没後50年 鏑木清方展(3)~特集1 東京
おそらく、この展覧会の目玉でしょう。
「佃島の秋」という1904年の作品。こんな作品も描いていた、という驚きで、手前下方の鶏の描写など写実的で、色使いなども日本画的ではないように思えます。
「築地明石町」という1927年の作品。この展覧会のメダマであることは疑いの余地はないことでしょう。この作品は、制作時の数年前の関東大震災で全壊した明治時代の築地明石町の前でたたずむ風景を思い起こすようにして描いた作品ということです。築地明石町は明治時代中期まで外国人居留地であったため、異国情緒あふれる場所として知られていたそうです。つまり、築地明石町というと、関東大震災で完全に取り壊され、いまはかつても面影はないということが、当時の観衆たちには共有されていたと思います。江戸時代の名残りの上に滔々と西洋文化が流れ込んだ居領地のロマンチックな風景と、それが現実に関東大震災で失われてしまったという街並みという二重の喪失感を想起させる でしょう。そのうえで、失われたものを回顧する幻想的な情景として再現したものと言えます。朝霧に包まれたようなぼんやりした背景は、ノスタルジックな幻想の世界の雰囲気をつくり上げ、女性の肩越しに佃島の入り江に停泊する帆船がうっすらと浮かび、右手に見える洋館の水色の柵には朝顔が咲いているというところで、外国人居留地を見る者に想起させるわけです。中心は黒い羽織を着て黒髪を結ったという深くくっきりとした黒の面積がおおきい女性が背景から浮かび出すように立っています。その人物のとっているポーズは浮世絵の「見返り美人」とそっくりのポーズで、有名な作品ですから知っている人は、当然想起するに違いありません。そこでまた、見る者の想像を促しているわけです。この作品では、引用によって想像力を喚起するという仕
掛けがいくつも仕掛けられている。そして、当の人物の描写については、指輪をはめた女性の指先の、ほんのりとした、でも意味深な赤み、細く繊細に描かれた後れ毛など、細部の描写に凝っているのです。しかし、その反面、顔には陰影とか表情が、それほど描き込まれていない。だから、全体として、画面のから浮かび上がるように人物が描かれていますが、存在感は強くない。したがって、見る者の前に人物である女性を提示して、「これだ」と存在を主張しないで、どういう人かは「ご想像にお任せします」とし、その想像を細部の描写や引用による想像の喚起で促している。そういう作品に見えます。ただ、この描かれた女性の目つきの悪さは、どこか陰険そうで、それ以外の顔の部分は特徴のない可もなく不可もないという鏑木のいつものパターンなのだけれど、この目つきの悪さは好きになれない。
「浜町河岸」という1930年の作品です。「築地明石町」、「新富町」とあわせて美人画三部作と呼ばれているそうです。構図も似ており、サイズも同じであることは、鏑木がこれら三つの作品をシリーズものとして意識していたと言われています。鏑木は明治末に実際に浜町で暮らしていたので、町の雰囲気は実感として分かっていたといいます。そういう浜町にふさわしい女性として踊りの稽古に通う町娘を選んでいます。髪にバラの簪をさした娘が浜町藤間の稽古から帰りの姿で扇を口元にやり左手で袂をすくう仕草をして、習ったばかりの所作を思い返しているように見えます。この作品は、全体に温かみのある色彩が巧みに挿入されています。例えば、お太鼓に結んだ帯の内側に当てている朱色の帯揚げでくるんだ帯枕、着物をたくしあげたおはしょりの下から見える赤いものはしごき帯で、この帯をチラリと見せるのがお洒落であり、竹久夢二の絵にも似たような色の使い方を見ることができます。帯周りが複雑に描かれているのに対して、女性の肌が単純に描写されているのが好対照です。顔は陶器のように白い肌で、薄い朱色で血色の良い両頬を強調し、耳や舞扇を持つ細い指先も、朱でほんのり赤く縁取られている。このわずかに見える朱色が、女性の白い指や耳に血が通っているように見せ、よりなまめかしさを見る者に感じさせるように描かれています。景には墨田川が広がり、対岸の深川安宅町の町並みが見え、右に新大橋が描かれています。その傍ら 大橋あたけの夕立にあった安宅町の火の見櫓は、江戸時代の歌川広重による「名所江戸百景」にも描かれているものだそうです。
「瀧野川観楓」という1930年の作品です。渓流沿いの土手に席をもうけ、そこに母子と見られる二人組が、観楓を楽しんでいる情景です。彼女らの頭上には、真っ赤に染まった楓の葉が、色鮮やかに拡がっています。だが母子は、それぞれそっぽを向き、また楓の葉を見ているようにも見えません。母親は下を向いているし、娘は母親とは逆の方を向いているのですが、二人の視線の先に楓の葉はないのです。母親はおそらく渓流に眺め入っているのであろうし、娘は茶菓子に気をとられているのでしょうか。作品タイトルもそうだし、画面には色鮮やかな紅葉が入念に描かれ、それに応じるように二人の女性が座っている緋毛氈の赤が作品画面の全体を支配している。しかし、二人の人物は、そこら視線を向けていないという。そこに、見る者の物語的な想像を掻きたてている、と言えるかもしれません。こういうやり方は、18世紀フランスのシャルダンが家庭の情景を扱った作品によく似ていると思います。
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