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2022年4月

2022年4月26日 (火)

吉田麻子「平田篤胤 交響する死者・生者・神々」

11112_20220426205701  平田篤胤のイメージって「皇国史観の元祖」とか「狂信的国粋主義者」といったものではないだろうか。そういう平田篤胤像を、この本では一人の思想家、国学者として捉え直そうとしたものと言える。著者は、あとがきの中で、平田篤胤の思想を「人間を中心としないヒューマニズム」と言い表わした。それは、生きている人間だけを大切にするのでは、真の意味での人間を大切にすることではない。生きている人間と、そうでない人間、例えば死者、それを遡って祖先そして神話を区分しない。現実の世界と黄泉の国のような異界との境目がかぎりなく曖昧になって、むしろ連続している。そういう世界観の基で、篤胤の思想が構築されているという。「カミ」について本居宣長は、自然の海や山、獣や草木、そして人間に至るまで、この世のありとあらゆる不思議なものをすべて指す言葉だという。これは、神社の御神体が古木や巨石、山あるいは人も祀られていることから納得できることだ。そういう基盤に立って、篤胤は記紀の神話でも神々は人間と同じように扱われ記述されているし、神も人が当たり前に共存していることから、同じレベルで存在しているものとして、さらに、人が「祈り」それに神がこたえるという関係性から、そこに神の存在意義を見出す。そういう視点で記紀をみると、例えば、イザナギ・イザナミの国産みの意味が、人間の住む場所を用意することにあった、ということになる。つまり神は人のために在る。これは人民の側に主軸を置く解釈で、当然、神々の直系の子孫である天皇の存在意義も同じだという。これが宣長とは違う篤胤の思想の特徴で、篤胤のこのような面は、弟子の生田万に受け継がれ、柏崎での民衆蜂起(生田万の乱)につながっていく。実際、篤胤の晩年は、そういう危険さを幕府政権に見とがめられ、江戸を追放され、故郷の秋田で生涯を終えることになった。
 これは、篤胤を支えたのはどのような人々だったのか、ということからも納得できる。彼の門人の多くは庶民であったという。これは、本居宣長も同じようなのだが、少し違う。宣長は松阪の裕福な商家の出身で、京都に塾を開いた。そこの庶民が門人だったが、中心は裕福な商人や社寺、あるいは公家とも付き合いのあるような人々だった。これに対して、篤胤は江戸の下町に塾を開き、まめに地方を回ったため、門人の中心は地方の名望家や町の世話役のような人々。宣長と篤胤の違いは、「あはれ」という語の解釈に端的に表われる。つまり、宣長は、古代からの日本人の心情を美学的にとらえ、哀感のような意味合いとした。これに対して、篤胤は古事記の天岩戸神話のアメノウズメのダンスのような生命観の発露のようなもの、そこに日本人の事の姿があるとして、ポジティブな意味合いで捉えた。それゆえに、篤胤の思想の立ち位置は、今で言えば在野であり、アカデミズムとは無縁のもので、後の、明治以降のアカデミックな歴史や哲学といった学問からは、眉唾のように受け取られやすかった、この本を読んでいて思った。

 

2022年4月21日 (木)

中島隆博「中国哲学史 諸子百家から朱子学、現代の新儒家まで」

11112_20220421223301  私の場合、中国思想というと春秋戦国時代の諸子百家と宋時代の朱子学や竹林の七賢人に代表されるタオイズム、唐時代の仏教(禅)あとは現代のマオイズムというようにブツ切りの知識しかない。「中国哲学史」というこの本のタイトルは、歴史としてトータルに捉えようというもの。果たして、こんなことができるのだろうか、と私なら思うが、この著作でも、はじめに中国哲学史を書くとはどういうことかという議論から始めている。この本のタイトルをあえて「中国哲学史」として「中国思想史」ではないのは、ヨーロッパでいわゆる哲学史がヘーゲルによって始められた(つくられた)もので、普遍史ではない西洋哲学史がラッセルによって始められた、ということを強く意識したゆえだと思う。実際のところ、この本での哲学史は、20世紀の中国の近代主義者である胡適のまとめた「中国哲学史大綱」とアンヌ・チャンの「中国思想史」の批判ということがベースに隠れていると、私には思える。つまり、この本は中国哲学史であると同時に、その裏で胡適の批判的な紹介としても読むことができるように思う。その点がとても興味深かったと思う。胡適という人は、日中戦争の時の外交官で冷血といえるほどのリアリストというイメージが強かったので、かなり強引な議論をしていて、こんなに熱い近代主義者だったのかという発見があった。
 ブツ切りの知識しかない私には、例えば孔子のころの儒家が実践的な道徳と行政府のための有効な統治のツールであったものが、科挙に典型的にあらわれる国家のイデオロギーになり、さらには朱子学や陽明学のような宇宙論にまで及ぶ精緻な思想体系にまでなっていったのが、どのような流れでそうなっていったのかというのは、よくわからず、そういうことは知りたいと思っていた。それについては、儒家には戦国末期に孟子や荀子がでて思想として整備され、儒家を批判した法家が秦とともに衰亡すると、それに代わるものとして前漢の武帝の時代に董仲舒が皇帝の正統性を「天」という観念を用いて保証する国家イデオロギーとなったのが三国志時代の混乱と隋・唐の異民族支配を経て宋の近世的秩序の整備にともなって、科挙の定着により儒家の体制化が進み朱子学に代表される宋学が生まれ、その後、支配側の守旧思想となって行ったという流れはわかった。その間、道家や仏教やキリスト教との競争もあり、それが儒家の変化していく契機ともなったという思想のドラマもあったという。
 あと、強引とも言える胡適の哲学史、例えば、歴史の時代の前後を入れ替えて、孔子の批判者であるはずの老子を、孔子以前の時代の人にして中国の哲学の創始者にしてしまって、孔子はその批判者として登場するように位置づけるという強引な議論が紹介されていて、それには、それなりの理由があるのだが、とても興味深かった。それもありだと思う。胡適が強引に老子を中国で哲学を始めた者としたのは、彼の無為自然は万物が生成した後、それらは自身により運動する。それは物体の自己運動であり、老子は神話から脱して思考したとして評価したからだ。それは古代ギリシャの自然哲学に比肩する。しかし、老子の自然哲学は倫理や政治に向かうと無為は放任に結びつきアナーキズムに至る。
これを批判したのが孔子だという、胡適は孔子を変革者と捉えた。孔子は「易」を変化の法則であることを発見し、例えば自然でも力学の法則がある、つまり自然科学に通じる方法で自然哲学を批判的に継承した。胡適は古代ギリシャにおけるソフィストに老子を孔子をその批判者であるソクラテスに擬えた。老子の放任は、極論すれば「万人の万人に対する戦い」になってしまうおそれがある。しかし、人は単独で生きることはできず、人の全ての行為は人と人との相互関係からなると捉えたのが孔子だ。この考え方はソクラテスに似ていないだろうか。胡適はそう考えた。
 日本では孔子というと政治の統治ツールで仁政などと結びつけて考えられたりするが、孔子は政治を司るとしたら「名を正す」(「正名」)と言っています。「政は正である」と言うように、政治の目的は正しい秩序の実現として捉えられている。これは守旧的な考えにも見えるが、一方で力が正義だいう考えを認めないことでもある。この「正名」の考えを哲学的に突き詰めたのが荀子で、「名には固有の意味がない。約束をして命名し、その約束が定着し慣習となったらそれをその名の意味という」と述べ、名が流動的であることを示唆している。そして、王は旧名にそって新しい名前をつけることで、民を統率できるとしている。一方、人間についても同じことが言えるので、元々人間には善も悪もない、人々の間で行為し、それが定着した結果として善くも悪くもなる。荀子が性悪説といわれるのは、孟子のもともと人は善であることを、このような意味で批判したからだという。それゆえ、荀子は人々の教化(啓蒙)を重視した。そこから儒家は教育のシステムを整え教団が拡大する。
 前漢の武帝は儒教を国教化する。それは、「天」を持ち出して、その正統性を打ち立てようとしたためだった。このときに活躍したのが儒家出身の董仲舒で、彼は「人を作るのは天である」とし、「人が人であるのは天に本づく」とした。そして、「天が民のために王を立てる」と考える。天によって皇帝の権力を基礎づけているというわけで、しかし、これは同時に天によって皇帝権に制約がかけられることでもある。董仲舒は天は天災などによってその意思を示すと考えた。つまり、天災があったり世が乱れれば、皇帝には正統性が失われたからということになる。こうなると、最初に神話から脱したはずが、神話化してしまうわけで、このあたりから思想としての生きいきとしたものを失い、守旧化していくのか。胡適は、儒教の批判者として近代化を進めるわけで、孔子を思想の変革者としながらもで、ここに胡適という人の一筋縄でなさがうかがえる。
 一方、老子の方はというと、戦国末期に荘子が形而上学的な生成論としての体裁を整備した。「老子」という著作も、実は「荘子」よりも新しいとも、この本では紹介している。この本では、「老子」のポイントを「水の政治哲学」(古代ギリシャのタレス?)と見ている。老子は「天下で水より柔弱なものはない。しかし、堅く強いものを攻めるのに水に勝るものはない」とし、王のあり方にも水の動きを投影した。「道は一を生じる。一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生じる」という「老子」の一節は1人である王が道によって生じたものであり、それが万物の根拠となるという統治論に繋がった。そして、この老子の道を、現実の具体的ツールとして法に置き換えて解釈し直したのが「韓非子」などの法家の思想で、「秦」の帝国の思想となった。歴史としては焚書坑儒とか始皇帝の強権政治の苛烈な思想のように見られるところもあるが、他方で韓非は人間の秩序の求めに応じて、天の秩序を裁断したというヒューマニズムの思想という側面もあったことを指摘している。焚書坑儒が儒家との対抗が現われた事例でもあるが、老子の後継者と孔子の後継者は、中国の歴史を通じての対抗者であったといえる。
 儒教を国教化した前漢帝国を滅ぼした王充は、漢帝国の「天」に王が沿わないで起こるとされた天変地異に対して、天災は自然現象であり、天は自然であり、無為であるという道家の考えを引き継ぎつつ、天と人を媒介する聖賢という特別な人間を想定した。しかし、王充は儒教を報じた光武帝の後漢帝国に滅ぼされる。しかし、後漢崩壊後になると、玄学という道家・道教的な思想が生まれた。それは後漢末の桓帝の治世において、宦官に反対する士人たちが政争に敗れ排除されると、彼らは政治から身をひいて「清談」に耽るようになって、そこで生まれてきたのが玄学だった。その代表的な人物の一人である王弼は、無を万物の根源とする形而上学を唱え、無為の中でそれぞれがあるべき場所にある一へと集約された世界を理想とした。「自然」を理想とする本質主義とも言える。それが庶民化して、仏教に対抗して道教になっていく。
中国思想の古代の大雑把な流れは分かったように思う。ところで、諸子百家の他の有力な思想、例えば墨家なんかはどうなっているのだろうか。
 あと、清末からの近現代の思想家を紹介しているのも、こんな人がいたんだという発見。しかし、駈足の紹介になってしまったのは残念。
 でも、日本哲学史なんて、できるだろうか。

 

2022年4月15日 (金)

佐藤岳詩「『倫理の問題』とは何か メタ倫理学から考える」

11112_20220415210401  「真善美」とプラトンにあやかっているわけではないが、これら三つのイデアについて、「真」と「美」は客観的とも主観的とも言えるが「善」だけは、それがありえない。客観的な「美」というのがあって、例えば満開の桜は誰でも美しいとしても、私は美しくないと言うことは可能だ。真も美ほどではないが、やはり可能だ。ところが、善というのは、それが許されない。例えば、人を殺してはいけないということについて、誰かが俺は違うといったら、世の中はまずいことになる。善というのは他人に押しつけるという性質を伴っている。だから、善とは何かという問いは特別な問いなのだ。そのため倫理の問いというのは他の問いとは違う。そこで、倫理を問うということはどういうことかというメタ倫理を扱おうとしたのが本書。
 あるいは、「善」が他人に押しつけという性質を含み持っているのは、そこにのっぴきならない切実さを契機としているからでもある。普段、人は、わざわざ善とは何かと問うことはしない。安定した日常を送っている時は、そんなことは考えもしない。そういう問いが起こるのは、自分のやっていることが良いのかどうかという瀬戸際に立たされた時で、それは安定した日常が何かのきっかけで突然崩壊し始めた時だ。そういうときに、何とかして世界との関わりを断つことなく、生きていこうとする、崩壊した日常をあらたに作り直していこうとする。倫理とは、そういう行為である。

 「善」とは何かという問いは、問うわけだから、その問いに対する答え、つまり正解(それは倫理的に正しいと表わしてもいい)があるはずたが・・・。どうなのだろうか。例えば、ソクラテスは人が善い行いをするためには、善を正しくしらねばならないとした。論理的に正しいというのは、その言われていることと事実が一致するということ。倫理的に正しいとか、倫理的に不正で悪という事実そのものがあるか、あるとしてもそれを確認することも証明することもできない。しかし、一般に、こういう正しさを人々は求めてしまうものだという。それは、たとえばこういうことだ。「時間厳守」というのは自分一人の私的な感情に基づくものではなくて、誰もが確認できる共通の事実だということになると、だれかに「ちゃんと時間を守ってください」と述べたとしても、それは自分の気持ちを相手に押しつけたことにならずに済む。つまり、自分がさまざまな事柄に対して持つ道徳的な賛成や反対の気持ちを、他の人にも共有してほしがゆえに、それが客観的な事実であると思い込んで、自分の感情を正当化して他人に押しけることができる。あるいは、人が自分の人生を振り返ったときに、真面目にコツコツ働いて無事に過ごした、ということを倫理的に正しいという保証をしてほしい。という善とか倫理というのが目標とか行動の指針にもなる。その時に、客観的にこれが正しいという客観的なものがあれは、この人の振り返りは意味があるのだ、と認めてもらえる。
 では、これらが客観的に正しいという事実が存在するかというと、反証はいくらでもできる。時間厳守といったって、守らない人がたくさんいるというのが事実だ。だけど、論理的な正しさを求めるのは倫理では適切なのだろうか。倫理は自然科学ではない。実際のところ、「他人に優しくするのはよいこと」というのが正しいかなどと考える前に、目の前に傷ついた人がいれば、その人を助けようとすることが大事。そのときに正当化する根拠は必要か。ここでの議論は、正解があるかないかとか、正解が必要かという白黒をはっきりさせることは、はたして必要か、という中庸があってもいいのではないか。

2022年4月 8日 (金)

山泰幸「江戸の思想闘争」

11112_20220408211001  ここでの江戸の思想とは儒学と国学で、思想闘争とは両者の論争を指す。両者は「今の世ではかつての古き良きものが失われている」という現状認識(=古への憧憬)と「それを今の世にどう復元させるか」という問題認識とそのための方法が古典解釈である点は一致している。対立点はどこを準拠点とするかで、儒学では古代中国の「聖人の道」、国学では中国文化流入以前の古代日本の「まことの道」だ。儒学の観点では、かつての聖人の教えは当の中国でも失われ、現在では彼らの教えが記された「経書」で、儒学ではこれらが拠るべき聖典である。国学の観点では、中国文化の流入以後漢意に毒され日本古来のやまと心は失われている。国学はそれを取り戻すために中国文化の影響を受ける以前の古事記に立ち返ることを主張する。
 ただし、本書は両者を同等に扱うというよりは、国学に重きを置いている。まずは身近なところで、人は死んだらどうなるかという、誰でも一度は問うたことのあることを取り上げる。これほど身近な問いであるが、それに対して思想や学問の課題として真正面から取り上げたのが本居宣長だという。彼は死後のことは人知を超えたことで理屈で説明できるようなものではないとして仏教や儒教の理論的説明を退ける。そして、人は死ぬと黄泉の国に行くという神代の伝説を真実と主張する。それは、神話の内側に身を置いていることを示す。そのプロセスで死を悲しいものとして受け止める人情を当然と認める。著者はこれを画期的と評価する。つまり、死を悲しむべきものと受け取る人情を発見し言語化しているという、そして、その根拠を神代の伝説で論証する。先に、彼は神話の内側に身を置いているとしたが、死を悲しむという世界観も神話の一部であり、それが人々に共有されているからだという。そういう世界観に儒教や仏教の死生観を横入りさせようとしても、おかしい。
とはいっても、神代の伝説などどうやって知るのか、儒学なら聖典が残されていて、それをよめばいい。宣長は『古事記』を典拠として取り上げる。しかし、『古事記』は漢字(=漢意を表す)で記されている。そこには神代の(漢意の影響を受けない)純粋な日本語が存在するという前提がある。しかし、漢字や漢文で書かれてしまっている以上、その影響を受けていないはずはない。そこに矛盾がある。漢文で記された『古事記』を解読することと、そこから読み取った神代の伝説が本当に真実であると信じることができることとは別のことであるということ。宣長は、『古事記』の読解において、記されている漢字の意味に囚われないように、その背後にある日本語の古語を取り出して、意味をひとつひとつ明らかにした。それは、日頃知らず知らずのうちに、すでに規定されてしまって、当たり前になっているものの見方、考え方を漢意として、それを腑分けするように抽出し、それを排出することで行った。それは一種のイデオロギー批判で、この手法によって、彼自身の神話読解に対する批判を退けた。そういう批判を潜り抜けたのが自説で、真実はそれしかないという論法だった。
 実は、このような手法は宣長が創ったものではなく、彼が徹底的に批判した荻生徂徠によるものだった。つまり、宣長は、徂徠の方法論により徂徠の主張を批判した。本居宣長は荻生徂徠への批判をベースに自身の思想と方法論を形成した。その批判された徂徠を見てみよう。宣長か神代の神話に立ち返ろうとしたように、徂徠は儒学は中国の神話的な先王たち(堯・舜・兎…)を聖人とし、彼らの政治社会とか文化を失われた理想として、それに立ち返るために伝えるものと捉えた。残されたものは経書と呼ばれる文字の資料だけで、それも外国語である漢文で記されている。とはいっても、当時の儒学者は、皆、当然のように漢文を読みこなしていたが、徂徠は、その方法を批判する。当時の当たり前に疑問を呈する。訓読という返り点などを使用する、学校の国語の授業で漢文を読む方法だが、それは漢文を異なる文化の異質な言葉としてではなく日本のものとして、日本語の文脈で都合のよいように誤解してしまう。そのため、本来、中国にあっても日本にはない、異なる文化的背景が無視されてしまっている。これは、現代にもある翻訳が不可避的に抱え込んでいる本質的な問題と言える。このことは本居宣長も同じように認識し、日本語と混じり込んだ漢文を峻別し、純粋な日本語を抽出しようと、つまり、認識は同じでも徂徠とは正反対のことをしようとした。それが宣長の徂徠批判だ。
 さらに、徂徠は漢文を読むにあたり、翻訳の問題に加えての困難を指摘する。経書に書かれた漢文は古代の言葉であるということ。これは、日本語でも古文を読むのがいかに難しいかを思えば想像できると思う。実際のところ、現代の中国人が「礼楽」を行うことができるわけでもない。だから、今の中国の学者でも、経書に書かれていることを理解する困難は、日本人の学者と同じくらい難しい。つまり、外国語のようなものなのだ。この点が、徂徠と宣長の本質的な違いなのではないか。宣長は、日本人にはやまと心が神代から連綿とあるという確信のもとに、漢意という猥雑物が混じり明でいて、それを剔抉すればやまと心に至ると考えた。それに対して、徂徠は言葉は時代により変化するもので、その言葉であらわされる文化や思想も変わる。それゆえにこそ、まずは聖人についての正しい理解が必要であると。
 徂徠の方法論は、当たり前を当たり前と無批判に受け取らず、自分の頭で考えることから始まると言えるが、それは伊藤仁斎という先人があってのこそで、宣長か徂徠を批判したのと同じように、徂徠は仁斎を批判することから、自身の思考を始めることができた。伊藤仁斎は京都の町人の家に生まれ、独学と町の私塾で学んだ。中国や朝鮮では科挙という官吏登用試験に合格するために儒教を学んだ。科挙の内容は儒教の古典の解釈であり、それは支配階級の立場、統治する者の立場に適合的なものであり、儒教を学んだのは士大夫とか両班といった人々だった。これに対して、仁斎は町人であり、科挙もなく、強いて言えば仁斎は好きだからと、いわば芸事のように儒学を学んだ。仁斎の儒学は士大夫とか両班といった支配層の立場から読まれていた儒教の古典が、支配というコンテクストから解放した。科挙などという公的な試験では、普通、読書というと、特に古典の場合、そこには正確な理解があり、誰が読んでも同じ意味であるはずと考え、たとえ読者によって、それとは違う理解があったとしても、それは誤りだ。そう考えられた。しかし、作品の意味は受け手である読者がどのように受け止めたかであり、一定の解釈が正解として成り立つのは、古典の解釈を共有している集団の内部だけで、儒教の場合は士大夫とか両班といった支配層がその集団であった。仁斎は、そういう集団の外で古典を読むことで、結果として、正解を相対化した。
 正解としての支配層の解釈では孔子以前の六経を正統な正典とした。しかし、儒学は孔子が創始したものであり、その思想的文脈は孔子の言葉をまとめた「論語」に集約されるとした。「論語」は正解では軽視されてきたものだった。「論語」は卑近な日常の道を説いていたことから、仁斎は「日常」を思想的に発見した。それゆえに、仁義礼智といった人倫の道が日常生活にリアルに位置付けられた。
このような解釈の相対化があったからこそ、徂徠は正解に捉われることなく、自分で考えることができた。徂徠は、仁斎の道は日常生活という私人の個人的な生活に留まることを批判し、公の立場、社会という視点で道を捉え直したのだった。
この著作では、仁斎─徂徠─宣長と批判的に継承された筋が幹をなしていると考えていると思う。その後、太宰春台や平田篤胤をとりあげているが、それは幹の3人に比べると枝葉と言わざるを得ない。
 著者は、文化人類学の「贈与」という概念を用いて、これらの闘争の性格を比喩的に表わしていて、それぞれの議論の肝を、その文化人類学によって影響された現代思想(構造主義)の議論によって現代思想の言葉に置き換える試みもしている。それらは面白い試みだとは思うが、あまり成功しているとは思えない。むしろ、例示した宣長の方法論についての議論は、現代の哲学の方法論の考察の吟味のようで、後世の現代人である私にも、「そうだよな」と納得もでき、興味深かった。

2022年4月 6日 (水)

没後50年 鏑木清方展(5)~特集2 歌舞伎

Kaburagicherry  「桜姫」という1923年の作品です。四代目鶴屋南北作「桜姫東文章」で、清水寺の僧清玄が、高貴の姫君桜姫に懸想したうえで悶死し、死後も桜姫にまとわりつくという物語です。一人の女が立ち姿で、着物の袖を顔にあてて、何かを避けているように見えるのは、おそらく幽霊となって現われた清玄から逃れようとしいている。腰をひねったその姿は、幽霊を恐れているというよりは、男を挑発しているようにも見えます。実際、狂言の中の桜姫は、最期は女郎に身を落とすほどの、魔性の女として描かれているといいます。これも、私には、物語や狂言を知っていて、舞台で役者がどのような演技をしているのかを知っていて、それを前提に絵画に仕立てましたという作品に見えます。
Kaburagikabuki  「道成寺 鷺娘」という1929年の作品です。どちらも歌舞伎の舞踊の代表的作品で、鏑木は京鹿子娘道成寺については、何度も題材として取り上げているように、この作品の方にも道成寺を扱った作品が展示されていました。舞踊としては見せ場は沢山あるのでしょうが、この絵画では、そういう踊りの見栄えのするポーズは描かずに、その扮装をしての立ち姿を描いているという、何か勿体ない気がします。この作品の顔を見ると、浮世絵のパターンの顔でもあり、歌舞伎の女形が扮している顔、つまり、生身の女性の顔ではないことがはっきりと分かる、鏑木の描く女性の顔がそういうものだというのが、この作品では端的に分かるのではないかと思います。歌舞伎の女形は、舞台越しで客席という離れたところから見るので、接近しないとわからない細かい表情などはつくっても分からないので、顔は白塗りにして、表情なんかはどうでもよく、離れてもわかる身体全体のしぐさとかポーズで女の形を見せている、いわば徹底的な表層の姿で、この作品に限らず、鏑木の描く女性は、そういうものだと思います。
Kaburagisheet  「さじき」という1951年の作品です。歌舞伎の場面ではなく、劇場の桟敷で芝居見物をする親子を描いた作品です。後ろには枇杷やサクランボが置かれた初夏の情景で、母親の帯は紫陽花、娘の紙入れは杜若をあしらっています。それに対して、着物の柄は母親は桔梗に撫子、娘は色付き始めた楓と、秋を感じさせる演出です。全体に緑色を効かせていて、母親のかんざし、指輪も翡翠です。娘の口は少し開いていて、母親との表情にわずかな違いを見せています。娘の方は、初めて見る芝居にすっかり心を奪われてしまったのか、ぽかんと口を開け、少し身を乗り出して一心に舞台を見つめているのでしょうか。この作品が描かれた時代の、絵画を購入するような比較的裕福な人々、太平洋戦争の焼け跡で貧富とか身分とかといった階層が崩壊してしまったであろうから、成金のような人々がお上品ぶって絵画を購入するようなニーズに巧く応えるような作品ではないかと思える。鏑木は、そういうマーケティング感覚に優れたひとであるだろうということが推測できるような作品だと思います。そういう意味で、上手いと思います。

2022年4月 5日 (火)

没後50年 鏑木清方展(4)~第2章 物語を描く

 鏑木は、戯作者で新聞社主の父、無類の芝居好きだった母のもとに生まれた清方は、幼少期より文芸に親しんだそうで、本人も文学と芝居の熱心なファンであったといいます。そういう鏑木の嗜好が表われた作品の展示ということです。
Kaburagibakin  「曲亭馬琴」という1907年の作品です。この会場で見てきた作品とは、かなり異質な作品なので、とくに印象に残っています。視力を失った馬琴が、「南総里見八犬伝」を息子の嫁おみちに口述筆記する様子ということです。おみちはもともと字が読めなかったところ、馬琴が手とり足取り教えて覚えさせたという。若くて覚えが早く、舅馬琴の要求に応えて、口述筆記をした。この絵には、そんなおみちが、坊主頭の馬琴の語る声に、必死に耳を傾ける彼女の表情が、印象的に描かれているといいます。この作品の室内は、鏑木の作品では唯一と言って遠近感のあるパースペクティブな空間が捉えられているように見えて、しかも、中央の行燈の灯りによる陰影が深く表現されています。そして、画面の中央左の馬琴の描き方が、他の鏑木の作品には見られない、たとえば馬琴の身体に施された陰影がその表情と相俟って一個の人間を表わそうとしているのです。多分、鏑木は試行錯誤しながら手探りで描いたのだろう手際の悪さが見て取れます。そのため、馬琴の顔がこわい顔になっています。かつて史実のなかに生きた人間としての馬琴という人物の生々しい姿ではないかと思います。しかも、室内とそこにある諸々の物がくっきりと質量のある物として描かれているように見えます。ちゃんと絵の画面になっています。うまい下手は別として。ただし、馬琴に対向しているおみちは人形のような普段の鏑木の描く女性のままです。
Kaburagiichiyo  「一葉女史の墓」という1902年の作品です。一葉女史とは夭折した小説家の樋口一葉のことであり、その墓は築地本願寺にあったといいます。画面左上に弦月が見えますが、それゆえに夜が更けてきて、墓参に訪れる人影も途切れて、あたりは静寂に包まれているのが分かります。墓に供えられた線香の煙が漂うなかで、一葉の小説「たけくらべ」のヒロイン美登利が現われて、水仙の花を抱えて墓にもたれかかっているという幻想的な光景を描いています。背景の石垣、墓石、香炉などには明暗が施されて立体感が表現されていて、後年の平面的な塗り絵のような画面とは違いますが、それでも薄っぺらくて、石の重量感が感じられません。一方、美登利の服は藍色を帯びた灰色であり、衣紋に沿って暗い灰色の暈しが入り、この明暗の差によってこの人物の立体感が生まれています。それゆえに、現実の存在感が薄くて、幻想である美登利の存在の薄さと変わりません。その結果、現実と幻想の区分が曖昧になって同居する画面になっています。また、背景である墓場と人物である美登利の存在感が同じように薄いのは、現実と幻想の区分が曖昧なだけではなく、画面のなかで美登利が主役としての存在の強さがなく背景との関係も同じようです。つまり、この画面には主役がなく、描かれているものが並列的です。この展示コーナーのテーマが物語を描くということになっていますが、それは画面として完結した世界を独立させるのではなく、挿絵の要素が強いということなのだろうと思えてきます。
 このことは、日本の近代小説が始まったときの主体性の問題と、すごくよく似ていると思います。教科書の文学史でいうと日本で初めての近代小説というと二葉亭四迷の「浮雲」とされていますが、これを読んでいると(実際に読んでいる人はほとんどいないと思いますが)、章か変わるごとに物語の語り口が変わっていることに気がつきます。それで統一感がなくてバラバラな感じがするのですが、これは、作者の二葉亭が西洋の小説のような絶対者の視点による物語の語りができなくて、物語をどのように語るかを試行錯誤して、結局うまくいかなかったとされています。西洋文化の場合、神という絶対者がいて、その下で統合されている。小説の語りについても、神というすべてを見渡し、コントロールする存在があって、作者がそれになり代わって、テーマのもとに物語を統合して語ることが出来る。それに対して、日本の文化には神にあたるような絶対者がいないので、どうしても相対的になってしまう。テーマのもとに物語を統合する語りをするものがいないというわけです。その後、解決策の一つとして、自分で自分のことを語るなら、その限りで統合できるとして私小説というのが考え出されることになるのですが、ここで小説をかたってもしょうがないので、話を戻します。絵画の世界でも、例えば遠近法という手法は、焦点を中心に放射状のひろがりに沿って事物を描くことで空間的な奥行きを表現するものですが、その焦点という点は視点と言い換えることが出来て、その視点の下に空間が作られていることになります。それは、いわば神の絶対的な視点といってもいいものです。それだけでなく、テーマとなる中心を決めて、背景を従わせるという画面内の主従の選択という構成の視点とか、そこに絶対的存在によって全体を構成するという作為が西洋絵画には当たり前のようにありますが、鏑木の作品には、それが根本的に欠けている、というより、日本画にはもともとないのだろうと思います。だから、屏風や掛け軸をたんに額装しただけで絵画の画面になるというわけではなく、そこで画面にする、つまり絵画にするという作為が必要なわけで、西洋画とは違ったやり方で、それぞれの日本画家はさまざまな努力をしてきたと思います。しかし、鏑木の作品では、あまり、そういうことが意識できい、つまり絵画になっていない。敢えて言えば、挿絵という物語の付録のような在り方を土台に、それにいろいろな意匠を凝らして絵画らしく仕立てているように見えます。ここで物語を描く作品が展示されていますが、その物語の作家は泉鏡花だったり樋口一葉だったり江戸時代の作家だったりと、近代小説以前の人たちであることが明らかです。それゆえに、鏑木の個々の作品が印象に残らない理由なのかもしれません。
Kaburagiyujo  「遊女」という1918年の作品です。泉鏡花の「通夜物語」の遊女「丁山(ちょうざん)」に題材をとっているということです。「通夜物語」のあらすじを簡単に述べると次のようになります。画家玉川清は伯父久世友房の娘で従妹にあたるお澄と愛し合っていたが、親の意向によりお澄が陸軍軍人篠山佐平太に嫁いだことから、北廓源楼の遊女丁山と入魂の仲となる。ある時、友房の辱められた清は連れの丁山を思わず妹だと偽ってしまう。友房がそれなら息子の嫁にと揶揄したのを逆手にとって、後日、二人は久世家に強請をかけた。ところが相手は友房が急死した通夜に見せかけ、篠山が悪態をついて清のKaburagiutamaro 左腕を折る。篠山を出刃包丁で刺し、「手前たちは、だれだと思ふ、丁山さんの遊女だよ」と言い放つ丁山。「覚えておけ、逢引はこうしてするもんだ」と啖呵を切って、返す刀で自らの乳房のあたり突き立てた。その血潮で襖に丁山の立ち姿を清は描いた。泉鏡花らしい怪奇で耽美な物語で、この絵画で描かれた丁山という女性は、狂気と侠気を秘めた人物です。そういうことが、この絵画のバックボーンとしてあるとして、作品を見る。おそらく、作品が描かれた当時の観客は、この物語を教養として知っていて、「遊女」が誰であるかを分かって見ていた。そうであれば、見え方が、何も知らない現代の観客とは違っていたと思います。そうでないと、この作品を、単に見る限りでは、例えば喜多川歌麿の「美人納涼図」のような浮世絵のパターンを現代的にお上品に描いて、日本画というゲイジュツに仕立て直しました、としか見えません。ただし、それができるのは、本当にお上手な人でないとできないだろうから、お上手ですね。すごいですね。そういう作品だと思います。同じ作者の同じようなパターンに「襟おしろい」があったりして、このパターンだなと思ってしまう。ただ、物語の知識がないまま作品を見て、丁山の凄絶さは感じられないでしょう。

2022年4月 4日 (月)

高井ゆと里「極限の思想 ハイデガー 世界内存在を生きる」

11112_20220404220301  哲学入門シリーズの一冊で、『存在と時間』に興味を持ち、手に取ってはみたものの、その内容を一人で十分に理解することが難しいと感じている、あるいは通読してみたものの、多くの箇所について理解に自信がないと感じているそのような読者をターゲットとしているが、視点とそれによる内容は、かなり特徴的。というのも、『存在と時間』を存在の問いから解放することを意図しているから。
 具体的に言うと、存在の意味への問いが立てられる必要があるという『存在と時間』の有名な序言の解釈について、これは、存在とは何かという問いに答えることではなく、存在の問いを適切に立てることが出来ることだという。だからこそ、『存在と時間』のはじめで「問うこと」を分析したのだと、そして「問うもの」である私たち自身へと分析を進めて行ったと。だから、著者は、私たちがそれぞれ「私」の生を生きているとはどのようなことか、という問題に対する取り組みとして『存在と時間』を解釈する。だから、『存在と時間』の内容説明でも、「存在」についても「時間」についても論じることをせず、人間の「生」ばかり論じている。
 わたし達は皆、それぞれの「私」を生きており、つねに「誰かとして」の自分自身の存在が重要性を持っている。そのような自己のあり方へのコミットメントが私たちの行為を導いている。そういう行為の空間である「世界」を私たちは生きている。その空間で何らかの空間把握を常に遂行している。その繰り返しにより世界に親しんでいる時、私たちは知らず知らずのうちに他者たちと同じような行為をしていることに気がつく。だから、私たちの生きる世界は孤独な世界ではない。それが「ひと」というもので、私たちは「ひと」であることができるようになる。それは、社会で一般に有意味だとされている生き方や活動に自身をコミットしていくことだ。このように「ひと」となって生きることは、安心や満足をもたらす。しかし、このような平安には、それが破れてしまう可能性に原理的に晒されている。例えば、「死」だ。それは、私たちがおのおの「私」として生きている以上。ある生のあり方が一般に意味ある生として認められていることと、それが「私」にとって意味のある生であることとの間には、ギャップがありうるからである。そのギャップの可能性に「ひと」は「不安」になる。そのギャップの先、「私」にとって意味のある生が本来的なあり方だという。つまり、死の可能性を視野に入れつつ私の人生は生きるに値するのか、という問いに直面するという。
 叙述は平易で、分かりやすく、『存在と時間』が、これほどスラスラと読めてよいのか、と思えるほど。だけど、こんなことは感じるのは私だけかもしれないが、自己啓発セミナーっぽいと、ちょっと思ってしまった。

 

2022年4月 2日 (土)

没後50年 鏑木清方展(3)~特集1 東京

Kaburagitsukudajima  おそらく、この展覧会の目玉でしょう。
 「佃島の秋」という1904年の作品。こんな作品も描いていた、という驚きで、手前下方の鶏の描写など写実的で、色使いなども日本画的ではないように思えます。
 「築地明石町」という1927年の作品。この展覧会のメダマであることは疑いの余地はないことでしょう。この作品は、制作時の数年前の関東大震災で全壊した明治時代の築地明石町の前でたたずむ風景を思い起こすようにして描いた作品ということです。築地明石町は明治時代中期まで外国人居留地であったため、異国情緒あふれる場所として知られていたそうです。つまり、築地明石町というと、関東大震災で完全に取り壊され、いまはかつても面影はないということが、当時の観衆たちには共有されていたと思います。江戸時代の名残りの上に滔々と西洋文化が流れ込んだ居領地のロマンチックな風景と、それが現実に関東大震災で失われてしまったという街並みという二重の喪失感を想起させるKaburagitsukiji でしょう。そのうえで、失われたものを回顧する幻想的な情景として再現したものと言えます。朝霧に包まれたようなぼんやりした背景は、ノスタルジックな幻想の世界の雰囲気をつくり上げ、女性の肩越しに佃島の入り江に停泊する帆船がうっすらと浮かび、右手に見える洋館の水色の柵には朝顔が咲いているというところで、外国人居留地を見る者に想起させるわけです。中心は黒い羽織を着て黒髪を結ったという深くくっきりとした黒の面積がおおきい女性が背景から浮かび出すように立っています。その人物のとっているポーズは浮世絵の「見返り美人」とそっくりのポーズで、有名な作品ですから知っている人は、当然想起するに違いありません。そこでまた、見る者の想像を促しているわけです。この作品では、引用によって想像力を喚起するという仕Kaburagimikaeri 掛けがいくつも仕掛けられている。そして、当の人物の描写については、指輪をはめた女性の指先の、ほんのりとした、でも意味深な赤み、細く繊細に描かれた後れ毛など、細部の描写に凝っているのです。しかし、その反面、顔には陰影とか表情が、それほど描き込まれていない。だから、全体として、画面のから浮かび上がるように人物が描かれていますが、存在感は強くない。したがって、見る者の前に人物である女性を提示して、「これだ」と存在を主張しないで、どういう人かは「ご想像にお任せします」とし、その想像を細部の描写や引用による想像の喚起で促している。そういう作品に見えます。ただ、この描かれた女性の目つきの悪さは、どこか陰険そうで、それ以外の顔の部分は特徴のない可もなく不可もないという鏑木のいつものパターンなのだけれど、この目つきの悪さは好きになれない。
Kaburagihamacho  「浜町河岸」という1930年の作品です。「築地明石町」、「新富町」とあわせて美人画三部作と呼ばれているそうです。構図も似ており、サイズも同じであることは、鏑木がこれら三つの作品をシリーズものとして意識していたと言われています。鏑木は明治末に実際に浜町で暮らしていたので、町の雰囲気は実感として分かっていたといいます。そういう浜町にふさわしい女性として踊りの稽古に通う町娘を選んでいます。髪にバラの簪をさした娘が浜町藤間の稽古から帰りの姿で扇を口元にやり左手で袂をすくう仕草をして、習ったばかりの所作を思い返しているように見えます。この作品は、全体に温かみのある色彩が巧みに挿入されています。例えば、お太鼓に結んだ帯の内側に当てている朱色の帯揚げでくるんだ帯枕、着物をたくしあげたおはしょりの下から見える赤いものはしごき帯で、この帯をチラリと見せるのがお洒落であり、竹久夢二の絵にも似たような色の使い方を見ることができます。帯周りが複雑に描かれているのに対して、女性の肌が単純に描写されているのが好対照です。顔は陶器のように白い肌で、薄い朱色で血色の良い両頬を強調し、耳や舞扇を持つ細い指先も、朱でほんのり赤く縁取られている。このわずかに見える朱色が、女性の白い指や耳に血が通っているように見せ、よりなまめかしさを見る者に感じさせるように描かれています。景には墨田川が広がり、対岸の深川安宅町の町並みが見え、右に新大橋が描かれています。その傍ら 大橋あたけの夕立にあった安宅町の火の見櫓は、江戸時代の歌川広重による「名所江戸百景」にも描かれているものだそうです。
Kaburagitakinogawa  「瀧野川観楓」という1930年の作品です。渓流沿いの土手に席をもうけ、そこに母子と見られる二人組が、観楓を楽しんでいる情景です。彼女らの頭上には、真っ赤に染まった楓の葉が、色鮮やかに拡がっています。だが母子は、それぞれそっぽを向き、また楓の葉を見ているようにも見えません。母親は下を向いているし、娘は母親とは逆の方を向いているのですが、二人の視線の先に楓の葉はないのです。母親はおそらく渓流に眺め入っているのであろうし、娘は茶菓子に気をとられているのでしょうか。作品タイトルもそうだし、画面には色鮮やかな紅葉が入念に描かれ、それに応じるように二人の女性が座っている緋毛氈の赤が作品画面の全体を支配している。しかし、二人の人物は、そこら視線を向けていないという。そこに、見る者の物語的な想像を掻きたてている、と言えるかもしれません。こういうやり方は、18世紀フランスのシャルダンが家庭の情景を扱った作品によく似ていると思います。

2022年4月 1日 (金)

没後50年 鏑木清方展(2)~第1章 生活を描く

 主に明治や江戸末期という、鏑木が制作していた昭和や大正時代からは古き良き時代とノスタルジックに回顧された中層以下の階級の市井の人々の生活や人生の機微を描こうとした作品群です。
Kaburagihina  「雛市」という1901年の鏑木23歳の時の作品です。彼の略歴を調べてみると、浮世絵派の絵師の下で修業し、若手の挿絵画家とともに烏合会という団体を設立したころということです。つまり、修行時代の作品です。雛市での一こまですが、当時は日本橋の十軒店(いまの室町付近)に人形店が集中していたということで、そのうちの一軒の前で立ち止まって、人形の物色をしている母娘と、その周辺にいる人々を描いたもので、娘が人形をねだり、母親がそれを物色しています。母親の視線の先にある人形を、使いの小僧や青年らしいものも眺めています。二人が視線を共有していることがわかり、右手の男とその隣の子守娘は表情が見えません、そのかわりを履物がつとめています。子守娘の履物は、すり減った草履のようです。一方人形をねだる少女は、かわいらしい駒下駄を履いています。物語の場面のようで、鏑木が挿絵を描いてということから、物語の挿絵のようです。なんだか、17世紀フランスのジョルジュ・ド・ラKaburagiikasama トゥールの「いかさま師」を見ているような、物語の一場面を彷彿とされます。というのも、「雛市」に描かれている人物たちは、それぞれに個性があって表情が分かって、独立した存在として、何を思っているかが想像できるというのではなくて、いわば場面の構成要素のように、この場面のなかで、他の人との関係で、このようなポーズをとっているから、こうなのだという、いわば人間として内面のある存在ではなく、場面の構成要素として描かれているのです。だから、おめかしをしている少女と手前の裸足のこどもが肩に背負っている花の咲いた枝とは、画面上の存在は同じ比重なのです。いわば表層的。実際、描かれ方も同じような丁寧さで描かれています。そういう意味で、ラトゥールと同じようにバロック的に見えます。ということは、鏑木の作品の人物というのは、人というより物に近い、これは鏑木の他の作品にも共通して感じられることです。それで、よく美人を描くことができた、と感心します。
Kaburagitamasaruru  「ためさるゝ日」という1918年の作品です。鏑木は1916年に中堅の日本画家と金鈴社を結成し、同人の影響を受けながら古典を研究していた時期の作品ということです。「雛市」が背景もびっしりと描き込んでいたのに対して、この作品では、背景が描かれなくなり、単一色に彩色された画面になります。しかし、これはいわゆる余白として、見る者に空間を想像させるようなものとは違うようです。この絵全体が、背景の緑や橙色、女性の衣服の黒や緑や紫といった塗り絵のような平面的な色面が組み合わさって画面が出来上がっているように見えます。いちおう、描かれている題材は、長崎の遊女が隠れキリシタン摘発のための踏み絵をしている場面ということですが、色面の組み合わせのために、女性の形態は図案化されているようです。それは、まるで浮世絵版画のようでもあります。左側の踏み絵をしようとしている女性のポーズは不自然なほどわざとらしいし、画面の女性の顔は陰影がなくて平面的なのは、そのためかもしれませんが、もともと鏑木というひとは、顔の陰影とかむ表情とか生き生きとした生命感のようなものは描かない、たぶん、そういうものが描く対象として認識されていないのだろうと思います。もともと、そういう認識なので、画面を塗り絵のように色の組み合わせ配置で見栄えの良いものにするという作品制作は、自然だったのだろうと思います。そして、この作品の女性たちの顔を見ていると、目は細い線のようで小さく、口は唇を突き出すように尖がって、美人ではない条件を持たせていて、鏑木は美女とか理想の女性を描くといったことには、興味がないのではないか、と思われるものでした。ここで描かれている顔は、江戸時代の浮世絵の歌麿なんかのリアルではなくデフォルメを利かせた顔を、近代化したというか、文明開化で西洋のリアリズム絵画に接した人には、歌麿などの浮世絵のデフォルメした顔はグロテスクに映るところがあると思います。鏑木がこの作品で描いてKaburagibidoro いるのは、浮世絵の顔の、そのようなグロテスクさを取り去って、浮世絵独特の顔の感じは残しても、西洋画のリアルさと比べて違和感の起こらないような顔になっていると思います。多分、それは当時の中産階級の人々にとって、浮世絵というのは庶民向けの、いわば下品なもので、鏑木は、その下品さがデフォルメの過剰によるグロテスクさだとして、それを薄めることをしたように思います。その結果、お上品な趣味を嗜好する中産階級向きにして、顧客を開拓したのだろうと思います。
Kaburagisnow  「雪つむ宵」という1920年の作品です。「ためさるゝ日」が背景を単一の色面にしているのにたいして、この作品では、雪が積もって白一色となった景色を背景にしています。一見、白で単一に塗られているようで、ちゃんと見ると、白のグラデーションで雪景色がぼんやりと見えてくる。画面の中心にいる女性は、背景と同じようにグラデーションをつけた色の面の組み合わせになっている。それにしても、描かれている顔は、シンプルというか、顔の造作を図案のように表わす最低限の線しかなくて、顔であることが最低限分かるという程度しか描かれていません。この顔を描くアングルとか、女性の姿勢とかは、浮世絵、たとえば、歌麿の「ビードロを吹く女」とよく似ていると思います。ただし、国粋主義とまではいいませんが、西洋画に対抗するように庶民向けの下品なものではなくて日本の伝統芸術とでもいえるように体裁を整えて、立派に見えるようにした、そういう風に思えます。むしろ、浮世絵が海外でもてはやされ、それが外国人から、外国人と交流のあるような日本人、つまり一定程度の教養とか経済的にも豊かである人々にとって受け容れることができるような体裁に整えた。それが鏑木の絵画の特徴のひとつであり、この作品などは、そういう要素がよく分かると思います。
Kaburagispring  「泉」という1922年の作品です。同じころに鏑木が伝統的な浮世絵や風俗画が低俗とか下品とみなされていたことに対して、ハイアートである芸術の仲間に入れようとして、デフォルメを抑制して西洋画の写実のテイストを加味した描写を試みたり、この作品では、鏑木の呼び方で言えば社会画という、旧来の浮世絵が遊里が悪所を題材としていたのに対して、社会に生きる庶民の日常の生活を描こうとしたといいます。この作品では、山間部の泉で水汲みをしている女性の姿を描いています。ただし、労働の風景と言えばそうかもしれませんが、たとえば、水汲みをしている後ろ姿の女性のポーズは浮世絵の花魁のポーズとよく似ていますし、来ている野良着の淡い緑色は、労働で汚れたいろというよりは、上品な着物のように映えて、周囲の山間部の草木の緑のバリエーションと調和して、映えています。私には、この人物は労働をしているようには見えないのです。それゆえ、社会とか生活とか労働を題材にしているというよりは、コスチューム・プレイで目先を変えて楽しんでいるように見えます。画面の人物は、後ろ姿で顔を見せてくれないので、表情が分からず、労働の辛さとか、水汲みを待って休んでいるときのほっとしたとかいった表情も見えてきません。そこに、生活とか労働の実感を見ることはできないのです。そもそも、鏑木には、そのような実体を描こうという気はさらさらなかったのだろうと思います。社会画などいう説明を受けないで、単に作品を見るなら、緑のバリエーションで目に鮮やかなイメージの絵画と見えます。
Kaburagiwinter  「初冬の花」という1935年の二曲一双の屏風の作品です。空間を広くとって、そのなかに余裕をもって人物を配しています。人物は、左側に寄せて、右側に広い空間を作っています。背景はほとんど描かれず、形も省略が利いていて、線も1本の息が長い。女性の全体のかたちや線などもシンプルに表わしたというものです。薄い銀鼠の地色に派手なあずき色の細かい縞の衿で濃紫の裾回しをつけ、菊染め縮緬に黒繻子の昼夜帯をしめた女性が、煙管で煙草に火をつけようとしている姿です。そういうシンプルな描き方に対して、髪の生え際は、墨で細かく描かれていて、肌との境目がはっきりしていて際立っています。浮世絵では生え際は美人の見せ所とでもいうように、ほかはシンプルなのに、髪の生え際だけは細かく描いている。はっきりいって、人を一個のまとまりとしてトータルに捉えているのではなく、見せどころの細部という要素の集まりのようになっているのです。
Kaburagiiwashi  「鰯」という1937年の作品です。鏑木が少年期を過ごした明治初めころの風景で、鰯を売りに来た少年を若女房が呼び止める情景です。画面中央のすだれ越しがかかった台所に駒込富士神社の麦わら蛇や、左側に関西発祥の姫のり看板、芝居番付、有平糖やういろうなどのお菓子などの細々とした物が、右側の玄関の土間には脱ぎ捨てられたような履物、左側奥には路地裏に駆け込む子供の後ろ姿などが描き込まれています。前に見た「雛市」と比べてみると、「雛市」が大和絵のように明確な輪郭でくっきりと彩色されていたのに対して、この作品では全体に薄い色でぼかしや滲みの効果を活用して淡い感じがするように描かれています。この作品が制作された昭和の初めのころでは、もはや、この作品で描かれているような明治の初めの光景は見られなくなっていたはずで、ノスタルジーの対象となっていたはずです。この「鰯」で描かれて情景は現実には、もう見られなくなったもので、思い出の中でのみ生きている風景であったと思います。鏑木は、そういう情景を、現実とも夢とも見えるような、フワフワして、淡い感じと描きました。それはもひとつには思い出の理想化された姿であり、昔はよかったというノスタルジーを伴うものであったと思います。しかも、そういうノスタルジーを助長させるのが、さきほど列記したような、台所や土間に細々と描かれた小物類だと思います。それが、淡い色彩で、溶け込むように描かれています。それゆえに、現実の存在感が希薄で、夢うつつのような透明なヴェールのように見えます。それゆえ、細々とした小物がノスタルジーを呼び起こすツールとなっています。それは、映画「三丁目の夕陽」で昭和ノスタルジーの雰囲気を作りだしているのが、オレンジを帯びた画面の色調だったり、オート三輪やちゃぶ台といった小物だったのとよく似ていると思います。その中の人物たちも、ノスタルジックな風景に溶け込んでいるように、顔の表情は明確に描かれず、その人物も特定の誰かというより匿名の下町の若奥さんだったり子供だったりというように存在感が希薄です。「雛市」がバロック的であるのに対して、この「鰯」は現実にない風景を観念的に描いているという点でシュルレアリスム的です。
Kaburagispringsnow  「春雪」という1946年の作品。第二次世界大戦の敗戦の翌年で、鏑木の住んでいた東京は焼け野原だったでしょうから、彼の描くものは現実にはないノスタルジーの幻想的なものであること、さらに進んだと思います。鏑木は、春に富士の頂に積もった雪をイメージしながら描いたということですが、その富士は画面には見えず、見た目の感触を、女性の小袖の深川鼠の色に込めているそうです。しかし、ここで描かれている女性は武家の妻女のように姿ですが、描かれ方は浮世絵の芸者か遊女のような描かれ方をしています。江戸の粋を描いていると言えばいいのでしょうか。ここでは、女性の姿が、現実の姿ではなく、人工的に作られた観念的な姿になっていると思います。これは、根拠のない想像なのですが、制作されたのが1946年という敗戦による占領下で、アメリカをはじめとした連合国の人々が日本を統治していたという時代ですから、そういう人々の日本理解はフジヤマ、ゲイシャ程度のものだったのではないか、そのゲイシャの画像イメージは浮世絵によるもの、ということから、そういうイメージに沿った、そういう市場ニーズに応えることも考えているのではないか。それが、武家の妻女の姿を浮世絵のゲイシャ風に描いて、外国人にウケることを狙った。また、国内向けには、武家の女性ということで下品ではないということをイメージさせる。前のほうで、ここで描かれているのは実在の女性ではなく、観念的な女性像というのべましたが、その観念は作者である鏑木が醸成したイメージというより、人々、もっというと顧客の求めている姿ということになるのではないかと思います。というのも、鏑木という個人が醸成した理想の姿であれば、もっと明確に顔の造作など細かく描いてもよさそうなものですが、鏑木の作品では、そういうところは曖昧にして、描き込まれていません。その代わり、見る者は、そこが描かれていないからこそ、それぞれの理想の美人をそこで想像して当てはめることができることになります。そして、見る人の、そういう想像を促すために、周辺の細部、たとえば背景の小物を描き込んでいく。そういう作品になっていると思います。だから、鏑木の作品では、中心の人物よりも背景の小物などの方が意味ありげに描き込まれている。見るものの視線を引き寄せるようになって、最終的に、見る者がそれぞれの美人を想像させるように誘導している。

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