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2022年7月

2022年7月26日 (火)

山本義隆「近代日本150年─科学技術総力戦体制の破綻」

11112_20220726220701  日本の近代化は明治維新に始まって、国家による富国強兵として推し進められ、第二次世界大戦の敗北によって清算されてしまい、焼け跡から復興と民主化改革により高度経済成長、そして頂点を極めた後にバブル崩壊で行き詰まった。このような一般的な時代区分とは異なる視点で、明治から戦争を経て戦後に至るまで一貫して経済成長とそのたの科学技術の振興を至上のものとする科学技術総力戦体制が官・産・軍・学の協働によって推進されたのだとし、それが明治維新から約150年後の2011年3月11日の福島原発事故で破綻したという時代区分を提示した日本の近現代史。たとえば、「高度経済成長」は戦後の民主化改革や自由化による民間主導の資本主義的な勃興という見方から大国主義ナショナリズムの思潮により国家社会主義的に推進されたもので、明治時代の殖産興業を時代に合わせたものとみることができる。  日本が西洋の近代科学に触れたのは江戸時代後半の蘭学で、少数の医師や趣味人たちのものだった。そして、幕末のアヘン戦争の衝撃などにより実学、といっても軍事技術の取得のために洋学が幕府や有力藩で学ばれ、その傾向が明治以降の学問導入に受け継がれた。明治維新後は、先進の西洋の絶大な生産力を生みだしたのが科学技術であるという実学としての近代科学、例えば物理学が重視された。例えば、軍事では砲撃の軌道計算。  他方、当時の西洋は、産業革命が始まってから約半世紀が経過し、生産現場で五月雨的に新技術が生まれたのが落ち着き、散発的だった技術が体系的に整理されるようになった。また、製作や操作を目的として実践を伴う技術と自然法則を追究するのは神の真理に近づくという哲学的でもある理論考察であるアカデミズムの科学とは、そもそも別物だったのが技術を精緻に改良していくのと共通化に理論による基礎づけが求められ、学問は世俗化により神と離れたことにより技術と科学が結びついたのもこのころだった。つまり、ちょうど日本が西洋の科学技術を導入しようとしたときに、西洋の方でも宗教や思想のような面倒なものと切り離され科学と技術がひとまとまりのパッケージとして導入しやすいものになっていた。もし、明治維新が50年早かったら、科学と技術は別々で技術は混沌としていて何をどう学ぶかの選択が困難だったし、また、反対に50年遅かったら科学技術の進歩が進んで格差が大きくなりすぎて追いつくのが困難だった。その意味で、明治維新は西洋の科学技術を導入するベストタイミングだったという。  また、自然科学のなかでも化学は物理学のように変化が目に見えるものではないので、当時の日本人にはなじみにくく導入が遅れがちだったが、第1次世界大戦でドイツが合成ゴムの開発に成功すると、エネルギーや鉱物資源を持たない日本にとって、例えば空気から窒素を固定し、それをもとに火薬を合成するといった資源不足を克服する錬金術的なものとして推し進められた。実は、戦後も日本は資源を持たないので、技術でカバーしなければならないという意識が強かったが、そういう風潮は日本の化学振興とともに生まれ、広まったものだという。  意外かもしれないが、世界で初めて大学というアカデミズムで工学部という技術を独立した学問として位置付けたのは東京大学だったという。

2022年7月21日 (木)

小川幸司、成田龍一編「シリーズ歴史総合を学ぶ① 世界史の考え方」

11112_20220721213501  今年度から高校で「歴史総合」という新しい科目の授業が始まった。これは18世紀以降の近現代史を従来の日本史・世界史の区別をなくして総合的に学ぶというものらしい。そこでは、歴史と「私たち」との関係を探り、歴史に問いかけ、互いに議論し対話することが目的とされているという。このような「歴史総合」の議論にも大きな影響を与えてきた著者2人が、岸本美緒、長谷川貴彦・貴堂嘉之・永原陽子・臼杵陽をゲストに迎えて、歴史に関する本を読みながら近現代を中心とした世界史と歴史学について考えるという構成になっている。章ごとに3冊の本がとり上げられ、それを著者2人にゲストという3人で紹介しながら、時代の特徴や歴史学の展開を語っていく形で、刺激的な議論がされている。
 ちなみに取り上げられた本は、大塚久雄「社会科学の方法」、川北稔「砂糖の世界史」、岸本美緒「東アジアの近世」そして、遅塚忠躬「フランス革命」、長谷川貴彦「産業革命」、良知力「向う岸からの世界史」、そして江口朴郎「帝国主義と民族」、橋川文三「黄禍物語」、貴堂嘉之「移民国家アメリカ」、そして丸山真男「日本の思想」、新井信一「空爆の歴史」、内海愛子「朝鮮人BC級戦犯の記録」、そして中村政則「戦後史」、臼杵陽「イスラエル」、峯陽一「2001年の世界地図」といった著作。
 大学1、2年の基礎ゼミの基本的文献の講読を思い出させるような鼎談で、全体を通して非常に密度の濃い議論がなされており、別に「歴史総合」に関わらない人にとっても非常に刺激的で面白い本になっていると思う。近現代をたどりながら、歴史学がどのように変化・発展してきたのかということが分かり、その歴史学がさまざまな枠組みを揺さぶっていることもわかると思う。
 例えば、最初の議論では、大塚久雄「社会科学の方法」をとりあげ、大塚は日本の「近代」が不十分なものであったとの反省のもと、イギリスの「近代」を生み出した人々の精神に迫ろうとするという。大塚は「ロビンソン・クルーソー」という社会関係のないところで自活する個人というわかりやすい類型を原型として、そういう人が社会にはいったらどう変わるかということから近代を生み出した人々のエートスを分析したが、「合理性」や生産の局面を強調する議論には批判もあるという。大塚の時代は海外に行くことは難しく、欧米の二次文献にあたって理論を組み立てていたという時代の制約もあったが、その後、日本の研究者も海外で一次文献にあたるようになり、大塚の研究が参照されることは少なくなったが、歴史教育の分野ではまだ大塚の枠組みの影響は強いと言う。次に、川北稔『砂糖の世界史』は砂糖という商品に注目して国の枠を超えた歴史を描こうとするもので、産業革命を生み出したものはイギリスの小経営のエートスなどではなく、カリブの奴隷を使った砂糖のプランテーションがイギリス本国にもたらした富こそがその原動力だったという主張をしている。この『砂糖の世界史』は世界システム論に依拠して、産業革命をイギリスという一国の中での出来事ではなく植民地とのネットワークの中で起こったとしているが、同時に消費の局面にも目を配っているのが特徴と言える。最後に。これら2冊の紹介の後、岸本美緒が登場し、彼女の「東アジアの近世」についてまずは「近世」という「近代」の前の時代を表す概念が検討される。岸本はあえて「近世」という時代区分の内容的指標については論じておらず、16〜18世紀にかけてアジアに登場した銀というモノの流れを軸にした新たな世界といった意味合いでこの言葉を使っている。世界システム論のような中心−周辺の図式ではなく、銀、さらには生糸やニンジンといった商品でつながりながら、東アジアに中国・朝鮮・日本といったそれぞれに特徴のある社会が成立したことを論じていく。そこに、単線的な発展論ではない歴史の姿が見えてくる。
 そこには、現実の高校の日本史や世界史の授業に対して、教師の講義をひたすら受けとめ、膨大な歴史用語を暗記することに終始したものになっているため、歴史的事件の因果関係を考える機会があったとしても、それもまた暗記して試験の時に再現する、そして試験が終われば忘れてしまう、批判がある。そういう現状に対して、著者たちは、歴史の授業というのは、過去を知ることで私たちがどう生きるべきかを考えることができる、というものだという理想(?)を明かす。
 個々の議論は、それぞれに興味深いが、その結果として、この理想は???で、「春秋」とか「史記」・・それらがふるいというなら司馬遼太郎じゃないかなどと懸念して、基礎的な文献として市井三郎「歴史の進歩とはなにか」なんかを加えてもいいのではないか、と思ってしまった。

2022年7月15日 (金)

「京都の中世史1、摂関政治から院政へ」

11112_20220715214301  日本の中世というと武士の時代で鎌倉とか東国に焦点が行きがちだが、あえて古代の中心というイメージの京都の焦点を当てて中世を見ようというシリーズ。しかも、この第1巻は平安時代の摂関政治から院政が始まるまでを取扱い、従来の中世とは異なる視点を示す。それが興味深い。
摂関家、すなわち藤原氏もそうだが、この時代の貴族というのは、飛鳥とか奈良時代の貴族が豪族といっていい地方に根ざし、独自に軍事力や経済力を持っていたものから、律令制の定着により土地という地盤を持たず朝廷という天皇を中心としたシステムの中で家産官僚として地位や力を付与された人々。そういう点で、とてもユニーク。そういう人々が力を伸ばすためには、朝廷という組織のなかで人事権を握ることが一番重要だった。その人事権を名目上握っていたのが天皇。しかし、実質的な権力は、その天皇を決める権限、つまり皇位決定権を持っている者だった。跡継ぎを決めるというのは、どの家でもあることだろう。常識的に考えれば、当主が次の当主を指名するというのがよくあるパターンだろう。平安初期は桓武から天皇として生涯を全うし、在位中に亡くなって、そのあと跡継ぎが決まっていないことがよくあった。飛鳥時代には、そういうときに跡目争いが内乱にまでなったりした。しかし、平安時代には、天皇が亡くなると残された皇后が母親として実子を跡継ぎに決めるという、母親の発言力が強くなっていく。その場合に、その皇后の発言に強い影響力を持ったのが実家で、それが外戚ということになる。
 これに対して、院政は、天皇を早めに引退して、人事権を持っているうちに跡継ぎを決めてしまえというのが上皇で、それゆえ外戚である摂関家に人事権を渡さず権力を握ったのが院政という体制だったという。
 このような権力の構造は、学校の日本史の授業では習わなかったし、大河ドラマや歴史小説なんかでも権力闘争の物語はやっていても、その権力の源泉とか、この人たちはどのようにして生活の資を得ていたのかは、さっぱりわからない。実は歴史の面白さは、そういうところにあるのではないか思うが、その一端を見せてくれているようで興味深い。
 平安貴族といえば、文学作品の影響もあり、儀式を繰り返し、恋愛や詩歌管弦に耽るイメージが強いが、実態はそんなものではなかったという。たとえば、藤原実資は朝廷の儀式や政務の担当責任者である公卿をたびたび務め、その実務内容や行政上の判断材料となる先例、他人の評価に至るまで、詳細な記録を書き残すなど、謀殺される日々を過ごした。また、摂関政治といえばこの人、藤原道長は、その栄華も天皇の外戚となるような偶然の幸運に支えられていたわけではなく、あえて関白にならず(摂政関白のイメージが強いが、実際は道長が関白の地位にあったのは、ほんの一時期にすぎなかったという)左大臣一上という実務官僚を務めていた。この官職は天皇の裁可を仰ぐ書類を取りまとめるという朝廷の情報の集積なんだが、道長は公卿会議に自ら出席し、国政や人事の重要審議を領導するなど、積極的な政治運営によって、その権力を築きあげた。
 平安初期、菅原道真を登用した宇多天皇によって天皇に近接して奏上、伝宣、護衛などを行う家政機関である蔵人所が設置された。これは律令制の官僚機構の枠外の機関だった。これは律令制の天皇や体制の変容、つまり、本来「私」を持たないはずの天皇が、家産的要素を導入した結果、公地公民から私的所有である荘園に通じる端緒(のちに天皇家自らが荘園を持つことになる。ただし天皇は私有ではないので、上皇が荘園領主となる。それが院政の経済的な権力基盤となる)となった。そして、この家産官僚の支配的地位を独占したのが藤原摂関家だった。

2022年7月12日 (火)

リチャード・パワーズ「黄金虫変奏曲」

11112_20220712212301  邦題は『黄金虫変奏曲』だが、原題は「The Gold Bug Variations」で、JSバッハのゴルトベルク変奏曲(Goldberg Variations)とエドガー・アラン・ポーの短編小説「黄金虫(The Gold Bug) 」を掛け合わせた駄洒落になっている。「黄金虫」は暗号解読の物語で、この主人公の一人レスラーが分子遺伝学者で遺伝子のDNAの4つの塩基の配列を解読することに従事するのがこの小説の基点になっている。ちなみにDNAの配列は64通りで、これはゴルトベルク変奏曲が曲の最初と最後のアリアと30の変奏という32の部分で出来ていて、ちょうど64の半分。しかも、ゴルトベルク変奏曲は低音部の4つの音から成るフレーズがテーマとして繰り返されるのが基本構造になっている。この小説は32章の構成で、ゴルトベルク変奏曲に擬えられている。されそして、この小説の主人公は4人の人物。また、「The Gold Bug Variations」の「 Bug 」はバグで、いわゆるコンピュータ・ソフトのバグのことで、レスラーはコンピュータ・エンジニアになり、コンピュータ言語の解読と操作に従事している。
 内容は、1957年、遺伝暗号の解読を目指す若き生化学者スチュアート・レスラーに、一人の女性がゴルトベルク変奏曲のレコードを手渡す。25年後、公立図書館の司書ジャン・オデイは、魅力的な青年フランク・トッドから、スチュアート・レスラーという人物を調べてくれという奇妙なリサーチの依頼を受ける。レスラーは夜ごとゴルトベルクを聴きながら凡庸なコンピュータ・アルゴリズムのお守りをしている、恐ろしく知的で孤独な人物。長い時を隔てて存在する二組の恋愛が、互いを反復し、変奏しながら二重螺旋のように絡み合う。ちなみに、この小説の舞台となる1950年代と1980年代は、グレン・グールドのゴルトベルク変奏曲の旧盤と新盤の録音時という。パズル合わせが後から後から出てくる。
 そういうたくさんのものが詰め込まれていて、宝探しのように読む、知的なパズルゲームのようにして読むと面白いかもしれない。しかし、32章に分けられた物語が1957年と1982年をアトランダムに行ったり来たりして、今どちらの物語なのかなかなか分からないので、物語を追いかけにくい。そして、語り口がニューヨーカー誌のお洒落な短編小説のような全部を語らないほのめかしで、短編なら集中できるのだが、上下2段組み850ページでやられると、話はとぶわ、はっきり言わずほのめかしばかりで、物語がどうなっているのか追いかけられなくなって、読むのに大変苦労した。おそらく、ニューヨーカーで原語表現に慣れ親しんだ人なら親しめると思うが、翻訳の日本語で読むのは辛い。リチャード・パワーズは『われらが唄う時』とか『オルフェオ』といった音楽を題材にした物語性の強い作品は、とても好きなので、題名から期待していた。作者の若書きで意欲は分かるが、ちょっとね?だった。

 

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