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2023年1月

2023年1月31日 (火)

三谷博「明治維新を考える」(3)~序章 明治維新の謎─社会的激変の普遍的理解を求めて

 このような著者の考え方を導いたのは、著者が維持維新に感じた3つの大きな謎を解決しようという考察からだったという。その維持維新の3つの謎とは次のようなものだ。第一の謎は身分制度、とりわけ武士の身分の廃止だ。ヨーロッパの近代革命では不満を持った下層身分が上層身分に挑戦し、その特権を解体しようとした。いわゆる階級闘争だ。明治維新は、これに当てはまらない。明治維新を起こしたのは武士階級の人たちだからだ。その彼らは、彼らの属している武士階級の特権を放棄する施策を、政策の最初に実行した。これを身分的自殺と著者は言う。ここでは唯物史観の階級闘争のモデルは当てはまらない。著者の考えたのは間接的アプローチがとられたためだということ。間接的アプローチとはある目標Aを達成しようとするとき、反対が強い場合は、より受け入れられやすい目標Bを提示し、そこからAに漸近を図るという方法のことだ。例えば、版籍奉還は、まず薩長土肥の4藩から奉還の上表を提出させ、他の大名の追随を誘うというやり方をした。幕府時代に徳川将軍が代替わりすると各大名は統治認可書を返上し、新将軍から改めて認可書を下されるという慣行があった。王政復古に際して天皇にこれと同様のことをするという体裁をとったので、大名の抵抗感を抑えたのだったという。第二の謎は明治維新の明確な原因を見つけ出すことができないことだ。幕末の時点において幕府政権を転覆させるほど不満が高まっていたわけではなかった。それは、武士以外の人々の動向に明らかだ。これについて、著者は複雑系の方法を提示する。第2章でくわしい説明をしている。第3の謎が明治維新は文明開化という西洋文化を導入して近代化を推し進めた。しかし、維新政府のスローガンは「王政復古」、つまり「復古」という大義を掲げていた。政府は大義と正反対の政策を公然と進めたのだった。現代の我々は近代の革命や改革を進歩というキーワードで見る。そこからは明治維新の「復古」というスローガンには違和感がある。しかし、幕末の19世紀の日本では根本的な改革を構想するとき、その正当化に「復古」という象徴を用いていた。近世の日本では、各種の政策決定は必ず蓄積された先例に則っているとして正当化するのが慣例だったが、大規模な改革を提唱する際には、近例ではなく、最も古い先例を持ち出したからだ。なお、この「復古」という象徴が有力だったのは、書かれた歴史が存在し、人々がそれを好んでいた社会だったからで、それだけ歴史が尊重されエリートの教育の核に組み込まれていたと言えるのではないか。

2023年1月30日 (月)

三谷博「明治維新を考える」(2)~第2章 革命理解の方法─「複雑系」による反省、維新史の鳥瞰

 明治維新には最初に提示したような謎があり、これを説明できるような明治維新全体の説明方法を著者は探求する。それは一般的な出来事の列挙、事件の連鎖では、なぜそうなったのかという説明ができない。その他にも著者は様々な方法を模索する。そこで著者が注目するのが複雑系の考え方だ。複雑系とはシステムを変化するものという観点から理解しようとする方法。システムを、建築物のような静的な構造として見るのでもなく、また動きはあっても常に一定の均衡維持するようなものと見るのでもなく、絶えず変化を続けるものとして、しかし完全な秩序ではないものとして見ようとする。これは、維新という巨大な変化を理解するのに特定の単純な因果関係を探し出そうとする、つまり大きな原因を探すという方法を回避することになること、そして、小さな変化が巨大な変化を引き起こすのを追いかけることができること、変化の過程そのものが新しい秩序とルールを生成することを示すことができること、などが可能となる。これらのことは明治維新には大きな原因らしきものが見当たらないにもかかわらず、大きな変革という結果をもたらしたことを説明するには適合的だと著者は言う。
 例えば、ペリー来航の影響については、次のように説明できる。幕府はアメリカのみならず列強と和親条約を締結するが、その時点では危機回避のための一時的な策略とみなされていた。しかし、列強はこれを機に日本への関心を高め国交と通商を画策するようになった。一方、国内にも、国防強化のために通商を行うという発想が生まれた。このように内外に一時的ではない恒常的な関係を生む条件が連続的・累積的に生まれた。その結果が安政の5カ国条約(修好通商条約)であり、この条約は明治以後も維持され、日本を近代西洋国際体制に組み込んでいく端緒となった。
 当時の日本は東アジアの中華帝国からは外れて、いわば独立の状態だった。そこに西洋列強が現われ、その国際秩序になかば強制的に編入させられた。日本は抵抗せずにそれを受け入れた。そのことがやがて中華帝国秩序への挑戦(例えば日清戦争)へり道筋を作ることに至る。
この時点で、日本は攘夷に踏み切る選択肢もあった。実際に朝鮮はそうした。日本政府はその選択をしなかったが、内政上の変動を呼ぶ前提となった。水戸で生成した攘夷論は、むしろ西洋との戦争を故意に引き起こし、その緊張で挙国一致を生みだし、内政改革をしようという内政を主眼として対外強硬論を利用しようとしたものだった。その中には、さらに日本という国家を大名による分国より重視する集権的なものにしようとする方向性を生むこととなった。その中心として朝廷が注目されると、幕府が西洋に対して屈辱的と見られたとき攘夷論は日本の名による幕府批判の拠り所を提供し、朝廷への期待が発生する。ここに従来の政治主体が負っていた役割に変化が生じ始めた。

 

2023年1月29日 (日)

三谷博「明治維新を考える」

11112_20230129224001  2015年に読んだ本の再読。著者は日本近代史を専門とする歴史学者で、本書は講義や一般向けに書かれた文章を集めたもの。明治維新について、一般的な考え方とは異なる著者の視点や問題意識をストレートに開陳している。この視点は、私には一般的に通説とされているものよりも納得できる。ここでは、議論を進める過程で、著者の視点から見えてくる明治維新の興味深い事実に目を奪われて、そこに興味が集中していったので、そういう印象しかない。例えば、明治維新は幕府という権力者を打倒し、武士という階級の支配を終わらせた大きな社会変革を伴う変動だったにもかかわらず戊辰戦争はあったものの、武力闘争の少ないものだったということ。これは、フランス革命やピューリタン革命と比較すれば、死者の数が桁違いであるという事実が証拠として示される。しかし、本書で読み取ることのできるのは、明治維新を静止画のような捉えることへの批判だろう。それは、本書の後半で遠山茂樹への批判で具体的に語られているが、明治維新を五カ条の御誓文とか文明開化とか富国強兵といった新政府の目指したものや憲法発布のころの達成したものを明治維新像としてとらえて、それをどうのこういう歴史の見方だ。その場合、一元的な見方(マルクス主義による唯物史観による明治維新は革命か否かという論争がこの典型例)だったり必然的なものととらえたり政治的な権謀術数やヒーローの活躍としてとらえたりというものだ。そうでなくて、明治維新は様々な動きが、その時その時の場面でその個々の歴史の分岐点でそれぞれに選択がされていたというプロセスと著者は考えようとしている。例えば、鳥羽伏見の戦いで錦の御旗を立てた官軍に幕府はコテンパンに破れ慶喜は大阪から密かに逃亡したことになっているが、実際は鳥羽伏見の戦い直前は慶喜が圧倒的な優勢にあり、薩長は起死回生のイチかバチかの賭けとして鳥羽伏見の戦いで薄氷の勝利を得たということを著者は指摘する。そこでは、様々な偶然ともいえる事実の積み重ねが官軍という流れを作り出したものと言える。そのダイナミズムを革命か否かという視点では明治維新の特徴を捉えられないのではないかと著者は主張している。その方法論として複雑系という概念を提示する、このような考え方はなにも明治維新に限らず日本の近代史全般に当てはまるのではないかと思う。とくに昭和初期の満州事変から日米開戦に至るプロセスは、幕末のペリー来航から明治維新に至るまでのプロセスと、著者の言う複雑系という点でとても似ていると、私は思う。その点は、先日読んだ加藤陽子の「戦争の日本近現代史」で、歴史とは単に出来事=事件の連なりではなく、そのほかに問いがあり、それは出来事=事件に埋没していて、それを掘り起こすのが歴史家なのだという。その問いとは、歴史的な事件の背後には時代の中で人々の認識や行動のパターンの大きな変化があり、人々が実際に行動を起こす源は何かということ。彼女は、それを歴史のケースとして、明治以降の日本が戦争へと至る中で、為政者や国民が、いかなる歴史的経緯と論理の筋道によって、「だから戦争にうったえなければならない」、あるいは「だから戦争はやむをえない」という感覚までも、もつようになったのか、そのような国民の視角や感覚をかたちづくった論理とは何なのか、と問いを提示した。そのことと本書で明治維新について述べている歴史の見方には共通の土台があるように思える。 

2023年1月27日 (金)

源河亨「『美味しい』とは何か─食からひもとく美学入門」(5)~第5章 おいしさの言語化

 味やおいしさは言葉にできないと言われる。そしてまた、おいしさは言葉できないだけでなく、言葉にするべきではないという人もいる。
前者の主張については、言葉による区別が近くによる区別よりも粗いことによる、と著者は言う。二つの味は味わうという近くを実際にすれば区別できるが、その違いに対応する言葉がない。「甘い」といっても、その「甘い」の程度を細かく区別する言葉がない。そのため、ある料理を食べた時に感じた味だけに当てはまり、よく似ているが違う味を除外する言葉が見つからない。そういう場合に出くわすと、おいしさは言葉で表現できないということになる。著者は、解決可能だという。これは、言葉を精緻にすればよい。例えば、「甘い」の程度なら砂糖〇グラムと数値化する方法もある。要は、言葉の表現の工夫による解決の可能性はあるし、実際に行われている。
 また、おいしさのすべてを言葉にできないといっても、その不十分な言葉で情報が伝わることのメリットは大きい。「おいしい」という曖昧なことばで、ある飲食店のファンが増える。おいしいは自分で知覚するにしても、その対象を増やすことができる。言葉にすることのメリットはこれだけではない。おいしいものを食べた人が、その体験を言語化することで明確化することができるということだ。体験はその都度過ぎ去ってしまうものであり、ありのままに記憶に留めておくことは難しい。しかし、前の体験と現在の体験を比較しなければ、現在の体験が他とどのように違うのかという理解もあやふやなものとなってしまう。そこで役立つのが言葉だ。言葉によってそれぞれの体験の違いが明確に留められ、言語化を通して体験がよりよく理解できるようになるのである。

2023年1月26日 (木)

源河亨「『美味しい』とは何か─食からひもとく美学入門」(4)~第4章 知識と楽しみ

 味やおいしさは舌だけで評価されるべきだという純粋主義は誤りであると著者は主張する。その理由は知識や情報から影響されない「無垢な舌」は存在しないし、一切の知識や情報を無視して評価を下すことは現実的に不可能だからだ。とはいっても、知識や情報がなければ食を楽しめないと言っているわけではなく、知識などなくても楽しめる要素はあるので、それゆえ知識を増やして食の楽しみを増やしたくなると主張する。
情報や知識は無用といっても、日ごろ食べている料理が安全である、安心して食べられるというのは、安全という知識があって、いちいち安全かどうかを吟味することなく食べている。この場合の安全であるという知識はおいしさには無用という知識の中には含まれていない。つまり、純粋主義とはいっても知識のすべて排除できないのだ。また、例えば、ラーメンを食べているときはラーメンが何であるという知識をもとに食べている。そして、それをおいしいというとき、ラーメンとしておいしいと感じる。私たちが感じるというのは知識の体系の中で感じるという点は否定できない。
 ただし、純粋主義を主張したい気持ちもわかる。他人がどう言ったという評判ばかり気にして、自分で味わうことをしない風潮への批判には共感できる点はある。そこで著者は、私たちが何かを食べているとき、楽しまれているものが二つあるという。ひとつは自分が食べている対象が持つ価値であり、もうひとつは食べるという経験がもつ価値であるという。そして、知識が少ない時に楽しまれるのは後者であるという。この二つの価値を混同しなければ、一概に知識は無用と言わなくてもいいのではないか。それぞれに楽しみはあると著者は主張する。

2023年1月25日 (水)

源河亨「『美味しい』とは何か─食からひもとく美学入門」(3)~第2章 食の評価と主観性

 食の評価には主観的な側面と客観的な側面の両方があるという。味覚は主観的というのが一般的だ。おいしいかどうかは個人の主観に依存し、客観的な側面などないと思う人が多い。それで、私たちは普段、味の評価について意見が合わなかったときは、好みの違いで済ませてしまう。その意見が合わなかったのはなぜかを確認してみれば、評価に客観性があることが明らかになる。
 味を表わす言葉について、「おいしい/まずい」と「甘い/辛い」とは使い方が異なる。ある食べ物がおいしいかまずかを判断するときと、甘いか辛いかをはんだんするときには、違う基準が使われている。その違いとは、判断の種類の違い、評価と記述の違いである。「おいしい/まずい」は評価的判断であり、その判断には、対象がどう評価されたかが表わされている。「甘い/辛い」は記述的判断で物事のあり方を単に述べたものである。
 評価的判断は対象に対する評価だが、食べ物のおいしさがわかるかどうかは味覚を感じる能力が優れているということとは別な、たしかに知覚能力がなければ甘いとか辛いといった記述的判断はできないが、知覚能力だけでは評価を下すことはできない。そこで働くのは「センス」だ。
そこで、「センス」に客観性があるのかが問題となる。みんながおいしいと思う食べ物が嫌いな人もいるし、みんなが嫌いな食べ物を好む人もいる。おいしいやまずいは、他人に正しさを認めてもらうような客観的な判断ではなく、主観的な感想だということだ。ところで、このような「センス」の考え方には、いくつか種類がある。たとえば、あるものを美味しく感じるかどうかには文化の差によるというもの。例えば、納豆を関西圏の人は気持ち悪いと思う。同じ文化の中でも人によっておいしさを感じる差はあるが、違う文化の人との違いに比べれば小さい。あるいは「センス」の差を好き嫌いと同じだという考え方もある。
 一方、「センス」に客観性のないという人でも、他人の評価は気にならないだろうか。「センス」が人それぞれであるなら、評判のおいしい店などという情報は気にならないはずだ。だって、他人と自分は違うのだから。だけど、実際には食べログのレビューを参考にして店を選ぶ。また、おいしいは文化によって違うという考え方については、その文化の中ではおいしさの基準のようなものが存在するということが、この考え方の土台になっている。この場合、基準のようなもの、言い換えるとおいしさの客観性には幅があるということだ。
 こういうことから、「おいしい」には主観的な側面と客観的な側面があるということが分かる。つまり、どちらか片方を否定するのではなく、両立させるべきだという。そのための方策として、ひとつはおいしいには文化的相対性があるが、一つの文化の中では基準というより傾向として正誤を問うことが可能だ。もうひとつは、言葉の使い方で、「おいしい」「まずい」は主観的性格が強いが、「濃厚」「くどい」はそうではなく対象がもつ特徴によって正しい使い方があるが、「濃厚」は言うひとが肯定的に見ているのに対して「くどい」は否定的にみているという意味合いが含まれる。

2023年1月24日 (火)

源河亨「『美味しい』とは何か─食からひもとく美学入門」(2)~第1章 五感で味わう

 人間には視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚の五つの感覚が備わっている。これらのうち「美味しい」を判断するのは専ら味覚と、一般には思われているが、著者はそれを否定する。人が普段感じている味は、五感すべてが働いた結果として知覚されるのだ。かりに味覚だけで味を感じることができたとしても、そこで感じられる味は我々がよく知っている味とはかけ離れたものになるだろう。
 人間は舌で甘味、塩味、苦味、酸味、うま味の五つを舌で感じ、舌にはそれぞれの味を、それぞれの部分で感じると思われているが、そうではない。私たちが、普段、感じている味や風味のバリエィションは、5種類の味の組み合わせでは間に合わない。そこには嗅覚や触覚などの他の感覚も関わっているからだ。例えば、喉ごしという触覚によって、ビールの味わいが変わってしまう。舌という感覚器による味覚のみで感じられ、かつ、他の感覚から影響を受けない純粋な味というのはありえない。様々な感覚が相互に影響し合う統合的に味を感じるというのは、私たちの感覚システムが自動的に行って、各感覚が得た情報は私たちの意志とは独立に勝手に統合されてしまう。純粋に味覚だけで食べ物を味わうということはないし、できない。そういう議論からすれば、料理に一番大事なのは味で、見た目は二の次だというのは間違いだということが分かる。見た目は味の一部であり、見た目の違いは文字通り味の違いなのだ。

 

2023年1月23日 (月)

源河亨「『美味しい』とは何か─食からひもとく美学入門」

11112_20230123223701  人は食べなければ生きてはいけないが、我々の意日の食事はそれだけにとどまらない。まずいものは食べたくない。こういう食事への人の姿勢は美学で語ることができるという。ここでいう美学は、人が評価をする時に用いる「センス」を考察の対象とする学問である。「何かを美しいと評価するとき、我々は何をしているか」、つまり、その評価は正しいのか、評価の基準は何なのか、なぜ他人と評価が食い違ったりするのだろうか、ということを考える。食事を「美味しい」と評価するのは、その「センス」だからだ。
 また、著者は美学という学問が普段は美術や音楽などの芸術を対象としていることから、人間の感覚つまり五感についてヒエラルキー、つまり視覚を第一、聴覚を第二にしていることに批判的であり、「美味しい」を美学としてあつかうことにより、実践的な美学批判を行おうとしている。ただしは、私はこちらには興味がない。

 

2023年1月21日 (土)

森本恭正「西洋音楽論─クラシックに狂気を聴け」

11112_20230121142401  著者はヨーロッパで長年活動している音楽家。ヨーロッパという遠く離れた土地に生まれたものが、日本に移入され、わずか百年ほど間に独特の発展を遂げたのが、現在の日本クラシック音楽。それは既に私たちの文化に深く広く根を張ったかのように見えるけれども、その先に咲いた花の形質はヨーロッパに咲いた花と、どこか違っている。なぜ花の色形が変わってしまったのか、違うとしたらどこがどう違うのか、そしてその違いがもたらす結果とは何なのか。冒頭に掲げられた、このような問題意識から、著者は、とりとめのない思いを書き綴っていく。書名のように論として整理されることはなく、いわばクラシック音楽をめぐる薀蓄話といえなくもないが、そこに批評精神が時おり表われる。散発的にでてくる考えの断片は、どこか関連し合っているようでも、そうでなくも、読む人が好きなようにそれらを組み立てて吸収すればいい、という本だと思う。
 だから、これから述べるのは、私なりに組み立てた、この本の印象。
 まず、著者は西洋音楽の特徴としてアフタービートをあげる。これはクラシック音楽から現代のロックまでヨーロッパ音楽には共通した土台のようなものだ。これは、もともと英語などのヨーロッパ言語に共通するもので、このネイティブスピーカーには、それが身体感覚として身に着いてしまっているという。これに対して、アフタービートは日本語では裏拍というが、日本人は裏拍を強く弾く感覚はないから、敢えて裏と呼んだのではないかという。たとえば、ベートーヴェンの交響曲第5番の冒頭、ダダダダーンという有名な運命の主題。譜面をみると休止から始まっている。ダダダダーンではなくてンダダダターンなのだ。1音目ではなくて2音目にアクセントを置くから、1音目は休止になる。このような感覚に沿うように音楽のツールである楽器も作られている。例えばヴァイオリンだ、右手で弓を動かして音を奏でる、いわゆるボウイングという身体の動きは、アフタービートの拍手構造に適している。あの身体をひねるようにしてヴァイオリンを弾く身体の動きは、ヨーロッパのスポーツの動きに共通するところがある。例えば、と私が思い出すのはボクシングのパンチの動きだ。右手のパンチを出すためには、その準備として身体の右側を捻じるように後ろに退く。いわゆるフォロースルーだ。それで身体を引き絞るようにして、バネが勢いを矯めるようにして、その反動でパンチを繰り出す。サッカーのキックも野球のスローも同じような動きだ。これに対して、ボクシングのパンチに似ている空手の正拳突きはほとんどフォースルーがない。いわゆるなんばの右手と右足を同時に前に出すという身体を捻らない動きをする。この動きは、フォロースルーをするパンチに見慣れた目からは突然正拳が出てくるようなものだ。フォロースルーはパンチを予告するようなもので、すべての動きには必ず準備があるというものだ。音楽のアフタービートもこれと共通したところがある。運命のダダダダーンの前に休止があるというのは、ダダダダーンを準備するのに休止という動きがある。ここでは、一つの音が次の音の準備となって、音が連なっていくようになっている。そういうアクセントの音のが刻むのは、オンビートの阿波踊りの機関銃のリズムの刻みではなく、波形のようなふり幅にかたちのリズム、著者はスウィングだという。スウィングというとジャズではないかといわれそうだが、もともとスウィングジャズは白人のプレイヤーが始めたものだという。アフリカの黒人のリズムは複雑で18世紀のヨーロッパ音楽では記譜しきれない。アメリカ南部の町でフランスやスペインの軍楽隊の楽器を黒人が手にして、ヨーロッパの単純で規則的な拍節の音楽をやったときにグルーヴが顕著になったのだという。
 ヴァイオリンという楽器については、そのルーツは西アジアの弦楽器がヨーロッパに伝わって今の形になったものだという。このルーツになった弦楽器は西アジアから二手に分かれて伝播した。ひとつは西方、北アフリカからスペインを通ってヨーロッパに渡ったもので、この場合には、ルーツ楽器には備わっていたFUZZという音を歪ませる機能が失われました。このFUZZがあると音は遠くに飛ぶが、その反面、音が歪んで揺れるので正確な音程がとれなくなる。このデメリットは和声的なヨーロッパ音楽、音と音、楽器に楽器を重ねて和声のピラミッドを築くことはできない。そこで、ヴァイオリンの澄んだ音が生まれ、その一方で歪んだ音は雑音として排除された。ここで、音の選別、つまり音楽に適した美しい音とされ以外の雑音という階層化がうまれた。そこで人工的に選別された美しい音で、人が作曲した通りに音を操作して作られたものが音楽というものになった。そういう澄んだ正確な音でかたちづくられるからこそ、音の形が重視される。そういう音楽に適合しているのがヴァイオリンの音を出すボウイングというものだ。ヴァイオリンの弦を弓でこすって音を出すときにフレーズという一節に区切って音を出す仕組みである。これをしなければ連綿とつづくだけの音の連続をフレーズに分けて構成し、分節して演奏する。これは、ア、イ、ウ、エ、という音を区切ってとめて“愛飢え”という言葉にする行為と似ている。これがヨーロッパ音楽の表現と言われるものだ。ここで著者は飛躍する。ヴァイオリンを弾く姿勢は、戦士が盾と矛をもって戦う姿勢だという。ここでいう表現とは、なんとしても自分の主張を押し通そうとする、他人を従わせようとする支配欲、野心つまりエゴの表われだという。それがクラシックからロックで19世紀以降の世界を制覇した土台にあるのではないかという。これに対して、西アジアのルーツ楽器が西方と反対に、もうひとつ東方に伝播した最終地点が日本だったという。日本の弦楽器は、例えば、三味線でFUZZが「さわり」となって残されていて、音を濁らせるのが演奏手法として活用されている。三味線にしろ琵琶にしろ日本の弦楽器はオーケストラのような合奏には向いておらず、一人一人の奏者が、それぞれ即興的に弾いている。音を重ねるのではなく掛け合いをする。同じ和楽器でも管楽器、尺八とか横笛では、フレージングという音の区切りをしない。ヨーロッパの管楽器では当たり前の技術であるタンギングが和楽器にはない。尺八や横笛の伝統的な演奏を聴けば分かるが、基本的に音は流しっぱなしなのだ。そこからは西洋的な旋律は生まれない。つまり、音でフレーズをつくることがない。ということは言葉のようにならないのだ。ほとんどの和楽器は、人の歌の伴奏や劇の効果音のような働きをするもので、クラシック音楽の器楽曲のようにソロをとって意味をつくりだすようなことはしない。著者は、音を階層化せず、雑音と同列の、つまり人工ではなく自然に埋没するという特徴だという。
 話は変わって、音の階層化ということはヨーロッパ音楽の構造面にも現われている。たとえば、調性だ。ハ長調とかロ短調といかいうあれ。これらは、基本的には主和音で始まって主和音で終わる。ここで特徴的なのは、始めと終わりの主和音を絶対的な頂点とする階級性だ。それは和音進行の規則の中にも厳格に決められている。主和音に進行することができるのがドミナント(=優越)和音だけで、このドミナント和音に進行する最優先権があるのはサブドミナント和音だ。このように一つ一つの音は平等ではない。特権をもった優越な音が階層をつくっている。クラシック音楽は階級性の音楽でもある。

 

2023年1月20日 (金)

八重樫徹「フッサールにおける価値と実践─善さはいかにして構成されるか」(7)~第6章 有限性、愛、人生の意味

 これまで見てきたフッサール倫理学は合理主義的な性格が強いものだが、人生とはそれほどコントロールできるだろうか。そこで、フッサール後期の倫理学的考察を見ていく。
 フッサールの後期の倫理学的考察は、実践理性に即した生き方を制約する様々な事実性を主題としているが、事実性について二つのことが論じられている。ひとつは人間の有限性に関わり、もうひとつは当為の個別性に関わるものである。
 フッサールの言う倫理的な生を妨げる様々な要因が、現実の人生にはつきまとっている。そこで、フッサールが問題にしているのは、「そもそも道徳的に生きようとするのは意味のある企てなのか」という問いである。それは、ある人の生全体がどれだけ理性的に正当化可能なものになりうるかが、当人の意志とは関係なく決まってしまうのだとしたら、理性的に正当化可能な生を生きようとする意志を持つこと自体が不合理となってしまうからだ。このような問いに対して、フッサールは、゜道徳的に生きることの意義のありか、ある種の信仰に求めている。つまり、完全に理性的な生、それも個人だけでなく人類全体のそのような生の実現可能性を信じることであり、そのような生の相関者として、完全に理性的な世界の実現可能性を信じることである。しかも、ここでいう実現可能性とは、いつかそうなるかもしれないと期待することではなく、自らの意志で実現できるということを意味する。このような実現可能性を信じることによってのみ、それに向かって努力することが可能になる。
 また、前章で紹介したフッサールの倫理学では、洞察的な意志、つまり価値の比較衡量にもとづく意志だけが、道徳的に善い意志でありうるとしていた。これは、行為者の為すべきことと、行為者の実践的視野における最高善を同一視する考えからである。個々の行為者は、可能な行為のうちで何が最も善いのかについて、迷ったり誤ったりすることがあるが、中立的観察者の視点から見れば、最も高い価値行為は一義的に決まる。そのような行為こそが、その都度の状況において行為者に対して定言的に要求される行為ということである。しかし、このように選択されたとしても、その人の主観的な当為が優先して実行される。実践では個人的なコミットメント、つまり個人の生き方が優先されることになってしまう。そこで、フッサールのある種の信仰としての倫理、生全体が何かによって一貫して方向づけられるということがあってはじめて、個人としての自分の生き方を反省し、正当化し、ときには変えていくことができる。つまり、フッサールの言う倫理的な生の形式はが生全体に関わる批判的正当化の態度として、個人の生を含み込むことになるという。つまり、実践的反省能力という点で妥協する(?)とでも言えようか。結局は、フッサールは倫理学をまとめることはなかった、という結果になる、というのが、最後の私の感想だ。どこか尻切れトンボの印象は残ってしまう。

2023年1月19日 (木)

八重樫徹「フッサールにおける価値と実践─善さはいかにして構成されるか」(6)~第5章 道徳的判断と絶対的当為

 これまで、評価的態度と価値の間の関係について、フッサールによれば、評価は基づけられた作用だが、固有の正当性条件をもっており、それを分析することによって、対象が現実に何らかの価値を持っていることの意味が明らかになる。そのような正当化条件の解明が価値の構成分析である。そして、これまで評価的態度と価値一般についての理論の上で道徳的判断の分析に入る。
 倫理的な問いとは「何をすべきか」についての問いであり、したがって、道徳的判断とは「私は○○すべきである」という形式をとる。このような何をすべきかについての判断としての道徳的判断は、「○○すべき」という言葉からも、行為にとっての規範を表わしている。ある行為をすべきだと思っていて、それをすることを妨げる特別な事情がないなら、それをするのが合理的であり、しないのは不合理である。これが道徳的判断の規範性である。また、道徳的判断は行動の動機と密接な関係にある。誠実な道徳的判断は、行為者にそれに応じた動機をあたえる。これが道徳的判断の実践性である。道徳的判断の、これらの特徴は、多くの価値判断には見られない。しかし、道徳的判断はそれ氏世帯として価値判断であるか、それに応じた価値判断を必然的に伴う。したがって、道徳的判断には客観性を認めることができる。つまり、道徳的判断は、それが正しい時には、あらゆる可能な行為者について当てはまる判断でなければならないし、また、道徳的判断は状況づけられる行為タイプの客観的性質についての判断である。そして、道徳的判断の客観性と実践性を合わせて考えると、道徳的判断の正しさは、それによって動機づけられる行為の道徳的な善さに対して、その説明に役だつ。
 フッサールはとって、価値判断は、対象を価値があるとみなす意識である評価作用の表現である。それゆえ、道徳的判断は、ある行為をなすべきとみなす作用の表現だということになる。この作用は意志作用ということになる。意志は行為に対して規範的拘束力を持つ。フッサールは、道徳的判断が関わる当為の種類を絶対的当為と呼んでいる。それは「何をすべきか」という道徳的な問いに答えるような当為である。この場合の絶対的というのは普遍妥当性を要求するという意味だ。そして、この絶対的当為は、その都度の可能な行為の中での最善の行為と同一視される。このことは当為が善という一種の価値に還元されることを意味し、同時に道徳的判断よって表現される当為についての意識が一種の評価作用に他ならないことを意味する。絶対的当為は「何をすべきか」という問いの答えになるものだが、それを決めることは、可能な行為の中から一つの行為を適切に選び取ることと考えられる。通常、私たちがある状況のもとで行いうる行為は複数あり、そうした行為を意識しているときは、必ず何らかの価値判断をしている。その価値は、肯定的だったり、否定的だったり、中立的だったりする。その中で、ある特定の行為をなすべきとみなすことは、その行為を他のどの選択肢よりも価値があるみなすことである。つまり、道徳的判断はある行為を選択肢の中から選ぶこと、言い換えればある行為を他の行為に対して価値的に優位に置くことという側面を持っている。その選択された行為がもっとも高い価値があるとき、選択が出しい、つまり道徳的判断が正しいということになる。フッサールは、これを吸収則と呼ぶ。つまり、あらゆる選択において、より善いものは善いものを吸収し、最善のものは他の、それ自体としては実戦的に善いとみなされるべきすべてものを吸収する。この正しさ、つまり最も価値のあるものを選択するためにはどうしたらいいか。それについて、倫理学者たちはさまざまに考えたわけだが、フッサールはつぎのように為されるという。実際に可能な行為の価値を比較衡量したうえで、ある行為を最善とみなす。彼はそれを洞察的な意志による判断と呼ぶ。
 そして、道徳的に善いかどうかが問題になるのは個々の行為だけではなく、人の生き方そのものもそうである。一方では、人はその都度の状況において、「何をなすべきか」という問いを立てる。しかし他方で、人は自分の人生そのものに目標を設定することがあり、「どう生きるべきか」という長期的な問いを立てることもある。人生の中のその都度の場面で人が何をすべきだと判断し、どのような行為を選び取るかは、多くの場合、その人が何を人生の目標としているかによって左右される。また、個々の場面で意志決定する際に、人生の目標を特に意識しないで場合でも、習慣として身に着いた人生観が暗黙のうちにその人の意思決定を左右することもある。生全体に関する目標を設定し、それに応じてその都度の意思決定を行うのは人間に特有のものである。
 また、人間は、たえず自らの生を反省し、それを新たに作り変えていくことができる。これを完璧に行い、未来も含めた生の全体を理性的に正当化することができた時、人は「真の人間」あるいは「真の自我」であることができる。だが、実際には、人間は有限な存在であり、生の全体を見通すことはできない。「真の自我」というのは理念であり理想である。倫理的な生き方とは、真の自我という到達不可能な理念に向かってたえず反省を繰り返し、自分自身を作り変えていくような生き方を指す。真の自我という理念は理性的であるかぎり、すべての人間が引き受けるべき使命であり、普遍的使命と呼ばれる。真の自我を目指して努力することは、あらゆる人に妥当する定言的な要求とみなされる。

2023年1月18日 (水)

八重樫徹「フッサールにおける価値と実践─善さはいかにして構成されるか」(5)~第4章 価値はいかにして構成されるか

 第1章では、評価作用の志向性に関するフッサールの分析が、現実の価値をどのように特徴づけるかという問題に直面することを明らかにした。彼のアプローチは、評価作用の本質の分析によって現実の価値というものの意味を明らかにするというものであり、これは彼が構成分析と呼んだものの一例である。続く第2章では、この構成分析というアイディアの内実について、この背景にある超越論的観念論という枠組みとともに検討した。そして、ここでは、フッサールによる価値の構成分析そのものに踏み込んでいく。
 評価は対象が現実に持っている価値との関係に応じて正しかったり間違っていたりする。そのときの現実の価値について、フッサールには客観主義の立場であるという。あるものがどのような価値をもつかは、個別の主体がそれにどのような価値を認めているかに関する事実から独立しているだけでなく、複数の主題が共通にもつ評価の傾向からも独立している。つまり、価値は主観的な尺度ではない。正しいか間違っているかというのは客観的だからである。個々人が実際に何をよいとみなすかは様々でありうるが、どのような評価が正しいかは客観的に決まるのであって、正しい評価は、同じ対象について同じ状況で評価するすべての主体にとって正しい。
 フッサールにとって、価値は客観的であると同時に評価的経験のうちで構成されるものである。価値は本質的に、意識のうちで構成されるものであるとされる。価値に関する客観主義は、評価作用が正当性条件を持つということと結びつく。このことは評価作用が対象性を持つ、すなわち客観化作用であるということを意味する。これは『論理学研究』での評価作用は非客観化作用であるという見解に反する。
 その結果、あらゆる作用が客観化作用であることになり、もはや客観化作用と非客観化作用の区別が意味をなさないことになる。例えば、ある花を美しいとみなしているとき、この評価作用に基づいて、「美しい花がある」という判断を下すことができる。これは、対象の存在についての判断である。このうちには価値を含んでいるが、形式上は非価値的な判断と変わりない。このような定立が可能なのは、評価作用が潜在的に信念的定立を含んでいるからだ。「美しい花がある」のような判断を下すことなく、たんに花は美しいとみなすことは可能だが、そのときの評価作用のうちには信念的定立が潜在しており、いつでも顕在化させることができる。このように評価作用が定立的作用であるということは、価値に関する客観主義を前提としている。
 価値覚は、知覚が事物を原的に構成する意識であることとは類比的に、価値を原的に構成する意識である。例えば、バイオリンの音を聴き、その音が聴く者の心情を根源的に感動させるとき、その音の好ましさや美しさが原的に与えられる。このように対象を価値のあるものとみなす仕方に感情的な仕方とそうでない仕方がある。フッサールが感情を伴う価値意識を原的に与える意識として特徴づけるときには、そのような意識が感情を伴わない価値意識に対して規範的な役割意識を持つ。
 知覚は経験的思念を充実する。経験的思念は「この葉巻に火をつけて吸うと、何らかの香りが感じられる」といった内容を持つが、そこに価値的内容を含まない。これに対して価値覚は評価的思念を充実化する。この例では(葉巻を吸いたいという)欲求の充足。ただし評価作用は、正当性条件を持つという点で判断に近い。その判断の確証は内容が真であることを証示することである。葉巻の例で言えば、実際に吸ってみて評価的思念が正当だったかとうか明らかになる。
 著者は、価値を本来的に与える作用は感情であるという。そうなると、価値の構成分析は、感情の正当性条件を解明することだ。価値の構成分析は感情の正当性という観点から分析する規範的な探究である。

2023年1月17日 (火)

八重樫徹「フッサールにおける価値と実践─善さはいかにして構成されるか」(4)~第2章 経験の正しさと存在の意味─超越的観念論と構成分析

 私たちの評価的態度と価値とはどのような関係にあるか、『論理学研究』のフッサールは、この問いに答えることができなかった。ところで、評価的態度と価値との関係を問うことは、人が対象を何らかの価値を持つとみなしているという事実と、対象が実際に持っている価値との関係を問うことと同じ出す。この対象の実際の価値というのは、私たちから独立に、それ自体で成立しているものなのか、それとも何らかの仕方で私たちの態度に依存しているのか。それは、価値に関する実在論と反実在論の対立ということになるが、フッサールの立場は超越的観念論と言われている。
 超越的観念論とは、あらゆる可能な認識の主体としての自我が行なう自己解明であり、自我にとって存在しうるものがすべての意味を明らかにすることでもある。どんな存在者も、私にとってなんらかの意味をもっている。存在者がもつ意味の解明とは、たとえば山があるとはどういうことかといったことを明らかにすることである。超越的観念論とは、あらゆる存在者について、それがあるというとはどういうことか、つまりあるということの意味を明らかにすることである。
 さて、あるもの(対象)の存在の意味を問うというのは、例えば、私が「なぜ、その対象が存在するといえるのか」という問いに対して「これがある」という答えが真であるための条件を明らかにすることといえる。超越的観念論は事物が存在すると言えるならば、それはどのような条件のもとでかと問う。その時、実在論、事物の現実存在の直接向き合うことはしない。そして、つぎのように言う。事物は存在するものとして私たちの意識に与えられている。この時、事物の存在は絶対的な確実性を持たない。夢や幻覚や見間違えの可能性が常にあるからである。絶対的な確実性をもって意識に与えられるのは、知覚や判断等の作用だけである。事物が現実に存在するのは、そう言いうるということで、事物が存在するという判断が正当であるということである。判断が知覚に基づいており、知覚が対象を本当に与えるものであるとき、判断は正当性をもつ。つまり、判断の正当性は知覚の明証性に置き換えられる。ここでは、知覚経験から独立した、つまり意識とは無関係な存在について語ることは無意味とみなすということを含んでいる。ということは、知覚と何らかの関係がある事物についてしか、それが存在するとは主張できないということになる。ただし、これは実在論を否定するものではない。
 ところで、事物は見られたり、思い出されたり、記号を用いて示されたりといった様々な仕方で意識される。しかし、これらの中で知覚が、他の意識のされ方に対して規範的な役割を果たしている。事物について知覚以外の意識のされ方が実際の事物のありようと一致しているかどうかは、知覚によって確かめられる。知覚が規範的や役割を持っているというは、こういうことだ。このような規範的役割のゆえに、知覚は事物をそれ自体として与える意識だという。しかし、知覚は誤ることがある。そこで、現実に存在する事物に対応するのは正当な知覚ということになる。そこで、知覚の正当性を明らかにすることが重要となる。それがフッサールの構成分析であり、あるタイプの対象を本来的に与える作用のタイプについて、その正当性条件を明らかにすることである。したがって、構成分析の対象となるのは、事物のような対象性ではなく、作用、とりわけ作用のタイプである。その結果、あらゆる存在は、本質的に、意識における可能な根拠づけ連関に関係づけられているという結果に至る。超越論的観念論を具体的に展開することとは、あらゆるタイプの対象性について構成分析、つまり、あるタイプの対象がどのタイプの作用によって本来的に与えられるかを示し、その作用の可能な根拠づけ連関がどのようなものなのか、つまりその正当性の条件を解明するということだ。

 これまでのことから、構成分析は対象が現実に存在することの意味を明らかにすることで、理性批判は作用の正当性の解明を目指している。この両者が実際に取り組む作業は同じものだということが分かる。具体的には、対象が思念されている通りに現実に存在するのは、その対象についての主張を、その対象を本来的に与える作用のレベルで正当化できるときだ。
 この場合の意識というのは、個々の人の意識ではなく、可能なすべての作用の総体である。フッサールはこれを「純粋意識」とか「絶対的意識」と呼ぶ。上記の作業は、個々の意識が現実に遂行している作用は絶対的意識の中に含まれている、とはいっても、ある意味で自己関係的な性格を持っている。超越論的観念論は自我の自己解明に他ならないとは、こういうことである。

2023年1月16日 (月)

八重樫徹「フッサールにおける価値と実践─善さはいかにして構成されるか」(3)~第1章 価値に関わる経験

 何かが価値を持っているとはどういうことだろうか。価値は対象の性質の一種であると考えられる。しかし、物理的性質とは異なる。色や形はその対象にあり、人がどうこうできるものではない。これに対して、対象が価値をもつというのは、人が対象に価値を見いだすことに関わる。フッサールによれば、人が何かを見たり、思い浮かべたり、何かについて考えたりすることは、何かに関わっているかぎりで、志向的体験、作用である。この対象との関わり方の違いが作用の種類を分けることになる。そして、フッサールは対象との関わり方について、作用質量と作用性質に区別する。質量は作用がその都度の対象性をどのようなものとして統握するかを規定する。例えば、ナポレオンをイェナの勝者として見るか、ワーテルローの敗者として見るかというようなことだ。これに対して性質とは、対象性がそのときどきに応じて、表象の対象性、判断の対象性、問いの対象性等々の仕方で志向される違いのこと。例えば、火星に知的生命体がいると判断する作用と火星に知的生命体はいるだろうかと問う作用の違いだ。この場合、両者は火星に知的生命体が存在するという事態という同じ対象に関係しているだけでなく、同じ質量ももっているが、対象に関わる仕方は、一方は判断と言う性質を持ち、他方は問いという性質を持つところが違う。つまり、質量は作用が対象をどのようなものとして把握するか規定し、性質は表象、判断、問い、願望といった作用の種類を規定する。
 ある行為を道徳的だとみなす作用は、美しいとみなしたり、有用だとみなす評価作用に含まれる。
 目の前の花を美しいとみなす評価作用は、目の前の花という質量をもっており、対象を美しいと評価している。この場合、評価しているだけでなく、花を眼前に知覚している。評価作用と知覚作用という二つの作用が同じ質量をもち、同じ対象に関わっている。この時、知覚作用は評価作用の土台として働いている。評価作用の志向性は知覚作用に依存している。このような評価作用の依存性をフッサールは「基づけられている」と言う。これは、存在に対する依存関係を表わす。このような作用の基づけ関係は、一種の全体と部分の依存関係と言える。評価作用が知覚作用を土台としているとき、評価作用は知覚作用の一部となっている。この場合、基づける側の作用を客観化作用、基づけられる側の作用は非客観化作用と呼ばれる。非客観化作用は固有の質量を持たない。つまり、人は目の前の花を知覚し、目の前に花があり、それがどのような形や色をしているかを把握する。そして、その把握したことに対して美しいという評価をする、と言い換えてもいいだろう。
 この時、注意しなければならないのは、評価作用と価値判断の関係である。「この絵は美しい」という価値判断は、「このテーブルは四角い」という判断作用と共通しているところがある。しかし、「この絵は美しい」という判断は、また、「このテーブルは四角い」という判断とは表現されている作用の種類が異なるところがある。価値判断において、表現する作用は判断作用であり、評価作用は表現される側の作用となる。したがって、評価作用そのものは術語によって「美しい」と規定する価値版ではなく、対象を気にいったり、好ましく思ったりする作用である。
 作用の志向性については、個別の作用が質量を持ち、対象への関係持つ、それに加えて、充実化ということもある。例えば、隣の部屋に教授がいると友人から聞いた後で、実際に隣の部屋に入って、教授がいるのを見る。この時、友人の話を理解したことを、実際に見ることにより確証する。フッサールは、この確証する作用を「意味充実作用」と呼ぶ。充実化とは、ある作用の対象への関われの正当性、別の作用によって確立されることを意味する。評価作用を充実化するということは、それを基づけている客観化作用を充実化させることになる。つまり、評価作用に固有の充実化はありえない。それは、評価作用のような非客観化作用は固有の質量を持たないからだ。この充実化のプロセスは真理の獲得の説明にもなっている。
 「隣の部屋に教授がいる」という客観的に確認できる場合の確証、つまり客観化作用の充実化はこのとおりだが、非客観化作用、例えば「目の前の花は美しい」というような評価作用の場合はどうだろうか。この場合、前述の価値判断における表現する作用ということがあったが、作用が表現されるということの意味を、フッサールは三つの意味を区別している。例えば、「私は火星に知的生命体が存在することを望む」というのは願望作用だ。この文を発する、つまり述定するのは判断作用であり、願望作用(評価作用)ではない。願望作用(評価作用)は、それを願望として把握する客観化作用の対象になっている。このとき、「私は火星に知的生命体が存在することを望む」というのは、願望作用に向かっている判断作用を表わしているとも言えるし、願望作用そのものを表わしているとも言える。前者は表わされる作用が表意作用として働く場合で、後者は表わされる作用が判断などの客観化作用の対象になる場合。そして第三に表意作用を充実化する場合だ。
 さて、非客観化作用は知覚作用のようにそれ自体が表意作用として働くことはない。この場合は前述の三つ区分のうち第二の意味でしか可能とならない。非客観化作用は客観化作用の対象となることによってのみ表現されうる。
 以上のことから、評価作用や願望作用を非客観化作用とみなすので、価値判断を評価作用についての判断とみなすことになる。価値判断が下されるとき、評価作用は客観化作用の対象になっている。

 これは、『論理学研究』のころまでのフッサールの考えだが、その後1908年ごろの講義録では、評価作用を客観化作用と非客観化作用と見なすべきかを問い直している。つまり、この頃のフッサールは、評価作用を一種の非客観化作用、つまり固有の対象を持たない作用とみなしていた。しかし、後に、評価作用を客観化作用、つまり価値という固有の対象に関係する作用とみなすという反対の立場に転換する。この1908年の講義では、フッサールは評価の正当性の解明を「評価的理性の批判」と呼ぶ。彼は、理性を作用について語るときの一つの観点として考えている。したがって、理性の批判とは、作用が正しく遂行されているということの意味を明らかにすることだ。この時期、フッサールは認識の解明によって、あらゆる作用の正当性が解明されるわけではないと考えていた。ここで問題になってくるのは、基づける客観化作用とは独立に問うことができるような、評価作用に固有の正当性ということになる。
 かりに、評価作用が客観化作用だとしよう。評価作用は固有の対象への関係を持ち、充実化の項となる。それゆえ、評価作用の正当性は評価的な表意作用と直観作用によって充実化されることによって説明されることになる。そう考えると、価値に関わる作用の正当性と非価値的なものに関わる作用の正当性とは本質的には同じ仕方で説明されることになる。これは、評価作用に固有の正当性を解明するという目的を放棄すると同じことです。そこで、フッサールは客観化作用と非客観化な作用とを区別し、評価作用を非客観化作用と見なす『論理学研究』の立場を放棄することを考える。
 たしかに、評価作用が基づけられた作用であるという見解は正しい。私たちがある対象に評価的に関わるためには、同じ対象に非評価的な仕方で関わっていなければならない。ある花を見ることも思い浮かべることもなく、それについて判断することもなく、美しいものとみなすことはできない。しかし、この先、評価作用は固有の対象への関係を欠いていると考えたのは間違いといえる。評価作用が対象への関係を、それを基づけている非評価的な作用に完全に負っていると考えるのは間違いだった。それは部分的に負っていると考えることもできた。この論理的なギャップを埋めることは『論理学研究』の立場では、見いだすことができない、と著者は言う。そして、評価の固有性を見失っているという。

2023年1月15日 (日)

八重樫徹「フッサールにおける価値と実践─善さはいかにして構成されるか」(2)~序章 フッサールと「よく生きること」への問い

 本書の目的は、フッサールの価値論と道徳哲学を示し、これらがフッサールの哲学の全体の中でどのように位置づけられているかを明らかにすることにある。
 「私はどう生きるべきか」あるいは「どのように生きるのが私にとってよい生き方なのか」といった人生の問いを哲学で問う場合は、「よく生きるとはどういうことか」という原理的な問いを問うことになる。フッサールの場合、生きることとは、徹頭徹尾、世界へと関わることである。世界へと関わるということは、意識の働きと特徴づけることができる。例えば、見ること、食べること、考えることといった人のあらゆる振る舞いは世界とそこにある様々な物事に関わっている。個々の意識の働きを「作用」とか「志向的体験」といい、体験には作用であるものもないものもある。
 生きることが作用を遂行するということだとすると、よく生きるということは理性的であるということだ。理性が問題になるときは「なぜ」という問い、つまり根拠の問いが立てられる。この問いが立てられるのは作用の妥当性が問題になった時だ。判断や評価や意志など人が能動的に遂行する作用において、その判断の妥当性や判断の根拠を問うことにより、妥当性は確証されたり、破棄されたりするからである。この妥当性は判断が現実に正しいかといった現実についての問いという側面もある。
 これらをまとめると、理性的に生きるとは、根拠づけられた妥当な仕方で対象に関わることだ、と言うことができる。
 よく生きることについての哲学的考察は、一般的には、倫理学と呼ばれる。哲学の歴史を顧みると、よい行いとは「なすべきことを行なう」とはどういうことかを問うということに収斂される。私たちかがする行為は、偶然によって善いものになったり悪いものになったりするのではなく、何らかの規範にしたがってなされたときに善いものになったり、そうでないときに悪いものになる。そのように意味での善い行為を「道徳的」な行為と呼ぶ。
 人はある行為が善いか悪いかで判断することがある。この判断は一種の価値判断である。そして、この判断には、判断をしたその人自身がどのように行為すべきについての自身の考えをも表わしている点が特徴的である。この判断は、行為の正当化も含んでいる。この場合、何が正当かを判断する根拠は客観的でなければならない。ということは、道徳的判断は客観的なものに関わっているということになる。それゆえ、正しかったり間違ったりする。それは行為そのもののあり方に関わっているのであって、その行為について人がもつ考えや欲求に関わっているのではない。
 

2023年1月14日 (土)

八重樫徹「フッサールにおける価値と実践─善さはいかにして構成されるか」

11112_20230114221701  5年前に読んだ本の再読、のはずだが、読んだ記憶がない。ほとんど初読の感触。フッサールというと厳密な学としての現象学で、倫理学、あるいは「私はどう生きるべきか」といったこととは全く縁がないと思っていた。その意外性に興味をひかれたのかもしれない。何しろ5年前に読んだ記憶がないので、何とも言えない。著者によると、フッサールは倫理学の著作を残してはいないが、講義では取り扱っていて、彼の膨大なノートには、その考察が残されているという。そこから、まとめたというのが本著作。
 簡単に言うと、「よく生きるとはどういうことか」という原理的な問いから、行っていることが善か、という評価するという意識の働き(判断)を分析する姿勢が現象学に繋がるという。この評価作用の対象である価値(善という価値)を、超越論的観念論によって客観的に判断できるという。フッサールの倫理学では、人間は、たえず自らの生を反省し、それを新たに作り変えていくことができる。これを完璧に行い、未来も含めた生の全体を理性的に正当化することができた時、人は「真の人間」あるいは「真の自我」であることができる。だが、実際には、人間は有限な存在であり、生の全体を見通すことはできない。「真の自我」というのは理念であり理想である。倫理的な生き方とは、真の自我という到達不可能な理念に向かってたえず反省を繰り返し、自分自身を作り変えていくような生き方を指す。真の自我を目指して努力することは、あらゆる人に妥当する定言的な要求とみなされる。という。
 読んでいて、前半のフッサール現象学による価値の評価の客観性の議論は細かくて、追いかけるのに多大な労力と根気を要したのに対して、後半の倫理学をまとめる段になって全体像を語る、大きな視点に(ということは細かくなくなって)、急に読み易くなった。実は細かい議論はできないということかも、というのも、合理主義的すぎるというか、無理している感じがした。評価という作用は、価値にしても、善にしても、その正しさを感情とか欲求とは独立に、つまり客観的に問うことができ、それを理性的に正当化できるという。それは倫理学というより、「真の自我」という理念なんて信仰のようなものになっている。カントが純粋理性から実践理性に議論が移ったとき、そのまま移ったわけではないだろうに、と茶々を入れたくなったりした。

 

2023年1月13日 (金)

加藤陽子「戦争の日本近現代史─東大式レッスン!征韓論から太平洋戦争まで」(9)~第9章 なぜ日中・太平洋戦争へと拡大したか

 満州事変は、ソ連の軍事的脅威、中国のナショナリズムの脅威という、目の前の事態に対処するために起こされたように見えるが、これらはし付随的なもので、当事者の主観では、将来的な国防上の必要から起こされたものだった。満州事変によって南満州に加えて北満州まで占領したということは、ソ連との勢力範囲の境界線を中ソ国境まで押し上げてしまうことを意味した。
 満州事変は関東軍によって周到に計画されたもので、国際連盟規約、9カ国条約、不戦条約違反であることに自覚的で、関東軍の行動は自衛のためであり、満蒙の独立国家化は張作霖の悪政から満州の人々が逃れるための中国人自身の自壊作用なのだと、日本国民や世界に対して説明したのだった。国民は条約等に違反しない手法で満蒙の既得権益を守ったとされたことを評価した。それは、条約を守らない中国、条約を遵守する日本という図式の宣伝に国民が乗っていたからでもある。これは、条約締結の経緯とか、その後の状況変化で条約の内容にない事態が発生したというグレーゾーンについて、日本政府の立場は教条的に条文の言葉の遵守を求めるという結果によるものだった。ルールを守って正しく行動してきた者が不当な扱いを受けるという怒りのエネルギーが蓄積されたということだ。思うに、これは当時に限らず、例えば、現代でも韓国との関係で全く同じ光景を見ることができると思う。また、以前のロンドン軍縮会議の名目上の7割を充たさなかったことで非難するという教条主義的な風潮にも通じるところはあると思う。
 満州事変の停戦協定が関東軍と中国とで結ばれると、安定状態が生まれた。このころ、世界恐慌から経済が回復に向かいはじめ、アメリカを中心とした世界の再建に向かい始めた。満州事変後の日本は世界で孤立していたのではなく、世界の流れに乗っていたと著者は指摘する。互恵通商法と中立法というアメリカの国内法の法体系に乗った世界の流れに、日本はメリットを見出し、また、アメリカも日本をこの法体系の下に置いて牽制できていたので、日米関係は安定していたと言えたのだった。
 しかし、日中戦争が勃発すると、戦争ということでアメリカの中立法に抵触することになり、アメリカとの経済的関係が停止してしまう。日本は重化学工業化に邁進しようとしていた矢先、物資と資金の最大の供給国アメリカとの経済的関係がストップさせることはできない。そこで、宣戦布告をしないで、これは戦争ではないという詭弁を繰り広げたのだった。一方、アメリカの側でも日中戦争が戦争でないということであれば、中立法によって、日本以外の交戦国である中国に経済的進出を進めていたのをストップせずに済むため、アメリカにもメリットが大きかった。それゆえ、日中戦争を戦争としないことには、それぞれの国にメリットがあったため、この戦闘状態が4年間も続いたのだった。しかし、宣戦布告をしないから戦争と呼ばないとすると、戦っている軍としては、戦争でないので占領はできない、したがって領土を獲得もできないし、賠償金を望めない。そのため、戦うことのインセンティブがないということになの、戦闘の継続に苦慮することになった。
 日中戦争はまた、欧州やソ連の状況とリンクして、いわば国際化していった。例えば、ドイツは中国から手を引きヨーロッパに専念する方向に転換し、ソ連には対日強硬論が生まれたなど。また、満州事変の際には中国はルールを守らない国で懲らしめるべきだったのが、そういう中国の民族主義は西欧の帝国主義に利用されているという認識に変化していった。
 このように、多方面から多層的に、為政者や国民がいかなる論理を媒介にしたとき、戦争をやむをえないと受けとめたり、あるいは積極的に求めたりするようになるのか、また、そうさせる論理というものはどのような回路で生まれてくるのか、ということを分析しているのは、新鮮で興味深かった。しかし、ここで明らかにされているのは、ワンオブゼムであると思う。これが直接に戦争の意思決定に直結するとは考えにくい。それが意思決定に影響するシステムとかプロセスは分析されていないので、いわゆる空気みたいな曖昧なままのように思える。また、ワンオブゼムのアナザーというか、そのほかのものもあるだろうし、それらとの関係も触れられていない。これらは新書という紙面の都合なのかもしれないが、物足りなさも覚えた。

2023年1月12日 (木)

加藤陽子「戦争の日本近現代史─東大式レッスン!征韓論から太平洋戦争まで」(8)~第8章 なぜ満州事変は起こされたか

 第1次世界大戦が終わって、日本のリーダーたちはなぜドイツが負けたのかに注目した。そこで注目されたのが「総力戦」だった。総力戦とは、軍事・経済・思想など、国家の全面的総力をあげての激烈な総合戦で、かつ長期にわたり、また、国家の経済力が思想的・政治的団結力とともに異常に重要性をもっている戦争形態。実際、ドイツの敗北は連合軍の経済封鎖のために国力が枯渇したためだった。日本にとって、次の戦争を考える際の見方に大きな影響を与えることとなった。資源を自給できない日本にとっては調達が不可欠の問題となる。そこで、例えば海軍の策定した見通しは、戦時にあって、日本海、シナ海、南洋及びインド洋の制海権を海軍が掌握さえしていれば、輸出入物資の約半分を南方や中国から、戦時でも輸送できるというものだった。つまり、戦時において輸入途絶という事態と制海権とが密接不可分なものとして考えられたのだった。その結果、中国の重要性が格段に上昇した。それは、日本が経済封鎖と総力戦に備えるためには中国の資源が必要であるということ。そして、中国政府の財政危機に対してアメリカなどの列国が管理をしようとしていて、これが実現すると日本は中国の資源を確保しにくくなること。
 一方、1920年代という時期は世界的に軍縮の機運が高まり、様々なデモクラシー状況が進展した時期でもあった。このような状況で、将来の予想される長期の戦争に勝利するために自給自足の体制を確立させることを訴えても国民の支持を獲得することは難しかったと言える。そのためなのか、具体的な戦争の方法についての構想が、かえって、短期決戦を望むものとなっていった。次の戦争が総力戦になることは避けられないにせよ、第1次世界大戦のような長い戦争になることはないのではないか。あるいは調整してうまくやれば、大戦の長期化は避けることができたはずだし、その教訓を生かして、長期化を避ける戦略を構築すべきという発想になった。総力戦の時代ではあるが、うまくやれば速戦即決に持ち込める。戦争は資源のない日本でもできる。仮想敵国をアメリカに設定すると、新しい軍艦を建造するのに必要な年限である2年以内に勝敗を決する。その戦術は、海を渡ってくるアメリカ艦隊を補助艦で漸減していき、本土近海で主力艦による艦隊決戦に臨むというもの。このような発想は、当時の国際協調によってもたらされた軍縮の思想とも共存できるものだった。軍縮は軍の効率化につながるものだったのだ。現代では日本海軍の考えていた短期決戦構想に批判を加えて、資源の乏しい日本が長期的な持久戦を強いられないための自己中心的な願望から、短期決戦論が出されてきたと説明されることが多い。しかし、短期決戦論は日本に限らず、国際的な傾向だったのだった。それゆえ、軍縮が国際的に行うことができたと言える。また、ロンドン軍縮会議で日本が補助艦の対米比率を7割としたのは、上記の戦術のために必要な補助艦という観点から算出されたものだった。アメリカもこの計算が分かっていて、7割を確保するか否かが日米の交渉の譲れない点だったという。結局6.9・・という実質7割で妥結したのだったが、名目7割を下回ったのを国民は未達成と受け取り、対外的な危機意識を胚胎させることとなった。そのことが青年将校の危機意識を生んでいくことになったという。また、陸軍の場合も、同じように短期決戦の考え方で、ソ連が弱体のうちに満蒙をとってしまって、国力を充実させるというものだった。

2023年1月11日 (水)

加藤陽子「戦争の日本近現代史─東大式レッスン!征韓論から太平洋戦争まで」(7)~第7章 第1次世界大戦が日本に与えた真の衝撃とは何か

 日露戦争は日本の勝利に終わったが、山県は戦後の状況を憂慮していたという。日露戦争はロシアに甚大な打撃を与えたわけでもなく、有効で良好な関係をロシアと結ぶことはできなかった。このような場合、ロシアは早晩復讐戦に打って出てくる。それに対する日本の備えはないのだった。彼は、日露戦争の時にあった「国民の元気」は戦後はなくなってしまったという。
 この国民の元気については、山県に限らず、国民の側でも感覚的に自覚されていた。それが戦争中、頻繁に行われた祝捷会で、ポーツマス条約に不満を持った民衆が日比谷焼き討ち事件を起こしたのは、この元気が失望にかわって暴発したものと言えるわけです。日露戦争後の社会は大きく変わったということだが、そのような変化の根本には、国民の元気が期待できなくなったという政府の側の喪失感と、戦勝を政府が踏みにじったという国民の側の失望感が広く社会に根ざしたためだと言える。
 このころの日本が直面している大きな問題としては、第1に、膨大な戦費負担のために、急速に苦しくなった国家予算をめぐって、各政治集団間の競合が激しくなったということがある。官庁、政党、軍などが、それぞれの思惑で予算の争奪戦が起こるようになる(後年の陸海軍の予算獲りが軍事費の膨張となったことの発端だろうか)。第2に、大陸進出への足場となる特殊権益を、どのような方策で守っていくかが問題化した。第3に辛亥革命後の中国への対応が懸案となった。このように、無社会には深い亀裂をかかえ、重要な3つの問題を抱えた状況で、第1次世界大戦が始まった。
 この戦争は、日本の主体的な動機で開始されたものではなく、国民が戦争を受けとめる余裕はなかった。次の2点を参戦の理由としている。第1は、ドイツの侵略的行動の結果として、東アジアの平和と特殊利益が脅かされた結果、イギリスが日本に援助を求め、日本はそれに応じたということ。第2は、ドイツの中国の拠点を奪ったのを正当化するということ。
 第1次世界大戦では日本は戦勝国の側となり、パリ講和会議のメンバーとなる。そこで、日本が要求したのは、太平洋の旧ドイツ領の処分、山東省の利権継承、人種差別撤廃問題で、前2者の要求は実現させた。問題は人種差別問題だった。この問題は、日米対立の淵源となっていくものだが、日本の要求の目的は移民問題の解決で、人種の差別というより国家の扱いの差別という観点からの要求だったという。つまり、アメリカの移民受け入れについて、日本からの移民をヨーロッパからの移民と同列に扱うことを要求するというものだった。これに対して、アメリカ側は内政干渉だとして猛反発した。実際のところ、アメリカが国際連盟への加入を拒んだの大きな理由が、この問題だったという。このパリ講和会議を通じて、日本は対華21カ条要求は手続き上疑問の余地のない形式で締結されたとしていたが、国際社会での日本の信用力の低さから、正当性を納得してもらえなかった。これは、旧来の帝国主義的な外交で権益を獲得するというのは野暮だという認識に至るのだった。そして、移民の差別などは国際法条約違反と主張して、アメリカは非理だとする原理的な対決姿勢が軍部に生まれた。

2023年1月10日 (火)

加藤陽子「戦争の日本近現代史─東大式レッスン!征韓論から太平洋戦争まで」(6)~第6章 なぜロシアは「文明の敵」とされたのか

 現代の人から見ると、日清戦争の結果として朝鮮を「完全無欠の独立自主」の国としたことは、その後併合してしまうのだから、欺瞞にしか見えない。しかし、日清戦争以前の朝鮮は清とは宗属関係という、国民国家を基礎とした万国公法では関係を築くことができない(したがって、万国公法に従って併合もできない)ものだった。したがって、朝鮮が「完全無欠の独立自主」の国とされたことによって、東アジアの国際関係が中華帝国システムから国民国家に変わったことを象徴的に示すこととなった。
 三国干渉の結果、日本とロシアの間の緊張は高まった。ロシアが太平洋に出ようとする場合、宗谷海峡や津軽海峡は使えないとされ、日本と朝鮮の間の対馬海峡が残る。ロシアとしては、日本の朝鮮への影響力が強まることは望ましくないのである。一方、朝鮮王室は日本からの干渉(内政改革)は迷惑でしかなく親露的となっていく。そこで、日本は勢力の回復を図って閔妃暗殺事件を起こした。一方、ロシアは清の対日賠償金のために借款を供与し、その見返りに東清鉄道の敷設権を得た。これにより、モスクワから鉄道で、直接、清までつながることになる。これは、日本にとって由々しき事態であり、朝鮮の中立維持の重要度は高まったのだった。
 一方、イギリスはロシアの動きに敏感に反応した。圧倒的な対清貿易の支配力を持っていたので、対清政策は清国官憲による制約から自国民の経済活動を擁護することだったが、ロシアが戦略的優位に立った事態を前にして、門戸開放政策から勢力範囲の排他的確保に方向転換したのだった。一方、イギリスの方向転換を憂慮したアメリカはイギリスの民間人の支持を得て門戸開放政策を推し進めるようになる。そして、清において義和団事件が起こり、列強の共同出兵により、事件を終息させた。問題は派兵したロシア兵が居座って、満州地域を占領状態にしてしまったことだった。このような動きに対して、日本では新聞や論説では、満州地域に軍政を敷いて、貿易について門戸閉鎖するロシアは「非文明的」であるという論調が起こった。このころ、対外貿易が日本経済に占める割合が画期的に上昇し、その主な輸出相手地域は朝鮮と満州だったので、門戸開放を認めないロシアに非文明国というレッテルを貼ることは説得的だった。
 このように、日清戦争後から日露戦争に至るまでの時期、東アジアでの英米の政策が明確に変化し、満州占領に至るまでのロシアの行動が日本の死活的な危機として受け取られたことで、国際的な環境が日露戦争への道を自然に導くものとなった。また、ロシアとの戦争支持できるような論理が広く社会にゆきわたった。臥薪嘗胆ではなく、門戸閉鎖をする非文明国ロシアという論理、自国民に専制を敷くロシアという論理がそれだった。
 戦略的には、シベリア鉄道が未完成で、日本の艦隊がロシア太平洋艦隊に優勢である時点で開戦しないと勝ち目はないと判断されていた。

加藤陽子「戦争の日本近現代史─東大式レッスン!征韓論から太平洋戦争まで」(5)~第5章 なぜ清は「改革を拒絶する国」とされたのか

 ここまでの議論から朝鮮半島を利益線として清国の勢力を排除するために日清戦争となったという議論に直結できる。しかし、これは山県をはじめとした軍事当局者のあいだでのことで、利益線などということも知らない国民には理解できないものだったはずだ。
当時の帝国議会で多数派を占めた民権派の主張は経費削減・民力休養であり、歳出をできるだけ抑えて地租軽減にあてようというものだった。もっとも、もともと民権運動は国家主義的なものだったから、軍事予算は最終的には議会の承認を得ることができた。しかし、国民の側には戦争を素直に受け入れられたわけではない。
 1894年、朝鮮では甲午農民戦争(東学党の乱)が起こり、朝鮮国王は清国軍の派遣を要請する。これに対して、日本は天津条約に基づき清に出兵を通告する。その後は、乱の共同討伐と朝鮮内政の共同改革の申し入れ、清の拒絶から日清戦争という経緯は歴史の教科書にもある。しかし、事態はスムーズに進んだわけではなかった。まず、清の派兵が朝鮮の中立を妨害するという認識が日本政府になければならなかったはずだが、清の出方や出兵の規模が不明だったときに、それを認識させるものが必要だった。
 甲午農民戦争(東学党の乱)が終息すると派遣した兵を撤退させることになるが、外相の陸奥宗光は朝鮮の内政を改革するため日清両国が協力してあたるという提案をする。そのためには駐兵が不可欠だとしたが、清国側は提案を拒絶。その拒絶回答はもっともなものだったが、陸奥はそれにより、朝鮮の内政改革に熱心な日本とそれを拒絶する清国という単純な対称イメージを作りだした。さらに、これを国民に宣伝するプロセスで開化対保守とさらにイメージを単純化させていった。その結果、日清戦争を「文明開化の進歩をはかるものとその進歩を妨げようとするものとの戦い」として国民に受け入れられたのだった。
 日清戦争は日本の勝利に終わり、朝鮮は清の属国から独立した国家となった。しかし、日本は、この朝鮮と今後どのような関係をとっていくかという将来の見通し、つまり朝鮮にさらなる影響力を行使していく場合にどのような論理が必要となるか、が明確でなかったのだった。

2023年1月 8日 (日)

加藤陽子「戦争の日本近現代史─東大式レッスン!征韓論から太平洋戦争まで」(4)~第4章 利益線論はいかにして誕生したか

 山県の認識は日本一国だけの独立を考慮した独善的なもので、不平等条約であった日朝修好条規が、朝鮮社会を混乱させ、朝鮮自身による国内改革を困難にしてしまったという認識はなかった。この視点では朝鮮への侵略という点が欠落しているが、当時の国民にはこのような議論は説得的だった。現在の嫌韓の人々の韓国併合の考え方にも通じている、私は読んでいて思う。このころ朝鮮は国名を大韓帝国と改称し国王は皇帝となり、清の皇帝と対等と称し、つまり、清の属国から独立した国家と国際的には称することになった。
 このころ、山県は利益線という防衛思想をはじめて公に表明した。これは、伊藤博文に憲法を指南したオーストリアのシュタインの、主権の及ぶ国土の範囲を権勢の領域とし、その国土の存亡に関係する外国の状態を利益の領域とする説を受けたものだった。害ここが自国に不利な行動をしたときに、排除しに行かなければならない区域が利益の領域で、山県はこれにあたるのが朝鮮ということになる。山県は朝鮮が中立であり、それを妨害するものがいたら排除すべきと考えた。現実に、ここで脅威の対象となるのはロシアで、当時のロシアはシベリア鉄道を建設中だったが、このシベリア鉄道が完成すると、終着駅はウラジオストクとなる。しかし、ウラジオストクは冬季には結氷する。そこで冬季にも結氷しない港を求めると朝鮮半島に焦点が当たる。その朝鮮の中立を確保するために相応の軍備が必要で、それを日本武力で実現させると考えたのだった。

2023年1月 7日 (土)

加藤陽子「戦争の日本近現代史─東大式レッスン!征韓論から太平洋戦争まで」(3)~第3章 日本にとって朝鮮半島はなぜ重要だったか

 征韓論論争で下野した西郷は西南戦争に敗れ、武力による内乱の最後となった。それに代わるように自由民権運動が勃興した。これはヨーロッパのデモクラシー運動とは一線を画していた。日本の自由民権運動は、天賦人権論の援用はみられるものの、むしろ国家の独立を維持し国権を伸張させるためには自由民権の理想の実現が不可欠とする国家主義的性格が色濃いものだった。これは当時のヨーロッパの植民地統治の方式が通商の自由による権益確保から帝国主義的な直接統治に転換していったのを、民権運動の担い手たちがリアルに認識していたからで、それゆえに広い支持を獲得できたと言える。国会開設運動も、この文脈で捉えることができる。これは、民権運動だけでなく、為政者の側も早くから自覚していた。例えば大久保利通による殖産興業政策は政府主導で民間の力の底上げを図り、政府へ自発的参加を促すものだった。この時点では、政府と民権運動との間に基本的な対立はなかったと言える。
 また、政府内で大久保とは対極の軍拡派の議論はというと、例えばその代表である山形有朋は、強兵が達成されて、はじめて富国・民権・外交を進めることができるという、優先度が逆の議論を展開していた。とくに山県はロシアと清国の動きを重視していた。この両国の対立で隣国の日本がとばっちりを受けることを、両国が大国なだけに、被害は大きくなると警戒を深めていた。例えば、日本近海で露と清国の戦いがありうると、その場合、清国の北洋艦隊の前進基地として属国である朝鮮がクローズアップされてくる。そのため、清国に対抗することを基準として軍備の増強を主張し、部分的に実現させていった。しかし、1884年の清仏戦争で、清はフランスに負けて属国であるベトナムを守れなかった。これを受けて、山県の清に対する認識が変化する。清とロシアとの対立はロシアが優勢で、ロシアが朝鮮に侵略される状況を清国が作ってしまっているという疑心が生まれたのだ。実際に、ロシアは朝鮮海峡の巨文島を奪おうとしていたところ、イギリスが清の許可を得た上で占領するという事件が起こる。これは、英露の対立が強まったことと、清がイギリスに朝鮮の一部の占領を認めたということが衝撃的だった。このような許可が朝鮮半島についてイギリスやロシアに出される可能性が生まれたことを山県は認識したのだった。このことから、朝鮮から清の影響力を排除するという動きが生まれた。

2023年1月 6日 (金)

加藤陽子「戦争の日本近現代史─東大式レッスン!征韓論から太平洋戦争まで」(2)~第2章 軍備拡張論はいかにして受け入れられたか

 著者は連鎖の始まりを明治の維新政府の矛盾に見出す。既存政権であった江戸幕府を倒して実権を握ったのは薩長を中心とした藩閥精力であったが、彼らは討幕のスローガンとして「尊王攘夷」を掲げていた。しかし、明治新政府は諸外国と協調する外交を択らざるをえなかった。その矛盾への非難が生じてくるのに対して、新政府は自らの置かれた状況率直に披露し、政治方針を説明したのだった。それによって、政府は説明した方針に基づいた政策を進めてゆかざるをえなくなり、一方で、人々のあいだに対外的危機に敏感な近代的政治意識を急速に浸透させることになった。そこで、西欧列強の脅威にさらされる中で日本の独立を守るために富国強兵政策を推進していったが、そこで普仏戦争に勝利したプロイセンの例を盛んに参照されたという。すなわち、その70年前には軍事費を抑制したためフランスに敗北し、その結果多額な賠償金を支払うことになり、その賠償金はフランスの軍備増強に使われることになった。その敗北を教訓として普仏戦争で勝利を収めた。ここで注目されるのは、経済への悪影響を心配して軍事支出を抑えても、戦争に負ければ莫大な賠償金を課せられるので、軍事を抑えるべきではないという論理になってしまうことだ。そういう風潮の中でも、新政府は冷静な姿勢を保っていた。実際に、それが表われたのが征韓論論争だったという。つまり、無理な軍拡を進めて、強引に挑戦に攻め入ることもできたが、そうしなかった。むしろ、政府は軍備の整備を中長期的な目標として、そのために緊縮財政の必要性を人々に説くという冷静な姿勢をとったのだった。なお、ここで著者は教科書的な内政重視の大久保と不平士族の反乱防ぐためのガス抜きとして征韓論を進める西郷の対立というのは一面的だという。例えば。西郷は数年前の日朝修好条規のきっかけとなった江華島事件の際には名分がないとして武力行使に反対したことから、単純な武力推進派ではないことを明らかにしている。西郷は国内改革と対外侵略を密接不可分として見ていたので、しかし、これは後年の軍部による満州進出に、むしろ近いとも言える。

2023年1月 5日 (木)

加藤陽子「戦争の日本近現代史─東大式レッスン!征韓論から太平洋戦争まで」

11112_20230105200001  10年以上前に読んだ本の再読。その時の感想として覚えているのは、軍部が独走したとして戦争責任をすべて押しつけようとするリベラル派でも、英米の世界政策によって戦争を強いられたという戦前回帰的でもない、さまざまな方向性の思惑が絡み合い、それぞれの選択が長期的に積み重なった結果として戦争に至ったという重層的な視点で戦争に至る経緯を見ているというものだった。数年前、著者が政治的な局面でいわゆるリベラル派とみなされて物議をかもしたが、この著作を読む限りでは、そういう一面的な見方とは一線を画していると思う。
 そして、今回読み直してみると、この著作は歴史の見方について考えることが主題で、戦争に至る歴史の議論は、その主題のためのケーススタディだったことに気がついた。これは、私が、昨年『歴史のトリセツ』や『世界史の考え方』といった本を読んだからだったかもしれない。本書の冒頭で、著者は概要をシラバスの形で提示している(以前に読んだときは、ここのところを読み飛ばしてしまったのだろうか。この後の歴史物語の方に興味があったのだろうか)。歴史とは単に出来事=事件の連なりではなく、そのほかに問いがあり、それは出来事=事件に埋没していて、それを掘り起こすのが歴史家なのだという。その問いとは、歴史的な事件の背後には時代の中で人々の認識や行動のパターンの大きな変化があり、人々が実際に行動を起こす源は何かということ。本書では、それを歴史のケースとして、明治以降の日本が戦争へと至る中で、為政者や国民が、いかなる歴史的経緯と論理の筋道によって、「だから戦争にうったえなければならない」、あるいは「だから戦争はやむをえない」という感覚までも、もつようになったのか、そのような国民の視角や感覚をかたちづくった論理とは何なのか、と問いを提示し、本書の大部分で、その問いを掘り起こす作業を読み手に見せようとしている。そのような問い方は、リベラル派でも戦前回帰派でも、たんに「なぜ日本は無謀な戦争に踏み切ったのか」とか「なぜ日本は負ける戦争をしたのか」といった単発的な問いの偏りと対照される。このような問いは、もし日本が戦争に勝ったとしたら問われることのないものであり、結局、敗戦の責任を軍部でも天皇でも国民でも誰かに押しつけようとする結果とかもたらすものでしかない。その意味では、丸山真男の「無責任の体系」なども洗練されてはいるが、単純化により分かりやすくして、責任者を糾弾するという一面があることに気づかされる。

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