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2022年4月 4日 (月)

高井ゆと里「極限の思想 ハイデガー 世界内存在を生きる」

11112_20220404220301  哲学入門シリーズの一冊で、『存在と時間』に興味を持ち、手に取ってはみたものの、その内容を一人で十分に理解することが難しいと感じている、あるいは通読してみたものの、多くの箇所について理解に自信がないと感じているそのような読者をターゲットとしているが、視点とそれによる内容は、かなり特徴的。というのも、『存在と時間』を存在の問いから解放することを意図しているから。
 具体的に言うと、存在の意味への問いが立てられる必要があるという『存在と時間』の有名な序言の解釈について、これは、存在とは何かという問いに答えることではなく、存在の問いを適切に立てることが出来ることだという。だからこそ、『存在と時間』のはじめで「問うこと」を分析したのだと、そして「問うもの」である私たち自身へと分析を進めて行ったと。だから、著者は、私たちがそれぞれ「私」の生を生きているとはどのようなことか、という問題に対する取り組みとして『存在と時間』を解釈する。だから、『存在と時間』の内容説明でも、「存在」についても「時間」についても論じることをせず、人間の「生」ばかり論じている。
 わたし達は皆、それぞれの「私」を生きており、つねに「誰かとして」の自分自身の存在が重要性を持っている。そのような自己のあり方へのコミットメントが私たちの行為を導いている。そういう行為の空間である「世界」を私たちは生きている。その空間で何らかの空間把握を常に遂行している。その繰り返しにより世界に親しんでいる時、私たちは知らず知らずのうちに他者たちと同じような行為をしていることに気がつく。だから、私たちの生きる世界は孤独な世界ではない。それが「ひと」というもので、私たちは「ひと」であることができるようになる。それは、社会で一般に有意味だとされている生き方や活動に自身をコミットしていくことだ。このように「ひと」となって生きることは、安心や満足をもたらす。しかし、このような平安には、それが破れてしまう可能性に原理的に晒されている。例えば、「死」だ。それは、私たちがおのおの「私」として生きている以上。ある生のあり方が一般に意味ある生として認められていることと、それが「私」にとって意味のある生であることとの間には、ギャップがありうるからである。そのギャップの可能性に「ひと」は「不安」になる。そのギャップの先、「私」にとって意味のある生が本来的なあり方だという。つまり、死の可能性を視野に入れつつ私の人生は生きるに値するのか、という問いに直面するという。
 叙述は平易で、分かりやすく、『存在と時間』が、これほどスラスラと読めてよいのか、と思えるほど。だけど、こんなことは感じるのは私だけかもしれないが、自己啓発セミナーっぽいと、ちょっと思ってしまった。

 

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