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2022年4月21日 (木)

中島隆博「中国哲学史 諸子百家から朱子学、現代の新儒家まで」

11112_20220421223301  私の場合、中国思想というと春秋戦国時代の諸子百家と宋時代の朱子学や竹林の七賢人に代表されるタオイズム、唐時代の仏教(禅)あとは現代のマオイズムというようにブツ切りの知識しかない。「中国哲学史」というこの本のタイトルは、歴史としてトータルに捉えようというもの。果たして、こんなことができるのだろうか、と私なら思うが、この著作でも、はじめに中国哲学史を書くとはどういうことかという議論から始めている。この本のタイトルをあえて「中国哲学史」として「中国思想史」ではないのは、ヨーロッパでいわゆる哲学史がヘーゲルによって始められた(つくられた)もので、普遍史ではない西洋哲学史がラッセルによって始められた、ということを強く意識したゆえだと思う。実際のところ、この本での哲学史は、20世紀の中国の近代主義者である胡適のまとめた「中国哲学史大綱」とアンヌ・チャンの「中国思想史」の批判ということがベースに隠れていると、私には思える。つまり、この本は中国哲学史であると同時に、その裏で胡適の批判的な紹介としても読むことができるように思う。その点がとても興味深かったと思う。胡適という人は、日中戦争の時の外交官で冷血といえるほどのリアリストというイメージが強かったので、かなり強引な議論をしていて、こんなに熱い近代主義者だったのかという発見があった。
 ブツ切りの知識しかない私には、例えば孔子のころの儒家が実践的な道徳と行政府のための有効な統治のツールであったものが、科挙に典型的にあらわれる国家のイデオロギーになり、さらには朱子学や陽明学のような宇宙論にまで及ぶ精緻な思想体系にまでなっていったのが、どのような流れでそうなっていったのかというのは、よくわからず、そういうことは知りたいと思っていた。それについては、儒家には戦国末期に孟子や荀子がでて思想として整備され、儒家を批判した法家が秦とともに衰亡すると、それに代わるものとして前漢の武帝の時代に董仲舒が皇帝の正統性を「天」という観念を用いて保証する国家イデオロギーとなったのが三国志時代の混乱と隋・唐の異民族支配を経て宋の近世的秩序の整備にともなって、科挙の定着により儒家の体制化が進み朱子学に代表される宋学が生まれ、その後、支配側の守旧思想となって行ったという流れはわかった。その間、道家や仏教やキリスト教との競争もあり、それが儒家の変化していく契機ともなったという思想のドラマもあったという。
 あと、強引とも言える胡適の哲学史、例えば、歴史の時代の前後を入れ替えて、孔子の批判者であるはずの老子を、孔子以前の時代の人にして中国の哲学の創始者にしてしまって、孔子はその批判者として登場するように位置づけるという強引な議論が紹介されていて、それには、それなりの理由があるのだが、とても興味深かった。それもありだと思う。胡適が強引に老子を中国で哲学を始めた者としたのは、彼の無為自然は万物が生成した後、それらは自身により運動する。それは物体の自己運動であり、老子は神話から脱して思考したとして評価したからだ。それは古代ギリシャの自然哲学に比肩する。しかし、老子の自然哲学は倫理や政治に向かうと無為は放任に結びつきアナーキズムに至る。
これを批判したのが孔子だという、胡適は孔子を変革者と捉えた。孔子は「易」を変化の法則であることを発見し、例えば自然でも力学の法則がある、つまり自然科学に通じる方法で自然哲学を批判的に継承した。胡適は古代ギリシャにおけるソフィストに老子を孔子をその批判者であるソクラテスに擬えた。老子の放任は、極論すれば「万人の万人に対する戦い」になってしまうおそれがある。しかし、人は単独で生きることはできず、人の全ての行為は人と人との相互関係からなると捉えたのが孔子だ。この考え方はソクラテスに似ていないだろうか。胡適はそう考えた。
 日本では孔子というと政治の統治ツールで仁政などと結びつけて考えられたりするが、孔子は政治を司るとしたら「名を正す」(「正名」)と言っています。「政は正である」と言うように、政治の目的は正しい秩序の実現として捉えられている。これは守旧的な考えにも見えるが、一方で力が正義だいう考えを認めないことでもある。この「正名」の考えを哲学的に突き詰めたのが荀子で、「名には固有の意味がない。約束をして命名し、その約束が定着し慣習となったらそれをその名の意味という」と述べ、名が流動的であることを示唆している。そして、王は旧名にそって新しい名前をつけることで、民を統率できるとしている。一方、人間についても同じことが言えるので、元々人間には善も悪もない、人々の間で行為し、それが定着した結果として善くも悪くもなる。荀子が性悪説といわれるのは、孟子のもともと人は善であることを、このような意味で批判したからだという。それゆえ、荀子は人々の教化(啓蒙)を重視した。そこから儒家は教育のシステムを整え教団が拡大する。
 前漢の武帝は儒教を国教化する。それは、「天」を持ち出して、その正統性を打ち立てようとしたためだった。このときに活躍したのが儒家出身の董仲舒で、彼は「人を作るのは天である」とし、「人が人であるのは天に本づく」とした。そして、「天が民のために王を立てる」と考える。天によって皇帝の権力を基礎づけているというわけで、しかし、これは同時に天によって皇帝権に制約がかけられることでもある。董仲舒は天は天災などによってその意思を示すと考えた。つまり、天災があったり世が乱れれば、皇帝には正統性が失われたからということになる。こうなると、最初に神話から脱したはずが、神話化してしまうわけで、このあたりから思想としての生きいきとしたものを失い、守旧化していくのか。胡適は、儒教の批判者として近代化を進めるわけで、孔子を思想の変革者としながらもで、ここに胡適という人の一筋縄でなさがうかがえる。
 一方、老子の方はというと、戦国末期に荘子が形而上学的な生成論としての体裁を整備した。「老子」という著作も、実は「荘子」よりも新しいとも、この本では紹介している。この本では、「老子」のポイントを「水の政治哲学」(古代ギリシャのタレス?)と見ている。老子は「天下で水より柔弱なものはない。しかし、堅く強いものを攻めるのに水に勝るものはない」とし、王のあり方にも水の動きを投影した。「道は一を生じる。一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生じる」という「老子」の一節は1人である王が道によって生じたものであり、それが万物の根拠となるという統治論に繋がった。そして、この老子の道を、現実の具体的ツールとして法に置き換えて解釈し直したのが「韓非子」などの法家の思想で、「秦」の帝国の思想となった。歴史としては焚書坑儒とか始皇帝の強権政治の苛烈な思想のように見られるところもあるが、他方で韓非は人間の秩序の求めに応じて、天の秩序を裁断したというヒューマニズムの思想という側面もあったことを指摘している。焚書坑儒が儒家との対抗が現われた事例でもあるが、老子の後継者と孔子の後継者は、中国の歴史を通じての対抗者であったといえる。
 儒教を国教化した前漢帝国を滅ぼした王充は、漢帝国の「天」に王が沿わないで起こるとされた天変地異に対して、天災は自然現象であり、天は自然であり、無為であるという道家の考えを引き継ぎつつ、天と人を媒介する聖賢という特別な人間を想定した。しかし、王充は儒教を報じた光武帝の後漢帝国に滅ぼされる。しかし、後漢崩壊後になると、玄学という道家・道教的な思想が生まれた。それは後漢末の桓帝の治世において、宦官に反対する士人たちが政争に敗れ排除されると、彼らは政治から身をひいて「清談」に耽るようになって、そこで生まれてきたのが玄学だった。その代表的な人物の一人である王弼は、無を万物の根源とする形而上学を唱え、無為の中でそれぞれがあるべき場所にある一へと集約された世界を理想とした。「自然」を理想とする本質主義とも言える。それが庶民化して、仏教に対抗して道教になっていく。
中国思想の古代の大雑把な流れは分かったように思う。ところで、諸子百家の他の有力な思想、例えば墨家なんかはどうなっているのだろうか。
 あと、清末からの近現代の思想家を紹介しているのも、こんな人がいたんだという発見。しかし、駈足の紹介になってしまったのは残念。
 でも、日本哲学史なんて、できるだろうか。

 

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