御子柴善之「カント哲学の核心─『プロレゴーメナ』から読み解く」
著者は高校時代にカントの著作に触れて、それを読みこなすために大学の哲学科に入り、カントをずっと勉強し続けたという人。指導教授から、最初に薦められたのが『プロレゴーメナ』だったいう。その『プロレゴーメナ』は、もともとカントが主著『純粋理性批判』の問いを誤解されないように、その構造を地図のように提示することで、分かりやすく趣旨を伝えようと執筆されたものだという。しかし、実際に読んでみると、現代の日本人にとって、けっして分かりやすいとは言えない。そこで、著者は『プロレゴーメナ』を、各章のポイントとなるような文章をピックアップして、それに詳細な注釈を加えながら、読み進めるように導く。まるで、ゼミナールの文献購読で行われていることを本の形にしたようなもの。それで、カントの『純粋理性批判』ひいては、カントの主要な主張を理解してもらおうというもの。私は、『純粋理性批判』を読もうとして、何度も挫折した人間だが、たしかに難解だとは思う。が、それ以上に、カントの著作を読むというのは、根気、というより忍耐力を要求されるところがあって、私には、その根気がないことを、読むたびに思い知らされる。『純粋理性批判』などは、とくにその傾向が強くて、それは、地道な論証を土台から釘一本に至るまでコツコツと隙なく築き上げていって壮大な建築が出来上がるといったものを、土台から釘の一本一本を注意深く追いかけて、不注意から見のがすと道に迷ってしまうのだ。私は、いつも、途中で道に迷い、そして降参した。そういう私にとっては、この本は、道標を示してくれた地図のようなものだった。ただしこの本の道標を示した地図といえども、根気は必要だし、迷ってしまうおそれが無くなったわけではない。半分ぐらいまでは、分かりやすいとスムーズに読んでいける、その調子でと調子に乗って進んでいくと、後半は「あっ、これってなんだったけっ?」といちいち復習するように前に戻ってとなって、体力を要することこのうえない。丁寧に咀嚼しながら、時にはメモをとるなどして読んでいかないと、そうなる。
そういう意味では、とてもありがたい本。ただし、『プロレゴーメナ』の序文で、『プロレゴーメナ』という著作は、単に先人の哲学説を学ぶだけの人を対象にしていないと宣言している。その趣旨に沿うならば、この著作を読んでカントの言っていることが分かった、というのにとどまることは、カントは必ずしも求めていない(とはいっても、その分かるということ自体が、できることではないのだが)。そこに、もどかしさが残る。とはいっても、そういう、もどかしさを生じさせることが、実は、この著作の意図するところなのかもしれない。
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