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2022年5月

2022年5月30日 (月)

池田喬「ハイデガー『存在と時間』を解き明かす」

11112_20220530214301  先月は、高井ゆと里の「ハイデガー 世界内存在を生きる」を読んだばかりで、また。つくづく、ハイデガーの解説書とか入門書が好きなんだと我ながら呆れるほど。ちゃんと理解しているとは言えないが、「存在と時間」や後期の「ニーチェ」とか全集に収められた講義録とか、ハイデガー、たぶん語り口なんだろうが、何となく好きなんだろうと思う。
 で、この著作の特徴は、ハイデガーの伝記とか「存在と時間」の内容を順を追って紹介するという一般的な入門書の形式をとらず、「存在と時間」を読んでみて生じてくる疑問とか理解しにくいと思われる11点をピックアップして、その重点に答えるというかたちで、結果的に全体がカバーされるというところ。したがって、全くの初心者ではなく、「存在と時間」を一度は読んだことのある人や概要に触れた人くらいを対象にしていると思う。
 例えば、悪名高い「死への先駆」については、次のような誤解されがちな通俗的理解に対して、実はこうなんだと対比するように解説する。「余命1ヶ月だと告知されたら自分はとうするか、といったことを考えたことがある人は少なくないだろう。人生の終わりを思うとき、人生の中で本当に大切なこととは何かが身に迫ってきて、余計なことをする代わりに本当にやりたいことをする決意が芽生える。このように死の時を想うことで、人生に真剣に向き合う」、あるいは、死を前にして、初めて生の真実と向き合うことができるとナチス・ドイツの若者に死の覚悟をさせた思想という物語、これらは、ハイデガーの「死への先駆」とは違う。その大きな違いは、これらの説明されているのは、間近に死が迫っているということ、言い換えれば、近い将来に死ぬという、近日中の確かな予定のように死が目の前にあるという具体的事実として死があるということ。こういう死に対しては、難病で余命が宣告された場合は別の医者を探すとか、戦場にいれば逃げるという死を避ける方策の可能性があるという事実だ、この場合の死に対して、人が抱くのは恐怖であるということ。これに対してハイデガーの言う死というのは、人は確実に死ぬということ、なおかつ、その死というのは予定なんかなく、いつ死ぬのか分からないということ、もしかしから次の瞬間に死ぬことだってある。人は、確実な死に常に直面しているということ、一瞬たりとも死の可能性から逃げることはできないということ。だから、四六時中死に向き合わざるをえない。だから、人は不安をいだく。その不安に苛まれながらも、死と間近に向き合い、ごまかしたり、逃げたりしないことが「死への先駆」で、それが本来性ということに通じるというのだという。だから、違うという例で言えば、余命宣告などなくても常に死が間近にあるということ。しかし、人は、そのことに目を背け、忘れたふりをしている。
 では、この著作を通して、「存在と時間」がどのように見えてくるか。著者は『存在と時間』という本は、そもそもが未完の著作で、刊行されたのは当初の構想の3分の1程度で、メインとなる部分は結局書かれることなく終わった。だから、ハイデガーが、この書を執筆し始めた意図、つまりハイデガーがこの書で何を言おうとしたのかを探ろうとするという性格の著作ではないという。端的に言えば、結果として出来上がった著作から、書かれた内容を読者が構成していくという読み方ができるというは。それは、哲学書としては革命的なものだと思う。そうだとすると、哲学学者(哲学者ではない)が、精密にテクストを読み込んで、内容を正確に理解するということは、無意味だということになると思う。私は、池田さんという著者の特徴的な点は二つあると思うが、そのひとつは、この点だ。だから、『存在と時間』は、現象学の方法による存在論でも、実存論的な存在論でもないと言う。
 著者は、『存在と時間』の本文が始まる前の前文に注目する。すなわち、こういう文章だ。“〈存在する〉という語で、私たちは本当のところ何を言わんとしているのか。この問いに対する何らかの答えを、今日、私たちはもっているだろうか。決してもっていない。だからこそ、存在の意味への問いをあらためて設定することが肝心なのだ。ということは、私たちは今日せめて、〈存在〉という表現を理解できないことに困惑しているのだろうか。まったく困惑もしていない。だからこそ何よりもまず、この問いの意味への理解を何よりふたたび目覚めさせることが肝心である。〈存在〉の意味への問いを具体的に仕上げることが、以下の論究の狙いである。”ここで主張されている論究のテーマは、存在とは何かを追究することではない、つまり存在論ではない。では何がテーマかというと、存在の意味への問いを具体的に仕上げることだと言っている。そして、今日の我々はその問いの答えを持っていない、つまり存在の意味を明らかにしていない。それは、そのことに気づいていない(これって、ソクラテスの「無知の知」だ)ということが問題で、それを解決するために、存在への問いを仕上げなければならない。それが『存在と時間』から読み取れることだと著者は言う。だから、『存在と時間』は完成した理論で、読み手はそれを分析して理解するような書ではないのだという。むしろ、読む者に問いかけ考えることを挑発するような書だという。そのような視点で『存在と時間』を読んでいくことができるという。ではそうやって、読んでいくとどうなるのか。こ『存在と時間』のテーマは、存在への問いであり、同時にその問いを前にして何も感じずにポカンとしている読者、つまり人々であると著者は言う。つまり、読者を挑発している、それでいいのか、と。  『存在と時間』は、存在の意味を問うためには、その問いを発しているわれわれ自身の存在を問うことから始めようと言う。まずは自分自身の存在を問う。読者は自ら問いつつ問われるものとなる。その変化を具体的には、ハイデガーは、「目覚めさせる」という。目覚めるということは、目覚める前は眠っているということが前提となる。それはハイデガーに言わせれば、目覚めることが可能な状態にあるということだという。それは、存在の意味を知らないとか、全く無関係にあるのではなく、知っているのにそのことを忘れていたり、中途半端に知っているが完全には知ってはいないといった、いわば潜在的には知っているのに表面に表われていないような状態にある。ハイデガーは「真実」という概念をソクラテスやプラトンの時代の古代ギリシャ語に遡って意味を考える。古代ギリシャ語のアレイテイアという言葉は隠れて見えないという動詞の否定形で、明らかになるというのが元々の意味で、真実というのは明らかになったことという意味になる。これは、隠れていたのが、いわよる頽落した非本来性で、明らかになるという飛躍があって本来性になるという『存在と時間』の中心議論に擬えることも可能だ。  一方、明らかになるというのは、ロゴス─現代の言葉では論理─によって、というのが古代ギリシャ哲学に昇華したので、ハイデガーの哲学もその系譜にあるだろう。しかし、ハイデガーは、ロゴスという古代ギリシャ語の元来の意味に遡る。そうすると、ロゴスはラゴンという動詞が名詞化した言葉だという。ラゴンという動詞は語るという意味で、その名詞化したロゴスは語られたもの、語りというのがもともとの意味たという。だから、ロゴスには、現代でロジックとレトリックの区別がなく両方の意味があったという。そう言われると、実際に、『存在と時間』を読んでみると、意外と議論がロジカルでないことに気づく。例えば、上述の問いの意味か問う人である我々自身を問うということが論理的につながる必然性は分からない。ハイデガーがそのように語っているということだろうと思う。そういう語りなのだ。ロジックというよりはレトリック。それは、『存在と時間』が結果としてできあがった理論を提示する著作ではなく、読者を挑発するものだから、とあらためて考えられる、と思う。ちなみに、現象学という手法は、そういう意味合いで捉えることができると考えてもいいのではないかと思えてくる。

 

2022年5月29日 (日)

ウルトラヴォックス「システムズ・オブ・ロマンス」

11113_20220529213201  ジョン・フォックス在籍時のウルトラヴォックスが1978年にリリースした第3作目。当時は、シンセサイザーというアナログで音を作るのにホワイトノイズから周波数を調整する手作業の楽器が未だ残っていた頃だ。タンジェリン・ドリームなどの一部のプログレバンドやヴァンゲリスのようなプレイヤーが、それを特権的に使いこなして壮大な音宇宙を創り出していた。その一方で、デジタル化が始まるに伴いクラフトワークや日本のYMOがミニマル・ミュージックをポップスに置き換えたようなテクノ・ポックが生まれた。ウルトラヴォクスは、そのテクノの音宇宙をパンク・ニューウェイブのスピード感あるロックン・ロールに乗せて、ポップでありながらミステリアスで、しかもパンクのアグレッシブなティストを併せ持った斬新な音楽を創り上げた。一曲目の「スロー・モーション」の微かに始まり、次第にうねるように徐々に音量を上げてくるシンセの持続音に、重低音のベースが乗ってきて、ドラムスが聞き手を驚かすように闖入してくる幕開けは、新時代の開始を告げるファンファーレのようだった。
 この後、ジョン・フォックスはバンドを脱退し、引き継いだミッジ・ユーロの主導でリリースされた「ヴィエナ」がヒットし、バンドは人気を得ていったが、同じパターンの繰り返しになって、新たな世界が開けていくようなワクワクした雰囲気を失っていった。

 

2022年5月19日 (木)

ガイ・ドイッチャー「言語が違えば、世界も違って見えるわけ」

11112_20220519215101  人の思考は社会の文化的慣習によって形づくられているということを言語が提示してくれる証拠を通じて示す、というと、難しそうと構えてしまうが・・・
 最初の古代ギリシャの詩人ホメロスの「オディッセイア」や「イリアス」についての、まるでオタクのような議論から始まる。このトロイ戦争を扱った長大な叙事詩のなかで色彩の表現が変だという。例えば、ギリシャの海について「葡萄酒色の海」という叙述がある。そのような指摘が19世紀のヨーロッパの好事家に引き起こした波紋をユーモラスに語られるところから、本書の叙述に引き込まれてしまう。古代ギリシャの人々は色盲だったのか色彩感覚が違っていたのかとか、それで世界各地の人々の色覚検査を幅広く行ったところ、基本的に人間の色彩感覚は共通していることを確認したという(何か凄い手間をかけている)。それで、例えば、虹は7色というのが常識だが、5色という文化があるということから、それは藍色という言葉がないので、光をプリズムで通すと分光されるが藍色を単独の色として認識しない(青の一部程度の認識にとどまってしまう)からだという。このように、古代のギリシャ語には「青」という色の概念がハッキリしていなかったのではないか、ということが考えられた。また、「青」などという色を抽象化して独立した概念としていなかったのかもという可能性もある。というのも「海」という言葉の意味の中に「青い」という内容が含まれていて、「青」ということが独立していない。だから、海にあえて色の形容の必要がない。というのも、往々にして、「青」という色が独立した言葉になっているのは、青の染料を作っていた文化で見られるからだという。実際、青の染料というのは、古代社会では稀少で限られた地域でしか存在しなかった。そのため、「青」という色の概念、つまり言葉が存在しなかったという。
 そこで、著者は人は青色を見ることはできるが、それを青という色であると認識するためには「青」という概念、それをあらわす言葉がなければできない。それが冒頭に言う、「社会の文化的慣習によって形づくられているということを言語が提示してくれる証拠」ということだと、現実の具体的な姿として見せる。
 ただし、そういう要素を過大に受け取ってしまうと、パーティーの薀蓄会話と区別がつかないものになる。そういう有名な学者たちの勘違いのエピソードも紹介する。それて、冒頭のテーゼは、たしかにそうなのだが、それも程度問題というビミョーな結論といっていいのか、それで最後ははなはだ歯切れの悪いものとなって、結局何が言いたいの?となりかねないが、実際のところは、そういうもんだ、と思うし、そういうところがすごく納得できるもの。
 あるいは、紹介されている豊富な事例は、それだけでも面白いし、薀蓄ネタとしても使えそう。例えば、街中で駅への道順を尋ねられたら、どう答えるか。「この道を真っ直ぐ進んで、突き当り左に曲がると、目の前が駅」という風に答えるだろう。こういうのが当たり前だと思っていたら、ある人から「この〇〇通りを北に進み、突き当りを東に曲がると辿り着く」という答え方がある、京都などではそのような言い方をする(上がる、とか入るとかいう言葉を使うが)こともあると教えられた。著者は、前者については自己中心座標による空間把握といい、後者は地理座標による空間把握という。普通は、この両方の座標をその場に応じて使うものだ。しかし、オーストラリアのアボリジニーには、左右とか前後といった自己を中心にして相対的に位置を示す語彙がない部族があるという。その部族は自己中心座標による空間把握ができないという。そうすると、方向の認識はすべて絶対的で、左右という言葉(概念)がないために、西側の手という言い方をするという。私なんかは東西南北という方向は昼間から太陽の位置、夜なら北極星の位置から判断できるが、鬱蒼とした森の中や室内では方向は判じられない。西側の手などと咄嗟に言うことはできない。しかし、この人たちがすごいのは、そういうのが日常的だったためか、絶対方向感覚とでも言うようなものが備わっていたという。あるいはまた、この人たちは事物を絶対的に認識するのみで、相対的な認識というのがなかった。それゆえ、因果関係ということが分からなかったという。例えば、食べすぎたから、お腹が痛くなったという言い方について、この人たちは、食べすぎたという事実とお腹が痛くなったという事実を並列的に言うことはできるが、このふたつはそれぞれ個別の事実で、原因と結果の関係として結びつけることはなかったという。しかし、この部族は20世紀になって、若い人たちが英語の教育を受けるようになると、絶対方向感覚を失ってしまったという。

 

2022年5月14日 (土)

田尻祐一郎「江戸の思想史 人物・方法・連環」

11112_20220514182501  先日読んだ「江戸の学びと思想家たち」が教育という切り口で、現代とは違うという視点であったのに対して、この著作では中世との違いというのが基本的視点というのが特徴。南北朝から応仁の乱そして戦国続いた時代は日本社会かかつて経験したことのない質的な転換を遂げるたに、甚大な犠牲を伴った長い過渡期だった。その時代の人々は、世俗的な枠組みにとらわれない荒々しく野太い精神の奔放さを持っていた。それが江戸幕府の成立とともに太平の世となり、社会は安定化した。家族、地域、職域から国家まで、いろいろな組織が秩序だって作られ、安定的に経営されていくとともに、それを可能にする社会の規律化が進行する。人々は、安定した社会で世俗生活をおくり、そこに生きがいを見いだしていく一方で、社会に組み入れられていった。
 例えば、武士は、そもそも「武士」の「士」は東アジア社会ではおおむねは「徳行のある者」の意味で、中国における士大夫、その朝鮮社会化である両班などと並び称されるはずのものなのだが、日本における武士はそうした東アジア近隣社会とは異なる心身観や社会観をもち、戦闘を職能とする武装自弁の集団だった。しかし、太平の世となり戦乱がおこることがなくなると、社会から戦闘という職能の必要性が消失してしまうことになる。この時、武士は何のためにあるのか問われることになる。なお、中国の士大夫は、そのような問いに直面することはなかった。「徳」の担い手としての存在価値は自明だったから。これに対して、江戸時代の武士は士農工商のうち農工商の存在価値は自明であるのに対して、武士は遊民ではないのかという問いの前に立たされた。その時に使われたのが儒学だった。なお、それまで日本社会で思想といわれるものの代表は仏教であったが、天下統一の過程で一向一揆のような宗教勢力との闘争やキリシタンの禁令など宗教分離を、幕府は進めざるを得なかったため、宗教的要素のない儒学に飛びついたということだ。藤原惺窩、中江藤樹、山崎闇斎、山鹿素行などは朱子学に拠り所を見出し、伊藤仁斎、荻生徂徠は朱子学への批判から独自の思想を形成していった。これには、武士のアイデンテティ追求の系譜と、著者は意味づける。それは近世という新しい時代で、どう生きるかという問いかけだった。
 しかし、江戸時代の太平の世という社会の安定は長くは続かない。国内外の状況が大きく変化し始めたからで、その時に社会に入ってきたのが蘭学だった。西洋の恐るべき実力を知った知識人は、それをバネに個性的な思想を形成していく。彼らは強烈な自我意識を持って、惰性や安逸に耽る社会に対して危機感を持ち、規制の枠組みを乗り越えて、才能を開花させていった。かれらは、儒学者たちとは違って例えば経済とか医学といった実践的学問を志向し、机上での学問ではなく現場で実践を伴うもので、儒学とか蘭学とか国学といった学問枠にとらわれず相互に交流したのと、それゆえに社会への参加意識が強かった。それが幕末の革命思想に至ることになる。
 こういう流れとして江戸時代の思想家たちをコンパクトに取り上げているので、物語のように読み易かった。ただし、後から後から思想家たちを紹介されるので、個々の思想家については駆け足のようになってしまったのが残念。例えば、平田篤胤は国学者なんだけれど、海防論を唱えた人々とも交流があり、対外認識は蘭学者とは変わらない情報を得ていたとかといったネットワークの具体像はイマイチ踏み込めていない。そういうのは、この本を契機に、自分で興味を持った思想家を深堀しなさいということかもしれない。

2022年5月 9日 (月)

三木那由他「話し手と聞き手の意味の心理性と公共性─コミュニケーションの哲学へ」

11112_20220509205801  誰かが何かを意味するとはどういうことなのか?従来の議論では「話し手の意味」が話し手の意図を通して理解されてきたのに対し、本書ではそれを話し手と聞き手の共同体において生じる公共的な現象として捉える。画像を見ると優しげな装丁で、読み易い文章なんだけれど、内容というか議論の展開が精緻で、読みこなすのにすごく疲れる。集中力と根気を欠いて、ひとつでも読み飛ばすと、読み進めてきた理解が崩れて、迷子になってしまう。メモをとりながら何度も読み返さなくてはならない。そういう著作。でも、実際の哲学の思考の現場というのは、このような精緻で明晰な議論を、それこそ虫が歩むみたいにゆっくりと進むのだろうという、哲学の議論のさまが、そのまま叙述に移されているような内容。
 話し手の意図が掴まれるときに、話し手の言葉の意味も伝わる。これが「意図基盤意味論」と呼ばれる見方であり、たいへんもっともらしい考えに見える。このような見方を著者は批判する。なぜなら「意味はどのように伝わるか」へ「それは意図が伝わることによってだ」と答えることはかならずアポリアに直面するからだ。話し手はAを意味している。なぜなら彼女はAを意味することを意図しているからだ。ところで「話し手がAを意味することを意図している」とはどういうことか。ひょっとしたら話し手はたいへん奇妙な精神構造をしているかもしれない。その結果、話し手はAを意味することを意図しているのだが、「Aを意味することを意図すること」を意図してはおらず、むしろ「Aを意味することを意図しないこと」を意図しているかもしれない。こうなると、はじめに述べた「話し手はAを意味している」は成り立たないことになる。ポイントは、意図が掴まれるためには意図の意図もまた摑まれなければならない、というところだ。これは、さらに意図の意図が掴まれるためにためには意図の意図の意図が掴まれなければならない。さらに…と無限に遡ることになる。だがこれは有限の認知リソースしかもたない私たちには完遂不可能な作業である。その結果、仮に意図基盤意味論が正しいのであれば、意味は一切伝わらない。それゆえコミュニケーションは或る意味で不可能であることになる。コミュニケーションの作業を〈あなたの意図を私が知ること〉と捉えれば(加えて意図を一定の仕方で理解すれば)、それは無限の過程を含むことになる。と、要約しているが、この議論は、それこそ虫眼鏡で見ながら歩くような、細かくて、じっくりしたもの。
 そこで著者はそれはコミュニケーションを〈「私たちのこと」の確立〉と捉える「共同性基盤意味論」を提案する。〈孤立したあなた〉のことを〈孤立した私〉が知るということがコミュニケーションなのではなく、意味の伝達とは〈私たち〉の成立なのだ、という指摘だ。話し手と聞き手の間にコミュニケーションが成立していれば、そこには集合的信念が成立し、そこで信念とか意図が共同して作られる。「集合的信念を用いたならば、コミュニケーションには話し手と聞き手がひとつの共同となって形成する集合的信念のみが関与することになり、話し手や聞き手が持つ個人レベルの心理状態は問われないこととなる。これによって、コミュニケーションの場面において話し手や聞き手が個人レベルで持つ心理状態の多様性が、分析にとって脅威とならずに済むのだ。」。このような〈孤立したあなた〉のことを〈孤立した私〉が知るということがコミュニケーションなのではなく、意味の伝達とは〈私たち〉の成立なのだ、という抽象的な言い方では、ちょっと分かりにくい。著者は次のようなケースを提示する。
 ステラは信心深いクリスチャンで、4年生を受け持つ教師であり、彼女の宗教上の信念は幼い頃から持ち続けている深い信仰に根差している。このような信仰のなかには神による天地創造が正しいという信念が含まれており、それゆえ進化論は誤っているという信念も含まれている。このような信念には科学的反証があるということにステラはよく知っている。実のところ天地創造についての信念が何ら証拠に基づいておらず、むしろ個人的信仰のみに基づいているということを彼女は喜んで認める。それゆえ、宗教は周囲の人に押し付けるべきものではない、とステラは考えており、彼女が学校で受け持つ4年生の生徒たちにも、当然、押しつけはすべきではないと思っている。それどころか、彼女は教師としての自分の職務には、現在得られる証拠からもっとも支持されているような事柄を提示することが含まれていると考えている。そういう事柄には進化論が正しいということが含まれている。その結果、生物学の授業で、彼女は生徒たちに進化論を教えている。自分では、進化論が真であると信じてはいないにもかかわらず。
 この例では、ステラは進化論の正しさを信じていないが、彼女の信心深さは学校でも有名であり、生徒は皆、そのことを知っているとして、彼女の授業を受ける生徒たちは彼女が進化論は正しいとは思っていないことを知っている。この場合、ステラが生徒たちに話していることは、彼女の信念に反するということで、生徒たちはそのことを知っているということだ。「意図基盤意味論」でいう意味は伝わっても意図は逆であることだ。しかし、これはステラが虚偽を話しているとは言えないだろう。彼女は教師としての職務に誠実であろうとしているだけで、生徒たちも彼女が虚偽を話しているとは思わない。むしろ、進化論の正しさを理解する。これは、ステラの話す進化論という意味を生徒たちが理解したとき、ステラと生徒たちのあいだには進化論が正しいとステラが信じているという集合的信念が形成される。天地創造ではなく進化論をステラが信じているということを、ステラと生徒たちが一体として信じるという場にステラと生徒たちが参加するということで、このとき参加者は進化論は正しいということに背かないという義務が生じる。なお、この時、ステラはこの集合的な信念に参加する限りでは、進化論が正しいという信念を持っているかのように振る舞うように義務づけられるが、このことは、実際に彼女個人がその信念を持っていることとは違うということだ。分かりにくいだろうか。会社で、自分の信念に反することでも、仕事だからといって、あえて行うことはないだろうか。嫌いに奴に笑顔を向けるとか。やっぱり分かりにくいか。

 これが分かりにくいのは、私の理解力の足りなさのせいなんだけれど、〈孤立したあなた〉のことを〈孤立した私〉が知るということがコミュニケーションなのではなく、意味の伝達とは〈私たち〉の成立なのだ、という「共同性基盤意味論」については、この著作のテーマであるだろうし、中心的な部分のはずなのだが、本著の叙述に占める量的な割合は、それほど多くはない。むしろ、「意図基盤意味論」が成り立たないということを立証する部分が多くを占めていて、その詳しい叙述に、私なんかはくどいとすら思ってしまう。これに対して、これから本命の「共同性基盤意味論」の説明に入ると思ったら、あっという間に終わってしまった。それも、昨日紹介したステラという教師のケースとか、いくつかのケースを分析して、その個々のケースについて、ああだこうだと考察している。そのプロセスを記述している。そこで、「共同性基盤意味論」とはこういうものだという明確な定義づけのような部分はほとんどない。思うに、著者は「意図基盤意味論」が成り立たないケースを具体的に考えていて、そこから新しい、従来にないことを考え始めているのだろうと思う。それゆえに、それを説明する言葉がない。そこで、そういう言葉も考えながら記述している。そういうように見える。このことは、哲学というのが、詩(ポエム)を作る詩作ときわめて近い作業であるとことだ。詩というのは、書かれた言葉はいわば結晶のようなもので、その背後という結晶化される前の多くの要素を想像しないと、何が書かれているか分からないわけだが、この著作の核心部である「共同性基盤意味論」の説明の部分は、いわば詩のようなものだと思う。
そう言えば、私は、詩を読むのは苦手だったことを思い出した。

 私には、一度や二度の読みでは、読み切れていない実感がある。少し時間を置いて(頭を冷やして)から、三度、四度と読み直そうと思っている。

 

2022年5月 3日 (火)

重田園江「ホモ・エコノミクス─『利己的人間』の思想史」

11112_20220503204301  自分の利益を第一に考えて合理的に行動する主体というホモ・エコノミクスという、現代の経済学が前提とする人間像は、けっして当たり前のものではなかった。例えば、キリスト教では“貧しき者は幸いなり”というし、日本でも士農工商などと利を得ることは賤しいとされた。著者はこの背景に人間観の転換があったという。経済学が生み出した自己の利益を最大化することを目的としている「ホモ・エコノミクス」なるモデルが、いつの間にか実際の人間に重ね合わされ、そして一種の規範性を持つようになったという。こういうことの先駆的なものとして、マックス・ウェーバーの「プロテスタンティズムと近代資本主義の精神」は、勤勉と蓄積という生活態度がプロテスタンティズムの禁欲主義に沿うものであったという分析が有名で、著者もウェーバー等の論考を追いかけている。しかし、この著作の中心となっているのは経済学という学問が、もともとは家政学(領主貴族の領地経営の方法)として政治学と一体だったものが、自然科学、とくに力学や数学をとり入れて独立していくプロセスでホモ・エコノミクスを形成していったという分析で、これはとても興味深いものだった。当初の経済学では、アダム・スミスは人間が富を求めて行動することは肯定したが、そこに倫理的な足かせがあることを前提として、道徳に付随するものだった。あるいは、リカードは追求する富のベースとなる価値は労働に基づくという労働価値説を説いた。これらに対して、初期の近代経済学のオーストリア学派のメンガーは、完全に合理的で経済的な利得動機だけで行動する人間があり得ないのは当然だが、それは化学における「純物質」や物理学における摩擦のない世界と同じで、ある種の理念系だと言った。メンガーは限界効用逓減の法則という、財から得る効用はだんだんと減っていくという考えを経済学に導入し、「限界革命」を担った人物の1人としても知られている。実は、この限界効用という考え方のベースには労働価値説の否定がある。端的に言うと「効用」というのは、受け取った財にどれだけ価値を感じるかということで、労働によって価値が作られるということとは反対の立場の受け手の立場ということで、言われてはじめて気がついた(これに気がついたということだけでも、この著作を読んだことの価値があると思う)。そして、この効用に対して、ジェヴォンズはだんだんと効用が減っていくという性質に注目し、この動きを曲線として描き、それを微分して得られる接戦の傾きを効用として捉えようとした。複数に人間の間の効用は直接比較できないが、市場では交換が行われており、この効用をもとにして、これ以上の交換が行われない均衡点が求められる。この均衡点が「てこの原理」における釣り合いに重ねられるという。そして、ワルラスは経済学に数学を導入し、一般均衡の考えにたどり着いた。詳しく言うと、富は有用・有限で量的な性質を持つため、価値を量ったり交換できる。そして交換に着目することで経済現象を数学的に扱うことができる。そして、均衡というのは効用の極大化と捉える。これはてこがバランスしている点がエネルギー極大化であることに擬えられる。つまり、力学の法則をそのまま経済現象に当てはめた、結果的にそうなった。この時、力学の法則が力という要素に単純化して、他の諸要素を無視して理念化したように、効用を感じる要素を欲望の合理的追求という点(効用最大化だけを考慮するということ)に単純化させた。あるいは、そうしないと法則が成立しないからでもある。まとめると、価値の主観性から出発した理論は、人の欲望の強度が力学的なエネルギーと同一視され、商品の量や単位当たりの効用がてこの腕の長さや質点にかかる力と見なされるといった類比を通じて、質量と距離によって記述される客観的世界へと接合される。人の欲望のあり方がどんなものであっても、ひとたび市場における取引関係に入るなら、欲望のあり方を所与とした何らかの均衡が成立する。ここで想定されるのは、自分自身の欲望を熟知し、市場について完全な情報を持ち、欲望の最善の実現(極大化)の原則によって合理的な選択を行う孤立した個人に行き着く。ここでの人間は、自分の欲望だけを考えるエゴイストというより、欲望を所与として厳密な法則に従って運動する単位である。これって、力学で計算された法則に従って運動する天体と同じ。それがホモ・エコノミクス。う~ん、面白い。  メンガーたちオーストリア学派の経済学者たちは、当時の主流派の学問への挑戦者であった。彼らは、既存の経済学を辛辣に批判し、これまで通用していた学問的方法に疑いの目を向け、理論を一から作り直そうとして、これまでになかった道具立てを用いた。彼らの始めた新しい学問は、従来の経済学になかった抽象性と一般性、そして他分野への応用可能性を与えることになった。 それを権威化したのが、彼らの弟子筋に当たるハイエクと彼が率いたシカゴ学派で、フリードマン至ってホモ・エコノミクスは理念型から普遍性をもった人間像に変質した。シカゴ学派第二世代の学者たちが、この人間観を経済学以外の分野にも広めた。例えば、ゲイリー・ベッカーはベッカーは差別や犯罪といった分野に経済学の考えを持ち込んだ。差別は経済的な損失を発生させるが、差別をする人間はそれをわかっていやっている。つまり、差別に対する好み(taste)を有していると考え、差別にまつわる非合理さをコストに換算して分析しようとした。犯罪に関しても、犯罪によって社会が被る損失と犯罪を取り締まるために社会が必要とする負担の均衡という形で考え、犯罪に対する対策を考えた。しかし、犯罪とは効率を合理的に判断して起こすものだろうか。彼によれば、殺人はコストとメリットを計算して行うものになってしまう、と著者は批判する。ベッカーの広めた概念として重要なのが「人的資本」で、これは今まで時間単位で測られるのみだった労働力の内実を説明しようとするもので、投資によって増えるという考えだ。人は消費をするか、自らの人的資本の価値を上げるために投資するかという、企業と同じような選択を行っているのだという。これについて、この著作の最初のところで、多くの学生が就職活動で企業が求める人材と自身の本音との乖離に戸惑うことを憂いているが、それを露わにしたのが、この人的資本という考え方と言える。でも、これは企業の人事部門や政府の人材育成も、そういう考え方で、今、進められている。つまり、人的資本は教育への投資などを考える場合には便利な考えであるとして、これによって教育もその「収益」が問われることになる。著者は日本の近年の大学改革の背景にもこうした流れの中にあると見ている。 また、政治学にも応用され、ダウンズは『民主制の経済理論』で政治のおける投票行動に市場の考えを持ち込んだ。有権者は投票において、投票所に足を運ぶコストや候補者を選ぶ情報コストを負担する。このコストと実現される政策からもたらされる便益によって投票行動は決まってくるという。政党も有権者と同じく、選挙の勝利を目指して「合理的」に行動する。二大政党の場合であれば、有権者が一番多くいるボリュームゾーンを狙って両党の政策は似通ってくると、ホテリングの店舗立地の理論を使って分析した。一方、ブキャナンはタロックとともに『公共選択の理論』を書いたが、政治社会のすべての争いを個人の選択の問題に還元して読み解こうとした。さまざまな問題に対して、それぞれの個人はまずは自発的な調整を試みる、市場への参加が多くの人に利益をもたらすように、政治への参加も利益をもたらします。公共心や他者を思いやる心などがなくても政治は機能するという。 著者は、こうした「ホモ・エコノミクス」を下敷きにした政治理論が「政治嫌い」を増やしているのではないかと言う。政治アクターも自己の利益のために動いているわけであり、エリートたちも公共心などのためではなく自己利益のために政治を利用していると考えられるからだ。そして、エリートも自己利益のことしか考えていないのならば、わざわざ税金を集めて甘い汁を吸わせるよりも市場に任せたほうがよい。こうして新自由主義による「脱政治化」の動きが支持されるという。 この部分は、先日の中心的な分析に付随するおまけのような部分だが、むしろ著者のホモ・エコノミクスに対する批判的な主張は、こちらの部分の叙述に表われていると思う。

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