ユヴァリ・ノア・ハラリ「ホモ・デウス─テクノロジーとサピエンスの未来」
古代から、エジプトでも中東でも中国でも、人類が取り組むべき大きな障害が飢饉・疫病・戦争であった。歴史的にも、地理的にも、これらの生涯は膨大な数の人々を犠牲にし、それでも人間の手に負えるものではなく、せいぜいが神に祈るくらいのことしかできなかった。しかし、現代のテクノロジーの飛躍的な発展などにより、これらは人類にとって対処可能となった。つまり、この障害は人類にとって克服できるものとなった。そこで、人類の姿勢が障害というマイナスを克服するということから、プラスを加算するというポジティブな方向に転換した。例えば、医学は病気という障害に対抗するということから、病気にならない健康な身体をつくるということになってきた。著者は、さらに、その先に「不死」ということを目指すという方向を提示する。あるいは、飢饉・疫病・戦争という大きな不幸に対策することから、ポジティブに幸福を追求、さらに幸福を拡大する、あるいは作りだすことに転換する。「不死」とか「幸福の創出」というのは、人の領域ではなく「神」の領域に足を踏みいれることであり、それが書名の『ホモ(人)・デウス(神)』ということになるのだろう。
飢饉・疫病・戦争への人類の取り組みには、歴史的に農業の導入、社会の成立、民主制や資本主義経済といった変革があった。それにつれて人のあり方は、共同体の群生によるアニミズムから、社会や国家での生活によって宗教に。この時点で、人は価値や意思を持っていなかった。これらは神が人に示してくれるものだった。その後、近代化により個人が自立する。それは価値や意思を個人が自分で考えるものとなった。それが主体であり、その成果が自由であり、社会では民主制や自由な経済であり、自然科学の飛躍的発展であった。
では、この後、著者が提示するような「ホモ・デウス」に人類が変革していくと、人のあり方は主体的な個人からアルゴリズムという効率的で合理的な行動するものに変化していく。著者は、こういうことの根拠として、例えば人についての生物学的な捉え方を示す。例えば、人の感情とか意思というのは脳の神経細胞の反応で説明できる。それは、高性能のコンピュータに擬えることのできるもので、コンピュータを動かす仕組みがアルゴリズムということになる。それは、私からは、人間がコンピュータという機械になるということに見えてくる。たしかに、ユダヤ・キリスト教の神は、存在そのものとでもいった抽象的な存在で、感情とか意思といった人間的な要素はない。たしかに、神になるというのは人間性を失うということなのか、と思う。
この著作は、そういう議論の骨子を追いかけることより、著述のなかで、著者が論述の証拠集めのように提示された様々なエピソードを薀蓄ネタとして、でてくるたびに「へぇー」と声を洩らすところにあると思う。
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