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2022年9月 8日 (木)

三木那由他「会話を哲学する─コミニュケーションとマニピュレーション」

11112_20220908203901  著者は、いわゆる分析哲学の人。分析哲学とは論理学や数学の方法論を積極的に哲学に取り込むといったもので、その道具立てや議論の立て方を使ってコミュニケーションを探究している。本書では、とくに会話に焦点をあてて、会話というのは、普通考えられているような単純な営みではなく、そのなかにいくつもの異なる営みが含まれている複合体であるという。著者が批判する会話を単純にものとする考え方が、例えば会話を分析哲学の対象として分析したポール・グライスであり、話し手が何か頭のなかに考えを持っていて、それを言葉にして伝達し、聞き手はその言葉を受け取って、話し手が考えていたことをそり言葉から読み取るという見方で、それをバケツリレーとして著者は批判する。これに対して、著者は会話は、コミュニケーションとマニピュレーションという経験の積み重ねというモデルを提示する。これは、話し手が発言を行い、それによって聞き手との間に共有の約束事が形成されるとき、その発言はコミュニケーションを行っているものとなる。コミュニケーションは、話し手と聞き手のあいだでの約束事に関わる。例えば、発した言葉について話しては責任を持つとか。しかし、話し手は必ずしも発言だけでコミュニケーションだけを行っているわけではない。例えば、あえて白々しい表面的なコミュニケーションを行うことによって、聞き手を怒らせようとしたりする等、さまざまな仕方で聞き手に影響を与えようとする。このように聞き手に影響を及ぼそうとしている時、話し手はマニピュレーションを試みている。コミュニケーションは話し手が行った発言の表の姿であり、それによって話し手が堂々と伝達し、聞き手との間の大っぴらな約束事としているような、主音声的なものだが、話し手はしばしばその裏で、全く別の企てのもとで聞き手にメッセージを届けたり、聞き手の心理や行動を一定の方向に導いたりもする。それがマニュピュレーションで、それは話し手の発言の表の姿だけからは見えてこないで、話し手の心理を深く推察する等したときにはじめて、聞こえてくるような、心の奥底の声のようなもの。
 そこで、著者が示そうとする会話というものの姿は、たくさんものが重なり合う場所のようなものだ。そこには話し手と聞き手の接点がある。両者がコミュニケーションを通じて約束事を形成したら、話し手と聞き手はもはや別々の存在ではなく、私たちというようなひとつになって、その約束事に従った振る舞いをする。その一方で、話し手も聞き手も、それぞれ個人の心理を持っており、それぞれの動機から発言を行う。相手との約束事をきちんと形成したいから、分かっていることでも改めて言わせようとするし、間違っていると分かっている事柄を分かっていないふりをするための共犯関係を築くためにコミュニケーションする。このように会話の背後には、それぞれの人の人生や感情があり、企てがある。そういう会話のあり方のさまざまなケースを小説やマンガの場面から引用し、明らかにする。
 それらは、たいへん興味深い、というより面白い。単純化してしまうと、少しずれてしまうかもしれないが、会話のコミュニケーションとマニピュレーションは、日本人のコミュニケーションの典型的なあり方としてのホンネとタテマエと言い換えることもできるのではないか。そして、著者が批判するバケツリレーの考え方については、それを主張するグライスがアメリカ人であることから、ホンネとタテマエをあまり認めようとしない、欧米的コミュニケーションと、違いを言い換えることもできるのではないかと思う。

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