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2022年5月30日 (月)

池田喬「ハイデガー『存在と時間』を解き明かす」

11112_20220530214301  先月は、高井ゆと里の「ハイデガー 世界内存在を生きる」を読んだばかりで、また。つくづく、ハイデガーの解説書とか入門書が好きなんだと我ながら呆れるほど。ちゃんと理解しているとは言えないが、「存在と時間」や後期の「ニーチェ」とか全集に収められた講義録とか、ハイデガー、たぶん語り口なんだろうが、何となく好きなんだろうと思う。
 で、この著作の特徴は、ハイデガーの伝記とか「存在と時間」の内容を順を追って紹介するという一般的な入門書の形式をとらず、「存在と時間」を読んでみて生じてくる疑問とか理解しにくいと思われる11点をピックアップして、その重点に答えるというかたちで、結果的に全体がカバーされるというところ。したがって、全くの初心者ではなく、「存在と時間」を一度は読んだことのある人や概要に触れた人くらいを対象にしていると思う。
 例えば、悪名高い「死への先駆」については、次のような誤解されがちな通俗的理解に対して、実はこうなんだと対比するように解説する。「余命1ヶ月だと告知されたら自分はとうするか、といったことを考えたことがある人は少なくないだろう。人生の終わりを思うとき、人生の中で本当に大切なこととは何かが身に迫ってきて、余計なことをする代わりに本当にやりたいことをする決意が芽生える。このように死の時を想うことで、人生に真剣に向き合う」、あるいは、死を前にして、初めて生の真実と向き合うことができるとナチス・ドイツの若者に死の覚悟をさせた思想という物語、これらは、ハイデガーの「死への先駆」とは違う。その大きな違いは、これらの説明されているのは、間近に死が迫っているということ、言い換えれば、近い将来に死ぬという、近日中の確かな予定のように死が目の前にあるという具体的事実として死があるということ。こういう死に対しては、難病で余命が宣告された場合は別の医者を探すとか、戦場にいれば逃げるという死を避ける方策の可能性があるという事実だ、この場合の死に対して、人が抱くのは恐怖であるということ。これに対してハイデガーの言う死というのは、人は確実に死ぬということ、なおかつ、その死というのは予定なんかなく、いつ死ぬのか分からないということ、もしかしから次の瞬間に死ぬことだってある。人は、確実な死に常に直面しているということ、一瞬たりとも死の可能性から逃げることはできないということ。だから、四六時中死に向き合わざるをえない。だから、人は不安をいだく。その不安に苛まれながらも、死と間近に向き合い、ごまかしたり、逃げたりしないことが「死への先駆」で、それが本来性ということに通じるというのだという。だから、違うという例で言えば、余命宣告などなくても常に死が間近にあるということ。しかし、人は、そのことに目を背け、忘れたふりをしている。
 では、この著作を通して、「存在と時間」がどのように見えてくるか。著者は『存在と時間』という本は、そもそもが未完の著作で、刊行されたのは当初の構想の3分の1程度で、メインとなる部分は結局書かれることなく終わった。だから、ハイデガーが、この書を執筆し始めた意図、つまりハイデガーがこの書で何を言おうとしたのかを探ろうとするという性格の著作ではないという。端的に言えば、結果として出来上がった著作から、書かれた内容を読者が構成していくという読み方ができるというは。それは、哲学書としては革命的なものだと思う。そうだとすると、哲学学者(哲学者ではない)が、精密にテクストを読み込んで、内容を正確に理解するということは、無意味だということになると思う。私は、池田さんという著者の特徴的な点は二つあると思うが、そのひとつは、この点だ。だから、『存在と時間』は、現象学の方法による存在論でも、実存論的な存在論でもないと言う。
 著者は、『存在と時間』の本文が始まる前の前文に注目する。すなわち、こういう文章だ。“〈存在する〉という語で、私たちは本当のところ何を言わんとしているのか。この問いに対する何らかの答えを、今日、私たちはもっているだろうか。決してもっていない。だからこそ、存在の意味への問いをあらためて設定することが肝心なのだ。ということは、私たちは今日せめて、〈存在〉という表現を理解できないことに困惑しているのだろうか。まったく困惑もしていない。だからこそ何よりもまず、この問いの意味への理解を何よりふたたび目覚めさせることが肝心である。〈存在〉の意味への問いを具体的に仕上げることが、以下の論究の狙いである。”ここで主張されている論究のテーマは、存在とは何かを追究することではない、つまり存在論ではない。では何がテーマかというと、存在の意味への問いを具体的に仕上げることだと言っている。そして、今日の我々はその問いの答えを持っていない、つまり存在の意味を明らかにしていない。それは、そのことに気づいていない(これって、ソクラテスの「無知の知」だ)ということが問題で、それを解決するために、存在への問いを仕上げなければならない。それが『存在と時間』から読み取れることだと著者は言う。だから、『存在と時間』は完成した理論で、読み手はそれを分析して理解するような書ではないのだという。むしろ、読む者に問いかけ考えることを挑発するような書だという。そのような視点で『存在と時間』を読んでいくことができるという。ではそうやって、読んでいくとどうなるのか。こ『存在と時間』のテーマは、存在への問いであり、同時にその問いを前にして何も感じずにポカンとしている読者、つまり人々であると著者は言う。つまり、読者を挑発している、それでいいのか、と。  『存在と時間』は、存在の意味を問うためには、その問いを発しているわれわれ自身の存在を問うことから始めようと言う。まずは自分自身の存在を問う。読者は自ら問いつつ問われるものとなる。その変化を具体的には、ハイデガーは、「目覚めさせる」という。目覚めるということは、目覚める前は眠っているということが前提となる。それはハイデガーに言わせれば、目覚めることが可能な状態にあるということだという。それは、存在の意味を知らないとか、全く無関係にあるのではなく、知っているのにそのことを忘れていたり、中途半端に知っているが完全には知ってはいないといった、いわば潜在的には知っているのに表面に表われていないような状態にある。ハイデガーは「真実」という概念をソクラテスやプラトンの時代の古代ギリシャ語に遡って意味を考える。古代ギリシャ語のアレイテイアという言葉は隠れて見えないという動詞の否定形で、明らかになるというのが元々の意味で、真実というのは明らかになったことという意味になる。これは、隠れていたのが、いわよる頽落した非本来性で、明らかになるという飛躍があって本来性になるという『存在と時間』の中心議論に擬えることも可能だ。  一方、明らかになるというのは、ロゴス─現代の言葉では論理─によって、というのが古代ギリシャ哲学に昇華したので、ハイデガーの哲学もその系譜にあるだろう。しかし、ハイデガーは、ロゴスという古代ギリシャ語の元来の意味に遡る。そうすると、ロゴスはラゴンという動詞が名詞化した言葉だという。ラゴンという動詞は語るという意味で、その名詞化したロゴスは語られたもの、語りというのがもともとの意味たという。だから、ロゴスには、現代でロジックとレトリックの区別がなく両方の意味があったという。そう言われると、実際に、『存在と時間』を読んでみると、意外と議論がロジカルでないことに気づく。例えば、上述の問いの意味か問う人である我々自身を問うということが論理的につながる必然性は分からない。ハイデガーがそのように語っているということだろうと思う。そういう語りなのだ。ロジックというよりはレトリック。それは、『存在と時間』が結果としてできあがった理論を提示する著作ではなく、読者を挑発するものだから、とあらためて考えられる、と思う。ちなみに、現象学という手法は、そういう意味合いで捉えることができると考えてもいいのではないかと思えてくる。

 

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