没後50年 鏑木清方展(2)~第1章 生活を描く
主に明治や江戸末期という、鏑木が制作していた昭和や大正時代からは古き良き時代とノスタルジックに回顧された中層以下の階級の市井の人々の生活や人生の機微を描こうとした作品群です。 「雛市」という1901年の鏑木23歳の時の作品です。彼の略歴を調べてみると、浮世絵派の絵師の下で修業し、若手の挿絵画家とともに烏合会という団体を設立したころということです。つまり、修行時代の作品です。雛市での一こまですが、当時は日本橋の十軒店(いまの室町付近)に人形店が集中していたということで、そのうちの一軒の前で立ち止まって、人形の物色をしている母娘と、その周辺にいる人々を描いたもので、娘が人形をねだり、母親がそれを物色しています。母親の視線の先にある人形を、使いの小僧や青年らしいものも眺めています。二人が視線を共有していることがわかり、右手の男とその隣の子守娘は表情が見えません、そのかわりを履物がつとめています。子守娘の履物は、すり減った草履のようです。一方人形をねだる少女は、かわいらしい駒下駄を履いています。物語の場面のようで、鏑木が挿絵を描いてということから、物語の挿絵のようです。なんだか、17世紀フランスのジョルジュ・ド・ラ
トゥールの「いかさま師」を見ているような、物語の一場面を彷彿とされます。というのも、「雛市」に描かれている人物たちは、それぞれに個性があって表情が分かって、独立した存在として、何を思っているかが想像できるというのではなくて、いわば場面の構成要素のように、この場面のなかで、他の人との関係で、このようなポーズをとっているから、こうなのだという、いわば人間として内面のある存在ではなく、場面の構成要素として描かれているのです。だから、おめかしをしている少女と手前の裸足のこどもが肩に背負っている花の咲いた枝とは、画面上の存在は同じ比重なのです。いわば表層的。実際、描かれ方も同じような丁寧さで描かれています。そういう意味で、ラトゥールと同じようにバロック的に見えます。ということは、鏑木の作品の人物というのは、人というより物に近い、これは鏑木の他の作品にも共通して感じられることです。それで、よく美人を描くことができた、と感心します。
「ためさるゝ日」という1918年の作品です。鏑木は1916年に中堅の日本画家と金鈴社を結成し、同人の影響を受けながら古典を研究していた時期の作品ということです。「雛市」が背景もびっしりと描き込んでいたのに対して、この作品では、背景が描かれなくなり、単一色に彩色された画面になります。しかし、これはいわゆる余白として、見る者に空間を想像させるようなものとは違うようです。この絵全体が、背景の緑や橙色、女性の衣服の黒や緑や紫といった塗り絵のような平面的な色面が組み合わさって画面が出来上がっているように見えます。いちおう、描かれている題材は、長崎の遊女が隠れキリシタン摘発のための踏み絵をしている場面ということですが、色面の組み合わせのために、女性の形態は図案化されているようです。それは、まるで浮世絵版画のようでもあります。左側の踏み絵をしようとしている女性のポーズは不自然なほどわざとらしいし、画面の女性の顔は陰影がなくて平面的なのは、そのためかもしれませんが、もともと鏑木というひとは、顔の陰影とかむ表情とか生き生きとした生命感のようなものは描かない、たぶん、そういうものが描く対象として認識されていないのだろうと思います。もともと、そういう認識なので、画面を塗り絵のように色の組み合わせ配置で見栄えの良いものにするという作品制作は、自然だったのだろうと思います。そして、この作品の女性たちの顔を見ていると、目は細い線のようで小さく、口は唇を突き出すように尖がって、美人ではない条件を持たせていて、鏑木は美女とか理想の女性を描くといったことには、興味がないのではないか、と思われるものでした。ここで描かれている顔は、江戸時代の浮世絵の歌麿なんかのリアルではなくデフォルメを利かせた顔を、近代化したというか、文明開化で西洋のリアリズム絵画に接した人には、歌麿などの浮世絵のデフォルメした顔はグロテスクに映るところがあると思います。鏑木がこの作品で描いて
いるのは、浮世絵の顔の、そのようなグロテスクさを取り去って、浮世絵独特の顔の感じは残しても、西洋画のリアルさと比べて違和感の起こらないような顔になっていると思います。多分、それは当時の中産階級の人々にとって、浮世絵というのは庶民向けの、いわば下品なもので、鏑木は、その下品さがデフォルメの過剰によるグロテスクさだとして、それを薄めることをしたように思います。その結果、お上品な趣味を嗜好する中産階級向きにして、顧客を開拓したのだろうと思います。
「雪つむ宵」という1920年の作品です。「ためさるゝ日」が背景を単一の色面にしているのにたいして、この作品では、雪が積もって白一色となった景色を背景にしています。一見、白で単一に塗られているようで、ちゃんと見ると、白のグラデーションで雪景色がぼんやりと見えてくる。画面の中心にいる女性は、背景と同じようにグラデーションをつけた色の面の組み合わせになっている。それにしても、描かれている顔は、シンプルというか、顔の造作を図案のように表わす最低限の線しかなくて、顔であることが最低限分かるという程度しか描かれていません。この顔を描くアングルとか、女性の姿勢とかは、浮世絵、たとえば、歌麿の「ビードロを吹く女」とよく似ていると思います。ただし、国粋主義とまではいいませんが、西洋画に対抗するように庶民向けの下品なものではなくて日本の伝統芸術とでもいえるように体裁を整えて、立派に見えるようにした、そういう風に思えます。むしろ、浮世絵が海外でもてはやされ、それが外国人から、外国人と交流のあるような日本人、つまり一定程度の教養とか経済的にも豊かである人々にとって受け容れることができるような体裁に整えた。それが鏑木の絵画の特徴のひとつであり、この作品などは、そういう要素がよく分かると思います。
「泉」という1922年の作品です。同じころに鏑木が伝統的な浮世絵や風俗画が低俗とか下品とみなされていたことに対して、ハイアートである芸術の仲間に入れようとして、デフォルメを抑制して西洋画の写実のテイストを加味した描写を試みたり、この作品では、鏑木の呼び方で言えば社会画という、旧来の浮世絵が遊里が悪所を題材としていたのに対して、社会に生きる庶民の日常の生活を描こうとしたといいます。この作品では、山間部の泉で水汲みをしている女性の姿を描いています。ただし、労働の風景と言えばそうかもしれませんが、たとえば、水汲みをしている後ろ姿の女性のポーズは浮世絵の花魁のポーズとよく似ていますし、来ている野良着の淡い緑色は、労働で汚れたいろというよりは、上品な着物のように映えて、周囲の山間部の草木の緑のバリエーションと調和して、映えています。私には、この人物は労働をしているようには見えないのです。それゆえ、社会とか生活とか労働を題材にしているというよりは、コスチューム・プレイで目先を変えて楽しんでいるように見えます。画面の人物は、後ろ姿で顔を見せてくれないので、表情が分からず、労働の辛さとか、水汲みを待って休んでいるときのほっとしたとかいった表情も見えてきません。そこに、生活とか労働の実感を見ることはできないのです。そもそも、鏑木には、そのような実体を描こうという気はさらさらなかったのだろうと思います。社会画などいう説明を受けないで、単に作品を見るなら、緑のバリエーションで目に鮮やかなイメージの絵画と見えます。
「初冬の花」という1935年の二曲一双の屏風の作品です。空間を広くとって、そのなかに余裕をもって人物を配しています。人物は、左側に寄せて、右側に広い空間を作っています。背景はほとんど描かれず、形も省略が利いていて、線も1本の息が長い。女性の全体のかたちや線などもシンプルに表わしたというものです。薄い銀鼠の地色に派手なあずき色の細かい縞の衿で濃紫の裾回しをつけ、菊染め縮緬に黒繻子の昼夜帯をしめた女性が、煙管で煙草に火をつけようとしている姿です。そういうシンプルな描き方に対して、髪の生え際は、墨で細かく描かれていて、肌との境目がはっきりしていて際立っています。浮世絵では生え際は美人の見せ所とでもいうように、ほかはシンプルなのに、髪の生え際だけは細かく描いている。はっきりいって、人を一個のまとまりとしてトータルに捉えているのではなく、見せどころの細部という要素の集まりのようになっているのです。
「鰯」という1937年の作品です。鏑木が少年期を過ごした明治初めころの風景で、鰯を売りに来た少年を若女房が呼び止める情景です。画面中央のすだれ越しがかかった台所に駒込富士神社の麦わら蛇や、左側に関西発祥の姫のり看板、芝居番付、有平糖やういろうなどのお菓子などの細々とした物が、右側の玄関の土間には脱ぎ捨てられたような履物、左側奥には路地裏に駆け込む子供の後ろ姿などが描き込まれています。前に見た「雛市」と比べてみると、「雛市」が大和絵のように明確な輪郭でくっきりと彩色されていたのに対して、この作品では全体に薄い色でぼかしや滲みの効果を活用して淡い感じがするように描かれています。この作品が制作された昭和の初めのころでは、もはや、この作品で描かれているような明治の初めの光景は見られなくなっていたはずで、ノスタルジーの対象となっていたはずです。この「鰯」で描かれて情景は現実には、もう見られなくなったもので、思い出の中でのみ生きている風景であったと思います。鏑木は、そういう情景を、現実とも夢とも見えるような、フワフワして、淡い感じと描きました。それはもひとつには思い出の理想化された姿であり、昔はよかったというノスタルジーを伴うものであったと思います。しかも、そういうノスタルジーを助長させるのが、さきほど列記したような、台所や土間に細々と描かれた小物類だと思います。それが、淡い色彩で、溶け込むように描かれています。それゆえに、現実の存在感が希薄で、夢うつつのような透明なヴェールのように見えます。それゆえ、細々とした小物がノスタルジーを呼び起こすツールとなっています。それは、映画「三丁目の夕陽」で昭和ノスタルジーの雰囲気を作りだしているのが、オレンジを帯びた画面の色調だったり、オート三輪やちゃぶ台といった小物だったのとよく似ていると思います。その中の人物たちも、ノスタルジックな風景に溶け込んでいるように、顔の表情は明確に描かれず、その人物も特定の誰かというより匿名の下町の若奥さんだったり子供だったりというように存在感が希薄です。「雛市」がバロック的であるのに対して、この「鰯」は現実にない風景を観念的に描いているという点でシュルレアリスム的です。
「春雪」という1946年の作品。第二次世界大戦の敗戦の翌年で、鏑木の住んでいた東京は焼け野原だったでしょうから、彼の描くものは現実にはないノスタルジーの幻想的なものであること、さらに進んだと思います。鏑木は、春に富士の頂に積もった雪をイメージしながら描いたということですが、その富士は画面には見えず、見た目の感触を、女性の小袖の深川鼠の色に込めているそうです。しかし、ここで描かれている女性は武家の妻女のように姿ですが、描かれ方は浮世絵の芸者か遊女のような描かれ方をしています。江戸の粋を描いていると言えばいいのでしょうか。ここでは、女性の姿が、現実の姿ではなく、人工的に作られた観念的な姿になっていると思います。これは、根拠のない想像なのですが、制作されたのが1946年という敗戦による占領下で、アメリカをはじめとした連合国の人々が日本を統治していたという時代ですから、そういう人々の日本理解はフジヤマ、ゲイシャ程度のものだったのではないか、そのゲイシャの画像イメージは浮世絵によるもの、ということから、そういうイメージに沿った、そういう市場ニーズに応えることも考えているのではないか。それが、武家の妻女の姿を浮世絵のゲイシャ風に描いて、外国人にウケることを狙った。また、国内向けには、武家の女性ということで下品ではないということをイメージさせる。前のほうで、ここで描かれているのは実在の女性ではなく、観念的な女性像というのべましたが、その観念は作者である鏑木が醸成したイメージというより、人々、もっというと顧客の求めている姿ということになるのではないかと思います。というのも、鏑木という個人が醸成した理想の姿であれば、もっと明確に顔の造作など細かく描いてもよさそうなものですが、鏑木の作品では、そういうところは曖昧にして、描き込まれていません。その代わり、見る者は、そこが描かれていないからこそ、それぞれの理想の美人をそこで想像して当てはめることができることになります。そして、見る人の、そういう想像を促すために、周辺の細部、たとえば背景の小物を描き込んでいく。そういう作品になっていると思います。だから、鏑木の作品では、中心の人物よりも背景の小物などの方が意味ありげに描き込まれている。見るものの視線を引き寄せるようになって、最終的に、見る者がそれぞれの美人を想像させるように誘導している。
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