乗代雄介「本物の読書家」
主人公の「私」は、大叔父を高萩駅最寄りの老人施設に送り届けることを叔母に頼まれる。親類の中でも浮いた存在の大叔父は、若い頃に川端康成から手紙を貰ったらしいと噂されている。3万円の手当により、引き受けた「私」は、大叔父とともに常磐線の電車に乗る。一方で、「私」は、この道行で開陳されるかも、と私の期待も膨らむ。そこへ関西弁の男が隣り合わせる。男の、小説や作家への知識が半端でない事が分かるに連れ、大叔父の秘密は徐々に明かされる。、大叔父が、川端康成の晩年の名作「片腕」の代作者だったことが明らかになる。関西弁の男の饒舌に引っ掻き回されるようにして、口の重い大叔父が秘密を語りまでの経緯はミステリー的な楽しみがある。その、折々にフローベルやフォークナー、太宰や川端、夏目に二葉亭、サリンジャーなどの作品や言動が挿話され、それらは言葉を書くという行為とは何かということについてで、そこに現れ出るのは“事実は小説より奇なり”ということ。そして、物語は“事実は小説より奇”な土壇場を迎える。「本物の読者」という小説の題名と、入れ子構造のような構成など、作者は、意欲的に、いろいろと考えた小説を書こうとしていて、自己回帰的なパズルを読み解くような楽しさがあると思う。
ただ、そういった意欲は分かるのだけれど、それでおわってしまって、それで・・・、というプラス・アルファが欲しいと思ってしまった。というのも、物語のクライマックスは大叔父の秘密が明らかになったところではなく、最後に結論のように「私」がテーマを語るところ。その語られるのは、それまでの物語があって、はじめて語られるというふくらみのあるというより、最初から、これを語ればいい、というようなもので、その前の物語は必要だったのか、とこの語りを読んでいて思ったりしてしまう。「ピンチランナー調書」や「万延元年のフットボール」のころの大江健三郎のコナレていないファンタジーのぎこちなさを想わせる、といったら誉め過ぎかな・・・
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