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2022年5月 9日 (月)

三木那由他「話し手と聞き手の意味の心理性と公共性─コミュニケーションの哲学へ」

11112_20220509205801  誰かが何かを意味するとはどういうことなのか?従来の議論では「話し手の意味」が話し手の意図を通して理解されてきたのに対し、本書ではそれを話し手と聞き手の共同体において生じる公共的な現象として捉える。画像を見ると優しげな装丁で、読み易い文章なんだけれど、内容というか議論の展開が精緻で、読みこなすのにすごく疲れる。集中力と根気を欠いて、ひとつでも読み飛ばすと、読み進めてきた理解が崩れて、迷子になってしまう。メモをとりながら何度も読み返さなくてはならない。そういう著作。でも、実際の哲学の思考の現場というのは、このような精緻で明晰な議論を、それこそ虫が歩むみたいにゆっくりと進むのだろうという、哲学の議論のさまが、そのまま叙述に移されているような内容。
 話し手の意図が掴まれるときに、話し手の言葉の意味も伝わる。これが「意図基盤意味論」と呼ばれる見方であり、たいへんもっともらしい考えに見える。このような見方を著者は批判する。なぜなら「意味はどのように伝わるか」へ「それは意図が伝わることによってだ」と答えることはかならずアポリアに直面するからだ。話し手はAを意味している。なぜなら彼女はAを意味することを意図しているからだ。ところで「話し手がAを意味することを意図している」とはどういうことか。ひょっとしたら話し手はたいへん奇妙な精神構造をしているかもしれない。その結果、話し手はAを意味することを意図しているのだが、「Aを意味することを意図すること」を意図してはおらず、むしろ「Aを意味することを意図しないこと」を意図しているかもしれない。こうなると、はじめに述べた「話し手はAを意味している」は成り立たないことになる。ポイントは、意図が掴まれるためには意図の意図もまた摑まれなければならない、というところだ。これは、さらに意図の意図が掴まれるためにためには意図の意図の意図が掴まれなければならない。さらに…と無限に遡ることになる。だがこれは有限の認知リソースしかもたない私たちには完遂不可能な作業である。その結果、仮に意図基盤意味論が正しいのであれば、意味は一切伝わらない。それゆえコミュニケーションは或る意味で不可能であることになる。コミュニケーションの作業を〈あなたの意図を私が知ること〉と捉えれば(加えて意図を一定の仕方で理解すれば)、それは無限の過程を含むことになる。と、要約しているが、この議論は、それこそ虫眼鏡で見ながら歩くような、細かくて、じっくりしたもの。
 そこで著者はそれはコミュニケーションを〈「私たちのこと」の確立〉と捉える「共同性基盤意味論」を提案する。〈孤立したあなた〉のことを〈孤立した私〉が知るということがコミュニケーションなのではなく、意味の伝達とは〈私たち〉の成立なのだ、という指摘だ。話し手と聞き手の間にコミュニケーションが成立していれば、そこには集合的信念が成立し、そこで信念とか意図が共同して作られる。「集合的信念を用いたならば、コミュニケーションには話し手と聞き手がひとつの共同となって形成する集合的信念のみが関与することになり、話し手や聞き手が持つ個人レベルの心理状態は問われないこととなる。これによって、コミュニケーションの場面において話し手や聞き手が個人レベルで持つ心理状態の多様性が、分析にとって脅威とならずに済むのだ。」。このような〈孤立したあなた〉のことを〈孤立した私〉が知るということがコミュニケーションなのではなく、意味の伝達とは〈私たち〉の成立なのだ、という抽象的な言い方では、ちょっと分かりにくい。著者は次のようなケースを提示する。
 ステラは信心深いクリスチャンで、4年生を受け持つ教師であり、彼女の宗教上の信念は幼い頃から持ち続けている深い信仰に根差している。このような信仰のなかには神による天地創造が正しいという信念が含まれており、それゆえ進化論は誤っているという信念も含まれている。このような信念には科学的反証があるということにステラはよく知っている。実のところ天地創造についての信念が何ら証拠に基づいておらず、むしろ個人的信仰のみに基づいているということを彼女は喜んで認める。それゆえ、宗教は周囲の人に押し付けるべきものではない、とステラは考えており、彼女が学校で受け持つ4年生の生徒たちにも、当然、押しつけはすべきではないと思っている。それどころか、彼女は教師としての自分の職務には、現在得られる証拠からもっとも支持されているような事柄を提示することが含まれていると考えている。そういう事柄には進化論が正しいということが含まれている。その結果、生物学の授業で、彼女は生徒たちに進化論を教えている。自分では、進化論が真であると信じてはいないにもかかわらず。
 この例では、ステラは進化論の正しさを信じていないが、彼女の信心深さは学校でも有名であり、生徒は皆、そのことを知っているとして、彼女の授業を受ける生徒たちは彼女が進化論は正しいとは思っていないことを知っている。この場合、ステラが生徒たちに話していることは、彼女の信念に反するということで、生徒たちはそのことを知っているということだ。「意図基盤意味論」でいう意味は伝わっても意図は逆であることだ。しかし、これはステラが虚偽を話しているとは言えないだろう。彼女は教師としての職務に誠実であろうとしているだけで、生徒たちも彼女が虚偽を話しているとは思わない。むしろ、進化論の正しさを理解する。これは、ステラの話す進化論という意味を生徒たちが理解したとき、ステラと生徒たちのあいだには進化論が正しいとステラが信じているという集合的信念が形成される。天地創造ではなく進化論をステラが信じているということを、ステラと生徒たちが一体として信じるという場にステラと生徒たちが参加するということで、このとき参加者は進化論は正しいということに背かないという義務が生じる。なお、この時、ステラはこの集合的な信念に参加する限りでは、進化論が正しいという信念を持っているかのように振る舞うように義務づけられるが、このことは、実際に彼女個人がその信念を持っていることとは違うということだ。分かりにくいだろうか。会社で、自分の信念に反することでも、仕事だからといって、あえて行うことはないだろうか。嫌いに奴に笑顔を向けるとか。やっぱり分かりにくいか。

 これが分かりにくいのは、私の理解力の足りなさのせいなんだけれど、〈孤立したあなた〉のことを〈孤立した私〉が知るということがコミュニケーションなのではなく、意味の伝達とは〈私たち〉の成立なのだ、という「共同性基盤意味論」については、この著作のテーマであるだろうし、中心的な部分のはずなのだが、本著の叙述に占める量的な割合は、それほど多くはない。むしろ、「意図基盤意味論」が成り立たないということを立証する部分が多くを占めていて、その詳しい叙述に、私なんかはくどいとすら思ってしまう。これに対して、これから本命の「共同性基盤意味論」の説明に入ると思ったら、あっという間に終わってしまった。それも、昨日紹介したステラという教師のケースとか、いくつかのケースを分析して、その個々のケースについて、ああだこうだと考察している。そのプロセスを記述している。そこで、「共同性基盤意味論」とはこういうものだという明確な定義づけのような部分はほとんどない。思うに、著者は「意図基盤意味論」が成り立たないケースを具体的に考えていて、そこから新しい、従来にないことを考え始めているのだろうと思う。それゆえに、それを説明する言葉がない。そこで、そういう言葉も考えながら記述している。そういうように見える。このことは、哲学というのが、詩(ポエム)を作る詩作ときわめて近い作業であるとことだ。詩というのは、書かれた言葉はいわば結晶のようなもので、その背後という結晶化される前の多くの要素を想像しないと、何が書かれているか分からないわけだが、この著作の核心部である「共同性基盤意味論」の説明の部分は、いわば詩のようなものだと思う。
そう言えば、私は、詩を読むのは苦手だったことを思い出した。

 私には、一度や二度の読みでは、読み切れていない実感がある。少し時間を置いて(頭を冷やして)から、三度、四度と読み直そうと思っている。

 

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