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2022年7月15日 (金)

「京都の中世史1、摂関政治から院政へ」

11112_20220715214301  日本の中世というと武士の時代で鎌倉とか東国に焦点が行きがちだが、あえて古代の中心というイメージの京都の焦点を当てて中世を見ようというシリーズ。しかも、この第1巻は平安時代の摂関政治から院政が始まるまでを取扱い、従来の中世とは異なる視点を示す。それが興味深い。
摂関家、すなわち藤原氏もそうだが、この時代の貴族というのは、飛鳥とか奈良時代の貴族が豪族といっていい地方に根ざし、独自に軍事力や経済力を持っていたものから、律令制の定着により土地という地盤を持たず朝廷という天皇を中心としたシステムの中で家産官僚として地位や力を付与された人々。そういう点で、とてもユニーク。そういう人々が力を伸ばすためには、朝廷という組織のなかで人事権を握ることが一番重要だった。その人事権を名目上握っていたのが天皇。しかし、実質的な権力は、その天皇を決める権限、つまり皇位決定権を持っている者だった。跡継ぎを決めるというのは、どの家でもあることだろう。常識的に考えれば、当主が次の当主を指名するというのがよくあるパターンだろう。平安初期は桓武から天皇として生涯を全うし、在位中に亡くなって、そのあと跡継ぎが決まっていないことがよくあった。飛鳥時代には、そういうときに跡目争いが内乱にまでなったりした。しかし、平安時代には、天皇が亡くなると残された皇后が母親として実子を跡継ぎに決めるという、母親の発言力が強くなっていく。その場合に、その皇后の発言に強い影響力を持ったのが実家で、それが外戚ということになる。
 これに対して、院政は、天皇を早めに引退して、人事権を持っているうちに跡継ぎを決めてしまえというのが上皇で、それゆえ外戚である摂関家に人事権を渡さず権力を握ったのが院政という体制だったという。
 このような権力の構造は、学校の日本史の授業では習わなかったし、大河ドラマや歴史小説なんかでも権力闘争の物語はやっていても、その権力の源泉とか、この人たちはどのようにして生活の資を得ていたのかは、さっぱりわからない。実は歴史の面白さは、そういうところにあるのではないか思うが、その一端を見せてくれているようで興味深い。
 平安貴族といえば、文学作品の影響もあり、儀式を繰り返し、恋愛や詩歌管弦に耽るイメージが強いが、実態はそんなものではなかったという。たとえば、藤原実資は朝廷の儀式や政務の担当責任者である公卿をたびたび務め、その実務内容や行政上の判断材料となる先例、他人の評価に至るまで、詳細な記録を書き残すなど、謀殺される日々を過ごした。また、摂関政治といえばこの人、藤原道長は、その栄華も天皇の外戚となるような偶然の幸運に支えられていたわけではなく、あえて関白にならず(摂政関白のイメージが強いが、実際は道長が関白の地位にあったのは、ほんの一時期にすぎなかったという)左大臣一上という実務官僚を務めていた。この官職は天皇の裁可を仰ぐ書類を取りまとめるという朝廷の情報の集積なんだが、道長は公卿会議に自ら出席し、国政や人事の重要審議を領導するなど、積極的な政治運営によって、その権力を築きあげた。
 平安初期、菅原道真を登用した宇多天皇によって天皇に近接して奏上、伝宣、護衛などを行う家政機関である蔵人所が設置された。これは律令制の官僚機構の枠外の機関だった。これは律令制の天皇や体制の変容、つまり、本来「私」を持たないはずの天皇が、家産的要素を導入した結果、公地公民から私的所有である荘園に通じる端緒(のちに天皇家自らが荘園を持つことになる。ただし天皇は私有ではないので、上皇が荘園領主となる。それが院政の経済的な権力基盤となる)となった。そして、この家産官僚の支配的地位を独占したのが藤原摂関家だった。

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