重田園江「社会契約論─ホッブス、ヒューム、ルソー、ロールズ」
社会契約説というと、例えばホッブスの自然状態という社会を作る以前の原始的な人間は社会ルールはなくて、生きるために他人を蹴落とすことも躊躇しない“万人の万人に対する闘争”がおこる。それでは、人々は平和と安定した生活を求めて互いに権利を放棄して殺しあわないという社会契約を結び、その権利を国家に委任する、それが社会契約説のイメージ。この話を高校の倫理社会の授業のときだったか、はじめて聞いたときは、現実にそんな契約をしていない、つくり話、うそくさいと感じた。現実にリアリティーを感じられない人も少なくないだろう。
しかし、1945年の敗戦の後、新たな国づくりをする際に、国土は荒廃し、いく残った人々の生活は苦しく、大きな犠牲を出した戦争は二度としたくない、軍国主義はもうこりごりだ、といった国民的な合意が形成されていた。それは、実際のところ社会契約が成立していたと考えてよい。その契約は、戦後数十年にわたって有効であった。例えば、侵略戦争をしないことは、自衛隊の実体はどうするかを別としても、これを正面から否定する主張はありえない。そう考えると、日本の現代の社会でも社会契約は生きている、ということができる。
社会契約説は、もともとそれは国家は個人の権利保護のために作られたものだという考え方だ。それに対して、戦前の国体論が国家は自然とか伝統とか万世一系といったイメージで作ったものではなく、もともとあるものといった考え方だった。戦後民主主義の代表的思想家、たとえば丸山真男は作為の論理や内田義彦は社会契約を社会認識の視点として考察した。それだけ、リアルな思想として生命をもっていたと言える。
しかし、現在はどうだろう。二度と戦争の悲惨を味わいたくない、国家に抑圧された自由のない生活はごめんだという強い思いは薄れ、反対に、グローバル資本主義の奔流のような動きに直面して、あるいは自由や民主主義といった文化を共有しない勢力からの理不尽な侵略の脅威にさらされて、強力なリーダーシップを国に求める声が強くなっている。
そう考えると、社会契約は国づくりを始めるというようにスタートの時点では有効で、それが定着されたときに維持することに問題がある。それが弱点というのうか。本書は、ホッブス、ヒューム、ルソー、ロールズの社会契約説を取り上げる。ヒュームとロールズは一般に社会契約説を説いた人とは思われていないし、逆に普通並べられるロックが除外されている。このラインアップなどに、このような視点が反映されているのだろうと思う。著者は社会契約説を現代のアクチュアルな思想として捉え直そうとしている。
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