山本義隆「近代日本150年─科学技術総力戦体制の破綻」
日本の近代化は明治維新に始まって、国家による富国強兵として推し進められ、第二次世界大戦の敗北によって清算されてしまい、焼け跡から復興と民主化改革により高度経済成長、そして頂点を極めた後にバブル崩壊で行き詰まった。このような一般的な時代区分とは異なる視点で、明治から戦争を経て戦後に至るまで一貫して経済成長とそのたの科学技術の振興を至上のものとする科学技術総力戦体制が官・産・軍・学の協働によって推進されたのだとし、それが明治維新から約150年後の2011年3月11日の福島原発事故で破綻したという時代区分を提示した日本の近現代史。たとえば、「高度経済成長」は戦後の民主化改革や自由化による民間主導の資本主義的な勃興という見方から大国主義ナショナリズムの思潮により国家社会主義的に推進されたもので、明治時代の殖産興業を時代に合わせたものとみることができる。
日本が西洋の近代科学に触れたのは江戸時代後半の蘭学で、少数の医師や趣味人たちのものだった。そして、幕末のアヘン戦争の衝撃などにより実学、といっても軍事技術の取得のために洋学が幕府や有力藩で学ばれ、その傾向が明治以降の学問導入に受け継がれた。明治維新後は、先進の西洋の絶大な生産力を生みだしたのが科学技術であるという実学としての近代科学、例えば物理学が重視された。例えば、軍事では砲撃の軌道計算。
他方、当時の西洋は、産業革命が始まってから約半世紀が経過し、生産現場で五月雨的に新技術が生まれたのが落ち着き、散発的だった技術が体系的に整理されるようになった。また、製作や操作を目的として実践を伴う技術と自然法則を追究するのは神の真理に近づくという哲学的でもある理論考察であるアカデミズムの科学とは、そもそも別物だったのが技術を精緻に改良していくのと共通化に理論による基礎づけが求められ、学問は世俗化により神と離れたことにより技術と科学が結びついたのもこのころだった。つまり、ちょうど日本が西洋の科学技術を導入しようとしたときに、西洋の方でも宗教や思想のような面倒なものと切り離され科学と技術がひとまとまりのパッケージとして導入しやすいものになっていた。もし、明治維新が50年早かったら、科学と技術は別々で技術は混沌としていて何をどう学ぶかの選択が困難だったし、また、反対に50年遅かったら科学技術の進歩が進んで格差が大きくなりすぎて追いつくのが困難だった。その意味で、明治維新は西洋の科学技術を導入するベストタイミングだったという。
また、自然科学のなかでも化学は物理学のように変化が目に見えるものではないので、当時の日本人にはなじみにくく導入が遅れがちだったが、第1次世界大戦でドイツが合成ゴムの開発に成功すると、エネルギーや鉱物資源を持たない日本にとって、例えば空気から窒素を固定し、それをもとに火薬を合成するといった資源不足を克服する錬金術的なものとして推し進められた。実は、戦後も日本は資源を持たないので、技術でカバーしなければならないという意識が強かったが、そういう風潮は日本の化学振興とともに生まれ、広まったものだという。
意外かもしれないが、世界で初めて大学というアカデミズムで工学部という技術を独立した学問として位置付けたのは東京大学だったという。
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