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2022年5月 3日 (火)

重田園江「ホモ・エコノミクス─『利己的人間』の思想史」

11112_20220503204301  自分の利益を第一に考えて合理的に行動する主体というホモ・エコノミクスという、現代の経済学が前提とする人間像は、けっして当たり前のものではなかった。例えば、キリスト教では“貧しき者は幸いなり”というし、日本でも士農工商などと利を得ることは賤しいとされた。著者はこの背景に人間観の転換があったという。経済学が生み出した自己の利益を最大化することを目的としている「ホモ・エコノミクス」なるモデルが、いつの間にか実際の人間に重ね合わされ、そして一種の規範性を持つようになったという。こういうことの先駆的なものとして、マックス・ウェーバーの「プロテスタンティズムと近代資本主義の精神」は、勤勉と蓄積という生活態度がプロテスタンティズムの禁欲主義に沿うものであったという分析が有名で、著者もウェーバー等の論考を追いかけている。しかし、この著作の中心となっているのは経済学という学問が、もともとは家政学(領主貴族の領地経営の方法)として政治学と一体だったものが、自然科学、とくに力学や数学をとり入れて独立していくプロセスでホモ・エコノミクスを形成していったという分析で、これはとても興味深いものだった。当初の経済学では、アダム・スミスは人間が富を求めて行動することは肯定したが、そこに倫理的な足かせがあることを前提として、道徳に付随するものだった。あるいは、リカードは追求する富のベースとなる価値は労働に基づくという労働価値説を説いた。これらに対して、初期の近代経済学のオーストリア学派のメンガーは、完全に合理的で経済的な利得動機だけで行動する人間があり得ないのは当然だが、それは化学における「純物質」や物理学における摩擦のない世界と同じで、ある種の理念系だと言った。メンガーは限界効用逓減の法則という、財から得る効用はだんだんと減っていくという考えを経済学に導入し、「限界革命」を担った人物の1人としても知られている。実は、この限界効用という考え方のベースには労働価値説の否定がある。端的に言うと「効用」というのは、受け取った財にどれだけ価値を感じるかということで、労働によって価値が作られるということとは反対の立場の受け手の立場ということで、言われてはじめて気がついた(これに気がついたということだけでも、この著作を読んだことの価値があると思う)。そして、この効用に対して、ジェヴォンズはだんだんと効用が減っていくという性質に注目し、この動きを曲線として描き、それを微分して得られる接戦の傾きを効用として捉えようとした。複数に人間の間の効用は直接比較できないが、市場では交換が行われており、この効用をもとにして、これ以上の交換が行われない均衡点が求められる。この均衡点が「てこの原理」における釣り合いに重ねられるという。そして、ワルラスは経済学に数学を導入し、一般均衡の考えにたどり着いた。詳しく言うと、富は有用・有限で量的な性質を持つため、価値を量ったり交換できる。そして交換に着目することで経済現象を数学的に扱うことができる。そして、均衡というのは効用の極大化と捉える。これはてこがバランスしている点がエネルギー極大化であることに擬えられる。つまり、力学の法則をそのまま経済現象に当てはめた、結果的にそうなった。この時、力学の法則が力という要素に単純化して、他の諸要素を無視して理念化したように、効用を感じる要素を欲望の合理的追求という点(効用最大化だけを考慮するということ)に単純化させた。あるいは、そうしないと法則が成立しないからでもある。まとめると、価値の主観性から出発した理論は、人の欲望の強度が力学的なエネルギーと同一視され、商品の量や単位当たりの効用がてこの腕の長さや質点にかかる力と見なされるといった類比を通じて、質量と距離によって記述される客観的世界へと接合される。人の欲望のあり方がどんなものであっても、ひとたび市場における取引関係に入るなら、欲望のあり方を所与とした何らかの均衡が成立する。ここで想定されるのは、自分自身の欲望を熟知し、市場について完全な情報を持ち、欲望の最善の実現(極大化)の原則によって合理的な選択を行う孤立した個人に行き着く。ここでの人間は、自分の欲望だけを考えるエゴイストというより、欲望を所与として厳密な法則に従って運動する単位である。これって、力学で計算された法則に従って運動する天体と同じ。それがホモ・エコノミクス。う~ん、面白い。  メンガーたちオーストリア学派の経済学者たちは、当時の主流派の学問への挑戦者であった。彼らは、既存の経済学を辛辣に批判し、これまで通用していた学問的方法に疑いの目を向け、理論を一から作り直そうとして、これまでになかった道具立てを用いた。彼らの始めた新しい学問は、従来の経済学になかった抽象性と一般性、そして他分野への応用可能性を与えることになった。 それを権威化したのが、彼らの弟子筋に当たるハイエクと彼が率いたシカゴ学派で、フリードマン至ってホモ・エコノミクスは理念型から普遍性をもった人間像に変質した。シカゴ学派第二世代の学者たちが、この人間観を経済学以外の分野にも広めた。例えば、ゲイリー・ベッカーはベッカーは差別や犯罪といった分野に経済学の考えを持ち込んだ。差別は経済的な損失を発生させるが、差別をする人間はそれをわかっていやっている。つまり、差別に対する好み(taste)を有していると考え、差別にまつわる非合理さをコストに換算して分析しようとした。犯罪に関しても、犯罪によって社会が被る損失と犯罪を取り締まるために社会が必要とする負担の均衡という形で考え、犯罪に対する対策を考えた。しかし、犯罪とは効率を合理的に判断して起こすものだろうか。彼によれば、殺人はコストとメリットを計算して行うものになってしまう、と著者は批判する。ベッカーの広めた概念として重要なのが「人的資本」で、これは今まで時間単位で測られるのみだった労働力の内実を説明しようとするもので、投資によって増えるという考えだ。人は消費をするか、自らの人的資本の価値を上げるために投資するかという、企業と同じような選択を行っているのだという。これについて、この著作の最初のところで、多くの学生が就職活動で企業が求める人材と自身の本音との乖離に戸惑うことを憂いているが、それを露わにしたのが、この人的資本という考え方と言える。でも、これは企業の人事部門や政府の人材育成も、そういう考え方で、今、進められている。つまり、人的資本は教育への投資などを考える場合には便利な考えであるとして、これによって教育もその「収益」が問われることになる。著者は日本の近年の大学改革の背景にもこうした流れの中にあると見ている。 また、政治学にも応用され、ダウンズは『民主制の経済理論』で政治のおける投票行動に市場の考えを持ち込んだ。有権者は投票において、投票所に足を運ぶコストや候補者を選ぶ情報コストを負担する。このコストと実現される政策からもたらされる便益によって投票行動は決まってくるという。政党も有権者と同じく、選挙の勝利を目指して「合理的」に行動する。二大政党の場合であれば、有権者が一番多くいるボリュームゾーンを狙って両党の政策は似通ってくると、ホテリングの店舗立地の理論を使って分析した。一方、ブキャナンはタロックとともに『公共選択の理論』を書いたが、政治社会のすべての争いを個人の選択の問題に還元して読み解こうとした。さまざまな問題に対して、それぞれの個人はまずは自発的な調整を試みる、市場への参加が多くの人に利益をもたらすように、政治への参加も利益をもたらします。公共心や他者を思いやる心などがなくても政治は機能するという。 著者は、こうした「ホモ・エコノミクス」を下敷きにした政治理論が「政治嫌い」を増やしているのではないかと言う。政治アクターも自己の利益のために動いているわけであり、エリートたちも公共心などのためではなく自己利益のために政治を利用していると考えられるからだ。そして、エリートも自己利益のことしか考えていないのならば、わざわざ税金を集めて甘い汁を吸わせるよりも市場に任せたほうがよい。こうして新自由主義による「脱政治化」の動きが支持されるという。 この部分は、先日の中心的な分析に付随するおまけのような部分だが、むしろ著者のホモ・エコノミクスに対する批判的な主張は、こちらの部分の叙述に表われていると思う。

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