三谷博「明治維新を考える」(2)~第2章 革命理解の方法─「複雑系」による反省、維新史の鳥瞰
明治維新には最初に提示したような謎があり、これを説明できるような明治維新全体の説明方法を著者は探求する。それは一般的な出来事の列挙、事件の連鎖では、なぜそうなったのかという説明ができない。その他にも著者は様々な方法を模索する。そこで著者が注目するのが複雑系の考え方だ。複雑系とはシステムを変化するものという観点から理解しようとする方法。システムを、建築物のような静的な構造として見るのでもなく、また動きはあっても常に一定の均衡維持するようなものと見るのでもなく、絶えず変化を続けるものとして、しかし完全な秩序ではないものとして見ようとする。これは、維新という巨大な変化を理解するのに特定の単純な因果関係を探し出そうとする、つまり大きな原因を探すという方法を回避することになること、そして、小さな変化が巨大な変化を引き起こすのを追いかけることができること、変化の過程そのものが新しい秩序とルールを生成することを示すことができること、などが可能となる。これらのことは明治維新には大きな原因らしきものが見当たらないにもかかわらず、大きな変革という結果をもたらしたことを説明するには適合的だと著者は言う。
例えば、ペリー来航の影響については、次のように説明できる。幕府はアメリカのみならず列強と和親条約を締結するが、その時点では危機回避のための一時的な策略とみなされていた。しかし、列強はこれを機に日本への関心を高め国交と通商を画策するようになった。一方、国内にも、国防強化のために通商を行うという発想が生まれた。このように内外に一時的ではない恒常的な関係を生む条件が連続的・累積的に生まれた。その結果が安政の5カ国条約(修好通商条約)であり、この条約は明治以後も維持され、日本を近代西洋国際体制に組み込んでいく端緒となった。
当時の日本は東アジアの中華帝国からは外れて、いわば独立の状態だった。そこに西洋列強が現われ、その国際秩序になかば強制的に編入させられた。日本は抵抗せずにそれを受け入れた。そのことがやがて中華帝国秩序への挑戦(例えば日清戦争)へり道筋を作ることに至る。
この時点で、日本は攘夷に踏み切る選択肢もあった。実際に朝鮮はそうした。日本政府はその選択をしなかったが、内政上の変動を呼ぶ前提となった。水戸で生成した攘夷論は、むしろ西洋との戦争を故意に引き起こし、その緊張で挙国一致を生みだし、内政改革をしようという内政を主眼として対外強硬論を利用しようとしたものだった。その中には、さらに日本という国家を大名による分国より重視する集権的なものにしようとする方向性を生むこととなった。その中心として朝廷が注目されると、幕府が西洋に対して屈辱的と見られたとき攘夷論は日本の名による幕府批判の拠り所を提供し、朝廷への期待が発生する。ここに従来の政治主体が負っていた役割に変化が生じ始めた。
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