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2023年2月

2023年2月28日 (火)

坂口ふみ「〈個〉の誕生─キリスト教教理をつくった人々」(4)~第2章 ヒュポスタシスとペルソナ

 4つの公会議の二つ目は381年の第1コンスタンチノポリス公会議。このころはヨーロッパではゲルマン民族の移動が本格化し、西方教会は西ゴート族との共生していた。彼らの信仰は父・子・聖霊を段階的存在と考えていた。西方教会は三位の等しく神であることを標榜しながら、子、聖霊と序列を設ける。この等しく神であるという本質の統一性を強調しようとして、統一性と多様性をあわせもつ三位一体の神秘的で二律背反な性格を弱めてしまうと東方教会から批判されることになった。西方は、神の実体の一であることを重視する。そこで位格の多は実体の一とは理性的には相容れない、つまり、絶対的な多様性と絶対的な統一性の一致という自然世界や論理ではあり得ないもの。だからこそ神の神秘なのだという。聖霊を子の下もいわば従属的な位置に置くのは、同一実体を強調し、かつロゴスを重視する表われと言える。さらに子という第二の位格は、受肉して人となって教え、救済する位格です。不可視で捉えにくい第三の位格に比べて、第二の位格を重視し、さらにはその人間性を強く社長していく西方神学は、古代ローマ以来のラテン的現実主義・人間主義の心性を反映していると言えます。それゆえ、聖霊がロゴスの下位にくるようなのだ。父とロゴスから聖霊が出るとはいうが、聖霊からロゴスが出るとはいわない。キリストの「体」である教会は、この世での可視の神の宮として、キリストとその地上の代理者を「頭」とする統一体として組織されます。聖霊はたしかに教会を構成する人々の神への内的結びつきの原理であり、人々の交わりの原理です。しかし、理性的組織・制度・ヒエラルキーがそこにはある。
 これに対して東方教会は、聖霊をロゴスと対等に置き、父の位格の両手とすることで、知性的なものと生命的なものの平等と均衡を主張する。これは、今日での西欧文明・文化の主調に対しての一つの基本的な批判の視点を示していると言える。当方では共同体のうちでも、教会においても、理念として個なる人、個なる信徒の平等で自由で自発的な愛ら基づく交流が統合原理とされている。理性的組織やヒエラルキーではなく、自由と生命と内的充溢が、聖霊重視の帰結と言える。
 ところで、近代の哲学的な概念、例えば存在とか実体とか関係とか範疇といった語は、もともとがギリシャ語起源でラテン語化されて、そこから各国語に翻訳された。しかし、ギリシャ語のヒュボスタシスという語はラテン語化されず、西欧の哲学的概念に入り損ねてしまった。教義論争では、まさにこの概念をめぐっての闘争という面があった。それ保持重要な概念がラテン語化されなかったのはなぜか。そのひとつの答えは、このヒュボスタシスがペルソナと翻訳されたから。ペルソナは人格などと訳される中核的な概念である。しかし、ペルソナは、本来、ヒュボスタシスとは全く異なった意味の概念で、ギリシャ語で始まったキリスト教の思想化が西方のラテン世界に移行されるときに、すり替わってしまった。そのため、「個」という概念で、置き換えのきかない純粋個者、しかもつねに他者との交流のうちにあることを本質とする単独者という概念を、西欧はギリシャから受け継ぐことがなかった。
 ヒュボスタシスという語は、下に立っているという動詞から生じた名詞で、液体の沈殿物などの個体と液体の中間のどろどろしたものを指す。この流動的なものが固化するという感じで、基礎、哲学的には実体、現実存在、現実性等の意味になる。ここには非実体から実体が現われてくるという動的なものが含まれている。ヒュボスタシスがウシア、ピュシスなどの似通った意味の語からはっきりと区別され、独自の意味を担うのはカルケドン公会議以後のことだ。ウシアはもともとbe動詞の現在分詞から生じた抽象的な存在の意味合いで、このうちとくに現実、存在性、リアリティーを強調する部分がヒュボスタシスと言える。キリスト教神学では神のウシア・ピュシスと区別してヒュボスタシスをもちいるようになり、三位一体論は一実体で三位格(ヒュボスタシス)と表見されていく。東方教会は、西方教会の三位一体の一性の強調に対して、三位格を基本と考えて異議申し立てを続けた。ヒュボスタシスには人格的・人称的、匿名的でない存在、匿名的存在から実存化する働きそのもの、と言える。西方でペルソナであるというのは第二の位格ロゴス、受肉する子なる神。これに対して、第三の位格である聖霊は西方では影が薄い。ロゴス的でなく、受肉して形質を得たものでもない。捉えがたい位格。東方教会では、反対に明確に捉えられない無形の霊・愛の働きである第三の位格が重きをなしてくる。
 そして、ヒュボスタシスとピュシスも違う。この違いはカルケドン公会議のキリスト論論争で問題となった。ピュシスは、今日ではnatureと訳されているが、もともとは本質とか性質を意味し、しかも生成と密接にかかわるという動的な意味合いを秘めた語だ。あえていえば「生むもの」「生まれたもの」。そこから、全自然つまりコスモスの一部すなわち物質的部分とか宇宙の秩序・運命といった内容をもつようになった。
簡単に三者を分けると、ウシアはもっとも哲学的・抽象的性格が強く、しかも本質、形相、実体などかなり幅を持つ概念。ヒュボスタシスは存在のアクチュアリティー、実存といったニュアンスをもち、動的はたらき、流動のうちのいっときの留まりといった性格をもつ。そしてピュシスは古いギリシャ語で、自然存在、本性、生むもの、生まれたもの等のニュアンスをもつ。
 沈殿、基礎の意味合いのヒュボスタシスが役割、人に与える影響、印象といった意味合いペルソナに換えられという奇妙な事態が起こったのは「個存在」という共通項・媒介項を介してだった。ヒュボスタシスは存在するものを存在せしめるアクチュアリティーそのもので宇宙的循環の一要素であるのに対して、ペルソナは劇場という場のうちの要素で、両概念の場は異質なものだ。この両概念が換えられるという現象で、それぞれの内容が混同されがちになる。その結果、キリスト教思想は豊かな基本概念を得ることになった。

2023年2月27日 (月)

坂口ふみ「〈個〉の誕生─キリスト教教理をつくった人々」(3)~第1章 いくつかの日付

 4~6世紀の教義論争、ニケイアをはじめとした4つの公会議、世界史の授業ではスルーされているが、キリスト教が事実上ローマ帝国の国教になりはじめた初期ビザンツの時代に、教義の統一の必要が差し迫ったものとなり、帝国と議会の権威の下で三位一体論とキリスト論を二つの柱とする基本的教義が全教会・帝国に布告されたことをめぐる論争のことだ。ここで、信仰の理論化、理論体系のキリスト教化というヨーロッパ思想史上の重要事件であった。それはまさに人間の新しい希求に、新しい概念的説明を与え、ギリシャの基本的存在論・形而上学をその新しい希求と価値によって掘り崩し、組み換え、新たな価値体系の基礎を築いた事件。ギリシャ・ローマの古典古代の価値観の反映である古典古代的存在論にかわるべき、キリスト教的価値観の表現としてのキリスト教的存在論の創設であった。
 それまで言語化されていなかった、それゆえに捉え切れていなかった、しかし人間が希求する現実について語るということは理性の第一歩として不可欠なことで、テーゼとはそこから始まる。経験、希望、愛、挫折等に満ちた生に直面して、見通しがたい理想と自分の向かうべき方向を語ることは、哲学思想の第一歩だ。キリスト教の教義も、キリスト教哲学化、思想化、体系化も、イエスがシンプルに語った教えに、できるかぎり普遍的で透明で共時的なかたちを与えようとする努力に他ならなかった。その努力の中で人々は、ヨーロッパの哲学・思想にとって基本的に重要な新しい概念、新しい存在論を生みだしていった。それが、個としての概念である。
 4つの公会議の最初は325年のニカイア公会議。教義論争の争いのすべては「イエス・キリストは何者か」という唯一の問いをめぐるものだ。福音書の記述は、イエスが何者かについては大雑把で曖昧だ。イエスが奇石を起こす力を持つ例外的な存在者であることを強調し、あるいは復活を語り、高く揚げられて天の父の右に座し、審判のときに再来する等々の神格性をうかがわせる記述はある。しかし、イエスをはっきり神とは語っていない。「天なる父」という言い方で、「神の子」という言い方はあるが、とくに術語的な意味はない。神の子は神なのか神以外なのか、両者の関係はどういうものか。このような神とキリストの関係の問題は、イエス自身の問題ではなく、福音記者や使途たちにとっての問題であった。それは、古代ギリシャの哲学が現象の根底に見いだそうとした一なる原理と、現象の多との関係への問いに重なる。感覚される多のうちに一を求め、それによって世界の多様な存在や出来事の理解は容易になり、人間が世界に対処する道が開ける。しかし、理性が神化されれば、おのずと硬直し、概括化、カテゴリー化を呼び、やがては一なる原理は形骸化する。
 このような理性の長所と短所を端的に示したのがパルメニデスという人だ。「ただ〈ある〉があるだけで、他にはなにもない」という議論。〈ある〉という「一」として存在を語り、あらゆる「多」と差異を非存在として否定するという極端な一の論理に至った。つまり、存在以外のあらゆることを否定してしまった。これに対して、プラトンは私たちの生を成り立たせている「多」をいかに論理的に否定しないようにするかに取り組んだ。アリストテレスもそうだったが、そこには複雑な操作が入り込み、彼らの後継者たちは、多を含み持つ一元論の体系に傾斜していった。一からすべてを説明しようとする時、その原理と世界の間には、種々の中間者、第二原理、第三原理等々が置かれ、またそれらの間の関係が説明されてくる。因果であったり、分有であったり、能動と潜勢であったり、流出と還帰であったりだ。キリスト教の三位一体と創造と救済もそのような一なる原理と多なる私たちの世界との関わりの説明のヴァリエーションの一つにすぎない。これらの教理はヘレニズム世界の共通の試みの一形態という性格を色濃く持っていた。
 後に異端とされたアリウス派のアリウスは神の単一性・単純性を主張し、ロゴス・子・知恵などと呼ばれる第二のもの、第一原理から派生するものを峻別した。第一の神は世界を創造する神であり、理の当然としてロゴス・子は被造者となる。単純明快で合理的だ。著者は、彼が異端とされた要因として、その合理性のゆえに、神ではなく、神になるべき本性ももっていない、現にあるがままの人間の救いへの愛と関心が欠けていたためだと言う。
 他方、正統の大立者となったアタナシウスは、決して理論家とは言えなかったが、信仰の熱さで際立っていたという。贖罪のために自らを贈る神は、神自身を贈るのでなければならない。そうでなければ、人間の不完全性、罪が消えることはない。ここに、厳格な三位一体の宗教的根拠があった。これはパルメニデスの明快な論理を真っ向から否定するものだ。
 正統による父と子が同一というのは、先に述べたプラトンやアリストテレスなどによる複雑な操作で多を許すというものとは違い、そういう苦労を一切無視して、単純に端的に、異なるものが一でなければならないと言い切ったのだった。
それい、いったいどういうことか。それは、もはや古代哲学では説明できない。これを理解可能な形で説明するためには、それまでとは根本的に違う、新しい現実の切り方を考え出す必要があった。それを語るべく言葉と概念を見出す必要があった。問題は「人が隣人との出合い最も重大で貴重な出来事として体験するとき、そこに見えるものをどう語るべきか」ということだ。著者は、そこで試みられた回答をいくつか提示する。
 一つの方法は、ネオプラトニズムを換骨奪胎したもの。無限定な超越的第一原理(父なる神)と、それをかたちにもたらし、表示・表現する第二原理(子、ロゴス)は、つまり、「示されるもの」と「示すもの」で、同一の実体を持つというものだ。知られえぬものと掲示するもの、純粋な存在そのものと存在者、言い換えれば存在と形相、それらは実体を共にし、しかも互いに切り離せない相互関係性に立っている。第一原理が存在者と区別して存在そのものとなっていることにより、パルメニデス以来、認識可能性つまり光の同義語のようだった存在の本性が知られざるもの、知を超えるものつまり闇の同義語となる。これはあらゆる存在者の芯に超越的な闇をみる。パルメニデスの存在は知性の対応者という捉え方が逆転して、存在者を存在者たらしめる不可知な存在が第一原理となる。さらに、父と子の関係を見えざる存在とその表現とすることによって、子は父のかたちとなる。神は実在、実体、動き、生であっても、隠れたそれであり、かたちのない存在そのもの。これを理解することは不可能である。しかし、生は生であるかぎり、存在である。だから存在そのものが現われるのは生のうちにである。したがって生は存在のかたち、つまり子である。だから、子は父と実体を同じくする。
 もう一つの方法は「三」であるものをウシアとの区別を強調する仕方で「三であって、ウシアは一つ」だと語ろうというものだ。上記のアレキサンドリア、西方教会系の主張に対して、東方の教父たちは父と子という二つの存在を区別し、同一の実体であるのは疑わしいと主張した。三位一体の一なるものをウシアと呼び、三なるものをヒュポスタシスと呼び、ヒュポスタシスはいわば父の現われだから、これが多であってもウシアが多である必要はない。このような区別を意識する過程で、父は生まれず、生むもの、子は生まれるもの、聖霊は気息のように発出するものという特性という古代ギリシャ的存在論にはなかった種類のものを考えだしたのだった。特性はウシアには属さず、ヒュポスタシスだけに属する。

2023年2月25日 (土)

坂口ふみ「〈個〉の誕生─キリスト教教理をつくった人々」(2)~序章 カテゴリー

 この序章のタイトルであるカテゴリーとは物事を分別することだ。これは、人間の生活、文明と文化そのものと分かちがたく結びついている。文化と文明は、一括し、抽象し、そしてその一括されたものを他と区別し、相互に関連付け、そして階層づけたりすることで成り立っている。文化や文明の基礎である人間の言葉の能力そのものが、基本的に、一括し、そして区別するカテゴリー化の力を出発点にしている。言葉は複雑な事象を整理して有限な数の概念をその組み合わせに還元してしまう。そういう言葉の助けを借りて、人は事象を分類し、秩序づけ、価値づけ、それらの分類と秩序を共通の基礎として社会をつくる。人はその思想のうちで、人として生きる。
 しかし、歴史の中には、そのような区別、差別、価値判断を、根こそぎ否定しようという試みがいくつもあった。革命だ。イエスの教えもまた、そういうもののひとつだった。彼の教えは、既成の価値・制度・文化を否定する徹底性において、当時は際立っていた。しかもその否定が、同時代のラディカルな宗派が厳しい禁欲のかたちをとったのとは違って、おおらかな温かさを伴っていた。なお、後世にキリスト教を受け入れたヨーロッパ社会は、イエスの否定と温かさを生かしてこなかった。
 イエスの否定は、否定のための否定ではなく、否定によって彼が浮き立たせ、救おうとしたものが重要で、著者は「隣人」という概念を提示する。隣人の唯一の条件は、私に近いこと、私が関わるということだけだ。そこには、社会とか文化といった属性は一切含まれない、理性とか感情すらも除外される。なお、この私との関わりを愛と規定できる。
 それが隣人への愛を仲介者キリスト、贖罪者キリストというかたちで表現していったのはキリスト教というヨーロッパ文化のシステムで、それに対して近代の人々が反発したのが、近代的な「個」といえる。
 キリスト教というシステム化、たとえばパウロだ。イエスの語った教えは宇宙論、歴史神学と化し、彼によれば、キリストと共に死んだ者はキリストと共に生きることにもなる。そこで、もはや罪にとらわれることはない。なぜならイエスの償いの後、人間は恵の下にいるのだから。これは隣人愛の壮大な展開であり、隣人とかかわるということが、神を通してかかわることになる。これは、隣人のうちに神の片鱗をさぐるということであり、言い換えれば個のうちに普遍を探り抽象的な原理へと導く知的な操作ときわめてよく似ている。これはヨーロッパ文化の基本的なものを形づくっているものだ。しかし、これは反面で、肝心の隣人へのかかわりが間接的になり、結果的に疎遠になってしまうことでもあった。
 ヨーロッパの文化・思想は、古代ギリシャとキリスト教という二つの根を持つとは一般的に言われることだ。そのうち、ギリシャ的なものとは、かっちりとした概念性、規定性、それらをむすびつける明晰な論理の法則、そしてそういうものを、多様で不定形な生と世界のうちで見いだしていく方途を与えたことだろう。人は様々な価値を求める。ある価値をたて、それに合わぬものを排し、つねにさらに高い価値を探究し、分類し、そうやって理解し対応できるものとし、秩序を見いだし、人々の間にも序列と階層と秩序を造るという理性の働き、ギリシャ文化にはそういうところがあった。しかし、それを固定し、絶対化してくると、それは人の生命を圧迫し始める。ヨーロッパ初期の歴史の中で、そういう文化的な危機のなかで、そういうものに徹底的に反抗し、個人が個人そのものであることに光をあてたのがイエスの教えだった。著者は、とういう視点で、ローマ後期のキリスト教に注目する。どんな属性でも、それを相対化し、人の核心なるものに光を当てる。それがキリスト教の大きな業績だったとすれば、その光を当てたそのことによって、その核なるものが固定化し、生命と流動性とそれに結びつく関係性を失っていったことは、キリスト教の光に対する陰の部分でもあった。

 

2023年2月24日 (金)

坂口ふみ「〈個〉の誕生─キリスト教教理をつくった人々」

11112_20230224202401  著者は、最初に、一般の通念として、人間の「個としての個」の自覚は近代に始まるという考えを偏向だと言う。人は、どの時代でも、個としての意識や感覚を持って生きていた。例えば、ヨーロッパの歴史を遡ってみれば、ギリシャの哲学思想、抒情詩や演劇にも明らかにそれはある。しかし、その後の思想哲学の主流といわれる人々がそれを普遍というものに結び付け、そっちの方に向かせてしまった。そこにヨーロッパの合理主義や学問が生まれたのだという。そういうものに対抗して個を意識したのは近代が初めてではなく、紀元のはじめから6世紀ごろまでの時代にもあった。その動きを招いたのはキリスト教という当時の核心的な宗教だった。
 西洋史ではローマ末期・ビザンツ初期という時代に注目する。近代の視点ではローマ帝国衰亡の時代として殆ど等閑視されている。しかし、この時代は新しい文化共同体の発生の時期、ヨーロッパ世界の誕生の時代だったのだ。むしろ、このビザンツ初期に「個としての個」が発見されたのに、中世を通じて形式化したということは抽象的な体系となり、生き生きとした個を見失っていく。それが近現代に、例えば実存は本質に先立つといった実存主義のような現代思想で再発見される。では、そんな「個としての個」がビザンツ初期に起こったのはなぜか。そのプロセスは、まさに思想史のドラマといえるほど生々しく、刺戟的で面白い。
 古代ギリシャ・ローマの文化では、「個」はラテン語でインディヴィドゥムといい、直訳すれば、これ以上分割できなないものという意味で、これは単に普遍でないというネガティブな内容でしかない。ギリシャ哲学は、例えばプラトンのイデアのような抽象的な概念が本質とされ、個々の事物は些末なものとして軽視された。それゆえ、「個」がポジティブにその存在を表わす言葉は、この時代には、当初はなかった。そこで、人々は、かりにヒュポスタンスとか、ペルソナとか名付けたのだった。それに対して、キリスト教は、神に個々人が向かい合い、個人が個人としてそれぞれに祈る。その点で普遍主義のギリシャ・ローマの文化とは正反対。あるいは、イエスの教えはプラトンの哲学のように概念を論理的に構築するものではない。たとえば、『サマリア人の手紙』に、このような一節がある。私の隣人とは誰ですかとイエスに尋ねたユダヤ人の律法学者に対して、イエスは一つの譬え話を語る。強盗に襲われたユダヤ人が倒れている道を一人の祭司が通りかかるが、助けずに道の向こう側を通って行ってしまう。次に一人のレビが通りかかるが、この人も同様に道の向う側を通って行ってしまう。他方、最後に通りかかった一人のサマリア人は、憐れに思い、自ら介抱したうえ、宿に連れて行き、宿の主人に介抱をお願いする。異民族と混血していたがゆえにユダヤ人から差別され、いかがわしいものとみなされているサマリア人こそが民族というカテゴリーを超えてユダヤ人を助けたこの物語を語ってから、イエスは、律法学者に問いを投げかける。「あなたは、この三人のうち、強盗に襲われた人に対して、隣人となったのは、誰だと思うか」と。これは、何らかのカテゴリーに基づいて、ここまでは隣人だが、ここから先は隣人ではないと境界をはっきりさせるやり方をイエスは採用しない。隣人とはそのように客観的な仕方で第三者的に定義されるようにものではない。そうではなく、隣人になるという主体的な決断によってこそ、はじめて隣人というものが真の意味で生まれ出てくる。そういう生き生きとした思想の息吹きと、古代ギリシャ哲学の冷徹な論理に当てはめようという不可能と思われる挑戦の試みがビザンツの時代に行なわれた。その結果、一時の徒花のように花開いたのが「個としての個」という概念だった。

2023年2月21日 (火)

小林英夫「日本軍政下のアジア─『大東亜共栄圏』と軍票」(4)~Ⅲ.「大東亜共栄圏」の実像

 太平洋戦争はミッドウェー海戦の敗北を機に形勢が逆転し、南方はガダルカナル島の攻防で敗れ、広大な占領を徐々に放棄せざるを得なくなる。
 大東亜共栄圏の鉱山や工場を接収し、操業を開始したが、その獲得物資を日本に運ぶ体制が構築できていなかった。大東亜共栄圏をひとつの体に喩えるなら、海上輸送は動脈であった。この血管が機能しなければ、大東亜共栄圏は「圏」としての意味を持たない。具体的には、輸送に必要な民間船舶が、陸海軍に徴用されたため、不足する。これらの船舶は作戦が終了すれば、徴用を解除し、輸送にあてられるはずだったが、戦線が次々に拡大され、徴用を解除する余裕がなくなった。さらに、ガダルカナル戦以降、アメリカの潜水艦による日本の海上輸送路の破壊が活発化したために、日本の船舶の損害が急増し、ただでさえ不足していた物資輸送船は極端なジリ貧状態になった。海上輸送力の減退は船舶数の不足だけではなかった。日本海軍は輸送船の海上護衛に消極的だった。
 結果的に、東南アジアからの物資が日本にこなくなり、日本からの物資が東南アジアに供給できなくなった。その結果、東南アジアの事業は資材や輸送力の不足、そして労働力の不足により、能率が落ち、さらには操業が困難に陥っていく。そこで、軍政は現地の労働力をなかば強制的に集め始めた。それが強制連行となるのは間もなくだった。
 一方、物資の不足は商品の値上げを招き、インフレが起こりはじめていた。輸送力の減退と絶対的な物不足の状況下で、軍政の財政支出を補填し、現地の物資の調達を確保しようとするなら、軍票の増発以外の方法はなかった。そのため、軍票の発行の等乱濫発が一般化していった。戦争末期には、日本の制海権はうしなわれ、海上輸送は途絶した。物資の慢性的な不足と軍票濫発も相俟って、インフレは歯止めがなく、民衆の不満が高まり反日運動が活発化した。アメリカ軍の攻勢を止められることはできず、1944年の時点で軍政は実質的に崩壊していた。そして敗戦を迎えたのだった。
 まとめると、大東亜共栄圏構想とは、1930年代までにアジアで発展してきていた欧米主導の商品経済を破壊し、日本中心に自活経済をつくりだすことにその眼目があった。中国では、国民政府の下で幣制が統一され、35年までに全国的な統一市場が形成されていた。東南アジアでは、イギリスの主導で東南アジア域内交易圏が成立し、商品経済の緊密なネットワークが形成されていた。日本が大東亜共栄圏の実現を目指して展開した軍事占領政策とは、このような経済のネットワークをすべて否定し、植民地・半植民地・占領地をあげて日本中心の自活経済おしとどめようというものだった。その結果、とくに世界経済と連結し、商品経済が発展していた東南アジアでは、大きな打撃を受けて、地域産業が壊滅したところもあった。それが民衆に悲惨な生活を強いることになった。政策の実施面で物流を考慮していなかった。分断された各地域は自給自足を余儀なくされ、社会生活の破壊のみならず、人々の生存すら脅かされるに至ったのだった。

2023年2月20日 (月)

小林英夫「日本軍政下のアジア─『大東亜共栄圏』と軍票」(3)~Ⅱ.南方軍政とはどんなものだったか

 太平洋戦争は真珠湾攻撃で幕を開けたと一般的に言われているが、実は、南方への侵入が開戦と同時に実行され、対米戦争の口火はこちらだった。そして、短期間で広大な地域を占領してしまった。それが可能になったのは、ひとつには、日本軍の対峙した軍隊が旧式の装備で士気の低い植民地軍中心だったこと。しかも、当初は一部に現地住民の支援もあった。しかし、より決定的だったのは、この時期の英米の基本戦略がヨーロッパでのドイツの打倒にあり、対日戦はその見通しのついた後にするという方針で、資材・兵器・人員を優先的にヨーロッパ戦線に送ったためだった。
 日本は占領した東南アジア地域の占領について、約1年前から計画の立案を始めた。その基本は占領地には軍政を敷く。そして、占領目的は物資の獲得であり、その結果生ずる犠牲は占領地の民衆に転嫁するというものだった。それが東亜の開放をスローガンにしていた大東亜共栄圏の本心だった。そして、詳細な具体策の検討はほとんどなされなかった。それでは、予備知識の乏しい東南アジアに対して、1年程度の占領計画立案は無謀としか言いようがない。初期の軍政は従来の統治機構をそのまま利用し、植民地本国人が占めていたポストに日本人がついて、現地スタッフが業務を処理していた。
 さて、東南アジアへの進出の目的は重要国防資源の獲得であった。その背景は次のようだ。日中戦争開始時の物資の供給は日本国内および植民地の生産そして欧米からの輸入で賄おうとした。しかし、日中戦争の拡大で資材の需要を急増したが、対米輸出が伸び悩み、需給バランスが崩れた。この結果、戦時統制が急激に強まる。いわゆる国家総動員体制だ。しかし、資源不足についてはどうしようもなく、仏印進駐への制裁で欧米の経済制裁で輸入は途絶、そこで資源供給地として東南アジアを確保しようとし、軍により占領した。そして、資源確保のため、東南アジアの経済を日本の物資動員計画に従属させていく政策をとった。これは東南アジア諸国から見れば、それまでの交易・流通のシステムが破壊されることだ。言い換えれば、日本の占領政策とは、イギリスなどの欧米がつくった東南アジア域内交易圏を改変再編成して、大東亜共栄圏をつくる試みであった。それなりに機能していた域内交易権を破壊して自活経済に押し込めるということは、東南アジアの人々にとっては一挙に経済生活のレベルをひき下げられることを意味する。各地の物資とりわけ工業製品が乏しくなり、インフレを引き起こして社会不安をもたらすのは必至だった。例えば、東南アジア域内交易圏の物流を担っていた華人商人たちは物流から排除され、苦境に追い込まれた。また、対策として配給統制を強化しても絶対的な物資の不足を解消しない限り問題は解決しない。そこで、軍政当局は、それまでに世界市場向けに生産されていたゴムや砂糖・コーヒー・茶のプランテーションを潰して食糧や衣料作物の増産を進めたのだった。この結果、輸出産業としての農業は壊滅し、戦後に復興できなくなるケースもあったのだった。
 また、東南アジアを占領した軍の物資は現地調達で、その購入に際しては軍票を発行した。これが、後年、インフレを煽り、経済崩壊の要因となっていく。

2023年2月19日 (日)

小林英夫「日本軍政下のアジア─『大東亜共栄圏』と軍票」(2)~Ⅰ.中国戦線の物資争奪戦

 日本は日中戦争以前の戦争、例えば日清・日露戦争や第一次世界大戦でも東アジアで領土拡大を試み、植民地の獲得をめざしたが、それらの戦争は短期間の作戦で勝利して終わることができた。しかし、日中戦争では短期に終了することができず、経験したことのない長期の持久戦に引きずり込まれたのだった。日本軍の補給は、必要な物資を可能な限り現地で調達するというやり方で、比較的短期間の戦争では兵站の手間がかからないという利点があったが、戦争が長期化し戦線が拡大すると、その欠点が現われてきたのだった。また、長期戦となってくると、占領地政策に全力をあげて取り組まざるを得ない。だが、腐敗した軍閥政客の現地行政府では、有効な占領地支配は期待できなかった。現地の有能な人材は国民政府とともに逃亡してしまうか、残っていても抗日勢力と内通している疑いが強かった。そのため、戦闘で勝利しても、実質的な支配地は日本軍の駐屯する都市と鉄道沿線に限られ、背後に広がる農村地帯は国民政府か共産党の影響下にあった。このように、軍事的な決定的勝利を得ることはできず、武力制圧した占領地でも民衆の抵抗は根強かった。
 一方、占領地支配を継続的なものにするためには、経済の支配が必須である。そこで日本がとろうとしたのは、武力制圧した後、行政機構と徴税機構を整備し、地主たちを組織して土地整備事業を行なう。その一方も接収した相手側の財産に本国の資産をあわせて中央銀行を設立して、日本円にリンクする通貨による幣制統一事業を実施する。つまり、相手国通貨を回収して日本経済圏の一翼としてとりこんでいき、資本輸出を行って経済開発の主導権を握り、さまざまな産業政策を展開するというものであった。これは満州ではうまくいった。しかし、中国のそれ以外の地域では、国民政府による幣制統一事業が進んでいて、国民政府の法幣には日本の脆弱な金融力では太刀打ちできなかった。それは、経済面では中国が統一したことになり、分裂していた中国を部分に切り離して、それらはひとつひとつ併合していく日本の植民地化戦略を不可能にしたのだった。
 そこで、日中戦争では法幣を利用して軍票の流通範囲を拡大するという方帆をとった。軍票とは軍隊が物資調達のために通貨の代わりに発行するものである。法幣が流通している地域で軍票が有効となるためには資金の裏付けがなければならない。そこで本国から資金を調達するなどして手当てした。しかし、実際には軍票の流通はひろがらず、日本人だけが使用し、日本製品の購入のときだけ使われるに限られた。したがって、軍隊の現地調達には軍票を使うことができず、法幣を使うしかなかった。そして、調達すべき物資についても、民衆の支持か得られなかったため、物資が日本側に流れなくなりがちであった。つまり、日本軍は占領地支配のための通貨戦争に勝利することができず。物資調達もうまくいかなかった。そこで、中国以外のアジアから広く物資を調達しようと大東亜共栄圏の構想が上がったのだった。
 大東亜共栄圏の一環として、日本は仏印進駐を行った。これに対して、アメリカが在米日本資産を凍結するという強硬な措置をもって応えた。これにより、日本は戦略物資輸入ができなくなり、タイを通じて資源確保に努めるようになった。やがては、東南アジアへの進出を図るに至り、日米開戦に至るのである。 

2023年2月18日 (土)

小林英夫「日本軍政下のアジア─『大東亜共栄圏』と軍票」

11114_20230218213101  軍票という軍隊が占領地での占領政策で物資の徴発などの便宜のために発行するものだが、とくに日中戦争において、当時の中国は統一通貨がなかったことから通貨を統一してしまうことは経済的に支配権を確立する早道だった。蒋介石の国民党政府と日本軍との間で、どちらの通貨が中国の統一通貨となるかという経済戦争が戦われた、と。そこで、日本軍が使ったのが軍票でした。
 このような視点から、日中戦争や太平洋戦争の日本軍の占領政策を見ていくと、その基本政策は大東亜共栄圏構想というもので、資源供給地として東南アジアを確保し、資源確保のため、東南アジアの経済を日本の物資動員計画に従属させていく政策をとった。経済の点から言うと、1930年代までにアジアで発展してきた欧米主導の商品経済を破壊し、日本中心に自活経済を作り出すことに、その眼目があった。例えば、中国では、国民党政府の指導下に35年までに全国的な当一市場が形成されていた。幣制統一はその一環として為された。東南アジアでは、イギリスの主導の下で「東南アジア域内交易圏」が成立し、商品経済の緊密なネットワークが極点まで拡大していた。日本が「大東亜共栄圏」の実現をめざして展開していった軍事政策とは、こうした商品経済のネットワークを全て否定し、植民地・半植民地・占領地をあげて日本中心の自活経済に押しとどめようとするものだった。だから、現地の人々の経済生活を根こそぎ破壊するものだった。人々のから強制的に財産を奪い、塗炭の苦しみに追い込むものだった。
 構想ではそうだが、実施の面から見ると、大東亜共栄圏の鉱山や工場を接収し、操業を開始したが、その獲得物資を日本に運ぶ海上輸送の体制が構築できていなかった。輸送に必要な民間船舶が、陸海軍に徴用されたため、不足する。これらの船舶は作戦が終了すれば、徴用を解除し、輸送にあてられるはずだったが、戦線が次々に拡大され、徴用を解除する余裕がなくなった。さらに、ガダルカナル戦以降、アメリカの潜水艦による日本の海上輸送路の破壊が活発化したために、日本の船舶の損害が急増し、ただでさえ不足していた物資輸送船は極端なジリ貧状態になった。海上輸送力の減退は船舶数の不足だけではなかった。日本海軍は輸送船の海上護衛に消極的だった。その結果、現地の鉱山や工場は資材の調達ができず、操業が困難になってしまった。軍は物資の調達のために軍票を濫発し、インフレは止まらない。大東亜共栄圏というシステムは機能せず、現地を苦しめるだけのシステムとなる。あとは、不満を高めた民衆を暴力で抑えること以外のことはなくなる。
 そして、著者が指摘するのが、高度経済成長時に日本企業は一斉にアジアに進出し海外市場を獲得していきますが、それが戦争の賠償の美名のもとに行われたもので、賠償の名の下にアジア諸国の社会インフラ整備として、援助の名目で、欧米の企業が支配していたアジアの建設や耐久財市場に日本企業が進出する足がかりとして利用したということ。その一方、人的被害例えば個人個人の収奪された財産の返還は無視されたということです。著者は、このようなアジア進出の方法論は「大東亜共栄圏」構想そのものだった、と言います。
 そう考えると、今、日本企業がアジアをはじめ海外で苦戦しているのは、そのような収奪的な方法から未だに脱却できていない、あるいは日本政府や日本人の姿勢の中に大東亜共栄圏の残滓が色濃く残っているということも考えさせられました。

 

2023年2月16日 (木)

モリス・バーマン「神経症的な美しさ─アウトサイダーが見た日本」(7)~第7章 江戸的な現代へ─ポスト資本主義とモデルとしての日本

 21世紀のアメリカは、新自由主義とよばれる自由放任の資本主義の行き詰まりが、財政金融状態の不安定さや社会の分断を招き、産業化の行き過ぎが環境破壊や資源の枯渇をまねくこととなって、このようなことは続けていくことが困難になった。
 このような中で、日本はすでに20世紀の終わりごろから経済低迷の状態に先んじて移行したと言える。そこでは、たしかに社会的な弊害が現れているが、それまで追求してきたアメリカン・ドリームの模倣とは別の方向に日本が向か王しているように見え、ポスト成長時代に足を踏み入れるように見える。「経済力を示すことが国家の仕事だとすれば、日本はぶざまに失敗している。だが市民の雇用や安全を保証し、経済不安から守り、より長生きさせるというのが国家の仕事であるならば、日本はさほど滅茶苦茶になっているわけではない」
 このようなポスト成長社会のモデルとなりつつある日本で明らかなのは、経済停滞に対する日本の創造的な力であると著者は言う。すなわち、成長や拡張に根ざした生き方の崩壊と正比例する形で別の生き方が生じている。例えば、日本の若者の「さとり世代」といわれる人々だ。彼らは、高級品や流行に無関心で、消費よりも持続可能性を尊重する。
 それには、次のような背景があるという。
1.根底にある歴史的現実。拡張主義への熱狂へと日本が突入したのは黒船来航という西洋との出会いの後、とりわけ米軍による占領の後のことで、それは偶発的な、表面上のことにすぎなかった。たしかに日本人はアメリカ式の生活様式を猛烈に追い求めが、日本人には、それとは別の古くからの現実が、何千年もの間続いてきた。それは、今日のオルタナティブな価値体系に深く根差している。
2.根底にある社会心理的現実。日本人には袋小路かと思われる状況を奇妙にも大きな成功へと転換することを可能にする、多くの力強い精神的習慣が備わっている。すなわち、古きもののモダニズム、強い集団志向、そして質素、簡素であることや現在主義への禅的な感受性である。
 これらについて、本書では細かな分析が試みられていて、それが本書の主張の中心となるところでしょうが、その議論は、実際に本書を手に取って読んでもらった方がよいでしょう。私には、議論が強引で、著者は、アメリカの鏡像として日本を見ていて、日本のことを述べていても、そこにはアメリカへの愛憎が見え隠れしているようで、距離を置きたくなるところがありました。

2023年2月15日 (水)

モリス・バーマン「神経症的な美しさ─アウトサイダーが見た日本」(6)~第6章 「なんとなくクリスタル」─アメリカ化する日本のディレンマ

 第4章で述べられた占領政策の問題点は、戦後の日本社会に引き継がれ、人々はアメリカの豊かさに憧れ、経済成長を一心不乱に追求した。それはまた、一方で日本人の感情や欲望の構造的変化をもたらした。そこでもアメリカは誘惑的な存在となった。その一つの典型がディズニーに代表される文化産業の影響である。アメリカの文化産業は、受容者を子どものレベルに押し下げるような非常に分かりやすいメッセージを発信し続けることで幼児的な核に訴えかける。例えば、若かりし頃への回帰、永遠の青春の源泉、ピーターパンのような無垢であり続ける永遠性だ。つまり、受け手を幼児化させて防御できなくなってところに商業主義が侵略するのだ。そして、日本では大人を育成しないカワイイやオタクを生みだすに至る。他方で、70年代の日本には、過度なアメリカ化への反動から過去の価値観へのノスタルジーが起こる。それは大切なものを失いつつあるという感情を反映していた。この二つの傾向について、精神分析の岸田秀は、日本人は分裂症になったと述べている。近代的なものに熱中する外側のアメリカ化と、それを拒絶し、過去の時代との一体性を重視する内側の日本的な部分4とに分裂したという。これがさらに進んだ、80年代、日本人は「なんとなくクリスタル」という小説に表現されているような虚無を抱えるようになる。それには前述の二つの面が進んだと著者は言う。すなわち、ひとつは日本が経済的成功の絶頂に達したとき、茫然自失の状態に陥り、何を目指すべきか、何に価値を置くべきか分からなくなった。もうひとつはいったいどこに実存の確証を求めればよいのかという空虚な自己意識だ。
 このような空虚さは、バブル経済が崩壊し、日本経済が低迷を始めると顕在化する。例えば、若者の自殺率の高さや「ひきこもり」という現象だ。著者は、「ひきこもり」を体制に対するクソ食らえの表明であるという。これらは、アメリカの大企業・消費中心モデルを良き生活の指針として取り入れることで形成された感情や心理が破綻していることを反映している。
 「オタク」も、これらと同類に入ると言える。「オタク」とは趣味が物神化するほど没頭する人々、とくにその対象がアニメやマンガやゲームである人々。そこには社会生活上の不器用さという意味合いも含まれる。人間関係や現実の社会への関心を失い精巧な作りごとの世界に没頭する。これが、現代の日本文化の象徴的な存在となっているとして、著者はさまざまな分析を試みている。そして、東浩紀の考察を紹介し、次のようにオタクについてまとめている。
1.オタク文化とはポストモダンに対する長期的な反応である。すなわち、ポストモダンとは、近代の特徴であった大きな物語(例えば経済成長信仰)やイデオロギーは虚構にすぎないというもので、しかし、人間が世界で生きるためには必要なのだ。結果として虚空が生じ、それを埋めるものとして、物語の代わりにアニメの形象そのもの、つまりは表層のあらわれをひたすら消費する。
2.このような消費主義はアメリカ的生活様式の帰結、文化資本主義からうまれたものだ。しか、戦勝国の文化様式は、敗戦国の日本にはフィットしない。
3.オタク文化の背後には敗戦のトラウマが潜んでいる。日本人は古くからの文化的同一性を、自分たちの物語を失い、アメリカ型の消費主義に屈してしまったというトラウマである。オタク文化の根底にあるのは、アメリカ型消費主義によって日本文化が融解してしまうことへの不安である。
4.このような喪失の中に、新たな発見がある。近代=西洋に対してポストモダン=日本があり、日本的であることがそのまま世界の最先端に立つ。そういう文化の中から生まれたのがオタクなのだと言える。オタクは日本の伝統工芸との連続性があると著者は言う。その意味で、近代的な意味のないところに意味を見出す。オタクは保守的な反逆者であると言う。

2023年2月14日 (火)

モリス・バーマン「神経症的な美しさ─アウトサイダーが見た日本」(5)~第4章 戦争と占領

 前章では明治維新の精神的枠組みとして、日本人は幕末の黒船の屈辱からルサンチマンを抱えることとなった。それは、弱さ、劣等感、嫉妬という感情から生じる根深い敵意であり、それを引き起こした原因へと攻撃の矛先を向けるような全面的な価値体系を生み出す。これが否定されると、別方向へ向けられる。日本の場合、それは拡張という方向だった。すなわち、産業化、近代化、西洋化、やがては帝国主義、戦争である。著者は1941年の戦争に至った日米の対立の根本的な要因として、次の五つをあげている。
1.1853年以来日本が感じ続けていた「実存をめぐるひずみ」および「アメリカが書いた台本」に従って生きることを強いられ、自らの生を生きることができないという感覚
2.それぞれの国を囚えた内なる空虚(不安定なアイデイティティ)を根に持つ、二つの拡張システムの衝突。加えて、言われたことをしただけなのに、極端な成功を収めたために罰せられたという日本側の感情。
3.相手と自身の経済的・政治的目標に関する双方の捉え方。またアメリカが世界経済に押しつけようとした「自由貿易」という含みのある概念。
4.双方が追求した帝国主義的企図における人権という要素。
5.戦争に至る経過で天皇が演じた役割
 そして、戦争終結の後、アメリカ軍による日本の占領が行われた。筆者は、その占領の問題点として次の5点を挙げている。
1.占領は19世紀の明治維新のパターンを反復するかのような上からの革命であり、専制的あるいは天皇制民主主義、つまりは権威主義的な体制、「箱入りの民主主義」だった。日本人はアメリカ人に言われるがままをなし、沈黙すべきものとされた。
2.占領が、数年後にウィリアム・レデラーが「醜いアメリカ人」で描くこととなるパターンに従って進んだ。それには二つの側面があった。
(a)アメリカ式のテンプレート、つまり自国の価値観を、その国の現実にそぐわないにもかかわらず押しつけた。日本人はアメリカ流の民主主義なるものを学ぶものとされたが、それは消費財の栄光、資本主義の展示場、反共主義の情熱など、その時々に応じて定義されたものであった。加えて、アメリカの目標を推し進める一手段として、日本の政治を秘密裏に腐敗させようというCIAのうごきもあった。
(b)絶望的な貧困の只中にあって、アメリカ人が贅沢な生活様式をこれ見よがしに維持した。
3.一方、日本側は、アメリカ人の日本の制度や言語に対する無知を利用して、できるかぎり古い体制を存続させようと背後で画策した。実際において、降伏前後での日本の政治・経済活動における運営方式には大きな継続性があった。
4.同時に、日本は今日まで続き米国への依存関係に陥った。
5.少なくとも文化的レベルにおいて、日本人のアイデンティティにさらなる混乱が生じ、外部から輸入された者が求められた。それはこの場合、アメリカの商品とそれに付随する価値観のきらびやかではあっても究極的には卑しい世界であった。アメリカは自らの退屈、純然たる個人主義、物質獲得の倫理を日本に感染され、その結果、日本人の社会は病的なものとなった。

2023年2月13日 (月)

モリス・バーマン「神経症的な美しさ─アウトサイダーが見た日本」(4)~第3章 明治維新とその余波

 魂の喪失は代償満足の追求につながる。米国や西洋の帝国主義に倣って、日本は近代社会で対等な関係の構築を目指す道を選んだが、それは古来の伝統やアイデンティティに大きな犠牲を強いた。そこで追求された代償満足とは、日本が大量に詰め込んだ西洋の知や、帝国主義などであった。
 1853年の黒船来航までの250年間、日本は平和な状態を維持した。世界でも異例なほどの長期の平和は、商業的な生活様式の出現を可能にした。手仕事による生産が劇的に増加し、庶民は歌舞伎や俳句のような文化を消費し、識字率は高く、犯罪率は低かった。日本は先進国であり、当時のアメリカ人が偏見で持っていた西洋の光を待ち受けていた暗黒時代ではなかった。
 この時期の商業的な生活様式が出現したとはいっても、商人階級の勃興は近世ヨーロッパのようにブルジョワ革命を経験せず、日本の商人は封建的な心性を持ち続けた。そこで、著者は、日本では下からの革命はなく、明治維新は、上からの伝統の名のもとに行われた革命だった。それゆえに王政復古というスローガンを掲げたという。そういう視点からは、明治維新は、商業の発達により封建的構造が部分的に浸食されたためだった。それが、ペリーの来航により諸々の問題を生み、維新こそが最善の解決策だと思われるようになった。
 一方、アメリカの方はというと。アメリカは最初期から他国はすべて未開で劣っており、それを正すのにはアメリカ的価値観やアメリカの導きが必要だという前提を持っていた。アメリカの外交方針は外国を国内にすることであった。このように他者を自己に変換することで、安全状態を確保しようとした。1853年のペリーの遠征も、この方針に則って実行された。日本側からは、そういうペリーは傲慢な田舎者と見られた。ペリーは日本側の表面的な歓迎を好意だと思い込み、恐怖や非常に不利な立場の意識によるものとは思いもよらず、条約締結は友好的かつ対等な関係の下で行われたと信じ込んでいた。
 日本人にとって、1853年から現在に至る歳月は、溜めこんだ怒りだ。日本人とアメリカ人の双方にとって、ペリー艦隊は、両国の錯綜した関係を表わす中心的な隠喩であり続けていると著者は言う。
 伝統的な日本が、西洋列強の近代に敗北した。それ以降も日本は近代化に駆り立てられていく。まずは西洋の模倣から始まったが、そこで最優先されたのが科学と技術、とくに1800年以降の近代的な科学技術だった。日本は、イギリスが250年かかって、産業革命を経てうちたてた近代化を、40年という短い期間で実現しようとした。そこには当然無理かある。そのひとつが、社会的・心理的なアイデンティティ危機だ。西洋を模倣するということは、常に自分の外部に正しさの源を求めるということで、その結果、自分が何者か分からないという心の空虚さ生みだしたのだ。
 この危機は、アジアへの戦争による侵略へも関連している。明治維新から日本を支配していたのは、一人前の近代国家として西洋の尊敬を勝ち得たいという強迫観念だった。富、戦争、帝国主義が目標達成の鍵だと考えた日本は、そのすべてを猛然と追求した。しかし、日本人は生来、拡張主義的な国民ではなかった。彼らは、近代化を進める中で、そういうものに取り込まれてしまった。西洋の帝国主義への脅威の認識、西洋からお墨付きを得たいという欲求、そして屈辱の復讐の願望などによって、このような力に抵抗することができなかった。それは、日本のアイデンティティ危機が招いたものと著者は言う。

2023年2月11日 (土)

モリス・バーマン「神経症的な美しさ─アウトサイダーが見た日本」(3)~第2章 日本的なるもの(2)─甘え、集団志向、序列

 著者はアメリカと日本という二極を対立させる認識にユングを持ち出す。人間の社会心理構造には二つの基本的な元型があり、それぞれがアメリカと日本であるという。アメリカは過激な個人主義と自力の尊重で、これに対して日本では個人主義や非順応主義は子供じみた未熟な行いであり、集団としてのまとまりを秩序だった社会の至高の達成として尊重する。アメリカ人は個人主義的で押しが強く起業家的だ。その論理的帰結として自分本位で自己陶酔的でもある。これに対して、日本人は集団志向で協調的、思いやりがあって愛情深い。しかし、それが極端になると息苦しくなる。アメリカを批判する人は、疎外に向かう傾向がアメリカを機能不全にしてしまったと言い、日本を批判する人は、息苦しい社会中心主義的志向が創造性を窒息させてしいマンネリ化をもたらす。
 このアメリカの個人主義、誰も必要とせず、完全に独立し、躍動的で自身に溢れ、それどころか横柄で支配的でもある。この実情は心の底の痛みや愛の欠如を覆い隠すために驕慢を装っているに過ぎない。と土居健郎は喝破した。アメリカ人の攻撃性は、気にかけられたい、依存したいという深層にある抑圧された欲望の、ねじれた表出にすぎない。日本では、この逆があてはまり、それが「甘え」と呼ばれる。これは、一体化のへの動因であり、主体と客体とが不可分であることの表われで、禅の実践に結びつく。社会では他者への配慮が社会関係資本となっている。しかし、それは、反面として、日本社会の伝統的構造が温存され、それが順応主義によって防衛されている。例えば、そのなかでは自由な表現が抑圧される。権威を批判することは必ずしも肯定されない。「甘え」は軸のなさ、空虚を回避する手段として機能している。このことは日本人は、例えばムラとかイエという集団が居場所を与えるという安定した自己意識を保証した。それに対して、戦後のアメリカ占領がアメリカ的消費主義に染まって日本人の自己が不安定化したのだった。
 著者は、他に中根千恵や丸山真男を紹介して、上の主張を肉付けさせている。そこは本書で、じっくり味わってほしい。このあたりの著述は幾たびも行ったり来たりして一筋縄ではいかない。それは事態の複雑さによるものだ。
 

2023年2月 9日 (木)

モリス・バーマン「神経症的な美しさ─アウトサイダーが見た日本」(2)~第1章 日本的なるもの(1)─禅、工芸、永遠の現在

 禅の世界には超越的真理は存在しない。日常生活の具体的個別体験に存在それ自体を認識する。実際の場面では職人が技を極める際に精神性が問われる。無心で行われるそれは、より大きな力に自己を委ねる、客体に溶け込むような意識の状態だ。そこでは理性的な思考より直観を重視する。いわゆる「空」という概念をその状態にあてはめる。もうひとつ重要な概念が「心」である。日本人のものの見方では職人は心から仕事に取り組まねばならない。客体に溶け込むというが、職人は、自分が取り組んでいるモノにかる必要がある。真に知る者とは対象と距離を置いた主体ではなく、対象に身体的に関与した主体なのだ。このような真の知識はある精神から別の精神へと機械的に伝達されるような客体的なものではなく、教師と学び手とが洞察を可能にするような統一をかたちづくる。真理は指導者の手本のもとでならうもの。職人のものづくりでは細部への並外れたこだわりとなって現われる。多くの日本の技芸が「道」という語で表わされるのはこのためだ。これらは、ある意味でひとつの生き方として実践される。これは、別の言葉で言えば、自分を上回る現実(あるいは力)に向かって自己を脱中心化するというプロセスで、自然との同一化という神道の精神にも通じている。それは、職人の仕事では対象に溶け込むという側面になるが、また、他方では個人より集団的な意識に馴染みやすい。
 そういう日本的な特徴が現代で表現されている例として、著者は「民藝」を挙げる。柳宗悦によって唱道された日常生活で活用される道具などの工芸品に美を見出すというもので、無名の職人の手になるものであるがゆえに自然な美しさがあるという美意識だ。これは、美意識だけのものではなく、資本主義による利益追求と機械化による効率化された社会に対する異議申し立てでもあった。著者は現代の日本の日常生活の中に伝統文化を見出すが、工芸そして禅は本質的な役割を担っているという。具体的に次のような点を挙げている。
・日常生活における美と官能性の存在。美意識の高さ
・配慮、注意深さ、几帳面さ
・価値観や習慣における過去との連続性。伝統工芸の現代的デザインへの作り変え
著者は日本の現代のテクノロジーからは落ち着きや温もりと言った印象を受けている。そこには古くからある考え方が土台にある(民藝はその最たる例だが)からだという。そこには伝統の現代化。伝統と現代との葛藤はあるが、過去の伝統を現代で意味のあるものにするという発想が底にある。
 加藤周一は日本社会の現在主義的な傾向を指摘したが、西洋のキリスト教的な前進する時間は日本人には意味をなさない。日本人にとって時間とは、継起していく現在、今に他ならない。過去が現在を決定するのではなく、現在が未来に向かっているのでもない。それぞれの今が時間軸における現実の中心であり、物事が把握されるのは今においてのみなのである。それは、たとえば、もののあはれのような儚い美が永遠性をもつようなものとなって表われる。
 しかし、このような日本社会の特徴には悪い面もある。例えば、道徳観念の欠如だ。日本の道徳は人間関係の義務を果たすという相対的なもので、中心となる軸のような倫理がない。それゆえ、軍国主義の侵略を悪だとして阻止することができなかった。集団主義的ということは軍隊の命令に従うというシステムに絡めとられて、抵抗するどこか加担させられることになってしまった(丸山真男の分析は、まさにこの点を指摘している)。今という時間を瞬間的に生きるということは、状況に流されるということでもある。このような点は、西洋から見れば不可解なのだ。
 また、人は過去と未来の存在を意識することによって、瞬間に没入することなく身を引いて全体のパターンを看取し、そのパターンに批判を加え、変革を目指すことができる。しかし、永遠の現在を生きる場合、自分の置かれた状況を超え出て外部から分析することができない。つまり、自己変革がないということになる。具体的には過去と向き合うということがない(過去の戦争について海外からよく指摘されている)。
このような矛盾(両面性)を著者は神経症的な分裂という。私のは単にメダルの裏表としか思えないのだが。

2023年2月 8日 (水)

モリス・バーマン「神経症的な美しさ─アウトサイダーが見た日本」

11112_20230208211001  書名の「神経症的」については、著者は日本は二重苦に見舞われたことによる結果だという。この原因となった二つの大きな衝撃とは、いずれもアメリカによるものだ。ひとつは1853年の黒船来航。この衝撃から日本は明治維新から一世代で西洋に追いついてしまった。イギリスが250年もかかったところだが、そこには当然無理があり、日本人の魂にねじれを生んだとしても無理はない。例えば夏目漱石の小説にあるような自我の分裂あるいは空虚さといったもので、これを著者は神経症的という。もうひとつは、1945年からの占領政策で、無知からアメリカ式の押しつけにより日本の伝統が否定され、日本人は従わざるを得なかった。そこにある種の意識の分裂、分裂症が生じたという。
 このように、著者の指摘にはアメリカが悪役として顔を出す。アメリカ人である著者は、母国であるアメリカに対してアンビバレントな思いを持っているようで、そのはけ口として日本を捉えているように見える。書名の「美しさ」にはアメリカは美しくないという思いが潜んでいて、アメリカでないもの、反対の極として日本を捉え、それを美しいとし、その美しさにはアメリカにより痛めつけられ神経症のようになったゆえのものという、日本を語りながら、その裏返しとしてアメリカを語ろうとしている。結構ボリュームのある著作で、そこに具体的な事例も数多く紹介されているが、私には、それらがどこか表面を撫でているような印象で、著者が語っている日本は、難しげにもっともらしくはあるが、アメリカについての隣の芝生に閾を出ていないのではないかと思われる。そこに、割り切れなさを感じた。
 では、著者の考えるアメリカとは、この著作の中で直接語られているところは少ないが、それらを拾ってみよう。アメリカの独立とは伝統的なヨーロッパの否定にあった。そこには否定的同一性というべきものが基礎にあった。ナショナリズムが外敵への対抗で強固になるように、心理的な境界を強固にし、自我を強化するというメリットがあった。しかし。その反面、自分を肯定的に語れない。だから、強固に見えて、実は脆弱なものであったのだ。だから、アメリカ人にとって正義はつねに「ここ」にあり、悪は「外」にある。アメリカ人は選ばれし国民で、先住民は野蛮だったし、イギリス人から独立し、その後つねに外に力を向けて拡大をしようとした。「辺境(フロンティア)」がそれである。現代でも、イランや中国への姿勢に、その傾向は顕著だ。これは、個人のレベルでは個人主義という国民性だ。彼らにとっては、人生は共同体への奉仕ではなく、財産をめぐる競争とのその勝利となる。独立独歩で自力で成功するというのがアメリカンドリームなのだった。要は、中心に脆弱さ、著者は空虚さだというが、を抱えて、その弱さをハリネズミのように外皮を武装して、つねに外に対して攻撃的に棘を立てて強く見せているのがアメリカ人の姿というわけだ。
 このようなアメリカの対する鏡像として、著者は日本を描いてみせる。日本文化というのは外国から輸入によってつくられたものといっていい。古代の文化が中国や朝鮮の模倣から始まっているのは正倉院の御物に明白だし、仏教はインドのものだ。日本オリジナルを探しても見つけるのは難しい。そこにはアメリカの場合とは別の空虚さがある。それを著者は「無」という。そこには、劣等感が伴うが故の不安定さ(時には狂気に駆られ、その極端な例が15年戦争ということになろうが)、日本人の創造性の源にもなっているという。そもそも、日本は神経症に罹りやすい素養もあるということだろうか。そして、アメリカによる二度目の衝撃から、一時はアメリカを模倣しエコノミック・アニマルなどと呼ばれ、経済的な競争の勝利に奔走していた日本は、バブル崩壊後の経済低迷を続け、アメリカ文化の呪縛から解かれつつある、つまり、神経症を癒しつつあり、アメリカ・モデルとは異質の幸福な社会のモデルを意識しないまま作りつつあると著者は主張する。「経済力を示すことが国家の仕事だとすれば、日本はぶざまに失敗している。だが市民の雇用や安全を保証し、経済不安から守り、より長生きさせるというのが国の仕事であるならば、日本はさほど滅茶苦茶になっているわけではない」。経済停滞に適応と感応する、オルタナティブを日本は想像しようとしていると言う。しかし、これは、日本が意識してやっているわけではないし、反面として社会の閉塞感などのマイナス面を見ていないので、アメリカではないものを日本に投影していると、私には見える。

 

2023年2月 7日 (火)

リチャード・パワーズ「惑う星」

11113_20230207222501  新刊が出るたびに購入して読むのを楽しみにしていた小説家は何人もいたが、いまでは、このリチャード・パワーズただ一人になってしまった。このリチャード・パワーズという小説家、初期の「舞踏会に向かう三人の農夫」とか「黄金虫変奏曲」のような作品は、実験的性格が濃厚でとっつきにくいとこがあったが、語り口が波長に合った点と、その語り口に引っ張られて読み進めると最後にカタルシスがあるところに魅かれていたと思う。それが、小説を発表するたびに作品の物語的な性格が強くなって、親しみ易くなってきたという作家だ。とくに音楽を題材にした小説は「われらが歌うとき」や「オルフェオ」はとくにお気に入り。
 この作品。地球外生物探査の研究者であるシーオは、2年前に妻アリッサを亡くしてからは9歳の息子ロビンと2人暮らし。ロビンは並外れた集中力の持ち主ながら、適応障害を抱え、同級生にけがを負わせる事件も起こす。小学校からの強い働きかけを受けて、向精神薬の投与のかわりにシーオは、妻の古い友人の脳神経学者の脳波データを使った実験的なトレーニングをロビンに受けさせる。このトレーニングは、かつてアリッサも受けていたもので、そのアリッサのトレーニングのデータをロビンに使用したことで、ロビンの情緒や行動は落ち着くようになる、そしてロビンはアリッサに同調するように、アリッサの行動を追いかけるようにふるまいが変わっていく。物語はシーオとロビンの父子二人の交流が中心で、シーオの手記の形で語られていく。日記のようなその手記は同じパターンが繰り返されるが、そのパターンの細部が少しずつ変化していくことで、小説のストーリーが進んでいく。それは音楽でいうと変奏曲を聴いているようで、それぞれの変奏を堪能しながら、興味は先へ先へと促される。そういう読書体験ができるのが、この本の楽しみ。そして、最後にカタルシスがある。そこで、それまでの印象が裏返ってしまう。つまり、親子の不思議な交流の話だったのが、一挙に、父親であるシーオの孤独を綴った話に転換するのだ。

 

2023年2月 2日 (木)

Doors「Doors」

11114  ドアーズが1967年にリリースしたファースト・アルバム。当時は、ベトナム戦争の泥濘化にたいする反戦運動や人種差別を糾明する公民権運動、学生運動などの動きにロック・ミュージックがシンクロして、とくに西海岸のサン・フランシスコを中心としたいわゆるシスコ・サウンドとわれるバンドが盛り上がっていた。例えば、ジェファーソン・エアプレインやグレイトフル・デッド、クイック・シルバー・メッセンジャー・サービスといったバンドたち。彼らは程度の差があれ、政治的な反体制運動にコミットしたり共感したりして、政治的な主張を音楽の中に込めていた。これに対して、ドアーズは、同じ西海岸でもロス=アンジェルスを活動の中心にして、ウィリアム・ブレイクの象徴的で内省的な詩に影響を色濃く受け、自己の内面、とりわけ暗黒の部分に沈潜するような世界を歌った。シングル・ヒットした「ライト・マイ・ファイヤー」は「ハートに火をつけて」という邦題のイメージとは違って恋愛で燃え尽きた心の虚ろさを歌ったものだったし、大曲「ジ・エンド」は「終末」を歌い、父を殺し、母を犯すというギリシャ悲劇のオイディプス王を現代に再現する内容だった。このような作品を体現していたボーカルのジム・モリソンは、地を這うような低音の声質で、歌うというよりは呪文を唱えるように響いてくる。だからといって重苦しくて、聴くに堪えないかというと、レイ・マンザレクのクールなオルガンは、ジム・モリソンにたいして鏡が左右反対の姿を映すように独特のポップさを帯びている。このことで、カルト的に陥りそうなジム・モリソンのボーカルにバントのサウンドは距離をおいて、クールな視点を加味し、客観的な広がりを与え、聴きやすいものとなっている。ドアーズ自身の音楽世界は、そういうクールなもので、そして、当時の時代状況でも盛り上がっていたシスコ・サウンドとは一線を画していた。言うなれば、クールな反抗者だったのではないだろうか。彼らのアルバムの中でも、この作品と、次の「まぼろしの世界」が、自己に沈潜するジム・モリソンと、ポップに広がっていこうとするバンドのサウンドが絶妙のバランスを保っていたと思う。

2023年2月 1日 (水)

三谷博「明治維新を考える」(4)~第1章 ナショナリズムの生成─「内外」峻別、「忘れ得ぬ他者」の力学

 ナショナリズムというトピックについて日本の経験を素材として他の社会の理解も可能にするような歴史解釈の一般モデルの試み。
幕末の日本には、西洋列強の進出と支配に対抗するため、内外を峻別し、内部の大改革を実行しようとする様々な政治運動が現われた。そのうち、もっとも影響力があったのは尊皇攘夷運動だった。これは、個々の大名の分国体制から天皇を中心とした集権国家にした秩序を構想し、日本を世界の中心と見なすというイデオロギーだったが、決して幕末政治のすべてを左右したわけではない。天皇や日本の中心性を強調しない人々も少なくなかったが、日本という国家を最優先の枠組みとし、その外部への抵抗と内部の統合を志向する点では共通していた。この点でナショナリズムがあったと言えるだろうが、これは西洋近代の国民国家の土台としてナショナリズムとは異なるものと言わざるを得ない。例えば、ドイツは中世から諸侯による分国体制でフランス革命の影響で勃興したといえる。これに対して、東アジアの国々には古代からの国民始源の神話があり、まとまりはあった。だからといって、列強からの進出に対して、中国ではナショナリズム的な動きは起こらなかったし、日本でも庶民には黒船は物珍しい見物だった。著者は、当時の日本にはステイティズムが成立していたという。中国の人々には中国という枠の発想がなかった。これに対して、日本では庶民に至るまで日本という枠で内外を区別して見る発想があった。だから、黒船を外から来たもの異分子として見ることができた。それを武士は危機感と見て、庶民は珍奇と見ただけの違いだ。中世までの日本は中国という大国の圧迫にさらされ、それに対抗するというネガティブなまとまりの意識はずっと為政者たちは持っていた。その裏返しで、江戸中期に水戸学や国学のような日本を強調するイデオロギーが生まれた。それが江戸の大衆社会で民間の学者(当時は芸人と同じような在り方をしていた)を通じて民間に浸透する。そこに来た黒船は中世までの中国を置き換えたものと意識できた。したがって、明治維新では外からの脅威と、それに対して内である日本を強くするという統合をすることができた。それを著者は「忘れ得ぬ他者」と呼ぶ。考えてみれば、これは、戦前の対米、対ソ連で軍国主義を進めた大日本帝国にも言えることだし、現代でも、中国やロシアについては、国民国家のナショナリズムより、この説明の方がしっくりとくる。
最後に著者は次のように一般化する。第一に、外部への差別と内部の同一視が同時に発生する。第二に、その場合、外部の差別視が内部の均質に優先する。第三に、近代ナショナリズムでは内部の均質化の実践が特徴的である。第四に、外部への差別は排除と支配の両面がある。第五に国家を単位とする内外の差別という知的慣習は段々と流動化してきている。

 

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