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2022年8月 2日 (火)

「京都の中世史2、平氏政権と源平争乱」

11112_20220802214901  高校の頃に日本史の授業で教えられたのは、次のようなこと。平安後期に政情が不安定になる。おどろおどろしい院近臣たちの蠢く院政は、権謀術数の権力争いが渦巻き、政治を腐敗させ、近臣の収奪で地方は疲弊する。騒乱で京都の治安は乱れ、武士が活躍するようになり、平氏が政権を握ったが、東国武士を率いた源氏に倒されるなど政争に武士の力が利用され、京都は東国武士に蹂躙されて荒廃し、それ以後東国を中心として武士が歴史を動かすようになっていく。豊富な史実の提示で、このような常識を打ち壊してくれた。過去を遡るということだけで、新たな展望を拓いてくれる。これだから、歴史って面白い。
 しかし、武士が発生する以前の飛鳥時代や奈良時代にも大規模な内乱は発生している。例えば奈良時代の藤原仲麻呂の乱では聖武天皇は平城京から逃げ出している。平安の初期から中期にかけても政争は起こったが、それらは朝廷内の陰謀に終わり、敗者は左遷されたり配流されたりすることで終わっていた。それが兵乱を招くようになったのは、武士が使えるようになったからではなく、政争の質的変化が原因だったという。つまり、調停が困難で和解不可能な状況に陥った時に兵乱が勃発するので、平安中期までは、天皇の背後に(政争の主要な原因は天皇の跡目争いだった)国母やその実家である外戚が確固たる力を持っていたが、平安末期には、その安定が崩壊した。
 また、鎌倉時代になっても律令制の公田や荘園は継続し、それは京都の朝廷や貴族の権力の存在を示している。そもそも、東国など地方に武士が出現したのは、京都の貴族の中で武装した者たちが地方に赴任したことによる。平将門の乱といった地方武士の成長に伴う動きは京都の中央の動向に規定されたもので、けっして地方の武士が独立してボトムアップ的に中央に挑む(そこには、例えば毛沢東の『実践論』のような、階級史観の影響を受けた見方)ものではなかった。
 ちなみに、武家政権の幕府には、なくてはならない征夷大将軍という役職について、源頼朝は京都に常駐しているわけではないので大臣などの官職に任官はできない。そこで、京都以外に居住していても就任可能で高位の官職として、たまたま空きがあったのが征夷大将軍だったに過ぎないという。なぜなら、この時まで、征夷大将軍は蝦夷が反乱を起こした時に制圧軍を編成する将軍であり、臨時の官職だった。それが、頼朝が幕府を開いてから幕府の首長として代々相続されるものになったものだという。

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