~第4章 新たな展開の予感(1969~74)

Kazukiblue  1960年代の香月の作品はモノクロームで必要最小限に単純化された形と評されていたのが、この頃、少しずつピンポイントで明るい色が使われ始め、大作で赤や青や白が印象的な作品が描かれました。
 「青の太陽」という1969年の作品です。画家の説明によると、満州に駐屯していた時、匍匐前進の訓練の際に目にした蟻の姿から、大陸の広い大地に巣穴を掘る蟻の視点に立つと、地の底から穴を通して空を仰ぎ見る。地中の闇を穴を通して空の青がみえる。地中の闇の黒い世界を穿って青い光が射し込む。この青い空が太陽に見立てられている。その青が印象的だが、それを印象的にしているのが、黒のグラデーションと、その塗り重ねの境界線のザラザラした感じ、その粒々な感じが蟻が群れているようにも見えてくる。
Kazukifire  「業火」という1969年の作品です。自身の解説では奉天から北上する列車の窓から見た兵舎が燃える炎を描いたものだということです。題名の「業火」というのは地獄の炎です。苛酷な収容所で生き残った後ろめたさとして、彼の内面に燃え盛るものでもあった。そのいうものとして炎を描いたと解説されています。速水御舟の「炎舞」で描かれる炎と同じような形のパターンを、香月は執拗に繰り返し、さらにマチエールで立体的に積み重ねて、炎の赤の鮮やかさの印象を強めます。私には、炎というより、赤のパターンの繰り返しの鮮やかさという作品ではないかと思います。
Kazukisunri  「日の出」「月の出」の2作品は、どちらも1974年に描かれました。花札の坊主のようなパターンの作品です。そういうパターンがあるからこそ、「日の出」の赤、「月の出」の白の色彩の輝き、そして、それぞれ日の光や月の光に映える背景の色彩とそのグラデーション、さらに凹凸によって生まれる陰影。それらが、日の出や月の出の時々刻々と光が変化していく動きが、画面に再現されるように見ることが出来ます。
 さて、最初にも少し書きましたが、香月の代表作であり、この展覧会の目玉である「シベリア・シリーズ」は、太平洋戦争とシベリア抑留の想像を絶する過酷な体験を絵画化したとされ、香月は20年以上に渡り、戦争の悲惨さ無意味さを自身の絵筆で後世に伝えるいわばライフワークとして制作したとされています。一見したところ画面の大半を墨色が覆い、何が描いてあるのか理解できない作品が多く、作品を安易に「人に理解されたくない」一方で、「やはり分かってもらいたい」という相反する気持ちの葛藤を解決する策として香月自身の言葉による解説が加えられたといいます自身の言葉による解説が加えられた。展示にも、作品の解説と香月自身による解説と二つのキャプションが付せられていました。たしかに、香月の「シベリア・シリーズ」というのは、そういう作品なんだろうな、という作品のマーケティングがひとつのイメージとして定着しているということがよく分かりました。私としては、むしろ、そういうのは邪魔に近く、これらの作品は造形的な面白さ Kazukimoon があり、それ以上に、展示作品の大半が黒一色で会場が暗黒の世界になってしまうかというと、そんなことはなく、単調で飽きてしまうこともありませんでした。もし、「シベリア・シリーズ」が戦争の過酷な体験を絵画化しただけなら、その描かれた事象に感情を動かされはしても、単調な画面には飽きて、今回の展示のように57点も続けて見せられると食傷してしまうものだろうと思います。飽きたなどというと不謹慎と言われてしまいそうな雰囲気を余計に感じてしまう。そういうところが、見るのに体力がいるとか、通してみると疲れてしまう、という感想が生まれたりする。そういう雰囲気というか物語があるように、この作品についての言説などを見る限り、感じられるところがあります。しかし、そういう雰囲気とか物語は、戦争体験といったものを、ある程度実感として共有されているからこそ生きているもので、そういうものは世代が代わると失われていくもので、私のような戦後生まれの人間にはリアリティがありません。だから、語り継ぐべきという主張もありますが、作品を見るために、わざわざそこまで苦労して勉強するまでするかというと、それほど真摯でもありません。しかし、そんなことを言っていたら、作品の門戸は高くなって、見る人を戦争についての意識の高い人に限ってしまうことになりかねません。しかし、そんな意識など全くなくて、単に、作品を見て楽しみたいという私にも、この展覧会は面白かったです。例えば、展示作品の大半が黒一色で会場が暗黒の世界になってしまうかというと、そんなことはなく、単調で飽きてしまうこともありませんでした。それは、香月の独特の手法で、黒の絵の具に木の炭やその他の粉末を混ぜて塗面に凸凹を着けたりすることによって、作品それぞれの黒の色合いが微妙にくすんだものとなり、作品ごとにその具合がちがってきて、あるいは、凸凹がつけられたことによる陰影がうまれ、それが黒の見え方を作品ごとに、あるいは光の当たり具合によって、印象が変わってくるということ。それらが、作品が一堂に並んでいるために、却って、その違いを対比的に見ることが出来て、作品を見る順番を変えると、対比的にその違いの見え方が変わってくるという、繰り返し展示を見ても新たな発見があるので、疲れを感じる暇もないほどでした。「シベリア・シリーズ」などというより「黒のシリーズ」とか「黒のバリエィション」とでも言ってあげたいほどでした。
Iketatsumask3  また、造形面でも「シベリア・シリーズ」で頻出する独特の「顔」は、現代で言えば奈良美智の不機嫌な少女のようなキャラクター・ピースとも考えられると思います。香月の「顔」は表情とか個性をなくした非人間的なものとして描かれているばかりかといえば、「復員〈タラップ〉」という作品では、表情のなかった石像のような「顔」の口を開けさせ、目のところにわざとらしく真ん丸の涙の粒を1個2個描いてみせて、「顔」をパロディのように描いて滑稽味を作り出しています。これは、香月自身が「顔」をキャラクターとして意識して使っていたことを示しているのではないでしようか。あるいは、個々の作品のところで何度も触れましたが、香月の作品は描かれる対象とその背景の画面上の主従関係が逆転し、例えば人物がであれば、中心の人物がオマケのような存在で、背景の方が塗面に陰影が深くて何かが描かれている、その意味を探りたくなるという、従来の作品の見方の発想の転換を迫るところもあって、これなどは、私には革命的と言ってもいいと思えるほどです。美術史の知識があるわけではありませんが、近代以降の抽象的な方向に向かっていた現代美術に反抗するようにポップ・カルチャーが出てきたように聞いていますが、香月の作品を見ていると、抽象化の傾向がありながら、画家自身が見るものに分かってもらうための説明を作品に付してみたり、「顔」のようなキャラクター・ピースを考えてみたりと、抽象画とポップ・アートの両方の要素をもっていた、つまり、両者の橋渡しのような在り方をしている。そのように、先入観なしに作品を取り上げて、単に見るということからの面白さが沢山あると思います。

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