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2022年5月14日 (土)

田尻祐一郎「江戸の思想史 人物・方法・連環」

11112_20220514182501  先日読んだ「江戸の学びと思想家たち」が教育という切り口で、現代とは違うという視点であったのに対して、この著作では中世との違いというのが基本的視点というのが特徴。南北朝から応仁の乱そして戦国続いた時代は日本社会かかつて経験したことのない質的な転換を遂げるたに、甚大な犠牲を伴った長い過渡期だった。その時代の人々は、世俗的な枠組みにとらわれない荒々しく野太い精神の奔放さを持っていた。それが江戸幕府の成立とともに太平の世となり、社会は安定化した。家族、地域、職域から国家まで、いろいろな組織が秩序だって作られ、安定的に経営されていくとともに、それを可能にする社会の規律化が進行する。人々は、安定した社会で世俗生活をおくり、そこに生きがいを見いだしていく一方で、社会に組み入れられていった。
 例えば、武士は、そもそも「武士」の「士」は東アジア社会ではおおむねは「徳行のある者」の意味で、中国における士大夫、その朝鮮社会化である両班などと並び称されるはずのものなのだが、日本における武士はそうした東アジア近隣社会とは異なる心身観や社会観をもち、戦闘を職能とする武装自弁の集団だった。しかし、太平の世となり戦乱がおこることがなくなると、社会から戦闘という職能の必要性が消失してしまうことになる。この時、武士は何のためにあるのか問われることになる。なお、中国の士大夫は、そのような問いに直面することはなかった。「徳」の担い手としての存在価値は自明だったから。これに対して、江戸時代の武士は士農工商のうち農工商の存在価値は自明であるのに対して、武士は遊民ではないのかという問いの前に立たされた。その時に使われたのが儒学だった。なお、それまで日本社会で思想といわれるものの代表は仏教であったが、天下統一の過程で一向一揆のような宗教勢力との闘争やキリシタンの禁令など宗教分離を、幕府は進めざるを得なかったため、宗教的要素のない儒学に飛びついたということだ。藤原惺窩、中江藤樹、山崎闇斎、山鹿素行などは朱子学に拠り所を見出し、伊藤仁斎、荻生徂徠は朱子学への批判から独自の思想を形成していった。これには、武士のアイデンテティ追求の系譜と、著者は意味づける。それは近世という新しい時代で、どう生きるかという問いかけだった。
 しかし、江戸時代の太平の世という社会の安定は長くは続かない。国内外の状況が大きく変化し始めたからで、その時に社会に入ってきたのが蘭学だった。西洋の恐るべき実力を知った知識人は、それをバネに個性的な思想を形成していく。彼らは強烈な自我意識を持って、惰性や安逸に耽る社会に対して危機感を持ち、規制の枠組みを乗り越えて、才能を開花させていった。かれらは、儒学者たちとは違って例えば経済とか医学といった実践的学問を志向し、机上での学問ではなく現場で実践を伴うもので、儒学とか蘭学とか国学といった学問枠にとらわれず相互に交流したのと、それゆえに社会への参加意識が強かった。それが幕末の革命思想に至ることになる。
 こういう流れとして江戸時代の思想家たちをコンパクトに取り上げているので、物語のように読み易かった。ただし、後から後から思想家たちを紹介されるので、個々の思想家については駆け足のようになってしまったのが残念。例えば、平田篤胤は国学者なんだけれど、海防論を唱えた人々とも交流があり、対外認識は蘭学者とは変わらない情報を得ていたとかといったネットワークの具体像はイマイチ踏み込めていない。そういうのは、この本を契機に、自分で興味を持った思想家を深堀しなさいということかもしれない。

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