坂口ふみ「〈個〉の誕生─キリスト教教理をつくった人々」(4)~第2章 ヒュポスタシスとペルソナ
4つの公会議の二つ目は381年の第1コンスタンチノポリス公会議。このころはヨーロッパではゲルマン民族の移動が本格化し、西方教会は西ゴート族との共生していた。彼らの信仰は父・子・聖霊を段階的存在と考えていた。西方教会は三位の等しく神であることを標榜しながら、子、聖霊と序列を設ける。この等しく神であるという本質の統一性を強調しようとして、統一性と多様性をあわせもつ三位一体の神秘的で二律背反な性格を弱めてしまうと東方教会から批判されることになった。西方は、神の実体の一であることを重視する。そこで位格の多は実体の一とは理性的には相容れない、つまり、絶対的な多様性と絶対的な統一性の一致という自然世界や論理ではあり得ないもの。だからこそ神の神秘なのだという。聖霊を子の下もいわば従属的な位置に置くのは、同一実体を強調し、かつロゴスを重視する表われと言える。さらに子という第二の位格は、受肉して人となって教え、救済する位格です。不可視で捉えにくい第三の位格に比べて、第二の位格を重視し、さらにはその人間性を強く社長していく西方神学は、古代ローマ以来のラテン的現実主義・人間主義の心性を反映していると言えます。それゆえ、聖霊がロゴスの下位にくるようなのだ。父とロゴスから聖霊が出るとはいうが、聖霊からロゴスが出るとはいわない。キリストの「体」である教会は、この世での可視の神の宮として、キリストとその地上の代理者を「頭」とする統一体として組織されます。聖霊はたしかに教会を構成する人々の神への内的結びつきの原理であり、人々の交わりの原理です。しかし、理性的組織・制度・ヒエラルキーがそこにはある。
これに対して東方教会は、聖霊をロゴスと対等に置き、父の位格の両手とすることで、知性的なものと生命的なものの平等と均衡を主張する。これは、今日での西欧文明・文化の主調に対しての一つの基本的な批判の視点を示していると言える。当方では共同体のうちでも、教会においても、理念として個なる人、個なる信徒の平等で自由で自発的な愛ら基づく交流が統合原理とされている。理性的組織やヒエラルキーではなく、自由と生命と内的充溢が、聖霊重視の帰結と言える。
ところで、近代の哲学的な概念、例えば存在とか実体とか関係とか範疇といった語は、もともとがギリシャ語起源でラテン語化されて、そこから各国語に翻訳された。しかし、ギリシャ語のヒュボスタシスという語はラテン語化されず、西欧の哲学的概念に入り損ねてしまった。教義論争では、まさにこの概念をめぐっての闘争という面があった。それ保持重要な概念がラテン語化されなかったのはなぜか。そのひとつの答えは、このヒュボスタシスがペルソナと翻訳されたから。ペルソナは人格などと訳される中核的な概念である。しかし、ペルソナは、本来、ヒュボスタシスとは全く異なった意味の概念で、ギリシャ語で始まったキリスト教の思想化が西方のラテン世界に移行されるときに、すり替わってしまった。そのため、「個」という概念で、置き換えのきかない純粋個者、しかもつねに他者との交流のうちにあることを本質とする単独者という概念を、西欧はギリシャから受け継ぐことがなかった。
ヒュボスタシスという語は、下に立っているという動詞から生じた名詞で、液体の沈殿物などの個体と液体の中間のどろどろしたものを指す。この流動的なものが固化するという感じで、基礎、哲学的には実体、現実存在、現実性等の意味になる。ここには非実体から実体が現われてくるという動的なものが含まれている。ヒュボスタシスがウシア、ピュシスなどの似通った意味の語からはっきりと区別され、独自の意味を担うのはカルケドン公会議以後のことだ。ウシアはもともとbe動詞の現在分詞から生じた抽象的な存在の意味合いで、このうちとくに現実、存在性、リアリティーを強調する部分がヒュボスタシスと言える。キリスト教神学では神のウシア・ピュシスと区別してヒュボスタシスをもちいるようになり、三位一体論は一実体で三位格(ヒュボスタシス)と表見されていく。東方教会は、西方教会の三位一体の一性の強調に対して、三位格を基本と考えて異議申し立てを続けた。ヒュボスタシスには人格的・人称的、匿名的でない存在、匿名的存在から実存化する働きそのもの、と言える。西方でペルソナであるというのは第二の位格ロゴス、受肉する子なる神。これに対して、第三の位格である聖霊は西方では影が薄い。ロゴス的でなく、受肉して形質を得たものでもない。捉えがたい位格。東方教会では、反対に明確に捉えられない無形の霊・愛の働きである第三の位格が重きをなしてくる。
そして、ヒュボスタシスとピュシスも違う。この違いはカルケドン公会議のキリスト論論争で問題となった。ピュシスは、今日ではnatureと訳されているが、もともとは本質とか性質を意味し、しかも生成と密接にかかわるという動的な意味合いを秘めた語だ。あえていえば「生むもの」「生まれたもの」。そこから、全自然つまりコスモスの一部すなわち物質的部分とか宇宙の秩序・運命といった内容をもつようになった。
簡単に三者を分けると、ウシアはもっとも哲学的・抽象的性格が強く、しかも本質、形相、実体などかなり幅を持つ概念。ヒュボスタシスは存在のアクチュアリティー、実存といったニュアンスをもち、動的はたらき、流動のうちのいっときの留まりといった性格をもつ。そしてピュシスは古いギリシャ語で、自然存在、本性、生むもの、生まれたもの等のニュアンスをもつ。
沈殿、基礎の意味合いのヒュボスタシスが役割、人に与える影響、印象といった意味合いペルソナに換えられという奇妙な事態が起こったのは「個存在」という共通項・媒介項を介してだった。ヒュボスタシスは存在するものを存在せしめるアクチュアリティーそのもので宇宙的循環の一要素であるのに対して、ペルソナは劇場という場のうちの要素で、両概念の場は異質なものだ。この両概念が換えられるという現象で、それぞれの内容が混同されがちになる。その結果、キリスト教思想は豊かな基本概念を得ることになった。
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