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2023年1月25日 (水)

源河亨「『美味しい』とは何か─食からひもとく美学入門」(3)~第2章 食の評価と主観性

 食の評価には主観的な側面と客観的な側面の両方があるという。味覚は主観的というのが一般的だ。おいしいかどうかは個人の主観に依存し、客観的な側面などないと思う人が多い。それで、私たちは普段、味の評価について意見が合わなかったときは、好みの違いで済ませてしまう。その意見が合わなかったのはなぜかを確認してみれば、評価に客観性があることが明らかになる。
 味を表わす言葉について、「おいしい/まずい」と「甘い/辛い」とは使い方が異なる。ある食べ物がおいしいかまずかを判断するときと、甘いか辛いかをはんだんするときには、違う基準が使われている。その違いとは、判断の種類の違い、評価と記述の違いである。「おいしい/まずい」は評価的判断であり、その判断には、対象がどう評価されたかが表わされている。「甘い/辛い」は記述的判断で物事のあり方を単に述べたものである。
 評価的判断は対象に対する評価だが、食べ物のおいしさがわかるかどうかは味覚を感じる能力が優れているということとは別な、たしかに知覚能力がなければ甘いとか辛いといった記述的判断はできないが、知覚能力だけでは評価を下すことはできない。そこで働くのは「センス」だ。
そこで、「センス」に客観性があるのかが問題となる。みんながおいしいと思う食べ物が嫌いな人もいるし、みんなが嫌いな食べ物を好む人もいる。おいしいやまずいは、他人に正しさを認めてもらうような客観的な判断ではなく、主観的な感想だということだ。ところで、このような「センス」の考え方には、いくつか種類がある。たとえば、あるものを美味しく感じるかどうかには文化の差によるというもの。例えば、納豆を関西圏の人は気持ち悪いと思う。同じ文化の中でも人によっておいしさを感じる差はあるが、違う文化の人との違いに比べれば小さい。あるいは「センス」の差を好き嫌いと同じだという考え方もある。
 一方、「センス」に客観性のないという人でも、他人の評価は気にならないだろうか。「センス」が人それぞれであるなら、評判のおいしい店などという情報は気にならないはずだ。だって、他人と自分は違うのだから。だけど、実際には食べログのレビューを参考にして店を選ぶ。また、おいしいは文化によって違うという考え方については、その文化の中ではおいしさの基準のようなものが存在するということが、この考え方の土台になっている。この場合、基準のようなもの、言い換えるとおいしさの客観性には幅があるということだ。
 こういうことから、「おいしい」には主観的な側面と客観的な側面があるということが分かる。つまり、どちらか片方を否定するのではなく、両立させるべきだという。そのための方策として、ひとつはおいしいには文化的相対性があるが、一つの文化の中では基準というより傾向として正誤を問うことが可能だ。もうひとつは、言葉の使い方で、「おいしい」「まずい」は主観的性格が強いが、「濃厚」「くどい」はそうではなく対象がもつ特徴によって正しい使い方があるが、「濃厚」は言うひとが肯定的に見ているのに対して「くどい」は否定的にみているという意味合いが含まれる。

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