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2022年5月19日 (木)

ガイ・ドイッチャー「言語が違えば、世界も違って見えるわけ」

11112_20220519215101  人の思考は社会の文化的慣習によって形づくられているということを言語が提示してくれる証拠を通じて示す、というと、難しそうと構えてしまうが・・・
 最初の古代ギリシャの詩人ホメロスの「オディッセイア」や「イリアス」についての、まるでオタクのような議論から始まる。このトロイ戦争を扱った長大な叙事詩のなかで色彩の表現が変だという。例えば、ギリシャの海について「葡萄酒色の海」という叙述がある。そのような指摘が19世紀のヨーロッパの好事家に引き起こした波紋をユーモラスに語られるところから、本書の叙述に引き込まれてしまう。古代ギリシャの人々は色盲だったのか色彩感覚が違っていたのかとか、それで世界各地の人々の色覚検査を幅広く行ったところ、基本的に人間の色彩感覚は共通していることを確認したという(何か凄い手間をかけている)。それで、例えば、虹は7色というのが常識だが、5色という文化があるということから、それは藍色という言葉がないので、光をプリズムで通すと分光されるが藍色を単独の色として認識しない(青の一部程度の認識にとどまってしまう)からだという。このように、古代のギリシャ語には「青」という色の概念がハッキリしていなかったのではないか、ということが考えられた。また、「青」などという色を抽象化して独立した概念としていなかったのかもという可能性もある。というのも「海」という言葉の意味の中に「青い」という内容が含まれていて、「青」ということが独立していない。だから、海にあえて色の形容の必要がない。というのも、往々にして、「青」という色が独立した言葉になっているのは、青の染料を作っていた文化で見られるからだという。実際、青の染料というのは、古代社会では稀少で限られた地域でしか存在しなかった。そのため、「青」という色の概念、つまり言葉が存在しなかったという。
 そこで、著者は人は青色を見ることはできるが、それを青という色であると認識するためには「青」という概念、それをあらわす言葉がなければできない。それが冒頭に言う、「社会の文化的慣習によって形づくられているということを言語が提示してくれる証拠」ということだと、現実の具体的な姿として見せる。
 ただし、そういう要素を過大に受け取ってしまうと、パーティーの薀蓄会話と区別がつかないものになる。そういう有名な学者たちの勘違いのエピソードも紹介する。それて、冒頭のテーゼは、たしかにそうなのだが、それも程度問題というビミョーな結論といっていいのか、それで最後ははなはだ歯切れの悪いものとなって、結局何が言いたいの?となりかねないが、実際のところは、そういうもんだ、と思うし、そういうところがすごく納得できるもの。
 あるいは、紹介されている豊富な事例は、それだけでも面白いし、薀蓄ネタとしても使えそう。例えば、街中で駅への道順を尋ねられたら、どう答えるか。「この道を真っ直ぐ進んで、突き当り左に曲がると、目の前が駅」という風に答えるだろう。こういうのが当たり前だと思っていたら、ある人から「この〇〇通りを北に進み、突き当りを東に曲がると辿り着く」という答え方がある、京都などではそのような言い方をする(上がる、とか入るとかいう言葉を使うが)こともあると教えられた。著者は、前者については自己中心座標による空間把握といい、後者は地理座標による空間把握という。普通は、この両方の座標をその場に応じて使うものだ。しかし、オーストラリアのアボリジニーには、左右とか前後といった自己を中心にして相対的に位置を示す語彙がない部族があるという。その部族は自己中心座標による空間把握ができないという。そうすると、方向の認識はすべて絶対的で、左右という言葉(概念)がないために、西側の手という言い方をするという。私なんかは東西南北という方向は昼間から太陽の位置、夜なら北極星の位置から判断できるが、鬱蒼とした森の中や室内では方向は判じられない。西側の手などと咄嗟に言うことはできない。しかし、この人たちがすごいのは、そういうのが日常的だったためか、絶対方向感覚とでも言うようなものが備わっていたという。あるいはまた、この人たちは事物を絶対的に認識するのみで、相対的な認識というのがなかった。それゆえ、因果関係ということが分からなかったという。例えば、食べすぎたから、お腹が痛くなったという言い方について、この人たちは、食べすぎたという事実とお腹が痛くなったという事実を並列的に言うことはできるが、このふたつはそれぞれ個別の事実で、原因と結果の関係として結びつけることはなかったという。しかし、この部族は20世紀になって、若い人たちが英語の教育を受けるようになると、絶対方向感覚を失ってしまったという。

 

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