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2022年9月15日 (木)

蓮實 重彥「ジョン・フォード論」

11112_20220915203901  この人の「監督小津安二郎」は何度も繰り返して読んだ。この本を読んで、作品が見たくなって、作品を見た後で、その本の作品にふれた記述を読み直す、ことを何度も繰り返したことがあった。「監督小津安二郎」の最初の記述、「晩春」の冒頭のシーンで、他の監督には見られない、小津の特徴的なものが見えるという。それは、伝統的な家族の姿とか日本的情緒とかワビサビとかいった、よくいわれるものはすべて否定して、そこに見えるのは、人物の足の裏であるという。そういう、この人の「監督小津安二郎」の姿勢は、この「ジョン・フォード論」でも変わらず、一貫している。「監督小津安二郎」の著述のしかた、作品のストーリーを追いかけて、意味づけるのではなく、各作品のショットを抜き出して、画面が語る、つまり、視覚で見える説話を語ると、語られる特徴が見えてくる。この著作の中で、次々と示される数々のショットの見えるくるものの豊かさ。それをひとつひとつ味わうだけでも快楽。それで、表われてくるジョン・フォードは、
 ハワード・ホークス監督の「リオ・ブラボー」のラスト近くの撃ち合いで、ジョン・ウェインがリッキー・ネルソンが投げたライフルを受け取ると、敵に向かって撃ちまくる(「アンタッチャブル」の階段のシーンでも引用された)。これは、男の友情、連帯の振る舞いの共有を謳いあげるようなポジティブなシーンになっている。ジョン・フォードの「リバティ・バランスを撃った男」でジョン・ウェインは、同じようにウッディ・スロードの投げるライフルを受け取り、ジェームス・スチュアートに隠れるように、ひそかにリバティ・バランスを射殺する。それが、思い続けた女性を喪うことが分かっていてのことで、そこに救いがたい陰惨さがつきまとう。同じジョン・ウェインの仕草が、ジョン・フォードでは禁じられた愛に直面する孤独な人間の悲劇になる。たしかに、ジョン・フォードの長編西部劇映画で、明らかなハッピーエンドと言えるのは「駅馬車」しかない。それも、ちょっとほろ苦い。それは、たしかにそうだと思う。
 また、映画を見たくなってくる。

 

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