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2022年4月 8日 (金)

山泰幸「江戸の思想闘争」

11112_20220408211001  ここでの江戸の思想とは儒学と国学で、思想闘争とは両者の論争を指す。両者は「今の世ではかつての古き良きものが失われている」という現状認識(=古への憧憬)と「それを今の世にどう復元させるか」という問題認識とそのための方法が古典解釈である点は一致している。対立点はどこを準拠点とするかで、儒学では古代中国の「聖人の道」、国学では中国文化流入以前の古代日本の「まことの道」だ。儒学の観点では、かつての聖人の教えは当の中国でも失われ、現在では彼らの教えが記された「経書」で、儒学ではこれらが拠るべき聖典である。国学の観点では、中国文化の流入以後漢意に毒され日本古来のやまと心は失われている。国学はそれを取り戻すために中国文化の影響を受ける以前の古事記に立ち返ることを主張する。
 ただし、本書は両者を同等に扱うというよりは、国学に重きを置いている。まずは身近なところで、人は死んだらどうなるかという、誰でも一度は問うたことのあることを取り上げる。これほど身近な問いであるが、それに対して思想や学問の課題として真正面から取り上げたのが本居宣長だという。彼は死後のことは人知を超えたことで理屈で説明できるようなものではないとして仏教や儒教の理論的説明を退ける。そして、人は死ぬと黄泉の国に行くという神代の伝説を真実と主張する。それは、神話の内側に身を置いていることを示す。そのプロセスで死を悲しいものとして受け止める人情を当然と認める。著者はこれを画期的と評価する。つまり、死を悲しむべきものと受け取る人情を発見し言語化しているという、そして、その根拠を神代の伝説で論証する。先に、彼は神話の内側に身を置いているとしたが、死を悲しむという世界観も神話の一部であり、それが人々に共有されているからだという。そういう世界観に儒教や仏教の死生観を横入りさせようとしても、おかしい。
とはいっても、神代の伝説などどうやって知るのか、儒学なら聖典が残されていて、それをよめばいい。宣長は『古事記』を典拠として取り上げる。しかし、『古事記』は漢字(=漢意を表す)で記されている。そこには神代の(漢意の影響を受けない)純粋な日本語が存在するという前提がある。しかし、漢字や漢文で書かれてしまっている以上、その影響を受けていないはずはない。そこに矛盾がある。漢文で記された『古事記』を解読することと、そこから読み取った神代の伝説が本当に真実であると信じることができることとは別のことであるということ。宣長は、『古事記』の読解において、記されている漢字の意味に囚われないように、その背後にある日本語の古語を取り出して、意味をひとつひとつ明らかにした。それは、日頃知らず知らずのうちに、すでに規定されてしまって、当たり前になっているものの見方、考え方を漢意として、それを腑分けするように抽出し、それを排出することで行った。それは一種のイデオロギー批判で、この手法によって、彼自身の神話読解に対する批判を退けた。そういう批判を潜り抜けたのが自説で、真実はそれしかないという論法だった。
 実は、このような手法は宣長が創ったものではなく、彼が徹底的に批判した荻生徂徠によるものだった。つまり、宣長は、徂徠の方法論により徂徠の主張を批判した。本居宣長は荻生徂徠への批判をベースに自身の思想と方法論を形成した。その批判された徂徠を見てみよう。宣長か神代の神話に立ち返ろうとしたように、徂徠は儒学は中国の神話的な先王たち(堯・舜・兎…)を聖人とし、彼らの政治社会とか文化を失われた理想として、それに立ち返るために伝えるものと捉えた。残されたものは経書と呼ばれる文字の資料だけで、それも外国語である漢文で記されている。とはいっても、当時の儒学者は、皆、当然のように漢文を読みこなしていたが、徂徠は、その方法を批判する。当時の当たり前に疑問を呈する。訓読という返り点などを使用する、学校の国語の授業で漢文を読む方法だが、それは漢文を異なる文化の異質な言葉としてではなく日本のものとして、日本語の文脈で都合のよいように誤解してしまう。そのため、本来、中国にあっても日本にはない、異なる文化的背景が無視されてしまっている。これは、現代にもある翻訳が不可避的に抱え込んでいる本質的な問題と言える。このことは本居宣長も同じように認識し、日本語と混じり込んだ漢文を峻別し、純粋な日本語を抽出しようと、つまり、認識は同じでも徂徠とは正反対のことをしようとした。それが宣長の徂徠批判だ。
 さらに、徂徠は漢文を読むにあたり、翻訳の問題に加えての困難を指摘する。経書に書かれた漢文は古代の言葉であるということ。これは、日本語でも古文を読むのがいかに難しいかを思えば想像できると思う。実際のところ、現代の中国人が「礼楽」を行うことができるわけでもない。だから、今の中国の学者でも、経書に書かれていることを理解する困難は、日本人の学者と同じくらい難しい。つまり、外国語のようなものなのだ。この点が、徂徠と宣長の本質的な違いなのではないか。宣長は、日本人にはやまと心が神代から連綿とあるという確信のもとに、漢意という猥雑物が混じり明でいて、それを剔抉すればやまと心に至ると考えた。それに対して、徂徠は言葉は時代により変化するもので、その言葉であらわされる文化や思想も変わる。それゆえにこそ、まずは聖人についての正しい理解が必要であると。
 徂徠の方法論は、当たり前を当たり前と無批判に受け取らず、自分の頭で考えることから始まると言えるが、それは伊藤仁斎という先人があってのこそで、宣長か徂徠を批判したのと同じように、徂徠は仁斎を批判することから、自身の思考を始めることができた。伊藤仁斎は京都の町人の家に生まれ、独学と町の私塾で学んだ。中国や朝鮮では科挙という官吏登用試験に合格するために儒教を学んだ。科挙の内容は儒教の古典の解釈であり、それは支配階級の立場、統治する者の立場に適合的なものであり、儒教を学んだのは士大夫とか両班といった人々だった。これに対して、仁斎は町人であり、科挙もなく、強いて言えば仁斎は好きだからと、いわば芸事のように儒学を学んだ。仁斎の儒学は士大夫とか両班といった支配層の立場から読まれていた儒教の古典が、支配というコンテクストから解放した。科挙などという公的な試験では、普通、読書というと、特に古典の場合、そこには正確な理解があり、誰が読んでも同じ意味であるはずと考え、たとえ読者によって、それとは違う理解があったとしても、それは誤りだ。そう考えられた。しかし、作品の意味は受け手である読者がどのように受け止めたかであり、一定の解釈が正解として成り立つのは、古典の解釈を共有している集団の内部だけで、儒教の場合は士大夫とか両班といった支配層がその集団であった。仁斎は、そういう集団の外で古典を読むことで、結果として、正解を相対化した。
 正解としての支配層の解釈では孔子以前の六経を正統な正典とした。しかし、儒学は孔子が創始したものであり、その思想的文脈は孔子の言葉をまとめた「論語」に集約されるとした。「論語」は正解では軽視されてきたものだった。「論語」は卑近な日常の道を説いていたことから、仁斎は「日常」を思想的に発見した。それゆえに、仁義礼智といった人倫の道が日常生活にリアルに位置付けられた。
このような解釈の相対化があったからこそ、徂徠は正解に捉われることなく、自分で考えることができた。徂徠は、仁斎の道は日常生活という私人の個人的な生活に留まることを批判し、公の立場、社会という視点で道を捉え直したのだった。
この著作では、仁斎─徂徠─宣長と批判的に継承された筋が幹をなしていると考えていると思う。その後、太宰春台や平田篤胤をとりあげているが、それは幹の3人に比べると枝葉と言わざるを得ない。
 著者は、文化人類学の「贈与」という概念を用いて、これらの闘争の性格を比喩的に表わしていて、それぞれの議論の肝を、その文化人類学によって影響された現代思想(構造主義)の議論によって現代思想の言葉に置き換える試みもしている。それらは面白い試みだとは思うが、あまり成功しているとは思えない。むしろ、例示した宣長の方法論についての議論は、現代の哲学の方法論の考察の吟味のようで、後世の現代人である私にも、「そうだよな」と納得もでき、興味深かった。

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