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2022年11月17日 (木)

阿比留久美「孤独と居場所の社会学─なんでもない“わたし”で生きるには」

11112_20221117202501  居場所という言葉は「居るところ」というような意味だったのが、昨今では「ありのままの自分でいられる場所」とか「ほっとできる場所」といった意味合いで、往々にして「居場所がない」という言われ方をして、生きづらさや孤独の表現として定着してきた。このような意味合いでは居場所という言葉は社会で生きる実存に重なるものとなっている。それは新自由主義社会において、個人の自由がより保障されるが、その一方で、他人や社会との協力関係が希薄になり孤立したなかでその生き方の責任を一身で引き受けなければならず、自由でありながら孤独で、不安が大きくなるという背景がある。例えば、サラリーマン化がすすみ、職住分離や人口移動の結果、地域社会が希薄化し、家庭と会社で1日の大部分を過ごすようになり、社会的なつながりがなくなり、社会関係資本が減少した。そこで、家庭や会社での絆が強まったわけでもなく、逆に、拘束力が強まった。例えば、会社から外れて生きていくことができなくなるというように会社に依存するようになる。そこで、人は、その依存を維持するためにエネルギーを使い、他の関係を開拓したり・つくる余裕がなくなっていく。結果として、ほっとするような居場所ではなくなっていく。
 他方、そういう場所で人々は、自分で自分の価値を表わすことを迫られる。人からみたときの自分の印象を操作することをアイデンティティ管理といい、アイデンティティ管理は社会の中の自分の居場所を維持するためにおこなわれる。具体的には、職場、学校、家族、趣味のサークル、SNSなど多様なコミュニティに属し、コミュニティごとに自分自身の使い分けをしている。その場その場でどういう自分を表出していくかを計算して、アイデンティティを示していく作業を強いられている。そこでは、自分がどのような存在なのか、しかもそれはただ単にどういう性質の人間なのかを明らかにしていくだけではなくて、「どういう意味のある存在なのか」「どういう能力のある存在なのか」を他者に対してアピールしていくことを求められる。例えばSNSにおいて、人は「自己モニタリングをして自分の行為・言動が相手にどのように思われるか印象操作」をしているーそうやって相手にどのような人間だと思われるかを想定して行為していくことによって、わたしたちは自分の輪郭をなぞり、確かめている。このようなSNSでの自己表現は、他者との比較の中で自分を確認していく能力主義の感覚とアイデンティティのありようを示している。それは、ある意味とても「しんどい」ことだが、私たちは、なかなかそのゲームから降りることができない。SNSだけでなく、実生活においても、就活、婚活、妊活、終活……といったように、現代人はその一生を「〇活」という「人がもつことが望ましいとされる属性を獲得していくための未完のプロジェクト」に費やすことに汲々となっている。あらゆる段階で「〇活」を強いられ、過剰競争に陥っている。それは、「評価されてはじめて価値が分かる」≒価値は自分の外部にある、となっているからだ。例えば、誰か人を紹介する時、まずは「〇〇社の社長さんだよ」といったように、どんな経歴を持っている(have)かで人を紹介しがちだ。しかし、「この人は〇〇な人なんだよ」という「be」に基づいた紹介はおまけのような位置づけになりがち。現代社会では「何かができること(能力を持っていること)」「何かを持っていること」(have)によって自分の存在証明をしなければならないという強迫的な圧を、つねに受けている。「ありのままに生きる」ことすら「能力」としてカウントされるのである。
 このようなストーリーは分かりやすく、そして面白い。
 しかし、後半、それではどうするかの記述に入った途端、状況を耐えるだけでなく、声をあげましょう。その一歩を踏みだしましょうといった。個人の心構えの話になって肩透かしにあう。その実践だったら前半の分析は、あってもなくてもよしいのでは。少なくても、前半の分析を土台に、その認識の上で何をするか、その実践の経験が、前半の分析にフィードバックされて、議論が深まるとか、新たな問題が現われるといった進展はない。そのため、全部を読み通してみると、印象の興味も薄くなってしまった。

 

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