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2022年11月

2022年11月28日 (月)

小田中直樹「歴史学のトリセツ─歴史の見方が変わるとき」

11112_20221128212201  高校や中学の教科としての歴史は、暗記科目と見なされていて、面白くないという評価が一般的。実際の歴史の教科書の文章を引用していて、「面白くない」という感想を明らかにする。しかし、この面白くない教科書の文章の執筆者は、面白くないという感想を明らかにした、この本の著者自身なのだが、この導入は自虐が入っているわけではないのだが、何とも言えないところがある。それはまた、そうなってしまうのは避けられないところが、歴史学という学問にはある、ということで本題に入ってゆく。「歴史って面白い?」という著者の問いかけが、この著作の基本的な問いなって、それを三度にわたって「うーむ、ちょっと・・・」と受けるのが、この著作の基本構造となっている。
 では、「うーむ、ちょっと・・・」と受けざるを得ない、歴史学が面白くない理由はなにかというと、歴史学を科学として位置づけた近代の実証主義的な歴史学が端緒となっているという。歴史の専門家である歴史学者が専門的(科学的)なメソッドで発見し、その人々のなかで論証された歴史的事実を、知識が欠如した非専門家(生徒、学生、教師)に対して、専門家(歴史学者)が知識を与えるという構造がつくられてしまったという。生徒・学生からすれば、「正しい」とされる知識を一方的に教えられることになるので、「歴史は面白くない」となってしまうという。
そして、現代の歴史学は、この実証主義的な歴史学を克服しようとして、様々な試みがなされてきたという、歴史学という学問の苦闘の歴史を紹介する。その流れのなかに、アナール学派やグローバル・ヒストリー、ポスト・コロニアル、オーラル・ヒストリー、オルタネイティブなどが位置づけられていくのは、個別バラバラに、それぞれの著作に触れてきた私には、整理ができたという点で、とてもありがたかった。
 しかし、歴史が面白いという、とはどういうことなのかは、人によって様々で、著者は、人々の営みが見えてくるとか、現代のわれわれだって歴史に参加しているのだから、それが見えてくるとか、そういうことを言いたいようなのだが、それも、one of themではないかと思う。私などは、好奇心を満たされるだけでも、歴史は面白いと思う。今まで知らなかったこと、それが些細なことであっても、それを知ることによって、新たな世界が目の前に開かれることがある。それも歴史の面白さで、べつに教科書からでも、それは得ることができると思う。

 

2022年11月25日 (金)

御子柴善之「カント哲学の核心─『プロレゴーメナ』から読み解く」

11112_20221125205101  著者は高校時代にカントの著作に触れて、それを読みこなすために大学の哲学科に入り、カントをずっと勉強し続けたという人。指導教授から、最初に薦められたのが『プロレゴーメナ』だったいう。その『プロレゴーメナ』は、もともとカントが主著『純粋理性批判』の問いを誤解されないように、その構造を地図のように提示することで、分かりやすく趣旨を伝えようと執筆されたものだという。しかし、実際に読んでみると、現代の日本人にとって、けっして分かりやすいとは言えない。そこで、著者は『プロレゴーメナ』を、各章のポイントとなるような文章をピックアップして、それに詳細な注釈を加えながら、読み進めるように導く。まるで、ゼミナールの文献購読で行われていることを本の形にしたようなもの。それで、カントの『純粋理性批判』ひいては、カントの主要な主張を理解してもらおうというもの。私は、『純粋理性批判』を読もうとして、何度も挫折した人間だが、たしかに難解だとは思う。が、それ以上に、カントの著作を読むというのは、根気、というより忍耐力を要求されるところがあって、私には、その根気がないことを、読むたびに思い知らされる。『純粋理性批判』などは、とくにその傾向が強くて、それは、地道な論証を土台から釘一本に至るまでコツコツと隙なく築き上げていって壮大な建築が出来上がるといったものを、土台から釘の一本一本を注意深く追いかけて、不注意から見のがすと道に迷ってしまうのだ。私は、いつも、途中で道に迷い、そして降参した。そういう私にとっては、この本は、道標を示してくれた地図のようなものだった。ただしこの本の道標を示した地図といえども、根気は必要だし、迷ってしまうおそれが無くなったわけではない。半分ぐらいまでは、分かりやすいとスムーズに読んでいける、その調子でと調子に乗って進んでいくと、後半は「あっ、これってなんだったけっ?」といちいち復習するように前に戻ってとなって、体力を要することこのうえない。丁寧に咀嚼しながら、時にはメモをとるなどして読んでいかないと、そうなる。
 そういう意味では、とてもありがたい本。ただし、『プロレゴーメナ』の序文で、『プロレゴーメナ』という著作は、単に先人の哲学説を学ぶだけの人を対象にしていないと宣言している。その趣旨に沿うならば、この著作を読んでカントの言っていることが分かった、というのにとどまることは、カントは必ずしも求めていない(とはいっても、その分かるということ自体が、できることではないのだが)。そこに、もどかしさが残る。とはいっても、そういう、もどかしさを生じさせることが、実は、この著作の意図するところなのかもしれない。

 

2022年11月17日 (木)

阿比留久美「孤独と居場所の社会学─なんでもない“わたし”で生きるには」

11112_20221117202501  居場所という言葉は「居るところ」というような意味だったのが、昨今では「ありのままの自分でいられる場所」とか「ほっとできる場所」といった意味合いで、往々にして「居場所がない」という言われ方をして、生きづらさや孤独の表現として定着してきた。このような意味合いでは居場所という言葉は社会で生きる実存に重なるものとなっている。それは新自由主義社会において、個人の自由がより保障されるが、その一方で、他人や社会との協力関係が希薄になり孤立したなかでその生き方の責任を一身で引き受けなければならず、自由でありながら孤独で、不安が大きくなるという背景がある。例えば、サラリーマン化がすすみ、職住分離や人口移動の結果、地域社会が希薄化し、家庭と会社で1日の大部分を過ごすようになり、社会的なつながりがなくなり、社会関係資本が減少した。そこで、家庭や会社での絆が強まったわけでもなく、逆に、拘束力が強まった。例えば、会社から外れて生きていくことができなくなるというように会社に依存するようになる。そこで、人は、その依存を維持するためにエネルギーを使い、他の関係を開拓したり・つくる余裕がなくなっていく。結果として、ほっとするような居場所ではなくなっていく。
 他方、そういう場所で人々は、自分で自分の価値を表わすことを迫られる。人からみたときの自分の印象を操作することをアイデンティティ管理といい、アイデンティティ管理は社会の中の自分の居場所を維持するためにおこなわれる。具体的には、職場、学校、家族、趣味のサークル、SNSなど多様なコミュニティに属し、コミュニティごとに自分自身の使い分けをしている。その場その場でどういう自分を表出していくかを計算して、アイデンティティを示していく作業を強いられている。そこでは、自分がどのような存在なのか、しかもそれはただ単にどういう性質の人間なのかを明らかにしていくだけではなくて、「どういう意味のある存在なのか」「どういう能力のある存在なのか」を他者に対してアピールしていくことを求められる。例えばSNSにおいて、人は「自己モニタリングをして自分の行為・言動が相手にどのように思われるか印象操作」をしているーそうやって相手にどのような人間だと思われるかを想定して行為していくことによって、わたしたちは自分の輪郭をなぞり、確かめている。このようなSNSでの自己表現は、他者との比較の中で自分を確認していく能力主義の感覚とアイデンティティのありようを示している。それは、ある意味とても「しんどい」ことだが、私たちは、なかなかそのゲームから降りることができない。SNSだけでなく、実生活においても、就活、婚活、妊活、終活……といったように、現代人はその一生を「〇活」という「人がもつことが望ましいとされる属性を獲得していくための未完のプロジェクト」に費やすことに汲々となっている。あらゆる段階で「〇活」を強いられ、過剰競争に陥っている。それは、「評価されてはじめて価値が分かる」≒価値は自分の外部にある、となっているからだ。例えば、誰か人を紹介する時、まずは「〇〇社の社長さんだよ」といったように、どんな経歴を持っている(have)かで人を紹介しがちだ。しかし、「この人は〇〇な人なんだよ」という「be」に基づいた紹介はおまけのような位置づけになりがち。現代社会では「何かができること(能力を持っていること)」「何かを持っていること」(have)によって自分の存在証明をしなければならないという強迫的な圧を、つねに受けている。「ありのままに生きる」ことすら「能力」としてカウントされるのである。
 このようなストーリーは分かりやすく、そして面白い。
 しかし、後半、それではどうするかの記述に入った途端、状況を耐えるだけでなく、声をあげましょう。その一歩を踏みだしましょうといった。個人の心構えの話になって肩透かしにあう。その実践だったら前半の分析は、あってもなくてもよしいのでは。少なくても、前半の分析を土台に、その認識の上で何をするか、その実践の経験が、前半の分析にフィードバックされて、議論が深まるとか、新たな問題が現われるといった進展はない。そのため、全部を読み通してみると、印象の興味も薄くなってしまった。

 

2022年11月13日 (日)

立川武蔵「空の思想史─原始仏教から日本近代へ」

11112_20221113181301  再読。7年ほど前に読んだ時は、あまり分からなかった。今回は、3分の1くらいまでは読めたのではないかと思う。
 「空」という言葉を単独で取り上げると、現代では難解な概念と捉えられてしまう。しかし、もともと仏教はバラモンの教えを否定するものとして出現した。神は世界であり、しかも宇宙の根本原理はブラフマンと個々の人間のアートマンは本来同一のものであるとい絶対的な神の存在を認めるのがバラモンの教え(ウパニシャド)を釈迦は否定した。その否定が空と表現された。初期の仏教の実践は悟りを目指す修業ということになるが、具体的には煩悩といった修業には余計なものを捨てる、つまり否定することの実践となる。言い換えれば、俗世界の穢れから脱して聖なるものに移る。この俗の否定、つまり空だ。しかし、それだけで終わらない。修業は聖なるとこに行き着いて生まれかわった修行者は俗に戻る。それが仏教の特徴的なところで、否定を続けるだけなら虚無思想と変わらないことになる。たしかに、悟りを開いた釈迦は、必ずしも煩悩を批判はするが否定していない。俗→聖→俗、あるいは否定の行き着く先が肯定ということを言葉で矛盾なく説明しようとした思想的営為が「空」を難解な思想にしていった。と見えた。
 仏教は中国に伝わると、「空」に道教の「無」が流れ込む。無とはさまざまなものが現われてくる根本であり、そこではそれぞれの形や働きは見られない。いわば存在とでも言える。しかし、そうなると絶対的なものを認めることになってしまう。そこで、難解なものが、さらに捻くれて、さらに難しくなった。
 ただ、その空のもともとの始めのところに戻るように今を考えると、人が自分たちの生活のより一層の快適さや便利さを求めて、無制限に自分たちの力を尽くすことに疑問を投げかけるものである、言えるのではないか。

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