源河亨「『美味しい』とは何か─食からひもとく美学入門」(5)~第5章 おいしさの言語化
味やおいしさは言葉にできないと言われる。そしてまた、おいしさは言葉できないだけでなく、言葉にするべきではないという人もいる。
前者の主張については、言葉による区別が近くによる区別よりも粗いことによる、と著者は言う。二つの味は味わうという近くを実際にすれば区別できるが、その違いに対応する言葉がない。「甘い」といっても、その「甘い」の程度を細かく区別する言葉がない。そのため、ある料理を食べた時に感じた味だけに当てはまり、よく似ているが違う味を除外する言葉が見つからない。そういう場合に出くわすと、おいしさは言葉で表現できないということになる。著者は、解決可能だという。これは、言葉を精緻にすればよい。例えば、「甘い」の程度なら砂糖〇グラムと数値化する方法もある。要は、言葉の表現の工夫による解決の可能性はあるし、実際に行われている。
また、おいしさのすべてを言葉にできないといっても、その不十分な言葉で情報が伝わることのメリットは大きい。「おいしい」という曖昧なことばで、ある飲食店のファンが増える。おいしいは自分で知覚するにしても、その対象を増やすことができる。言葉にすることのメリットはこれだけではない。おいしいものを食べた人が、その体験を言語化することで明確化することができるということだ。体験はその都度過ぎ去ってしまうものであり、ありのままに記憶に留めておくことは難しい。しかし、前の体験と現在の体験を比較しなければ、現在の体験が他とどのように違うのかという理解もあやふやなものとなってしまう。そこで役立つのが言葉だ。言葉によってそれぞれの体験の違いが明確に留められ、言語化を通して体験がよりよく理解できるようになるのである。
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