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2022年12月16日 (金)

黙食はよくないことか?

 ウィルス対策で学校の昼食が黙食を続けていることについて、食事の楽しさとかマナー、あるいは食育などの面から批判があったり、子供はかわいそうという意見があるようだ。食事について、このように言われるようになったのは、いつからだろう。私の小学校の頃、給食で言われたのは、好き嫌いすることなく、残さず食べるだった。むしろ、食事中にお喋りしていると、だって食べろと言われたことを覚えている。私の親の世代にそういうところがあったが、戦争中や戦後の食糧事情が悪い時期を経験していて、食べること自体がありがたいということを言われた。話の中で兄弟で奪い合うようにものを食べた。その時に会話などしていたら、食べ物を奪われてしまう。そのことをもっともらしく言うと、食べ物は尊いものだから、会話などよそ見をするのは失礼で、食べることに集中すべきだ、ということになる。食事中にお喋りしていると、唾がとぶから、汚いとも言われた。
 話は変わるが、以前は食事で喜ばしいのはおいしいのは第一ではなかった、それより大事だったのは満腹すること。だから、ごちそうというのは美味しいものより、沢山食べさせてくれることだったと思う。キリスト教の7つの大罪は暴食で過度に食べることで美味を追求するものではない、ということは、食べることの贅沢においしいはなかったからだ。
 楽しく、美味しく食事するというのは、ある意味で、食べることそのものについて二次的なもので、そこに頽廃的なものを感じ取ることも可能で、豊かさがその前提にあることは忘れてはいけないと思う。

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