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2022年4月26日 (火)

吉田麻子「平田篤胤 交響する死者・生者・神々」

11112_20220426205701  平田篤胤のイメージって「皇国史観の元祖」とか「狂信的国粋主義者」といったものではないだろうか。そういう平田篤胤像を、この本では一人の思想家、国学者として捉え直そうとしたものと言える。著者は、あとがきの中で、平田篤胤の思想を「人間を中心としないヒューマニズム」と言い表わした。それは、生きている人間だけを大切にするのでは、真の意味での人間を大切にすることではない。生きている人間と、そうでない人間、例えば死者、それを遡って祖先そして神話を区分しない。現実の世界と黄泉の国のような異界との境目がかぎりなく曖昧になって、むしろ連続している。そういう世界観の基で、篤胤の思想が構築されているという。「カミ」について本居宣長は、自然の海や山、獣や草木、そして人間に至るまで、この世のありとあらゆる不思議なものをすべて指す言葉だという。これは、神社の御神体が古木や巨石、山あるいは人も祀られていることから納得できることだ。そういう基盤に立って、篤胤は記紀の神話でも神々は人間と同じように扱われ記述されているし、神も人が当たり前に共存していることから、同じレベルで存在しているものとして、さらに、人が「祈り」それに神がこたえるという関係性から、そこに神の存在意義を見出す。そういう視点で記紀をみると、例えば、イザナギ・イザナミの国産みの意味が、人間の住む場所を用意することにあった、ということになる。つまり神は人のために在る。これは人民の側に主軸を置く解釈で、当然、神々の直系の子孫である天皇の存在意義も同じだという。これが宣長とは違う篤胤の思想の特徴で、篤胤のこのような面は、弟子の生田万に受け継がれ、柏崎での民衆蜂起(生田万の乱)につながっていく。実際、篤胤の晩年は、そういう危険さを幕府政権に見とがめられ、江戸を追放され、故郷の秋田で生涯を終えることになった。
 これは、篤胤を支えたのはどのような人々だったのか、ということからも納得できる。彼の門人の多くは庶民であったという。これは、本居宣長も同じようなのだが、少し違う。宣長は松阪の裕福な商家の出身で、京都に塾を開いた。そこの庶民が門人だったが、中心は裕福な商人や社寺、あるいは公家とも付き合いのあるような人々だった。これに対して、篤胤は江戸の下町に塾を開き、まめに地方を回ったため、門人の中心は地方の名望家や町の世話役のような人々。宣長と篤胤の違いは、「あはれ」という語の解釈に端的に表われる。つまり、宣長は、古代からの日本人の心情を美学的にとらえ、哀感のような意味合いとした。これに対して、篤胤は古事記の天岩戸神話のアメノウズメのダンスのような生命観の発露のようなもの、そこに日本人の事の姿があるとして、ポジティブな意味合いで捉えた。それゆえに、篤胤の思想の立ち位置は、今で言えば在野であり、アカデミズムとは無縁のもので、後の、明治以降のアカデミックな歴史や哲学といった学問からは、眉唾のように受け取られやすかった、この本を読んでいて思った。

 

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