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2022年9月

2022年9月21日 (水)

ウラジーミル・ソローキン「親衛隊士の日」

11112_20220921221701  今般のロシアのウクライナ侵攻のエートスを予言していたと話題の近未来小説。先端テクノロジーが高度に発展した社会で、例えば、レーザー・ビームのようなハイテク兵器が使われていたりする一方で、兵士は略奪を働き、巻き込まれた女性を凌辱するという、近代以前の野蛮な振る舞いをするというチグハグな社会を戯画的に誇張した物語。そのスラプスティックさは、スティーブ・エリクソンやギュンター・グラスに少し近いかもしれないが、この小説の後味は悪い。 

2022年9月15日 (木)

蓮實 重彥「ジョン・フォード論」

11112_20220915203901  この人の「監督小津安二郎」は何度も繰り返して読んだ。この本を読んで、作品が見たくなって、作品を見た後で、その本の作品にふれた記述を読み直す、ことを何度も繰り返したことがあった。「監督小津安二郎」の最初の記述、「晩春」の冒頭のシーンで、他の監督には見られない、小津の特徴的なものが見えるという。それは、伝統的な家族の姿とか日本的情緒とかワビサビとかいった、よくいわれるものはすべて否定して、そこに見えるのは、人物の足の裏であるという。そういう、この人の「監督小津安二郎」の姿勢は、この「ジョン・フォード論」でも変わらず、一貫している。「監督小津安二郎」の著述のしかた、作品のストーリーを追いかけて、意味づけるのではなく、各作品のショットを抜き出して、画面が語る、つまり、視覚で見える説話を語ると、語られる特徴が見えてくる。この著作の中で、次々と示される数々のショットの見えるくるものの豊かさ。それをひとつひとつ味わうだけでも快楽。それで、表われてくるジョン・フォードは、
 ハワード・ホークス監督の「リオ・ブラボー」のラスト近くの撃ち合いで、ジョン・ウェインがリッキー・ネルソンが投げたライフルを受け取ると、敵に向かって撃ちまくる(「アンタッチャブル」の階段のシーンでも引用された)。これは、男の友情、連帯の振る舞いの共有を謳いあげるようなポジティブなシーンになっている。ジョン・フォードの「リバティ・バランスを撃った男」でジョン・ウェインは、同じようにウッディ・スロードの投げるライフルを受け取り、ジェームス・スチュアートに隠れるように、ひそかにリバティ・バランスを射殺する。それが、思い続けた女性を喪うことが分かっていてのことで、そこに救いがたい陰惨さがつきまとう。同じジョン・ウェインの仕草が、ジョン・フォードでは禁じられた愛に直面する孤独な人間の悲劇になる。たしかに、ジョン・フォードの長編西部劇映画で、明らかなハッピーエンドと言えるのは「駅馬車」しかない。それも、ちょっとほろ苦い。それは、たしかにそうだと思う。
 また、映画を見たくなってくる。

 

2022年9月 8日 (木)

三木那由他「会話を哲学する─コミニュケーションとマニピュレーション」

11112_20220908203901  著者は、いわゆる分析哲学の人。分析哲学とは論理学や数学の方法論を積極的に哲学に取り込むといったもので、その道具立てや議論の立て方を使ってコミュニケーションを探究している。本書では、とくに会話に焦点をあてて、会話というのは、普通考えられているような単純な営みではなく、そのなかにいくつもの異なる営みが含まれている複合体であるという。著者が批判する会話を単純にものとする考え方が、例えば会話を分析哲学の対象として分析したポール・グライスであり、話し手が何か頭のなかに考えを持っていて、それを言葉にして伝達し、聞き手はその言葉を受け取って、話し手が考えていたことをそり言葉から読み取るという見方で、それをバケツリレーとして著者は批判する。これに対して、著者は会話は、コミュニケーションとマニピュレーションという経験の積み重ねというモデルを提示する。これは、話し手が発言を行い、それによって聞き手との間に共有の約束事が形成されるとき、その発言はコミュニケーションを行っているものとなる。コミュニケーションは、話し手と聞き手のあいだでの約束事に関わる。例えば、発した言葉について話しては責任を持つとか。しかし、話し手は必ずしも発言だけでコミュニケーションだけを行っているわけではない。例えば、あえて白々しい表面的なコミュニケーションを行うことによって、聞き手を怒らせようとしたりする等、さまざまな仕方で聞き手に影響を与えようとする。このように聞き手に影響を及ぼそうとしている時、話し手はマニピュレーションを試みている。コミュニケーションは話し手が行った発言の表の姿であり、それによって話し手が堂々と伝達し、聞き手との間の大っぴらな約束事としているような、主音声的なものだが、話し手はしばしばその裏で、全く別の企てのもとで聞き手にメッセージを届けたり、聞き手の心理や行動を一定の方向に導いたりもする。それがマニュピュレーションで、それは話し手の発言の表の姿だけからは見えてこないで、話し手の心理を深く推察する等したときにはじめて、聞こえてくるような、心の奥底の声のようなもの。
 そこで、著者が示そうとする会話というものの姿は、たくさんものが重なり合う場所のようなものだ。そこには話し手と聞き手の接点がある。両者がコミュニケーションを通じて約束事を形成したら、話し手と聞き手はもはや別々の存在ではなく、私たちというようなひとつになって、その約束事に従った振る舞いをする。その一方で、話し手も聞き手も、それぞれ個人の心理を持っており、それぞれの動機から発言を行う。相手との約束事をきちんと形成したいから、分かっていることでも改めて言わせようとするし、間違っていると分かっている事柄を分かっていないふりをするための共犯関係を築くためにコミュニケーションする。このように会話の背後には、それぞれの人の人生や感情があり、企てがある。そういう会話のあり方のさまざまなケースを小説やマンガの場面から引用し、明らかにする。
 それらは、たいへん興味深い、というより面白い。単純化してしまうと、少しずれてしまうかもしれないが、会話のコミュニケーションとマニピュレーションは、日本人のコミュニケーションの典型的なあり方としてのホンネとタテマエと言い換えることもできるのではないか。そして、著者が批判するバケツリレーの考え方については、それを主張するグライスがアメリカ人であることから、ホンネとタテマエをあまり認めようとしない、欧米的コミュニケーションと、違いを言い換えることもできるのではないかと思う。

2022年9月 2日 (金)

大嶋義実「演奏家が語る音楽の哲学」

11112_20220902212401  現役のフルート奏者が、長年にわたる演奏活動と音大教師としての教育活動の折々で考えたこと、感じたことを業界紙に綴った随筆のなかから、音楽についての書いたものをピックアップしてまとめたもの。音楽家が身体感覚として感じたことをアトランダムに言葉にしたもの、と言えようか。書名は「音楽の哲学」としているが、エッセイというよりは随筆に近いと思う。著者が語っている以上に言葉が語ってしまっている印象で、そこで語られている言葉は、個別に読む人なりに深読みを誘う。それらは、音楽について語る際のネタとして使える、と思った。
 なかで印象に残ったのは、次のようなエピソード。今年98歳になるおばあさんが少女時代、何かと質問や用事を作っては、職員室や校長室に出入りしていた。就職してからは、早朝誰もいない時間に出勤し、率先して重役たちの部屋を掃除してまわった。それは、当時ようやく普及し始めたラジオの放送を聴くためだった。職員室や校長室ではラジオが聞けた。運が良ければそのラジオから音楽を聴くことができた。また、会社では重役室にはラジオが備え付けられ、掃除を始める際にラジオのスイッチを入れた。そこで音楽を聴くことができるのが、彼女は楽しみだった。先生や会社の役員にしてみれば、彼女にそんな目的があったとはつゆ知らず、責任感の強い勉強熱心な生徒であり、気の利く社員と受け取られた。それで、彼女は顕彰に値する優秀かつ勤勉な人物と評価されてしまった。卒業時には表彰され、会社では給料とは別に重役たちからプレゼントを贈られた。彼女は、当時の雑音混じりのラジオの貧弱な音でも、たとえ何の曲かもわからなくても、音楽に悦びを感じ、そのために、敷居が高い職員室に入ったり、朝早起きして出勤するのが苦にならなかった。おそらく、教師や会社の重役には彼女の自発性と嬉しげに様子は、誤解とはいえ伝わったのだろう。そういう音楽の悦びがなんとなく分かる。

 

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