梅田孝太「ショーペンハウアー─欲望にまみれた世界を生き抜く」
「ブッテンブロオグ家の人々」で、その商会は3代目当主のトマスの時代に、衰退期に入り、事業が傾いていく。トマスは堅実だけが取り柄のような人で、商会の維持に精魂を傾けても、衰退に歯止めをかけることができなかった。誠実な人ゆえに、努力しても報われない無力感にとらわれたときに、トマスは偶然「意志と表象としての世界」を手にする。哲学など学んだことのなかったトマスは、難しくて内容はよく分からなかったが、何となく惹かれるところがあって、読み進めていくうちに第3章の芸術に関する記述を読んだあたりから、共感して、没入していく。それとともに、家業の傾きに同調するように、トマス自身も体調を崩していく。まるで「意志と表象としての世界」が、トマスとブッテンブロオグ家が徐々に滅んでいくのに同調しているかのように見える。私の「意志と表象としての世界」のイメージは、そういうトーマス・マンの長編小説のロマンチックな没落の話と重なり合う。
で、実際に「意志と表象としての世界」を読んでみたら、はじめの概説的なところ、こういう理論だよという、いわば一番根幹となる説明のところで、ここは、別の著書を読めという、別の著作の宣伝ばかり、こいつは、商売しか考えてないと、ブツクサ呟きながら読んで、結局よく分からなかった。でも、小説のイメージがあったので、我慢して第3章まで読み進めたら、滅びの美学みたいな内容で、それもありか、と思った。あるいは、この人の著作は文庫本にもなっているが、「幸福について」みたいな人生論のエッセイのようなもので、この人、哲学者なのかなあと思った。ただし、19世紀末、かなり流行ったらしい。
で、この新書をよんだら、ちゃんとした思想を考えていたのだ、ということはわかった。著者は、人生の勝負からいったん離れて、人生とはそもそも何なのかを客観的に考えることができるような、哲学的な思考空間を頭の中にしつらえることができる、ということにショーペンハウアーを読む意義があるという。ショーペンハウアーは「生の悲惨さ」を見て、それをテーマとして、その根源が「生きようとする意志」にあることを喝破して、意志の否定の境地を目指した。それが人生論へと流れた。「意志と表象としての世界」よりも人生論エッセイの次のようなフレーズが、デカンショ節をうたった旧制高校の教養主義に歓迎されたのだろうと思う。
“およそ生あるものは、自分自身のために、何よりもまず自分のために独自の生を営み生存する方がよい。─どんな在り方でも、自分自身にとって最優先すべき最も大切なことは、「自分は何者なのか」ということであり、もしも、たいした価値などありはしないというなら、そもそも、たいしたものではないのだろう。”
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