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2022年4月15日 (金)

佐藤岳詩「『倫理の問題』とは何か メタ倫理学から考える」

11112_20220415210401  「真善美」とプラトンにあやかっているわけではないが、これら三つのイデアについて、「真」と「美」は客観的とも主観的とも言えるが「善」だけは、それがありえない。客観的な「美」というのがあって、例えば満開の桜は誰でも美しいとしても、私は美しくないと言うことは可能だ。真も美ほどではないが、やはり可能だ。ところが、善というのは、それが許されない。例えば、人を殺してはいけないということについて、誰かが俺は違うといったら、世の中はまずいことになる。善というのは他人に押しつけるという性質を伴っている。だから、善とは何かという問いは特別な問いなのだ。そのため倫理の問いというのは他の問いとは違う。そこで、倫理を問うということはどういうことかというメタ倫理を扱おうとしたのが本書。
 あるいは、「善」が他人に押しつけという性質を含み持っているのは、そこにのっぴきならない切実さを契機としているからでもある。普段、人は、わざわざ善とは何かと問うことはしない。安定した日常を送っている時は、そんなことは考えもしない。そういう問いが起こるのは、自分のやっていることが良いのかどうかという瀬戸際に立たされた時で、それは安定した日常が何かのきっかけで突然崩壊し始めた時だ。そういうときに、何とかして世界との関わりを断つことなく、生きていこうとする、崩壊した日常をあらたに作り直していこうとする。倫理とは、そういう行為である。

 「善」とは何かという問いは、問うわけだから、その問いに対する答え、つまり正解(それは倫理的に正しいと表わしてもいい)があるはずたが・・・。どうなのだろうか。例えば、ソクラテスは人が善い行いをするためには、善を正しくしらねばならないとした。論理的に正しいというのは、その言われていることと事実が一致するということ。倫理的に正しいとか、倫理的に不正で悪という事実そのものがあるか、あるとしてもそれを確認することも証明することもできない。しかし、一般に、こういう正しさを人々は求めてしまうものだという。それは、たとえばこういうことだ。「時間厳守」というのは自分一人の私的な感情に基づくものではなくて、誰もが確認できる共通の事実だということになると、だれかに「ちゃんと時間を守ってください」と述べたとしても、それは自分の気持ちを相手に押しつけたことにならずに済む。つまり、自分がさまざまな事柄に対して持つ道徳的な賛成や反対の気持ちを、他の人にも共有してほしがゆえに、それが客観的な事実であると思い込んで、自分の感情を正当化して他人に押しけることができる。あるいは、人が自分の人生を振り返ったときに、真面目にコツコツ働いて無事に過ごした、ということを倫理的に正しいという保証をしてほしい。という善とか倫理というのが目標とか行動の指針にもなる。その時に、客観的にこれが正しいという客観的なものがあれは、この人の振り返りは意味があるのだ、と認めてもらえる。
 では、これらが客観的に正しいという事実が存在するかというと、反証はいくらでもできる。時間厳守といったって、守らない人がたくさんいるというのが事実だ。だけど、論理的な正しさを求めるのは倫理では適切なのだろうか。倫理は自然科学ではない。実際のところ、「他人に優しくするのはよいこと」というのが正しいかなどと考える前に、目の前に傷ついた人がいれば、その人を助けようとすることが大事。そのときに正当化する根拠は必要か。ここでの議論は、正解があるかないかとか、正解が必要かという白黒をはっきりさせることは、はたして必要か、という中庸があってもいいのではないか。

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