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2022年10月

2022年10月31日 (月)

梅田孝太「ショーペンハウアー─欲望にまみれた世界を生き抜く」

11112_20221031212201  「ブッテンブロオグ家の人々」で、その商会は3代目当主のトマスの時代に、衰退期に入り、事業が傾いていく。トマスは堅実だけが取り柄のような人で、商会の維持に精魂を傾けても、衰退に歯止めをかけることができなかった。誠実な人ゆえに、努力しても報われない無力感にとらわれたときに、トマスは偶然「意志と表象としての世界」を手にする。哲学など学んだことのなかったトマスは、難しくて内容はよく分からなかったが、何となく惹かれるところがあって、読み進めていくうちに第3章の芸術に関する記述を読んだあたりから、共感して、没入していく。それとともに、家業の傾きに同調するように、トマス自身も体調を崩していく。まるで「意志と表象としての世界」が、トマスとブッテンブロオグ家が徐々に滅んでいくのに同調しているかのように見える。私の「意志と表象としての世界」のイメージは、そういうトーマス・マンの長編小説のロマンチックな没落の話と重なり合う。
 で、実際に「意志と表象としての世界」を読んでみたら、はじめの概説的なところ、こういう理論だよという、いわば一番根幹となる説明のところで、ここは、別の著書を読めという、別の著作の宣伝ばかり、こいつは、商売しか考えてないと、ブツクサ呟きながら読んで、結局よく分からなかった。でも、小説のイメージがあったので、我慢して第3章まで読み進めたら、滅びの美学みたいな内容で、それもありか、と思った。あるいは、この人の著作は文庫本にもなっているが、「幸福について」みたいな人生論のエッセイのようなもので、この人、哲学者なのかなあと思った。ただし、19世紀末、かなり流行ったらしい。
 で、この新書をよんだら、ちゃんとした思想を考えていたのだ、ということはわかった。著者は、人生の勝負からいったん離れて、人生とはそもそも何なのかを客観的に考えることができるような、哲学的な思考空間を頭の中にしつらえることができる、ということにショーペンハウアーを読む意義があるという。ショーペンハウアーは「生の悲惨さ」を見て、それをテーマとして、その根源が「生きようとする意志」にあることを喝破して、意志の否定の境地を目指した。それが人生論へと流れた。「意志と表象としての世界」よりも人生論エッセイの次のようなフレーズが、デカンショ節をうたった旧制高校の教養主義に歓迎されたのだろうと思う。
 “およそ生あるものは、自分自身のために、何よりもまず自分のために独自の生を営み生存する方がよい。─どんな在り方でも、自分自身にとって最優先すべき最も大切なことは、「自分は何者なのか」ということであり、もしも、たいした価値などありはしないというなら、そもそも、たいしたものではないのだろう。”

 

2022年10月28日 (金)

池田純一「〈未来〉のつくり方─シリコンバレーの航海する精神」

11112_20221028220601  イノベーションの聖地であるシリコンバレーや、それを支えるアメリカ社会が、なぜ未来を語り続けるのか、を切り口にした、いうならばアメリカ論。彼らが考える未来とは、自ずからやって来るものではなく、自分たちで築くものだという。アメリカはヨーロッパのように長い歴史を背景とした社会経済や文化の基盤の上に立ったものではなく、新大陸という荒野を移民として移り住んだ人々が開拓してつくってきた社会で、そこにはDIYや独立独歩の精神が強い。ヨーロッパのような過去の蓄積の上に未来が開けるというより、ゼロから自分で未来を開拓するということが経験から身体化している。また、様々な国からの移民によってつくられたので、多様なルーツを持つ民族文化が共存し、文化的に多元的な社会であり、多様なものを許容する社会となった。そこでは、求心的というより分散的、独立独歩の個人を許容する、具体的には、個人的な未来をつくることが尊重され、それが社会の未来として許容される。例えば、町や集落は、荒野に、ここに町を作ろうと人々が集まって作られたものが多い。社会、そして、国もその延長で、ヨーロッパのように、古くから町がある、というのではない。
 とはいっても、アメリカの開拓はヨーロッパ古代の開拓のような原始的な技術でではなく、産業革命の時期に開拓が行われたので最先端のテクノロジーを使ったものだった。その経験は、テクノロジー全般に好意的な心性が形成された。それは、通常の「科学→技術」のルートではなく「技術→科学」というルートがアメリカでは目立つ。まずは取り組んでみて、できてしまってからその後に、なぜできたのかを考える。やりながら考えるというルート。ここでは経験が優先される。そこには実験精神、試行精神が根付くこととなった。言い換えると「実践→技術→理論」というルート。それが、個人で実験できる範囲を広げるパーソナル・テクノロジー、それはシリコンバレーの個人のガレージ・ラボにつながり、その例としてムーアの法則。
 ムーアの法則とは、コンピュータの演算能力は18ヶ月で2倍になるというもの。それは、10年で100倍、20年で1万倍になるということ。この法則によって情報技術は指数関数的な成長が約束された。その見通しがさらなる投資を呼び込み、イノベーションのサイクルを生みだした。とはいえ、これは法則と言えるのか。これを言ったムーアは、たまたま最初の18ヶ月でそうなったから言ってみたようなものだったらしい。それを、続く人々が、この法則を崩さないような開発を続けたからで、法則というより、技術者の研究の行動を律する目標、もっというと呪縛(強迫観念)となり、実現させてしまった。その結果、未来は計測可能な予定となり、それゆえ、皆で共有できる機会や可能性となった。そけは、昨日述べた、アメリカがもともと持っていた実験精神、試行精神、言い換えると「実践→技術→理論」を現代の情報産業で具体的に実現させたのだった。
 ムーアの法則から派生したのがテクニウムという概念。人類が扱ってきたテクノジーという現象の総体、即ち文明、それ自体が自発的に人間に働きかけ、個々のテクノジーを発展させたというもの。つまり、テクノロジーは自律的に進化する。これにより、ムーアの法則は法則となる。つり、テクノロジーが自律的に進化するとすれば、ムーアの法則はテクノロジーの呼びかけに応じて人間が応えた結果ということになる。例えば、ムーアの法則に従って、単体のCPUの演算能力が累乗的に増大し、それらが相互に接続されることで、ネットワーク上の個々のコンピュータの演算能力が増加していく。こうして、ムーアの法則は真理として扱われるようになり、実際に現実の世界を変容させ、結果として真理であることを再認させる。それは、シリコンバレーの住人たちには神話となり、人々の行動に影響を与えていった。
一方、法則となると、それに沿うように未来を拓くことは、法則に従って進む、地図とコンパスで迷わず正しいルートを見つけていく航海術が有効となる。それは、シリコンバレーの事業への投資や事業推進は、賭けというより合理的な計画達成に近いものとなる。それは、開発だけでなく投資や事業を招きやすくなる。
 IT関連のイノベーションや、グーグル、フェイスブックやアマゾンといった企業活動などを事例としながらアメリカの知られざる側面を解き明かそうとする一冊になっている。

 

2022年10月24日 (月)

猪木正道「軍国日本の興亡─日清戦争から日中戦争へ」

11112_20221024213501  明治中期の日清戦争の頃から太平洋戦争の開戦の頃まで、日本の近代化と軍国主義化の歴史を概観する。著者の視点の面白いところは、ここで概観している軍国主義は、著者のいう戦後の空想的平和主義と裏表の関係にあるというところ。両者は、考え方が独善的で、国際的視野を欠いて一国主義的であることなどまるで双生児のようによく似ているという。一方、戦前の軍国主義が軍事的価値、軍事力そして軍人を過大評価するものであったのに対する反動が、戦後の平和主義で軍事的価値を過小評価して非軍事化を進めた。どちらも、バランスを欠いた偏りであるとして、現代(この著作の執筆は1995年)の、この偏りを認識するためには、この鏡面といえる戦前の軍国主義を見ていくのが有益であるという。著者の立場は、保守的な自由主義者というところだと思うが、こういう視点はありだと思う。実際のところ、日本の近代思想史の特徴的な現象としてある「転向」というのは、そういう視点からは納得できると思う。例えば、戦前の共産党幹部の佐野学や鍋山貞親といった人々が転向すると国家主義者になってしまったのは、いわば右翼と左翼が裏表の関係にあり共通のものの表われ方が対照的であることの現われだという。
 また、軍国主義化の概観としても、現在からみれば、情報の古さを感じるところがあるが、要領よくまとまっていて、偏りは目立たないので、通史として読み易いと思う。

 

2022年10月20日 (木)

成田正人「なぜこれまでからこれからがわかるのか─デイヴィッド・ヒュームと哲学する」

11112_20221020205101  哲学入門という著作に何度騙されたことだろう。入門などといって、甘く見ていて、あとで手痛いしっぺ返しに遭う。却って入門の方が難しかったり、はじめから原典に挑んだ方がよかったりする。この著作も、最初は、丁寧で、かみくだいた叙述で、ゆったりのんびりと読み進めることができる。しかし、読み進めていくうちに、著者の方でも熱が入ってくるのが議論の展開でもわかるのだが、議論の密度が濃くなり、展開のスピードが上がってくる。しまいには、とんでもないところに連れていかれてしまう予感がひしひしと伝わってくる。しかし、読んでいる側としては、最初のゆったりペースに慣れてしまって、だんだん追いつくのが厳しくなって、私の場合は、途中で、おいてきぼりをくらってしまった感じだ。後半はついていけなくなった。しばらく間をおいて、もう一度、挑戦するのだ。ついていったところで、素晴らしい風景が広がっている予感がするのだ。
 われわれは、毎日、太陽が東から昇って西に沈むのを見ている。今日もそうだった。その経験からすれば、太陽は明日も東から昇り西に沈むと思うだろう。しかし、それは本当にそうなのか。もちろん、そう信じるのは間違いではない。しかし、だからといって常に太陽は東から昇って西に沈むという一般性のある法則を論理的に正当に導くことができるか。これは帰納ということの問題でもあるのだが、個別的な事実から普遍的な一般法則を導くことはできるのか。今日、太陽が東から昇って西に沈んだとしても、明日は100%太陽が東から昇って西に沈むということを論理的に正当に論証できるのか。論理的には確立の問題ということになろう。しかし、事実の経験として、われわれは明日も太陽が東から昇り西に沈むことは確実であって、それを疑うなんてバカバカしい。それは、たんに疑うということを知らない無知ということなどではなく、常識ということだ。では、その帰納ということは、いったいどういう仕組みなのか。これって、人が経験することで向き合う事実ということがどういうものか、ということ。ここで思ったのが、明日というか前に向いて投げかけるという言い方で人が向き合うのを表現した20世紀前半のドイツの哲学者に通じるのではないかと、ちょっと思ったりした。著者は論理的に証明するのではなくて、懐疑を方法的に用いるとか、ちょっと、どうすればいいの?ということをやろうとしているが、感じとしては分かる。それが、読んでいて形になって入ってこないのだ。これは、私の読みが届かないのだろうが、その届かないところが、今度読もうとする時の楽しみとして期待が残る。

 

2022年10月12日 (水)

乗代雄介「本物の読書家」

11112_20221012220101  主人公の「私」は、大叔父を高萩駅最寄りの老人施設に送り届けることを叔母に頼まれる。親類の中でも浮いた存在の大叔父は、若い頃に川端康成から手紙を貰ったらしいと噂されている。3万円の手当により、引き受けた「私」は、大叔父とともに常磐線の電車に乗る。一方で、「私」は、この道行で開陳されるかも、と私の期待も膨らむ。そこへ関西弁の男が隣り合わせる。男の、小説や作家への知識が半端でない事が分かるに連れ、大叔父の秘密は徐々に明かされる。、大叔父が、川端康成の晩年の名作「片腕」の代作者だったことが明らかになる。関西弁の男の饒舌に引っ掻き回されるようにして、口の重い大叔父が秘密を語りまでの経緯はミステリー的な楽しみがある。その、折々にフローベルやフォークナー、太宰や川端、夏目に二葉亭、サリンジャーなどの作品や言動が挿話され、それらは言葉を書くという行為とは何かということについてで、そこに現れ出るのは“事実は小説より奇なり”ということ。そして、物語は“事実は小説より奇”な土壇場を迎える。「本物の読者」という小説の題名と、入れ子構造のような構成など、作者は、意欲的に、いろいろと考えた小説を書こうとしていて、自己回帰的なパズルを読み解くような楽しさがあると思う。
 ただ、そういった意欲は分かるのだけれど、それでおわってしまって、それで・・・、というプラス・アルファが欲しいと思ってしまった。というのも、物語のクライマックスは大叔父の秘密が明らかになったところではなく、最後に結論のように「私」がテーマを語るところ。その語られるのは、それまでの物語があって、はじめて語られるというふくらみのあるというより、最初から、これを語ればいい、というようなもので、その前の物語は必要だったのか、とこの語りを読んでいて思ったりしてしまう。「ピンチランナー調書」や「万延元年のフットボール」のころの大江健三郎のコナレていないファンタジーのぎこちなさを想わせる、といったら誉め過ぎかな・・・

 

2022年10月 7日 (金)

細谷雄一編「世界史としての『大東亜戦争』」

11113_20221007230201  1945年に日本が敗戦した戦争について、第2次世界大戦の一部ではあるが、日本の側からは、真珠湾攻撃に始まる日米戦争、主に東南アジアを戦場にした日英戦争、1937年に始まる日中戦争、そして1945年に始まる日ソ戦争という4つの戦争の複合戦争であるとしている。このような複合的な性質をもつ戦争であるということは国際戦争であったということにある。このような戦争を日本史や日米関係史に限定して捉える従来の見方から解放して幅広い国際史として見ようという試み。執筆者は国際政治や国際関係史の専門家たち。
 そこで見えてくるのは、日本が戦争を行ったのは、軍部や右翼がリードして周囲を侵略した挙句太平洋に戦線を拡大したとか、あるいは英米列強による経済的包囲からの自衛のためにやむを得なかった、というような従来の見方とは異なった姿が見えてくる。それは欧米の国家が植民地を含めて版図をひろげ帝国となり、それぞれがプレイヤーとなって、駆け引きを繰り返すなかで、日本はしだいにおくれを取って、不利な状況で、それがゆえもあるが拙い選択(この拙い選択をしたのは「失敗の本質」で分析された体質的な要因もあるたろう)をし、それがまた不利に状況を招いてしまうというスパイラルに陥ってしまったという構図だ。例えば、日本のアメリカについて、黒船来航の頃のヨーロッパと比べると後進国で植民地侵略をしない国と認識をしていたが、アメリカは第1次世界大戦を境に大国となり覇権を握って帝国主義に変質していたことに気づかなかった。それが仏印進駐をしてしまうような楽天的な態度を招いてしまう。一方、そういう認識をしている日本を見ていたアメリカは日本を過小評価し、ハル・ノートのような理不尽な要求をしても日本はアメリカに戦争を仕掛けることはできないと見下すことになった。そのようなボタンのかけ違いが、いくつも重なっていった。
 それは、80年前の日本だけでなく、現在の隣りの大国も同じように見えてくる。

 

2022年10月 5日 (水)

ユヴァリ・ノア・ハラリ「ホモ・デウス─テクノロジーとサピエンスの未来」

11112_20221005220601  古代から、エジプトでも中東でも中国でも、人類が取り組むべき大きな障害が飢饉・疫病・戦争であった。歴史的にも、地理的にも、これらの生涯は膨大な数の人々を犠牲にし、それでも人間の手に負えるものではなく、せいぜいが神に祈るくらいのことしかできなかった。しかし、現代のテクノロジーの飛躍的な発展などにより、これらは人類にとって対処可能となった。つまり、この障害は人類にとって克服できるものとなった。そこで、人類の姿勢が障害というマイナスを克服するということから、プラスを加算するというポジティブな方向に転換した。例えば、医学は病気という障害に対抗するということから、病気にならない健康な身体をつくるということになってきた。著者は、さらに、その先に「不死」ということを目指すという方向を提示する。あるいは、飢饉・疫病・戦争という大きな不幸に対策することから、ポジティブに幸福を追求、さらに幸福を拡大する、あるいは作りだすことに転換する。「不死」とか「幸福の創出」というのは、人の領域ではなく「神」の領域に足を踏みいれることであり、それが書名の『ホモ(人)・デウス(神)』ということになるのだろう。
 飢饉・疫病・戦争への人類の取り組みには、歴史的に農業の導入、社会の成立、民主制や資本主義経済といった変革があった。それにつれて人のあり方は、共同体の群生によるアニミズムから、社会や国家での生活によって宗教に。この時点で、人は価値や意思を持っていなかった。これらは神が人に示してくれるものだった。その後、近代化により個人が自立する。それは価値や意思を個人が自分で考えるものとなった。それが主体であり、その成果が自由であり、社会では民主制や自由な経済であり、自然科学の飛躍的発展であった。
 では、この後、著者が提示するような「ホモ・デウス」に人類が変革していくと、人のあり方は主体的な個人からアルゴリズムという効率的で合理的な行動するものに変化していく。著者は、こういうことの根拠として、例えば人についての生物学的な捉え方を示す。例えば、人の感情とか意思というのは脳の神経細胞の反応で説明できる。それは、高性能のコンピュータに擬えることのできるもので、コンピュータを動かす仕組みがアルゴリズムということになる。それは、私からは、人間がコンピュータという機械になるということに見えてくる。たしかに、ユダヤ・キリスト教の神は、存在そのものとでもいった抽象的な存在で、感情とか意思といった人間的な要素はない。たしかに、神になるというのは人間性を失うということなのか、と思う。
 この著作は、そういう議論の骨子を追いかけることより、著述のなかで、著者が論述の証拠集めのように提示された様々なエピソードを薀蓄ネタとして、でてくるたびに「へぇー」と声を洩らすところにあると思う。

 

2022年10月 2日 (日)

Led Zeppelin「Ⅱ」

11113_20221002213801  なかなか気がつかないかもしれないが、微かに入っているロバート・プラントの乾いた笑から始まるのが象徴的。ジミー・ペイジのギターのコード・リフから名曲「胸いっぱいの愛を」に入っていく。メロディックなフレーズではなくリズミックなリフの反復に、ベース、ドラムスと楽器が重なって、塊になったところに、ロバート・プラントのボーカルのハイ・トーンで金属的なボーカルが高いところから降ってくるように入ってくる。これを大音量にしてヘッドフォンで聴くと、ロバート・プラントの声が脳の中の上下左右を縦横無尽に走り回るようなのだ。そこでは、歌詞の内容等は別に措いて、まるで“すべてが欲しい”“すべてを奪い取ってやる”というように、欲望を全肯定するように叫びはなっているかのようなのだ。まさに、この曲、この演奏が、すべての欲望を肯定するように煽っているように聞こえる。ある意味、この2枚目のアルバムで、すでに頂点に達してしまったと思えるのだ。
 リフの反復がリズムを形成し、それがノリを生んでいく、この曲ではノリがハードな勢いを生んだ。それをスタイル(様式)として表面的に継承したのがハード・ロック=ヘビーメタルのルーツの一つになったと思う。ツェッペリン自身は、その様式化に陥るのを避けるためか、この同じようなスタイルのノリノリの曲に対しては、必ず曲の中でフェイクを入れたり、ノリを複合的にしたりして禁欲的な姿勢を崩さなかった。その後のバンドの挑戦は、迷走に見えるところもある。
 ただし、アルバムを通して聴くと、この時点においても、レッド・ツェッペリンというバンドは必ずしもハード・ロックのバンドと決めつけることは早計だ。「レイン・ソング」は有名な「天国への階段」の先駆けともいえるドラマチックなバラードだし、「リビング・ラビング・メイド」は軽快なビート・ポップで、多様な音楽の方向性を持ち合わせていたのが分かる。そこには、ハードロックバンドではないツェッペリンの可能性も、ここではあったので、このアルバムがこれほど売れなければ、バンドの方向性は違ったものになったかもしれないと想像することもあるのだ。

 

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