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2023年3月

2023年3月31日 (金)

加藤陽子「戦争まで─歴史を決めた交渉と日本の失敗」(4)~第3章 軍事同盟とは何か─20日間で結ばれた三国軍事同盟

 1940年9月、ヨーロッパでの戦争と太平洋での日米対立を結びつけることになった日独伊三国軍事同盟の締結について、イギリスやアメリカなどの動向も視野に入れながら、ドイツとの外交交渉や国内での合意形成の過程に焦点を当てて取り上げる。日本は、このときは、ヨーロッパの大戦に中立の立場をとっていた。ヨーロッパではドイツの電撃戦によりフランス等が敗退し、実質的に戦っていたのはイギリスだけになっていた。そのドイツが東南アジアや太平洋にどうしてくるか、は日本も注視していた。
 著者は、日独伊三国軍事同盟は、ヨーロッパで戦われている戦争と日中戦争にアメリカが介入することのないように、アメリカを牽制するために、三国で結ばれた条約であるという。それは、1940年ころの日米交渉でアメリカが常に日本に三国同盟から脱退を求めていることからも明らかだ。それほど三国同盟というのは大きかった。それは、日本が加わることで、ヨーロッパにおける戦争が太平洋に結び付けられることになったからだ。
 この条約締結に際して、枢密院(天皇の諮問に答えるという、天皇の政治的決定に対する顧問のような役割)は、わずか1日の審議で承認している。ちなみに、1930年のロンドン海軍軍縮条約では2ヶ月もかけたというのに。
 三国軍事同盟がアメリカを牽制するというのは、そもそも軍事同盟は相手を恫喝することでひるませることが機能として期待される。アメリカへの牽制というのは、まさにこの機能がきたいされてのこと。しかし、仮に相手が怖れることなく、そんなことでは抑止されないと思った時には効果がない。実際、1939年にドイツがポーランドに侵攻しようとした時にイギリスとフランスはポーランドと相互援助条約を結んで、ドイツを抑止しようとしたが、かえって、ドイツとポーランドとの戦争をヨーロッパ全土を巻き込む大戦へと拡大してしまった。このような抑止というのは、想像上のもので、感情的なものに左右されがちだ。見た目は、危機に対する現実的な対処をとっているようでも、実のところ相手国の敵意だけを増幅しかねない構造を、軍事同盟は持っている。日独伊三国軍事同盟にはそういうところがあった。
 ドイツはポーランドを占領し、西に取って返して電撃戦を展開し、1940年6月にはフランスを降伏させ、パリに入場した、残されたのはイギリスだけになってしまった。この時、イギリスは内閣が交替し、チャーチルが首相となる。このとき、イギリスにはイタリアを仲介して対独講和という選択肢はあった。しかし、チャーチルは徹底抗戦を主張。
 この時、ヒトラーは次のようなことを述べている。イギリスが不屈の抗戦意識を支えているのはソ連とアメリカへの希望である。そのソ連が頼みの綱にならないことが分かれば、アメリカはイギリスを援助する気などなくなる。なぜなら、ソ連が脱落すれば、日本を北から軍事的に牽制する国がなくなり、自由にイギリスの東アジアの根拠地である香港・シンガポールやアメリカの軍事基地のあるフィリピンを脅かすことができる。アメリカは、日本の軍事的位置が飛躍的に高まると困るので、対英援助を諦めるに違いない。
 これに対して、イギリスのチャーチルは、対独和平となるとドイツは取引材料としてイギリス艦隊を要求するだろう。その艦隊を使ってアメリカ脅かすだろう。実際、ドイツに蒔けたフランスは艦隊をドイツに接収されたのだった。そのことをアメリカのルーズベルト大統領に手紙で知らせた。アメリカはイギリスと防衛協定を結ぶことになったのだった。
 これでヒトラーはイギリス爆撃を開始、バトル・オブ・ブリテンという航空決戦が6ヶ月続くことになる。
 この時、日本は中立の立場をとっていた。三国同盟については御前会議では意見が分かれていたという。例えば、海軍からは、同盟を結べば、英米とは敵対関係となり、貿易を制限し、石油などの死活的に重要な物資の入手が困難になる。日米戦争は持久戦となるはずだが、日中戦争で国力が消耗している現状で、国力を持続できるのかと。これに対して、近衛首相は、これまで、国内の原油生産を拡大し、石油の備蓄を増やしてきたので、使い方を統制すれば、長期の戦争に対応できると、説得力のない回答しかできない。この時、日本には、軍事機密や国家機密を保護する法律が制定され、政府統計がほとんど公表されなくなっていた。日本の基幹的な産業や生産能力の実態を知るデータは軍事機密とされ、軍や経済官僚の一部にだけに握られて首相は知ることができなかった。それでは、長期戦に向けての国力など正確に分かるはずがない。同盟に対しては、軍の上層部や枢密院議長、作成を担当する統帥部の上層部が強い不安を感じていた。とくに海軍の反対の気持ちが強かった。
一方、アメリカは1940年夏の時点では、戦争への準備は十分に整っていなかった。とくに訓練された常備兵が足りなかった。兵を募っても、訓練に時間がかかるという状況だった。そこで、アメリカが準備不足であることを考慮にいれ、ヨーロッパの戦争に巻き込まれるのは嫌だという国民の恐れが最大であるときを狙って、日独伊三国軍事同盟が強くアメリカに圧力をかける。それが可能であれば、同盟に抑止力が期待できる、そういう可能性しかなかった。
 では、日本は同盟を拒まなかった理由を著者は考える。アメリカの経済封鎖は怖いけれど、ジャーナリズムや国民に見えない裏側で独伊に対して確約をとりたいことがあった。それは同盟の条文にない秘密了解事項として、日本側が要求していたのは2点だった。ひとつは、日本の生存権の範囲として東南アジアの英仏蘭領、満州国さして汪兆銘率いる南京政府、それに旧ドイツ領委任統治領を貰い受けるということ。ふたつめは、対英米武力行使について、日本は自主的に決定できること。日中戦争が終わるまでは、対英米武力行使は行わず、行うとしたら、内外諸般の情勢がとくに有利な場合と、国際情勢の推移が一刻の猶予も許さない状況に限るという。
 一般に、日本が「バスに乗り遅れるな」といって、ドイツの戦勝の勢い幻惑され勝ち馬に乗ろうとして、ドイツに接近したと言われるが、必ずしもそうではない。それは、これまで見てきたことからも分かる。
 実際、日本では政策決定にあたって、トップの政治家が政策を考案するのではなく、担当各省庁の課長級の人々が集まり、合議を重ね、文案を作成し、それを各省庁のトップに上げて決裁を仰ぐという形で決定される。実際には、大臣と中堅層との認識のずれも少なくなかった。同盟に対してこのような中堅層の会議の議事録が残されているが、そこでの発言には「戦後」という言葉が頻出する。そこで、彼らは勝利を前提として、その後の取り分をどれだけ有利に勝ち取るかを議論している。ドイツは海軍力が不十分だから、仏印や蘭印などについては日本海軍がいればドイツは口出しできないという。そして、特徴的なことは、アメリカへの見方が議論されていない。つまり、中堅層は三国同盟はドイツを牽制するためものと捉えていた。仏印や蘭印が誰のものになるかが最大の関心事項だった。つまり、ドイツの勝利に便乗するのではなく、ドイツを牽制するために三国同盟を考えていたと言える。
 同盟というのは、何のために結ばれるのか、その交渉開始の地点と、出口で姿を現わすものは違っている。出口では文字通り、アメリカを抑止するための同盟となっている。そして入口の裏側では、自動参戦条項はなく、大東亜の範囲はこれだという秘密了解条項があって、日本に得となることは表に出てこなかった。
 著者は、ここには理念がないという。イギリスのチャーチルは、国論をまとめるために国民の代表である国会議員を説得した。また、中国の蒋介石は軍部のトップが対日妥協を促したにもかかわらず、中国にとって選ぶ選択肢を三つから五つ立てて考え抜いた。これに対して、日本では課長級の事務当局者が唱える目先の利益から国家のスローガンを後付けの論理で作り上げ、最も密接な協議が必要な陸海軍の組織間での検討は、十年の前からおこり得る事態が正確に予測されていたのに、行われなかった。

2023年3月30日 (木)

加藤陽子「戦争まで─歴史を決めた交渉と日本の失敗」(3)~第2章 「選択」するとき、そこでなにが起きているか─リットン報告書を読む

 1931年、関東軍の謀略によって引き起こされた満州事変に対し、国際連盟によって派遣された調査団が作成したリットン報告書をめぐっての交渉と日本の選択を扱う。当時の日本の新聞は、リットン報告書が出た瞬間「支那側狂喜」などの煽情的な見出しを掲げ、報告書が中国の主張を全面的に支持していたかのような報道を行なった。しかし、中国側の本当の反応は、リットン報告書を日本側の既成事実に配慮しすぎだと厳しく批判したもので、報告書の実態も見出しとはかけ離れていた。
 ここで著者が問いかけているのは、リットン報告書が世界に公表されるという場面で、国や個人がどのような立場を選択したのか、自らの現在と将来をどのように選んでいったか、た。しかし、人は、そこで生きている時代の社会のなかで、自らを包含する国や社会の行方を選択できるのか。そこでは、国をとりまく国際環境や、国の諸制度が、選択の幅を外から規定している。人が選択する選択肢がどのように示されるかということが大事なのだ。
 そもそも、リットン報告書としてまとめられた調査の経緯は、日本の働きかけによるものだった。満州事変に対する国際連盟の理事会では、日本の撤兵が議論され、日本の立場は不利だった。不利なままで、追及が重ねられるのを避けるために、中国国内の混乱した状況を連盟に見せるために調査団を派遣させようとしたことが、発端だった。だから、日本側はこのことは、日本にとって都合が悪いこととは考えていなかった。
 リットン報告は長大なものとなったが、その要旨について、イギリスに帰国後、報告会を開いていて、その議事録が残されている。彼によれば、日本は、自らの権利を守るために、9か国条約を破る形で強行してしまった。そのやり方を承認することはできないが、世界の道というものがあるから、それを聞いてほしい。彼は日中両国が二国間で協議する。ただしそのままなら、日本が軍事的な強国で、中国は弱体だから、中国は日本の言いなりになってしまう。そこで、両者の力の差をまず埋めて、適切な二国間協議を始める多呂に準備した原理原則に対して両国から承認をとる。
 そして、彼は、報告書には、満州事変についての判断、満州国についての見方、中国で起こっている半日ボイコットについて、の三つの結論が提示されているという。ポイントはそこだという。第1の満州事変については、関東軍の行動は合法的な自衛措置とは言えないが、彼らが自営だと考えていたことは否定しないという微妙な書き方をしている。第2の満州国については、認めてはいないが、日本はたしかに満州で秩序安寧を維持し、生命財産の安全を保証し、条約義務を履行しうるべき政府の設立を要求する権利があると認め、しかし、日本軍と日本の官僚によってつくられた、日本の傀儡国家であり、現地の人々の支持を受けていないと書いている。第3に中国によるボイコットは国民党政府が組織したものだと認めている。それは、満州事変はボイコットにより中国側が日本人に与えた経済的なダメージに対して、日本が軍事的手段で解決を図ろうとしたということを、その点では間接的に認めたことになる。ただし、満州事変自体は、現地の人々の支持を得てはいないのだから、自衛とは認められない。しかし、侵略とは明言しない。それを認めてしまったら、日本が国際連盟から脱退して、日中間の武力衝突が拡大してしまう。そこで、日本には満州から手を退けと勧告することはしない。現実的に、日本を交渉の場に残そうとした。
 このようにリットンが、満州事変について考えていた本心と、公式な報告書として書かれた見解の違いを知ると、彼が十分すぎるほど日本に配慮していることが分かる。彼は、満州国の実態が欺瞞であること、現地の人々が民族自決でつくり上げた国家ではなく、日本の傀儡であると分かっていた。しかし、日本に向かって侵略者と断罪してしまえば、日本は反発して話し合いができなくなる。そこで、報告書では、日中が交渉のテーブルにつくための条件を提示し、世界の道を準備したと日本に呼びかけたのだった。
 これに対する日本側の反応は、新聞の見出しは、満州国を認めずというネガティブキャンペーンを始めるものだった。政府などは、三つの結論に対して、満州事変は自衛行動であり、満州国は民族自決で自然に発生した国家だと反論している。一方、中国側は報告書の解決策は日本のつくり上げた既成事実を重視しすぎていると反論した。
 日本は、報告書の勧告に従って協議をすれば、武力による圧力が掛けられなくなり。また、協議に西洋諸国からの介入の危険があることをおそれていた。とくに関東軍はソ連への配慮は許容できないものだった。
 この報告書が提出されて、日本がとわれる選択肢は何かを著者は考える。関東軍の立場では、報告書や国際連盟の方針に従えば、満州国の解体は免れ得ないし、日本軍の駐屯も許されない。それでよいのかどうかだ。では、リットンが提示している選択肢は、軍隊駐留という多大負担をかけて満州という中国の一部に固執して少ない利益をとるか、中国と妥協して貿易により、不確実ではあるが、より大きな利益をとるかという選択肢だった。しかし、リットンの示された選択肢は、国民は検討しようともせずに、頭から拒否してしまった。それは、ひとつにはジャーナリズムが満州国を否定するものだと扇情的に書き立てた影響もある。このとき、政府は、それを抑えようとはしなかった。当時、政府の主張を制約するものとして国家主義団体、右翼などによる運動、テロがあった。
 ただし、政府部内でも天皇の周囲など、一部には中国との妥協を模索する人々もいた。リットン報告を受けて、国際連盟の場で交渉したのが松岡洋右。外務省かららの訓令では、満州国を承認させ、関東軍の駐留を認めさせる。連盟が必ずしも認めなくてもいい。その時は、連盟の面子を立てつつ、事実上、満州問題から手を引くように誘導するというものだった。そこで、イギリスによる妥協案、日中に英米ソを加えた5国で話し合うというもの、これは外務省に拒否されてしまう。だから、松岡が率先して、国際連盟を脱退したわけではない。この時、内田外相は中国国民政府と直接交渉でまとめられる、最後まで強気に出ていれば、中国は屈服すると楽観していた。それで、妥協的な姿勢を拒否したという。そこから、国際連盟で、日和って妥協したり、突っ張って不名誉な処分を受けるくらいなら、脱退した方がましだという考え方に傾いて行った。
 その後、日米開戦前に、もう一度、リットンのように「世界の道」を選択する呼びかけがあったと著者は言う。それが、日米開戦直前にアメリカから提示されたハル・ノートだったと言う。日本は10年おきに2度までも、英米側から誘いを受けていた。日本側には、軍部の主導する満州侵略はだめなのだ、と気づく選択肢も時間もあった。さまざまな選択肢はあった。そこで、世界の道の側に行く選択肢を否定し、植民地を帝国内のブロックに再編しながら、経済をまわしていく道を選択した。

2023年3月29日 (水)

加藤陽子「戦争まで─歴史を決めた交渉と日本の失敗」(2)~第1章 国家が歴史を書くとき、歴史が生まれるとき

 著者は、歴史家の視点というのは、例えば、山登りの準備過程をすっ飛ばし、富士山を登り切った時、山頂から見える景色や風景、と象徴的に語る。具体的には、長いスパンで見る。長い時間のものさしを使いながら時代や社会を見ていく姿勢だ。
 本書では、太平洋戦争に至るまでに、日本と世界の間で交わされた政治・外交交渉の過程を追っていくが、まずは、現在の政府の公式見解である平成27年の総理談話を取り上げている。著者は、そこで書かれていないことを探す。それは、日清戦争などの中国との関係であり、文化や芸術であると指摘する。印象的だったのは、幕末の西洋列強と日本との差異を技術力(軍事力がその最たるものだろうが)に一元化されているということ。ここで考える必要があるのは、西洋諸国が高い技術力を備えていたのは、背景として産業革命の達成はむろんのこと、国民の力を最大化しうる国内の体制、例えば、憲法典の編纂や議会制度の整備、近代的な経済システムや金融制度の整備が不可欠だった。日本を含め、当時のアジア諸国には、そのような政治的経済的文化的な基礎がなかった。このようなことに触れずに技術力で劣っていたとまとめてしまうと、そういう背景が見えなくなってしまう。これは、太平洋戦争に負けたのは、技術で負けたからとか、物量に負けたといった決めつけにも通じている、と著者は指摘する。
 また、談話では、植民地帝国を早くから築いていた西欧列強が世界恐慌に際して、いち早く経済のブロック化を進めたのに対して、遅れてきた帝国主義国であり、経済的に脆弱な資本主義国であった日本が、経済的な打撃を受け、打開の道を侵攻に求めたとしている。しかし、当時の各国がそれぞれの植民地への輸出を調べてみると、イギリスは巨額で、植民地帝国であることが分かる。それが世界恐慌を機に、イギリスの数値は急降下する。日本は1937年の日中戦争の頃から輸出額が急伸する。そのことから、世界恐慌の影響で経済の収縮が厳しかった英国と、あまり打撃のなかった日本という対照的な傾向が読み取れる。そうすると、談話の内容とは違うことが分かる。この談話では日本とその植民地の関係が隠れる、と著者は指摘する。それは、植民地帝国としての日本を過小評価することになる。日本と台湾・朝鮮など植民地との関係性は、経済的な側面からすると、英仏とその植民地との関係性よりも、ずっと密だったという。
 そもそも、日本の国家の成り立ちについて、著者は言う。学校の歴史の授業では、3世紀ごろの古代、流れの速い河川が狭い平野を流れる村落では、大規模な治水工事が必要となる。そこで、集約的な農耕を必要とした日本では、そのような技術を管掌する王権が発達したと。しかし、現在の見解では、緊迫した朝鮮半島の軍事情勢への対応から一気に国家としてまとまったという。当時の中国は三国時代で、呉が日本と連合するのを警戒した魏が金印を与えて牽制するようにしたことから国家が整備されたという。
また、歴史の始まりは、最初の歴史書というのは古代ギリシャのヘロトドスの「歴史」やタキトゥス「戦記」であり、戦争の記述だった。とくに、タキトゥスは「戦記」を書く際に、5W1Hに従って簡潔に出来事の流れを記述し、戦争の深い原因、国家の心理的な対立に踏み込んだ。しかし、心理的な対立は5W1Hでは書けない。そこで、各ポリスの政治家や軍人たちの演説の言葉から、争点を抽出したのだった。この心理は、個々の人々ではなく、国家の意思決定に携わるエリート、つまり支配階級の人々の知性だったと言える。ローマ帝国では皇帝、中世では王や貴族、近代になると人々が登場する。つまり、国民が主人公になる。そのように移り変わった際に、それぞれ分岐点があった。現在は、その分岐点のひとつではないかと著者は主張している。

2023年3月28日 (火)

加藤陽子「戦争まで─歴史を決めた交渉と日本の失敗」

11114_20230328213601  7年前に読んだ本の再読。
 主に高校生を対象とした連続講義を本にしたもの。高校生に向かったのは、高校生というものが有限の時間の中で選択を迫られている存在だからという。例えば、進路という将来を左右する重大な選択がその典型だ。現代の社会では、人々に、選択困難な問題を日々投げかけてくる。その困難さというのは、選択という行為が真空状態でなされるのではなく、さまざまな前提や制約下に為されているという点にある。
 著者は、そういう視点で歴史を見ようとする。選択という行為が真空状態で為されるのではなく、様々な制度の制約を受け、国際環境や国内政治情勢の影響下でなされる。そうであれば、国や個人が選択を求められる場合に重要なのは、問題の本質が正しいかたちで選択肢に反映されているか、だ。それは、当時のジャーナリズムが誘導した見せかけの選択肢ではなく、世界が日本に示した本当の選択肢のかたちと内容を明らかにしつつ、日本側が対置した選択肢のかたちと内容を再現することで、世界と日本が切り結ぶ瞬間を捉えようとする。
 ここで取り上げる事例は、太平洋戦争前において、世界が日本に、選択を真剣に迫った交渉事であった3つの事例だ。すなわち、満州事変についてのリットン調査団の報告への対応、日独伊三国軍事同盟、太平洋戦争の開戦直前の日米交渉。これらについて、教科書に記述されている一般化され、単純化された記述とは、異なった風景が見えてくる。その発見の興味深いところもある。
 しかし、この著作の面白いところは、そこではない。例えば、日米交渉のアジェンダの一つとして「外来思想の跳梁を許容しない」というのはファシズム、つまりナチスのヒトラーに対抗するか否かという交渉と加藤が説明していたのを、高校生が「外来思想」には共産主義もあるうるのではないかという解釈に、加藤が、そこで、その可能性に気づくというのが記されている。加藤はあとがきの中で、「中高生の集団を前に話し続けることで私の中に化学変化というべきものが起き、歴史を説明する際の私の姿勢が、より原初的な、根源を掴むものへと変化していったことにあります。─(中略)─結果として、これまで私の中に頭で線でしかつながらなかった歴史事象が、突如、面となって立ち上がってくる稀有な体験をしました」というのが生々しく伝わってくるドキュメントだというもの。それは著者である加藤陽子という人が優れた歴史家であるが、それ以上に教育者でもあるゆえのもので、もともと多面的に考えさせる要素のあるこの人の著作も、この人のこのような開かれた性格によるもので、このような著作はこの人ならではのものだと思う。

2023年3月27日 (月)

川田稔「日本陸軍の軌跡─永田鉄山の構想とその分岐」(10)~第9章 日米交渉と対米開戦

 1941年、近衛首相は対米開戦を回避するため、8月にホノルルで大統領との首脳会談を提案した。一方、ルーズベルトは同じ8月、大西洋上でチャーチルと会談し、「大西洋憲章」を発表。日本を名指しこそしないが、侵略的膨張主義への批判と反ナチズムの理念を表明した。帰国後、ルーズベルトは駐米大使に日本が隣接諸国に軍事的進出を図る行動に出ればアメリカは必要な措置を取るという警告と、首脳会談提案への回答で従来の主張以外は認めないという文書を手交した。日米間には、ハルの提示する中国撤兵、三国同盟、通商無差別原則という三つの課題があった。
 一方、アメリカの全面禁輸措置によって窮地に立たされた海軍は開戦避けられずの姿勢を表わした。陸軍中央の田中は即時対米開戦の作戦準備を進めるべきと強硬に主張した。陸軍は、国家レベルの開戦決意がなければ戦争準備を整えることはできなかった。大規模な人員の召集や、軍需物資の予想戦場方面への集積、輸送用船舶の大量徴用などが準備に必要で、それらは戦争決意が国家意志として示されないかぎりできなかったからである。しかし、田中の主張は、そのような理由からだけでなく、対米戦争の決意そのものを既成事実化し、動かさざる前提としようとするものだった。田中は、アメリカの警告について、単なる脅しではなく、米英協議の上の対日強硬策と判断していた。したがって、対米艦船比率や石油備蓄の関係などから早期に開戦すべきと考えていた。田中自身は日米開戦は避けたいとは考えていた。これに対して、武藤は外交交渉に賭けていたと言っていい。ルーズベルトの文書への回答をめぐり田中と武藤は激しく対立する。陸相の東条英機も対米戦には自信がないという心情で海軍同様だった。しかし、政府の会議では、互いにそれを表明できず、互いに表明してもらい、それをもって軍部内の強硬派を抑えようとしていた。しかし、互いにその一言が言えなかった。10月、近衛内閣は総辞職し、東条内閣が成立。アメリカに暫定協定案を提示した。11月、アメリカからハル・ノートが提示される。ハル四原則の無条件承認、中国・仏印からの無条件全面撤退、南京汪兆銘政府の否認、三国同盟からの離脱、を求めるものだった。これに至って、政府は交渉打ち切り、そして開戦を決意した。
 この頃の、武藤と田中の世界戦略が概観してみよう。
 武藤は、第1次世界大戦以降、戦争は国家総力戦となり、国家の有する総合国力を戦争目的に向けて統制する挙国一致の国防国家とならなければならない。そのためには、軍備の充実とともに自給自足経済体制の樹立が必要であり、そのために南方の資源を獲得しなければならない。そこから大東亜生存権の形成が必要ということに至る。しかし、大東亜生存権は欧米の利害と正面から衝突するもので、通常の外交手段では実現困難だった。そこで、欧州大戦の勃発、そしてドイツのイギリス侵攻によって、状況が変わってきた。その際、武藤は、武力行使はイギリス領及びオランダ領に限定し、アメリカと戦争は回避すべきと考えていた。しかし、イギリスに対しては、日本の対中国政策や南方政策を妨害する頑強な敵とみており、中国や東南アジアからの放逐が必要と考えていた。しかし、ドイツのイギリス侵攻は失敗したが、日独伊三国同盟と日ソ中立条約によりドイツのイギリス侵攻が再度実施されると想定していた。
 一方、田中も国防の自主独立性の確立のためには、軍需資源の自給自足が必要であり、そのために大東亜共栄圏の建設が必須だとしていた。武藤と同様に、ドイツのイギリス侵攻を機に南方武力行使により東南アジアを日本の勢力下に置くことを考えていた。だが、独ソ戦の開始とともに、二人に対立が生じた。それが二人の三国同盟の意味付けや対米認識の相違を表面化させたのだった。
 田中は独ソ戦は短期間でドイツの勝利に終わると予想し、対ソ武力行使を主張する。イギリスの対独抗戦意志を破砕するにはソ連の屈伏が必要であり、日本の北方からの脅威を取り除くことになる。これに対して、武藤は対ソの武力行使には反対だった。独ソ戦は長期戦となり総力戦となる。そこで、イギリスへの再侵攻は遠のき、イギリス崩壊の可能性も低下する。日中戦争に相当の戦力を割いている中で、本格的な対ソ開戦をすれば、南方への展開は不可能となってしまう。武藤は、三国同盟は対イギリスの軍事同盟と想定していた。また、三国同盟を活用して、日ソ国交調整を進め、各国からの重慶政府援助を抑えようとした。最終的には日米戦を阻止するためのものと位置付けられていた。しかし、独ソ戦が始まり、イギリス攻略が遠のき、アメリカの参戦を抑えることが困難になった。
 しかし、田中は、対米戦は不可避と見ていた。三国同盟もそのためのものだった。田中も対米戦は避けたいと思っていたが、大東亜共栄圏とアメリカの太平洋戦略が衝突するとみていた。アメリカに対抗するにはドイツとの同盟は絶対に必要となる。ゆえに、三国同盟は維持しなければならない。
 これに対して、武藤は対米戦は回避可能だとみていた。アメリカは必ずしもアジアに死活的利害をもっていないので、日米間に妥協不可能な対立はないと考えていた。三国同盟と日ソ中立条約によってアメリカの軍事介入を阻止しながら、南方に進出するのは可能だと判断していた。それが、独ソ戦によって狂い始める。それはまた、南方への武力展開による大東亜共栄圏の形成が困難になることを意味した。それでは、最も警戒していた対米開戦に陥ることになってしまう。そこで、武藤はナチス・ドイツから距離を置くようになってくる。
 一方、田中はナチス・ドイツへの信頼は揺るがず、アメリカの参戦に備えるためには三国同盟は絶対に必要と考えていた。むしろ、独ソ戦は北方の脅威を取り除く好機と考えていた。また、アメリカは、欧州でドイツが対英侵攻を始めると、アジアに死活的利害をもつことになる。アメリカはイギリスの存続に安全保障上死活的な利害をもっており、そのイギリスの存続のためにはアジアの英領植民地は不可欠だった。日本が参戦すれば、その海軍によってイギリスへのアジア、オーストラリアからの物資補給が遮断されるおそれがあり、そのような事態は対独抗戦に苦しむイギリスを崩壊させかねないと見られていたからである。
 このように対米開戦は不可避と見ていた田中の対米軍事戦略はどうだったのだろうか。田中は、太平洋を渡ってアメリカを屈服させる手段は日本にはなく、日独同盟によっても、アメリカを軍事的に屈服させることは不可能だと判断していた。対米戦は必ず長期戦となる。それに対応するには、先制奇襲攻撃により緒戦でアメリカ太平洋艦隊に徹底的な打撃を与え、以後2年間(軍艦を新造し配備するための期間)は制空制海権を確保する。これにより太平洋地域の覇権を確立し、南方地域を占領する。それとともに、南方の開発獲得を促進しも自給自足体制を確立して長期持久戦を遂行できる態勢を整える。その間に日独伊の軍事協力によってイギリスを屈服させる。そのことによって、ヨーロッパらおけるアメリカの足掛かりを失わせ、欧州大陸から引き離す。また、アジアにおいて緒戦に大打撃を与えることによって足場を失わせ、孤立させる。そのことによって戦意を喪わせ、戦争終結に導く。このような対米軍事戦略にとって、イギリスをいかに屈服させるかが最大のポイントであった。だが、田中の意図は、ミッドウェー海戦の惨敗とガダルカナル攻防戦の失敗によって崩壊する。
 また、武藤の軍事戦略は次のようなものであった。
 対米戦は長期戦となる。先制奇襲攻撃によって、戦略上優位の態勢を確立し、重要資源地域および主要交通網を確保して長期自給自足の体制を整える。戦争終結の方向については、軍事的にアメリカを屈服させることはできず、独伊と提携してイギリスを屈服させ、欧州での足掛かりを失わせ、孤立させて戦意喪失させる。これは田中と方針とあまり変わらない。
一般に、対米開戦では、陸軍は戦争終結の見通しをまったくもっていなかったとの見方があるか、このように田中や武藤は一応の戦争終結戦略をもっていた。これらの案は東条も了承していた。

2023年3月26日 (日)

川田稔「日本陸軍の軌跡─永田鉄山の構想とその分岐」(9)~第8章 漸進的南進方針と独ソ戦の衝撃─田中新一参謀本部作戦部長の就任

 1940年10月、田中新一は参謀本部作戦部長に就任し、「支那事変処理要綱」を起案。日中戦争をそれ自体として解決するというより、南方への武力行使を伴う東亜新秩序の形成によって、日中戦争も処理されうると想定していた。翌年、「大東亜長期戦争指導要領」を作成した。日中戦争をそれ自体として解決することを断念し、より大きな国際関係の変動、すなわち欧州大戦の帰趨や対ソ国交調整、南方武力行使などを通じて処理しようとするものだった。田中も、武藤と同じように中国派遣軍の削減が必要だと考えていた。しかし、英米不可分論の認識に立って、したがって南方英領への軍事攻撃はただちに対米戦争を意味し、アメリカの参戦を避けながら南方英領への武力行使を実行することは不可能ということになる。したがって、好機を得ての武力行使は放棄され、自存自衛の場合に限り武力行使を行使することとなった。この自存自衛の場合とは、英米蘭などから対日禁輸措置を受けるか、国防上容認できない軍事対日包囲体制が敷かれたときが想定されていた。
 同じ頃、アメリカから野村吉三郎駐米大使と米国ハル国務長官との間の「日米諒解案」が送られてきた。武藤は、大東亜共栄圏の建設は必要だと考え、日中戦争の早期解決と共に、日米戦争は回避したいと考えていた。そのため、諒解案は日米間の緊張を緩和し、日中戦争解決に資するもの歓迎した。これに対して、田中は、日米諒解案を基本的にはアメリカによる対独参戦のための時間稼ぎとみていた。また、武藤と異なり、この段階ですでに対米戦争は不可避と判断していた。その準備として、国防の自主独立のために資源の自給自足を必要とし、大東亜共栄圏の建設が必須である。これはアメリカの太平洋政策と正面から衝突する。したがって、アメリカは日本の大東亜共栄圏を容認しない。そして、対米開戦までの間に、日米交渉を利用して日中戦争を解決し、さらに南方戦略資源の大量獲得を図ることが望ましいと意見した。
 武藤と田中の対立は独ソ戦によって表面化し、その後の国策決定に重大な影響を及ぼすことになる。
 田中は、独ソ戦になれば、英米ソの提携は強化され、アメリカは英ソの援助に努めるだろう。また米英蘭などによる対日経済圧迫を受けることになる。したがって、仏印とタイを押さえておかなければならない。もし、仏印当局が進駐を承諾しないなら武力を行使すべきである。また、独ソ戦はドイツが数カ月で勝利しソ連は崩壊する可能性が高い。そこで、機を逸せず、ソ連への武力行使によって北方問題を解決する必要がある。つまり、独ソ戦を機に、南部仏印進駐と北方武力行使を実施すべき。また、日本が北方の脅威から自由になることは、アメリカにとっても太平洋側からの強い軍事的圧力となり、対独参戦を背後から牽制する効果を持つ。田中はそう考えた。
 田中は、このとき、日本は三国枢軸の維持か、対英米親善への国策転換か、国家の命運のかかる根本問題に直面していると考えていた。その上で、田中は枢軸陣営を選択した。これは一般的な見解の、ドイツとの同盟は当初から硬直的な自明の方針だったというのとは異なる。陸軍は、ドイツとの関係を必ずしも固定的に考えていたわけではなく、常に米英提携など他の選択肢をも念頭に置いていて、国際情勢についての一定の判断によって、選択していた。
 一方、武藤は独ソ戦はドイツの勝利で短期的に終結する可能性は低く、長期持久戦になると見ていた。ソ連は、その広大な領土と豊富な資源、一党独裁による強靭な政治組織などから、容易には屈服しないだろうと判断していた。したがって、ドイツの英本土上陸作戦は遠のき、近い将来でのイギリス崩壊の可能性もない。それゆえ、独ソ戦については、事態を静観し、見守るしかないと考えていた。その間、当面は日米交渉によって日中戦争の解決を促すべきだと考えていた。
 他方、7月に日本の南部仏印進駐に対して、アメリカは在米日本資産の凍結、そして日本への石油輸出を全面的に停止した。この措置により、日本の北方武力行使は延期され、さらに、対米英開戦を決意することとなる。
 一般には、このとき陸海軍首脳部はアメリカの対日石油禁輸を全く予期していなかったとされている。しかし、武藤は外務省からの情報により予期していたと考えられる。武藤は、南部仏印進駐は、対日全面禁輸を引き起こすだけでなく、さらにそのことが対米英戦争に繋がる可能性を考慮にいれていた。武藤は、田中に参謀本部が対ソ攻撃を阻止するために、南部仏印進駐を認めたと言う。武藤は対ソ開戦は南北同時戦争を招くことになるとし、そのような最悪の状況に陥るよりは、たとえ対日全面禁輸を引き起こしても、なお日米交渉によって、対米戦を回避する可能性は残っていると考えた。これが田中たち作戦部の反対を押し切って、日米交渉に全力を投入していく重要な要因だったと推定される。
 これに対して田中は、タイ・仏印の確保は必須である。とくに英米にとっても資源は貴重であり、日本の先手を打って仏印を確保するおそれがある。しかし、アメリカは1942年までは対日戦争準備は整わないので、それまでは本格的な武力行使に至らないと考えていた。それゆえ、田中は強硬に南方武力行使、対米英開戦を主張し、武藤と激しく衝突することになる。
 一方、アメリカ政府は戦略的にヨーロッパ第一主義をてっており、ドイツ打倒に全力を振り向けけるべきだと考えていた。対日政策としては強硬策をとりながら対日戦を回避しつつ種々の牽制により日本の軍事的膨張を抑止しようとしていた。日本の対ソ攻撃を阻止するため、日本の仏印進駐の機を捉えて、対日全面禁輸により圧力を加えたのだった。日本軍による北進の脅威が去れば、ソ連極東軍を独ソ戦にまわすことができる。
 一般に日米戦争は、中国市場の争奪をめぐる戦争だった思われがちだが、実際は、イギリスとその植民地の帰趨をめぐって始まったものである。

 

2023年3月24日 (金)

川田稔「日本陸軍の軌跡─永田鉄山の構想とその分岐」(8)~第7章 欧州大戦と日独伊三国同盟─武藤章陸軍省軍務局長の登場

 1939年9月、武藤は陸軍省軍務局長となった。彼はヨーロッパの大戦勃発に対しては不介入の態度をとり、国内体制の整備、すなわち国防国家体制の確立と、日中戦争の解決を当面の課題とした。この国防国家とは、国家総力戦に向けた体制を平時から整備し、物心両面での挙国一致体制にある国家を言う。言い換えると、政治・経済・文化などの国家の総力を、戦争目的に合致するよう組織・統制し、有事の際に直ちに総合国力を発揮しうる国家であった。彼に認識としては、欧州大戦の勃発によって、世界は今や戦国時代となり、弱肉強食の修羅場と化している。日本のみ局外に立ち安閑としていることは不可能で、早急に国防国家体制の確立が必要だというのである。当時、日中戦争によって中国大陸に85万の兵力が貼りつけられており、このままでは欧米列強との本格的な戦争遂行は困難と考えられた。したがって中国に展開している兵力を削減・収容することで、戦力展開の伸縮性、弾力性を回復させ、国防弾発力確保しておく必要がある。一般向けの歴史書などでは、日中戦争の解決が困難となり、その状況を打倒するために、陸軍は南方進出、対米戦争へと進んで行ったという見方が一部にある。しかし、武藤の根本的な問題意識は、次期大戦にどのように対応するかにあり、日中戦争の早期解決もそのためのものであった。彼にとって、日中戦争それ自体が目的ではなく、次期大戦に備え、中国の軍需資源を確保しようとするものだったからだ。たしかに当面の課題として、日中戦争の解決は重要視されており、南方進出も、援蒋ルート遮断を一つの目的としていた。だが、それだけが南方進出の狙いではなく、それを「看板」として、次期大戦をにらんだ国防国家体制の確立のため東南アジア全体を含めた自給自足経済圏の形成を図ろうとしたのである。
 1940年6月、武藤は国防国家建設の課題について、その基本プランとなる「総合国策十年計画」をまとめた。その特徴として、永田にはなかった点として、第1に東南アジアを含む地域が、資源の自給自足等の観点から「協同経済圏」とされ、南方資源獲得の視角が示されている。これは永田というより石原の「国防国策大綱」で示されていたものだ。この「協同経済圏」の範囲は、後の大東亜共栄圏に受け継がれてゆくことになる。第2に、国策遂行のための強固な政治指導力として、親軍的な政党による一党独裁の方向が志向されていることである。これはソ連共産党に学んだものだったという。しかし、実際には近衛首相は幕府的との批判を受けて及び腰となり、大政翼賛会という政治的指導力を持たない精神運動組織を生み出すにとどまった。
 この頃、ヨーロッパではドイツの快進撃が続き、6月にはパリが陥落した。武藤は、このような国際情勢の変化に対応して、日中戦争を解決するとともに、好機を生かして南方問題の解決に努めるとの方針を打ち出す。南方については対象を英国に限定し、香港、英領マレー半島を主要ターゲットにして、対米戦は避けるという、英米可分の見地に立っていた。ここで、武藤は英米の密接な関係を十分承知していたが、ドイツ軍の英本土上陸によって英国が崩壊すれば、米政府は、戦争準備態勢の未整備と孤立主義的な国内世論のなかで、南方への軍事介入のチャンスを失う。また、英本国が崩壊すれば、その植民地のために、日本との戦争を賭してまでアメリカが軍事介入する可能性は少ないと考えていたためである。この時点までの武藤は、欧州戦争不介入方針を前提に、欧州情勢に距離を置き、いわば一種のフリーハンドを維持しようとしていたと言える。それが、英本土を攻略するドイツと密接な関係を結び相互了解を得るとともに、北方対ソ関係の安定を確保しようと図り、大英帝国の崩壊を好機に、南方の英領植民地さらには蘭印を一挙に包摂し、自給自足的「協同経済圏」建設に踏みだそうとした。さらに、日中戦争の解決を仏印進駐の名目にしようとした。
 その後、ヨーロッパではドイツ軍は英本土上陸には至らず、作戦は延期となった。英独間の戦争が長期化するとアメリカの軍事介入は不可避になるとして、武藤の英米可分を批判する英米不可分論が海軍から起こり、そのせいもあって、ドイツとの同盟に消極的な海軍出身の米内光正が首相を務める内閣を、陸軍は崩壊させた。そして、9月に、第2次近衛内閣が成立し、日独伊三国同盟が締結された。これにより、独伊側に立って欧州戦争に本格的にコミットする姿勢を明確にした。これは、松岡外相の主導によるものだが、松岡は、さらに日ソ中立条約を締結する。武藤は、日独伊三国同盟とソ連との連携による圧力で、アメリカの参戦を阻止し、日米戦を回避しながら、大東亜生存権の建設を実現しようと考えていた。つまり、三国同盟は日米戦争を目的とするものではなく、回避するためのものと考えていた。
 南部仏印進駐をめぐって、陸軍中央で統制派内の武藤と田中新一の対立が目立ってくる。

2023年3月23日 (木)

川田稔「日本陸軍の軌跡─永田鉄山の構想とその分岐」(7)~第6章 日中戦争の展開と東亜新秩序

 日中戦争に対して、石原は派兵は華北だけにとどめなければ全面戦争となるおそれがあるとして、不拡大の考えだった。これに対して、武藤は派兵に積極的だったが、海軍からの強い要請があり、派兵を行なった。その後も、石原は戦線を限定しようとしたが、関東軍は華北での戦線を拡大した。中央で石原と武藤が意見対立し統一した戦争指導ができない状態では、現地の軍をコントロールすることは困難だった。これが現地軍の独走を許すことになった。このようにして、日中戦争は全面戦争となっていった。石原は武藤との抗争に敗れ陸軍中央を去った。しかし、陸軍中央には石原の影響は残り、その後も不統一は解消できず、派兵が決まっても、逐次の投入となり、兵力の損害は少なくなかった。
その中で南京侵攻が開始された。参謀本部は反対で、侵攻の事前準備がほとんどなされず、兵站補給が不十分で、現地での食料・物資の略奪が多発することとなった。そのことが南京事件を誘発することになる。石原の影響の残る参謀本部が南京侵攻に反対したのは背景があった。当時、トラウトマンを仲介とする南京政府との和解工作が進められていたからだ。また、彼らは南京が陥落しても蒋介石政権が崩壊することはないと判断していた。
 1938年1月近衛首相は「爾後国民政府を相手とせず」と声明を発表。この声明は、中国のみならず国際社会に対する軽視できない意味を持っていた。当時の東アジアでは、中国の領土保全、門戸開放に関する9か国条約が重要な位置を占めていた。そして、国際社会の承認を受けている中国の正統的な政権は南京国民政府だった。その南京国民政府を日本は事実上否定し、新たな中央政府成立を求めることを表明したのだった。このことは、従来の東アジア国際秩序のあり方とは異なるスタンスに立つことを示唆していた。それが、後の東亜新秩序へとつながっていく。
 日本軍は広大な中国を軍事的に制圧するには、兵力の絶対量が不足していたため、いわゆる「線の支配」にとどまり、「面」を制することはできなかった。軍事的手段による早期解決の可能性はほとんどなくなってしまった。
 11月、近衛内閣は「東亜新秩序」声明を発表した。この声明は、国際社会に対する基本的スタンスの変更を示していた。すなわち、それまでの日中戦争は中国側の排日行為に対する自衛行為とされてきたが、それが東亜新秩序の建設を目的とするものと新たに位置づけられたのである。これは9か国条約を軸とするワシントン体制を事実上否定するもので、それに代わる新しい東アジア国際秩序をつくるという姿勢を示したのであった。この内容は、華北・内蒙古の資源確保とそのための駐兵を主眼とするもので、また、列国の中国権益や経済活動の制限を含んでいた。その意味で従来のワシントン体制の主権尊重、機会均等の原則に明らかに対抗する内容をもっていた。これは、これまでの列国の既得権益尊重の原則を修正するものといえた。
 このワシントン体制批判として「東亜新秩序」は、ヴェルサイユ体制の打破を掲げるナス・ドイツの「ヨーロッパ新秩序」のスローガンにならったものであった。ただし、当時の陸軍中央はドイツとの連携を欲してはおらず、同様に米英と軍事的に敵対すること意図してはいなかった。
 この頃、武藤が陸軍中央に復帰し統制派系が圧倒的な影響力をもつこととなった。
統制派幕僚にとって、日中戦争は必ずしも全面的な中国支配そのものを目的としてはいなかった。次期世界大戦に備え、必要な軍需資源や経済権益を確保することを主要な戦略目標としていた。そのような中国の位置付けは、永田の構想以来、統制派系に受け継がれてきたものだった。次期大戦への対処の問題が、常に彼らの念頭に置かれていたからだ。しかも、欧州ではナチス・ドイツがオーストリアを併合し、チェコのズデーデン割譲など大戦勃発の可能性が現実のものとなりつつあった。その情勢をみた統制派幕僚は、次期大戦への対応を考慮し軍事的弾力性とそれを支える人的物的国力を温存すべきと考えていた。
 一方、近衛内閣の声明に対して、中国はもちろん英米も強く反発した。それまでのアメリカ政府は日本を非難してはきたが、具体的な対日制裁や中国支援は控え、むしろ日米和平を望んでいた。当時の対日輸出は対中輸出の7倍近くを占めていたし、英国も危機的なヨーロッパ情勢への対応に忙殺され中国では権益維持を図るために日本の行動に妥協的態度をとらざるを得なかったからだ。しかし、声明を機に米英は財政的な中国支援に踏み出した。

2023年3月22日 (水)

川田稔「日本陸軍の軌跡─永田鉄山の構想とその分岐」(6)~第5章 2.26事件前後の陸軍と大陸政策の相克─石原莞爾戦争指導課長の時代

 1933年5月の塘沽停戦協定締結後、日中関係は小康状態が続いた。しかし、1935年になると華北分離工作が始まる。同じ頃、ヨーロッパではナチスドイツが再軍備宣言をし、ヴェルサイユ条約体制が破綻し、緊張が高まった。日本の動きは、欧州の動向と無関係ではない、永田は次期大戦はドイツをめぐってヨーロッパから起こる蓋然性が高まったと見た。のことを念頭に、国家総力戦に対応するための資源確保が現実の要請として強く意識したのだった。
 永田の死亡の翌年、2.26事件が起こり、皇道派および宇垣系の政治色のある上級将校はいなくなった。永田亡き後、強い影響力を持つようになったのは、陸軍省では武藤章、参謀本部では作戦課長となった石原莞爾だった。
 石原は、その頃の日本の在満兵力が極東ソ連軍の3割あまりの劣勢で、しかも戦車や航空兵力では5分の1程度であることを知り、愕然とする。そこで、8割程度の戦力を配備する必要がある。まず、ソ連の極東攻勢政策を断念させることを強調し持久戦の準備が必要で、そこでは米英との親善関係の保持を必須とする。したがって、対支工作は米英との親善関係を保持しうる範囲に制限される。
 石原は、1936年「戦争計画準備方針」を策定。5年後の1941年までに対ソ戦準備を整えるとされ、その中心的な内容は、第一に兵備の充実、第二に持久戦に必要な産業力の大発展を図る。とりわけ満州国の急速な開発を行い、相当の軍需品を大陸で生産できる態勢を確立する。その具体策として、日満産業5ヵ年計画を提出した。これはソ連の社会主義経済論から計画経済による工業生産力の拡充という新しい考え方を導入した計画経済的統制経済論というべきものだった。このような考え方は、第1次世界大戦後のドイツをモデルとした永田の統制経済論には含まれていない観点だった。永田の統制経済論は、現にある工業生産力や技術を、国家的観点から合理的に再編成し統制・管理しようとするものだった。それに対して、石原は、統制・管理だけでなく、国家主導による工業生産力や技術水準そのものの高度化も、目的に含んでいた。石原は国家主導で重工業中心とした生産力の飛躍的発展を図ろうとした。そして、石原は生産力拡充の観点から、国内経済の平和的安定化を重視し、不戦方針つまり平和維持の方針を打ち出した。そのため、ソ連との不可侵条約の可能性も視野に入れていて、そのためにも対ソ戦備の充実が必要だと考えていた。石原はソ連に対しては、北方への領土拡大は求めずに、脅威の排除による満州の平和維持による産業発展や資源確保を優先させていた。これらを遂行するため政治的には、満州国は一党独裁体制とすべきと考えていた。これはソ連をモデルとしたもので、後に武藤による一国一党論に受け継がれていく。このような一党独裁の考え方は永田には見られなかった。永田は、陸軍が独自に国策の具体案を作成し、陸相を通じて内閣に強要するにとどまっていた。
 そもそも、石原の長期戦略はアメリカとの世界最終戦を念頭に、東アジア、東南アジアの英国勢力の駆逐と、そこでの東亜連盟の建設、資源確保に向けられていた。つまり、基本的には南方進出論と言えるものだった。対ソ戦備の充実は、その前提としてソ連の極東攻勢を断念させ、背後の安全を確保しておこうというものだった。そのため、中国に対しても、北支は漢民族の統一運動に包含されるべきとして、従来の分断工作を中止し、国民政府との宥和を志向した。これが外務省の日英の接近に繋がって行った。
 そこに、1937年の盧溝橋事件が勃発する。石原は戦線の不拡大を方針とした。これに対して、武藤や田中新一らの関東軍は拡大を主張し、対立する。石原は戦線を拡大すれば全面戦争となる危険が大きい。中国と戦争になれば長期にわたる持久戦となることは避けられない。しかし、状況としては相当数の精鋭部隊を対ソ国境に配備しておかねばならず、十分な兵力を中国に投入できない。そのような状況下で、中国の広大な領土を利用して抵抗されれば、泥沼に入った状態となり身動きが取れなくなる。今は対ソ戦備に充実に全力をあげるときであり、中国との軍事紛争となれば、その力を削がれる。その時の中国はかつての分裂状況から国家統一に向かいつつあり、民衆レベルでの民族意識が覚醒してきている。そのような中国との戦争となれば。長期の持久戦となる危険が大きく、自らの国防戦線が崩壊する。それに対して、武藤は、中国は国家統一が不可能な分裂状態にあり、日本側が強い態度を示せば蒋介石らの国民政府は屈服する。それで、軍事的強硬姿勢を貫き一撃を与え、彼らを屈服させて華北を日本の勢力下に入れるべきである。そして、満州と相俟って対ソ戦略体制を強化すべきであり、絶好の好機である。ただ、武藤の、このような中国認識は副次的な理由だった。主要な要因は、石原の欧州戦争不介入論に基づく、華北分離工作の中止や華北権益放棄の方針を打破することにあった。当時の欧州では軍事的緊張が高まっているなか、武藤は次期大戦への対処の観点から、石原の政策に強い危機感を持ち、華北の軍需資源と経済権益をあくまでも確保しようとしたのだった。
 ところで、盧溝橋事件については、当時の中国では、このような小規模な紛争は珍しいことではなかった。それを武藤は事態を拡大させようとしたのか。それは、永田の指導下で自ら起案した華北分離政策を石原が放棄したことに強く反発していた。武藤による石原の不拡大政策への攻撃は、石原の華北分離工作中止への反撃でもあった。その意味で、日中戦争は、石原の華北分離政策に対する反動であり、激しい揺り戻しとして始まったとも言える。

2023年3月21日 (火)

川田稔「日本陸軍の軌跡─永田鉄山の構想とその分岐」(5)~第4章 陸軍派閥抗争─皇道派と統制派

 1933年、一夕会内部で永田と小畑の政策的対立が表面化する。これが皇道派と統制派の抗争の始まりである。
 二人の対立は対ソ戦略をめぐるものだった。日本の満州政策は、ソ連にとっては北満経営と対立するもので脅威と憤怒を生じさせていた。にもかかわらずソ連が反攻してこないのは、ソ連の国内事情からであった。したがって、ソ連の国力が回復し、英米の対日感情が悪化する等の条件が整えば、チャンスと捉えて反攻してくる明らかだ。そこで小畑は、そのような条件が整う前に、ソ連に一撃を与え、極東兵備を潰滅させる必要があると考えていた。さらに、1936年前後の対ソ開戦を企図していた。
 これに対して、永田は、ソ連は第2次5か年計画が終了しても戦争準備が完了するまで数年かかると見ていた。また、現在の国際情勢は日本にとって有利なものではなく、満州国の迅速な建設が焦眉の課題である。国内的にも挙国一致は表面的なものにとどまり、もし対ソ戦に踏み切るとしても、満州国経営の進展、国内事情の改善、国際関係の調整ななどの後にすべきだと考えていた。永田は対ソ戦は、一撃や極東戦備の潰滅で終結する程度のものではなく、国家総動員を必要とする総力戦になると判じていた。そのためには、満蒙のみならず華北・華中の資源が必要であると考えていた。このため、中国への介入に積極的で、中国の反日的行動にはアメリカ海軍力の背景があるとして、対抗意識を強めていた。
 しかし、派閥抗争が本格化したのは陸軍内の人事問題、荒木、真崎などの非宇垣系のトップが一夕会の勢いを抑えようとしたこと、がからんでのものだと言える。
 この時期、陸軍では各部隊に配属されている隊付青年将校の間で国家改造をめざす政治的グループが形成されていた(この主要メンバーが後に2.26事件のメンバーとなる)。永田は軍の統制を乱し、軍部による国家の改革を困難にしているとして許容しない姿勢であった。それゆえか、彼らは、後に皇道派と密接なつながりを持つようになっていく。
 真崎ら皇道派と永田ら統制派は陸軍人事をめぐり抗争を激化させ、ついには永田の斬殺事件が起こってしまった。

2023年3月20日 (月)

川田稔「日本陸軍の軌跡─永田鉄山の構想とその分岐」(4)~第3章 昭和陸軍の構想─永田鉄山

 永田はヨーロッパで第1次世界大戦を経験し、衝撃を受けた。そして、永田は、大戦によって戦争の性質が大きく変化したことを認識していた。戦車・飛行機などの新兵器の出現と、その大規模な使用による機械戦への移行。通信・交通機関の革新による戦争規模の飛躍的拡大。それを支える膨大な軍事物資の必要。これらによって、戦争が、兵員のみならず、兵器・機械生産工業とそれを支える人的物的資源を総動員し、国の総力をあげて戦争遂行を行う国家総力戦となったとみていた。そして、今後、先進国間の戦争は勢力圏の錯綜や同盟提携などの国際的な関係強化によって、世界大戦を誘発すると想定していた。そこから、永田は、将来への用意として、国家総力戦遂行のための準備の必要性を主張した。永田は戦時に限らず、平時から国家総動員のための準備と計画が欠かせないという。例えば、人員の動員では女性労働力の活用とか、産業動員では軍需品の大量生産に適するように、産業組織の大規模化・高度化を提唱し、それは経済の国際競争力の強化にもつながるものだった。
永田は、これからの戦争は、長期持久戦となる可能性が高いため、経済力が勝敗の鍵を握ると指摘する。それゆえ、例えば、中国やロシアのように現在弱体と考えられている国でも、潤沢な資源を持ち、他国から技術的経済的援助を受けることができれば、徐々に大きな交戦能力を発揮するようになりうる。しかも、交通機関の発達や国際関係の複雑化により、随所に敵対者が発生することを予期すべきだ。すなわち、それまで陸軍は主にロシアを仮想的としてきたが、今後は、同盟・提携関係の存在を前提に、例えば国際関係や戦局の展開によって、ロシアだけでなく、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツななどの強国も敵側となる可能性がありうる。仮想敵を特定できないということは、提携関係におけるフリーハンドを意味している。このように世界の強国との長期持久戦を想定するならば、日本の版図内の国防資源はきわめて貧弱であり、近辺に資源を確保する必要がある。この不足資源の確保・供給先として、永田は満州を含む中国大陸を念頭に置いた。また、軍備の機械化・高度化を図るには、それららを開発・生産する科学技術と工業生産力を必要とする。日本の現状は列強に比べて貧弱と言わざるを得ない。そのためには、国際分業を前提とした対外的な経済・技術交流の活発化によって工業生産力の増大、科学技術の進展を図り、さらに国力を増進させなければならないと認識していた。永田は、国防に必要な資源について、国内にあるものは保護に努めて、国内に不足するものは対外的に確保することが肝要だが、自給自足が理想だとしている。それゆえ、平時では工業生産力の発達を図るために、欧米や近隣諸国との国際的な経済や技術の交流が必須だと考えていた。この点で永田は国際協調を否定しなかった。
 他方、原敬や浜口雄幸といった政党政治家も国家総力戦の認識はあった。しかも、そうなった場合、日本は極めて困難な状況に陥ることも理解していた。それゆえに、彼らは国際連盟に積極的に関与し、各国と様々な条約を結び、国際協調による戦争抑止に努めた。
 これに対して、永田はヨーロッパの状況から戦争の原因は除去されておらず、次期大戦は不可避と考えていた。
 国際連盟に対しても否定的に評価していた。国際連盟は、国際社会を「力」の支配する世界から「法」の支配する世界へと転換しようとする志向を含むものである。これは、理念として国際社会における原則の転換を図り、国際関係に規範性を導入しようとする試みであると、永田は国際連盟の意義を理解していた。しかし、永田は国際連盟の定める実行手段が、紛争国に対して、その主張を枉げさせることができる権威をもたない。したがって、国際連盟の行使できる戦争防止手段は実効性と効果が疑わしい。したがって平和維持の保障とかなりえない、と永田は考えていた。
 もちろん永田も、戦争を積極的に欲していたわけではなく、平和が望ましいと考えていた。しかし、国際連盟は戦争を抑止できず、戦争は不可避と見ていた。そこで、もし世界大戦が起これば、列国の権益が錯綜している中国大陸に死活的な利害をもつ日本も、否応なく巻き込まれることになる。したがって、日本も次期大戦に備えて、国家総動員のための準備と計画を整えておかねばならないと考えていた。これは、後の統制派幕僚に大きな影響を与えていくことになった。
 さて、国家総動員の事態となれば、各種軍事資源の自給自足体制が求められることになる。しかし、永田の見るところ、帝国の範囲内の国防資源はきわめて貧弱で、自国領の近辺で必要な資源を確保しなければならないと考えていた。この不足資源の供給先として、満蒙を含む中国大陸の資源が強く念頭に置かれていた。永田にとって、中国問題は基本的には国防資源確保の観点から考えられ、満蒙および華北・華中が、その供給先として重視された。とりわけ満蒙は、現実に日本の特殊権益が集積し、多くの重要資源の供給地であり、華北・華中への橋頭保として枢要な位置を占めるものであった。
 その場合の中国資源確保の方法として、同盟・提携関係による方法は、当時の中国政府の排日姿勢では難しいので、場合によっては、軍事的手段など一定の強制力により自給権の形成を想定していた。そのあらわれが、満州事変であり、その後の華北分離工作であった。
 ちなみに、宇垣も自給自足の確保については同じ認識を持っていたが、米英からの輸入を確保する、そのため米英との衝突は避けなければならないと考えていた。それゆえ、中国に対しては米英と協調してあたるべきと考えていた。これに対しては、永田は、それでは日本は独自の立場、自主独立を貫けないと考え、それゆえに、宇垣派や政党政治が米英協調を基本姿勢とした国防方針に批判的であった。
 このような永田の構想が満州事変以降の昭和陸軍をリードしていくことになる。

2023年3月19日 (日)

川田稔「日本陸軍の軌跡─永田鉄山の構想とその分岐」(3)~第2章 満州事変から5.15事件へ─陸軍における権力転換と政党政治の終焉

 1931年陸軍はトップは宇垣系で「満州問題解決方針の大綱」を決定。実質的に1年後を目途に満蒙での武力行使に向けて準備を行うというものだった。宇垣系の思惑は、あくまでも既得権益の確保のためのもので、限定的なものにとどまることが想定されており、一夕会とは方向を異にしていた。しかし、1年を待たず3か月後に柳条湖事件が起こり、満州事変が始まる。しかし、海外派兵には内閣の承認と天皇の裁可が必要となるが、民政党内閣は承認しなかった。陸相や参謀本部は、これに従い、不拡大を指示。課長レベルでは、矢は放たれたとして反対。そこで、永田は時局対策を策定。それによれば、不拡大の廟議の決定には反対しないが、軍の行動とは別個の問題で、軍は任務達成のために情勢に応じ適宜の措置をとるべきであり、中央からはその行動を拘束しない。関東軍の出動は自衛権の発動によるものであり、これを機に満蒙諸懸案の一挙解決を内閣に迫るべきであると。
 これに対して内閣は現状維持の方針を変えなかった。これに対して今村作戦課長は単独で帷幄上奏を主張。永田は、内閣の承認なしでの統帥系統のみによる派兵は認められないと反対。永田は、内閣を動かなくては満州事変は正当性と合法性を失い、かつ経費の裏づけを得ることができず、結局は失敗する可能性が高いと考えていた。この場合、海外派兵の経費支出には内閣の決定を必須とし、財政的裏付けのない長期出兵は不可能だったからだ。永田は一夕会をバックにして発言力を強めていく。
 また、若槻内閣が朝鮮軍の満州進出を認めたが、それは南陸相の辞任による内閣総辞職を回避するためだった。政権瓦解によって事態が拡大していけば民政党政権の外交政策が根本的に破壊されるのを恐れたのだった。
 10日後、永田ら七課長会議は「満州事変解決に関する方針」を策定。満蒙を中国本土より政治的に分離させるために、独立政権を樹立し、裏からこの政権を操縦して、懸案の解決を図るというものだった。内閣は南陸相の辞任をちらつかされて引きずられ、ついに10月、軍事占領と独立政権樹立を承認。国際関係でも、ここまでがギリギリ許されると考え、引きずられたのはここまでだった。宇垣系の陸軍トップも対ソ、対英考慮から同じように、これ以上の侵攻には反対だった。これに対して一夕会系は侵攻を支持。
 12月、若槻内閣は総辞職。次いで政友会をバックに犬養毅が首相となった。このさなか、満州国建国が宣言された。
 満州事変について、一般には関東軍に陸軍中央が引きずられたという見解があるが、関東軍に引きずられたというよりは、中央の一夕会系中堅幕僚グループが、それに呼応し軍首脳を動かしたものといえる。
 永田は、また、政党政治に対する強い否定的姿勢と、陸相の進退によって内閣をコントロールすることを意識していた。
 5.15事件で政党政治は終焉を迎え、岡田内閣が成立する。

2023年3月17日 (金)

川田稔「日本陸軍の軌跡─永田鉄山の構想とその分岐」(2)~第1章 政党政治下の陸軍─宇垣軍政と一夕会の形成

 1921年バーデンバーデンで、永田鉄山、小畑敏四郎、岡村寧次の3人が集まり、藩閥の打破と総動員体制の整備に意気投合、帰国後の27年に陸士16期を中心に二葉会を結成した。会員は彼らの後輩らも加わり拡大する。彼らが藩閥打破のターゲットとなったのは宇垣一成だった。総動員体制については永田が中心となって活動を進めた。また、二葉会には岡村の影響で支那通の人々が集まり(後の満州事変の関係者も何人かいた)、満蒙への関心を集めていく。7年には、彼らに倣って陸士22期が中心に木曜会が結成され、二葉会と連携していく。
 1928年3月(張作霖爆殺事件の3月前)の木曜会の会合では、東条英機が、戦争準備は対ロシアを主眼として、当面の目標を満蒙に完全な政治的勢力を確立することに置き、その際中国との戦争のための準備は資源獲得を目的とすると意見をまとめた。また、東条は将来の戦争は国家の生存のための戦争となり、アメリカは南北アメリカ大陸で十分なので、アジアには軍事介入しないだろうという見解を付言した。ここで、満蒙領有方針が、陸軍中央内で初めて提起されることになる。
 一般に、満州事変は、世界恐慌下の困難を打開するために、石原莞爾ら関東軍で計画・実行されたものと見られている。しかし、じつは1929年末の世界恐慌開始より1年半前に、陸軍中央の幕僚のなかで、満州事変につながっていく満蒙領有方針が、すでに打ち出されていた。したがって、満州事変は、その企図の核心部分においては、世界恐慌とは別の要因によるものだったという。世界恐慌は、かねてからの方針の実行着手に絶好の機会を与えるものだった。
 また、軍部専制の要因とされている統帥権独立については、ここでは統帥権の利用には無理があると認識されていた。それで、軍人が国家を動かすには、政略がすすんで統帥に追随する、つまり政務当局が自ら軍人に追随する必要があり、それには陸軍に新しい派閥をつくって、それを通じて政治に影響力を行使すべきだと言っている。
 1929年、木曜会と二葉会が合流して一夕会が結成された。この結成は陸軍内の宇垣派に対抗するためで、陸軍人事の刷新、満州問題の武力解決、非長州系将官(荒木、真崎、林)の擁立を方針とした。翌年、永田が軍事課長に就任したのをはじめ、陸軍中央の主要閣僚ポストを独占した。

2023年3月16日 (木)

川田稔「日本陸軍の軌跡─永田鉄山の構想とその分岐」

11114_20230316183801  10年前に読んだ本の再読
 昭和陸軍は、満州事変を契機に、それまで国際的な平和協調外交を進め国内的にも比較的安定していた政党政治を打倒し、日中戦争そして太平洋戦争へと進んで行ったというのが一般的な見方。しかし、永田鉄山、石原莞爾、武藤章、田中新一(ここに東条英機がいないというのは、彼があくまでも実務官僚であり戦略的な構想力やビジョンを持てなかった)といった人々が、どのような政戦略構想をもっていたか、その変遷を辿ることによって、一般的な見方とは異なる点が見えてくる。とくに、最近、加藤陽子の日清戦争から太平洋戦争にいたるトップ・リーダー層の社会的・心理的な傾向の変遷を丁寧に追いかけた分析を読んだ後で、本書を読むと、トップの下で実務面をリードしていた人々の認識を追いかけるのに触れると、従来と異なる様相が見えてくる。単純化された、ある意味わかりやすい、一般的な見方は、結果的に、ある種の歪みが現れてしまうと言えるだろうことが、見えてくる。また、時代の制約だけではない昭和陸軍の認識の偏りも、従来の見方とは違った視点で見えてくる。歴史の見方について、啓発されるところが少なくない。
 例えば、著者は第二次大戦をイギリスをドイツが屈服させられるかどうかの戦いだったという視点を提示する。もしドイツがイギリスを屈服させたら、アメリカはヨーロッパでの足がかりを失うとともに、ドイツはイギリスの工業力も手に入れ、大西洋と太平洋から挟撃を受けることになる。こうしたアメリカにとっての安全保障上の重要問題だったから、あえて、日独相手の両面作戦をあえてやった、と。この視点からだと、ドイツがバトル・オブ・ブリテンでイギリスの制空権の奪取を諦めて、踵を転じて独ソ戦を開始したことに対して、ドイツにイギリスに矛先を向けさせない牽制とアメリカが見ていたということ。そのために、アメリカは日本がシベリアでソ連に手出ししないように牽制する。それが対日経済制裁に向かう。このような動きは、現代のウクライナ紛争におけるロシアと中国の位置関係が、当時のドイツと日本の位置関係によく似ている。しかもアメリカの姿勢も同じように見える(だから、中国はかつての日本を教訓としてかなり詳細に勉強したのだろうと分かる)。
 一方、日本は「英米分離は可能か」という神学論争みたいな議論をずっとやっていて、まだ大丈夫だろ、ここまでならアメリカも動かないだろうとタカをくくっているうちに、にっちもさっちもいかなくなってしまった。1939年6月に天津英仏租界の封鎖に際し、ヨーロッパ情勢に備えるためにイギリスはやむなく中国国内で日本軍の妨害となる行為を差し控えることを受けいれが、その三日後にアメリカはイギリスの代わりのような感じで日米通商航海条約の破棄を通告し、いつでも対日経済封鎖へ踏み切る構えみせて牽制する。こうした事態を観察すれば、米英不可分だということぐらいわかりそうなものだが、武藤は田中らが遮二無二ソ連に飛びかかりそうなので、それを防ぐために、アメリカの対日前面禁輸の可能性があったにもかかわらず、南部仏印進駐を実施してしまい、アメリカはソ連崩壊を恐れて日米開戦を引き起こすかもしれない対日全面禁輸に踏み切る。もし、ソ連が敗れればドイツはイギリスに向かうからだが、これ以上、日本の南進を看過すると、イギリスがアジアやオーストラリアからの物資調達が出来なくなり、それはイギリスを崩壊させるからだ、と。そこで、著者は、一般に、日米戦争は、中国市場の争奪をめぐる戦争だったと思われがちだが、それは正確ではなく、実際は、イギリスとその植民地の帰趨をめぐってはじまったのであるという主張する。
 この例もそうなのだが、中国そしてアメリカと戦争したのだったが、相手を直視していないという印象が強い。上記の例でも、イギリスを見ていてアメリカと戦争することになった。この本に書かれている事実は、いろいろと語りたくなるようなものが多い。10年前に読んだときに、どうしてこの面白さに気づかなかったのだろうか。

 

2023年3月15日 (水)

高宮利行「西洋書物史への扉」

11114_20230315213401  書名に惹かれて購入した本。愛書家とかビブロフィリオなどというと澁澤龍彦や紀田順一郎といった人々の随筆を数多く読んでいる身としては、岩波新書でもあるし、ということで中身を見ずに購入した。著者は稀覯書を求めたりする愛書家であるようだし、書物史を研究している学者でもあるようで、「巻物から冊子へ、音読から黙読へ、写本から印刷本へ。ヨーロッパにおける本の歴史を様々な角度から紹介する」というキャッチフレーズを掲げているようで、書物の歴史をめぐる薀蓄が語られていて、面白そうではある。例えば、古代のオリエント世界で紙が発明されていない中で、書物はエジプトではパピルス、ローマでは樹皮を薄く1~3ミリ切った板(これがリブロ=本の語源)、アッシリアの粘土板(←楔形文字)など、様々の形が並立していた。文字が書かれた面に傷がついたりしないために、パピルスは巻物となり、板は二つ折りにされたのが冊子の形の始まりになった。あるいは、印刷製本が始まり、書物の生産量が増えたが、識字率は低かったので、読者は増えず、一人一人の読者の蔵書数が増えたのだという(写本しかなかった時代では、有名な蔵書家といっても、蔵書数は数十冊がせいぜいだった)。そういう薀蓄は、それなりに興味深い。しかし、こんなおいしいネタだったら、もっと深掘りしたり、話が広がるだろうに、思う。このネタが披露されると、はい次と、別の話題に移ってしまうのが勿体ない。材料だけ出されて、料理されていないという印象。

2023年3月14日 (火)

ますむらひろしの銀河鉄道の夜─前編

Masumurapos  毎年受診している人間ドック。以前は、ゆっくり1日かけてやっていたのが、このところのコロナ感染対策で受診方法が変わって昼前に終わってしまった。それで、時間が空いたので、寄ってみた。一昨年から、外出自粛の関係で、ましてや都心まで遠出することもしなくなり、美術館を訪れることもなかった。時間が空いたから、久しぶりに美術館へ行こうかと思って、何か美術展やっていないかとネットで検索してみたら、予約が必要とのことで、今日、思いついて行くのは難しいようで、予約の必要のなかったのが、今回訪れた展覧会。訪れたのが、平日の昼過ぎで、場所が場所だけに閑散としているかと思ったら、入場者数はそこそこ。30~40代の人が多いのかな。「銀河鉄道の夜」のアニメ版を見た世代なのかな。ますむらひろしという作家は、メジャーとは言えないが。まんが好きのコアなファンが少なくない人なので、そういう人なんだろうと思った。
 いつもの通り、主催者のあいさつを引用します。
Masumura2  『銀河鉄道の夜』。宮沢賢治の数々の作品の中でもひときわ輝く謎めいた孤高の名作に、漫画界の異才ますむらひろしが挑み、大作『銀河鉄道の夜・四次稿編』(原作・宮沢賢治、作画・ますむらひろし)が生まれました。信仰と大地と共に生きた宮沢賢治と独特のファンタジーと猫のキャラクターで知られる漫画家ますむらひろし、それぞれの世界観が交錯し、昇華された美しくも切ない物語が読者の心に降り注がれます。
 ますむらひろし最新作の『銀河鉄道の夜・四次稿編』は、全4巻・約600頁からなり、本展覧会では、そのうち既刊の第1巻・第2巻の漫画生原稿と創作資料、メモ、ラフスケッチなどを展示し、ますむらひろしによる「銀河鉄道の夜」の世界を紹介します。
Masumura1a Masumura1  このあいさつ文では、ますむらひろしが、どのような作家であるかは何も触れられていません。そういうあいさつは珍しいと思います。また、展示目録もないし、いつもの展覧会とは趣が違うようです。そもそも、マンガは、ハイ・アートではないし、あいさつ文では“漫画”と書かれていましたが、ハイ・アートの立場からは、漫画、まんが、マンガと区別するという発想はないかもしれません。そういうところから、マンガをハイ・アートの側から見るとこういうようになる、今さらながらですが、一つの例かもしれないと思いました。展示は、生原稿をストーリー順に壁に並べてあって。壁に囲まれた、真ん中のテーブルに下書きや資料が置いてあるというものでした。ただし、生原稿といってもセリフはすべて消されてあって(展示された原稿と印刷されたページを比べてみて下さい)、原稿と原稿の間に、原作の宮沢賢治の文章からの引用が、それだけで展示されていました。マンガは画として見られている、という姿勢でしょうか。それゆえに、マンガを見ているというよりは、挿絵を見ているような感じがしました。たしかに、ますむらひろしの画風には、そういうところがある。ひとつひとつのコマの中の画が完成している、というか完結している度合いが高い。画の部分だけで語っているというか、独立性が高い。
Masumura3  例えば、この小学校の教室を描いたコマ。明らかに遠近法で、空間が描かれています。とはいっても、天井の板目が平行に設定されず、焦点がずれています。また、教室の奥の縮まり具合に比しても、奥の机と人の大きさは釣り合っていない。そして、明らかに、手前で背を向けて立っているジョバンニが全体のバランスを破るほど大きい。しかし、これは意図的であることは、下絵と資料から分かりました。ますむらは、この1枚のコマのために、わざわざ教室の配置の図面をつくっていました。つまり、空間が緻密に設計されていたのです。そこまで緻密につくった空間を、わざと崩している。そこで感じられてくる、ちょっとした違和感、ズレの感覚はマグリットなどのシュルレアリスムのティストに似たイメージすら感じさせます。もっとも、この場合は、主人公のジョバンニと彼に向けられた教師の視線を強調しているのでしょう。別の、ジョバンニが道を、こちらに向けて走ってくるコマでは典型的というか、わざとらしいほど図式的なほどの遠近法の画面になっています。
Masumura4  ここで、より目立つのは、ペンで精緻に描かれていることと、その線です。ベンヤミンの複製芸術論ではありませんが、印刷ではオーラが失われてしまう、線の勢いや伸びやかさが、この生原稿では肉体感覚として迫ってくるのです。このコマで沢山引かれている線が一気に引かれているのが分かります。なぞったりすれば、こんなに一本の線がつながるはずはありません。曲線も滑らかです。その線を追いかけるのは、官能的な体験とも言えるほどでした。これだけ細かく引かれた線も無機的な感じがなく、息づいているのです。しかも、線の使い分け。例えば、登場人物たちの猫の体毛を極細の線が一本一本と、そのすぐ脇の身体の影を描いた掛け網の極細の線は違う線で、それぞれが明確に見分けられていて、混同されることは全くないのです。なんと細かい仕事だろうか。おそらく、アシスタントの手は、あまり入っていないのではないか。それは、違う線が見られないからで、そうなると、これだけの線のコマを多数、ほとんど一人で描いた、と考えられる、その膨大さは、驚異的手で、その仕事量には、頭が下がります。しかも、原稿だけでなく、下書きも下準備も細かいのです。展覧会のホームページで見ることができるのは多くが着色された原稿なのですが、絵の具が塗られると線が隠れてしまうので、私は、ペン書きの原稿をもっとページに出してほしいと思っています。
Masumura5  他方、着色原稿については、展示資料の中で、色をどのように使うかを事前設定された色見本が、びっくりするほど細かく行われている。例えば、夜の風景の黒の使い分けで広がる世界を見て下さい。
 全600頁の前半だから300頁分の原稿と資料が展示されていたわけで、この量の膨大さには、今回の展示でも全部見切れなかった。途中で疲れてしまって、途中から流すように見たのだった。私には、マンガの、このような見方は、不慣れだし、マンガを見ているような気がしないのは確かだ。その大きな要因は、セリフや説明などの文字をコマから取り去ってしまっていることで、マンガには文字情報も含まれるので、例えば、こういうセリフをコマのなかのどこに置いて読者の視線を導くか、それによりセリフの位置づけが変わってくる。それが画との相乗効果をあげることになったりするのだが、それがストーリーにダイナミズムを与えるし、画もストーリーと切り離せない。そういうものだと思っている。リテラシーが違うということは、このような展示をみていて思った。

 

2023年3月13日 (月)

井筒俊彦「ロシア的人間」

11112_20230313223301  哲学者と哲学学者とは違うとして、この井筒俊彦はその典型だろうと思う。プーシキンから始まって、トルストイ、ドストエフスキー等を経てチェーホフに終わる19世紀ロシア文学を論じた著作。1914年生まれという世代からか、分析的な記述はあまり見られず、いわゆる教養主義的なメンタリティの持ち主であることがこの著作には色濃く表れている。「この本を書くことによって私は、19世紀ロシア文学の発展史を通じて、ロシア的実存の秘密を探りながら、同時に、より一般的に、哲学的人間学そのものの一つの特異な系譜を辿ってみようとした」と著者は書いている。この文章にあるように、井筒はものがたりとか表現といったことではなく、文学の内容、彼にとっては実存という生き方を文学に読みこもうとしている。そういう読み方にとって、格好の対象となるのが、ドストエフスキーだったりするので、井筒の読みの姿勢と対象が適合した結果が、この著作だろうと思う。たしかに、ベルジャーエフ、小林秀雄などをはじめとして、ドストエフスキーの小説を題材にして、「精神」とか「信仰」とか「愛」とか「実存」を論じた著作はたくさんある。また、そういう著作の言葉を丸呑みにして、ドストエフスキーの小説をろくに読まずに、ドストエフスキーの「精神」とか「信仰」とか「愛」とか「実存」を語る人を何人も見てきた。おそらく本著の井筒は、そういう心性に近いものだろうと思う。井筒本人は、ちゃんと小説を読んでいるのだろうと思う。しかし、私には、彼がドストエフスキーの小説にワクワク、ドキドキしながら心踊らせて読み耽ったとは思えないのだ。私の個人的な体験では、ドストエフスキーの小説には、そういう面白さが、たっぷりと詰まっている。例えば、『カラマーゾフの兄弟』の終盤の法廷の場面では、殺人事件の弁護で、実は殺人事件などなかったという強引な弁論がされるのだが、その意外さを通り越した荒唐無稽なハチャメチャさに驚いてしまうのだ。『悪霊』だって、言葉遣いは滑稽な物語のものだ。この著作が書かれたのは昭和20年代後半で、そのころにはウケたのだろう。今でも、生真面目な人にはウケるかもしれないと思う。しかし、この著作を読んで、ロシア文学を手に取って読みたいとは、私には思えなかった。

2023年3月12日 (日)

貞包英之「消費社会を問いなおす」(5)~第4章 さまざまな限界

 消費社会の大きな限界となるのが、消費にかかわる自由の配分である。消費が人々がモノを選択し手に入れる自由を保証するが、そのためには当然、貨幣による支払が必要となる。しかし、貨幣は均等に配分されているわけではない。そこには格差がある。ただし、格差はすぐに消費の自由を台無しにしてしまうわけではない。前にも述べたように、格差の拡大は商品の価格低下や多様化を促すことで、消費のゲームをにぎやかにもしてきた。しかし、格差の拡大が、その消費のゲームに参加さえできない者を増やすのであれば、それは問題となる。不公平が生じる。
この不公平の是正を担当するのが国家である。20世紀後半には福祉国家が税金を投入して国民の生活を維持することを目標に掲げていた。これは一定の成果をあげている。ただし、別の問題も生じている。その一つとして、格差の縮小が脱商品化されたサービスの提供によって実現されていることだ。例えば、医療施設や福祉施設の設立や運営を国が直接行い、利用者が貨幣を支払うことのないサービスを提供していることだ。これは、結果的に市場を圧迫し、流通している商品の量と質を縮小させてしまうおそれがある。そのことが、競争をなくしてしまい供給者がサービスを施すという上から目線に陥ってしまう。それゆえ、利用者のニーズから外れていってしまう。この場合、利用者には選択する自由は、結果として、失われてしまうことになる。
 このように消費のゲームに関わる不公平は、十分に対処されているとは言えない。それは、構造的な無理があるためだ。というのも、格差を是正するために、国家は私的消費の権利を取り上げざるを得ないからだ。つまり、格差を是正するには、私的消費を制限せざるをえないのだ。
そしてまた、環境問題も消費社会を限界づける問題である。例えば、二酸化探査排出量の制限はエネルギーの使用の制限につながる。対策として再生可能エネルギーへの切替は、たしかに二酸化炭素排出量を減少させることになる。ただし、再生可能エネルギーへの転換は消費のリバウンドを招く恐れがある。つまり、環境に優しいとして「賢い」または「正しい」消費を動機付け、消費拡大を招くことらなる。結果として、二酸化炭素排出量が相対的に少ないエネルギーでも総体として使用料が増加すれば、総体としての二酸化炭素排出量は減少しない。だからこそ、気候変動のための規制は、皮肉なことに経済成長を根本的な目標とする新自由主義的国家にも受け入れられつつある。それが無経済成長の起爆剤となることに加え、そもそもきせいそのものが新自由主義的国家にとって経済と政治を支配する重要な手段となるからである。
 つまり、いずれもが、国家の拡大と不自由を生むリスクを生じてしまう。

2023年3月10日 (金)

貞包英之「消費社会を問いなおす」(4)~第3章 私的消費の展開─私が棲まう場所/身体という幻影

 前章で見てきた「賢い」消費は、消費社会と自分が誰よりも「賢く」付き合っていることを示すゲームという側面もあった。だから、自分が「賢い」消費者であることを他人にアピールするということに結びつくものでもあった。この意味で、「賢い消費」は不特定多数の他者と交わすコミュニケーションの一部に属していたと言える。このように見ると、「賢い消費」という消費のゲーム以外にも別の消費ゲームもあることがある。例えば「応援消費」といわれるものだ。消費が他者に対して意味をもつことを自覚的に利用したメタ的なコミュニケーションのゲームとして、例えば、環境にやさしい商品を買うという流行である。ここでは、自分が「正しく」消費していることを他者に表現するという意味では、「賢い消費」の亜種と言えなくもない。このように「賢い消費」のゲームは多様化している。もともとの「賢い」消費はコスパ志向という効率化を徹底する方向のも進んでいる。
 ただし、消費には他者とのコミュニケーションではない面もある。それは貨幣を媒介とすることだ。そのことから、消費を不可逆で取り返しのつかない、またそれゆえに誠実なゲームにしている。モノを買う場合には嘘がつけない。消費される対象に相応の価格がついて、それに応じた貨幣を支払わなければ、購買は成立しない。その貨幣を獲得するためには社会的な代償(例えば、労働という多大な自由時間の犠牲)を支払うのだから、貨幣を支払う消費には慎重にならざるをえない。それゆえに人々が消費すると、そこに生まれや階層、教育に基づく趣味や思想が表現される。ということは、そこには他者の視線がまとわりつく。ただし、当人には合理的な選択によって購買したモノは、必ずしも他者には意味のあるものとはみなされないこともある。逆に、他の人にとって価値があったとしても、私が価値を感じられなければ、その消費は無意味なものとなる。この意味で、消費はコミュニケーションのゲームとは違って他者を相対的に置き去りにして、自己の快楽や満足を追求する私的なゲームの面が含まれている。それゆえにこそ、消費には終わりがない。このように、消費には、コミュニケーションとしての消費と私的な探求としての消費の両面がある。これらには優劣も時間的な前後関係もない。著者は、私的な探求としての消費の例として「盛り」という年少の女子たちの化粧や服装の流行現象をとりあげている。それは、安価に化粧品などを自分だけの仕方で利用し、どこにもない美を自分で作り出すというものだった。それは商品の本来の使用価値や交換価値といった価値に回収されない余白の部分、それが新たな満足や快楽を消費が開拓した現象だった。似たような現象としてオタクもそうだという。
 このようにモノを活用して自分の快楽を満足を探求する消費は、モノを自己の好みや欲望に合致する分身に変える作業と言い換えることもできる。たとえ他の人に評価されなくても、自分にとってかけがえのない価値を持つ対象が、繰り返し消費で探求されていく。そのような分身の中で、とくに重要な対象となったのが身体である。「盛り」もそれにあてはまる。著者は、ここで意外なことに、都心の超高層タワーマンションを例としてとりあげている。そこでは、高層で街の騒音が届かず、壁や床が分厚く防音性や気密性が高く、セキュリティの高さなどがあって、室内では騒音や外気を遮断し、外部環境とか隔絶した、つまり他者を排除した空間が実現されている。しかも、室内はプライベートでリラックスした空間となっている。他者に干渉されず、私が私である空間は、都市においては高い代償を支払ってでも獲得したいものとなっているということだ。タワーマンションは、それまでの住居が利便性や価格で選ばれていたのに対して、私の棲まう場所の快適性という新たな価値を提示したものだったのである。
 このような私が私であるという満足とは反対に、現在の自分以上になろうとする、いわば私を超えたいという欲望もある。そのような志向の例として、スポーツやドラッグを著者はあげている。
 このような消費は、私であることの可能性を拡大している。そもそも資本主義は長い時間の中で、私たちの感覚や感受性を微細化し、新たな快楽や幸福を受け入れるように仕向けてきた。その一つとしてスポーツやドラッグ、あるいはファッションや化粧品の助けを借りて、私であることの可能性が拡張されている。他方で、このような私的消費の土台には不自由があるという。例えば、化粧やファッションが女性の特別な消費の対象となっているのは、それが女性に許された数少ない自由な活動の領域だからという面がある。あるいは、スポーツや筋トレに多くの男性が駆り立てられるのは、労働の場や家庭で自律性や男性性が脅かされているためという解釈もある。

2023年3月 8日 (水)

貞包英之「消費社会を問いなおす」(3)~第2章 消費社会のしなやかさ、コミュニケーションとしての消費

 前章で述べたように、人々の日々の営みによって形成された消費社会は、政府の意向や経済状況の短期的な浮き沈みに直接には左右されない強靭さ、またしなやかさを持っている。著者は1990年ころのバブル経済崩壊前後の消費社会をめぐる言説が、以前の好景気の社会を肯定するための言説として消費社会論が語られていたものが、以後には消費社会批判に180度転換した。しかし、このような批判的な消費社会論が登場したこと自体が、実際には消費社会が相変わらず、バブル崩壊後も続いていた、むしろ拡大していたことを証拠立てている。ボードリヤールは消費社会は格差を必要とすると述べている。経済の低迷が消費の低下に直結するわけではない。たしかに、経済低迷に伴うように消費支出は減少を続けた。しかし、その大きな要因はデフレ、端的に言うと、値下げである。
 この頃の象徴的な現象として、著者は100円ショップの興隆を提示する。100円ショップはたんに商品を安く売るだけではなく、消費者が安心して、また楽しんで買い物ができる環境を整えたものだった。それゆえ、貧困層に限定されない多様な客も取り込むことに成功した。多様な客の中には富裕層も含まれ、この人たちは価格と質のバランスがとれるちょうどよい商品を買うという、「自分は賢く買い物ができる」という満足感を得る、つまり、自分は「賢い消費者」であるという肯定感を得られる満足感を得ていた。これは、この時期の日本で「賢く」買うことを目指す消費のゲームが急成長していったことを明らかにしている。同じような表れとして、ブランド・ブームを著者は指摘する。90年代以降、他の地域ではそれなりの経済成長を続け、消費を活発化させていったのに対して、日本社会は経済的に困難に状況が脱せず、100円ショップやブランド的な消費のゲームが流行していくことで、消費社会を厚くさせたといえる。
 しかし、それだけではなく、情報的コミュニケーションの膨大な拡がりは同じように重要だ。情報技術の革新は、情報商品の複製と流通のコストを加速度的に下げ、それを背景として、データの複製や流通にコストのかからない情報の場がグローバルに拡がった。例えばGmailやTwitterは無料で利用できる。このような情報の場は、階層や格差を超えて多くの人々に消費の楽しみを供与する重要な資源になっている。それは、現代ではAI等により、例えばアマゾンのレコメンド機能のように膨大な情報の中から、個人の知識や経験で労力だけで選択をすることが難しくなっていることから、私たちの代わりに「賢い」選択を提供してもらうようになってきている。しかし、その代わりに、私たちの選択する自由が奪われているのもたしかだ。私たちは、システムのフィルターを通した選択肢を受け入れさせられている。さらに、いわゆるサブスクリプションというサービスは、この選択肢を提供するフィルターを選択するということになる。
 このような例以外にも、著者は現代の消費社会の特徴を事例を紹介しながら説明していく。このあたりが、その手際の鮮やかさとともに、本書の中で、最も面白みがあるところだと思う。
 これだけ消費社会が巨大化し、「賢く」買うために十分吟味する余裕はなくなり、いかに厳選して買うかだけでなく、買ったモノをいかに効率よく「整理」し「廃棄」していくかという課題が発生する。その一例として、ネットのオークションの出品するというシステムが普及してきた。あるいは、“こんまり”の「片づけの魔法」のブームだ。「片づけの魔法」の特徴は、実は、何を捨てるかではなく、何を残すかについての関心なのだと著者は指摘する。「心がときめく」ものを残すというのは、モノへの執着の正当化でもある。市場の価値や合理性とは別の自分にとっての価値が大切とされる。それは、そういうモノを捨てないで選んだという自己の再認識とその自己の肯定に通じる。残ったモノは「賢い買い物」であったということを事後的に追認するのである。これが、さらにミニマリスト的ライフスタイルに行き着くという。つまり、最低限のモノでの生活は、好きなモノだけに囲まれ、それ以外は整理するというわけだ。
 これらをまとめると、90年代以降のデフレ経済によりモノや情報が安価で大量に出回るなかで、「賢い」消費のゲームが拡大していくと同時に、それが買い物を厄介で面倒な作業にしていくことにもなった。だからこそ、モノの飽和に対処する手段が編み出されてくる。情報を選別し選択の労力を肩代わりしてくれるデジタル技術や、買ったモノを整理する手法が流行した。このような技術や手法が組み入れられることで、消費社会は延命されてきた。

2023年3月 7日 (火)

貞包英之「消費社会を問いなおす」(2)~第1章 消費社会はいかにして生まれたのか?

 私たちは、日常、当たり前のように消費を繰り返しながら暮らしている。その積み重ねでつくられた消費社会に対しては、批判がある。その要因のひとつに、所得の格差とかかわって成立していると考えられているところがある。その格差を克服しようとする理想が平等で、20世紀初めの資本主義の弊害が表面化したころ、共産主義やケインズによる修正資本主義が盛り上がった。それが、国民国家的政治体制を事実上の世界標準となり、社会保障制度などの福祉が整備された。しかし、これには大きな危険が伴った。平等な所得の追求や福祉の要求は国家権力の拡大を促し、市場を規制し、人々の生活を管理するようになる。そこで、20世紀後半になると、人々は平等に替わって自由を理想として掲げるようになる。規制をできるだけ撤廃し、市場の効率的な配分によってより良い社会が実現されると期待する。この時、平等は実質的な平等から形式的な機会の平等に変わった。それでは貧富の差は解消されないが、その差は努力の結果ということにされた。このような形式的な平等を踏まえた自由は、他方で、結果的には国家の肥大を招くことになる。それは、経済発展のために国家は戦略的な規制の緩和や資源の配分を決定し、それに人々が従うことを強く求めたからだ。
 20世紀の社会の理想は平等から自由に移行したが、両者の背景には資本主義の成長にどう対応するかという問題意識だった。平等または自由という方向で資本主義の発展をコントロールしようという、そのどちらでも国家の力の強大化を伴うものだった。つまり、この自由という理想は国家が主導する合理的な経済発展の道筋を受け入れることが前提だったということだ。
 このことは、言い換えれば、私が「私」として端的に存在することを許さず、むしそれを統制し管理することに結びついてきたと言える。このような理想に対して、著者が新たな理想として提示するのは、個々人が具体的に実現する私的な選択や、さらにはそれが可能にする多様性ということ。これは、平等も自由とは反対に、資本主義の可能性を擁護するという方向になる。歴史的に見れば、資本主義には、合理的または利益中心的な経済活動に収まらない多様な社会活動を拡大する過剰さが含まれていた。それを規制するのではなく、それが促す私的な選択や多様性の拡大を理想と考えるという。
 このように資本主義を私的な選択や多様性の根拠とみなす際に、「消費」という視点に著者は注目する。消費とは何か。その最大の特徴は、金を払うことで自由にモノを得ることができることにある。類似の贈与や交換では、何が欲しいかを自由に選択できるわけではない。これに対して、消費は何をどれだけ手に入れたいかは、私が決められる。価格に応じた金を払えば、好きなモノを手に入れ、好きに使用できる。消費と贈与・交換の違いは貨幣があるかないかにある。貨幣は、私たちが所属する共同体や文化から距離を取り、多様な商品の中で何かを選択することを可能にする。消費の選択の自由は、個人の人格によって支えられているのではなく、貨幣によって保障されている。
 そこで、著者は消費社会の歴史的なあり方を見ていく。資本主義は累積的に生産を拡大し、企業や市場を成長させるものだが、その下では商品が多く作られ過ぎるものだ。つまり、過剰生産。その増えすぎた商品は、資本主義の繁栄により労働者の取り分が増え(賃金の上昇とか)消費者となったことで回収された。例えば、フォード的生産方式は大量生産による価格低下と労働者の賃金上昇により、労働者が新たな購買者となることにより販売を大幅に拡大し、結果として自動車の大衆化と普及を促した。
 ただし、著者は労働者が消費者となるには、賃金上昇だけではないと指摘する。そこには一定の社会的な装置やシステムが必要だったという。それが、本書のテーマといえるものだが、消費社会という消費を私的な意思表示としてコミュニケーションのように不可欠とする社会だという。
 では、消費社会とはどのようなものか、それはマルクス主義がみるような資本主義による過剰生産の回収先として消費の活性化という、いわば資本主義の完成形態ではない。それでは、資本主義の余剰をひきうけることで、その再生産に仕える機能的な補完項でしかないことになってしまう。
 著者は消費社会を、消費が一定の拡がりと頻度でくりかえされ、結果としてある種の拘束力を発揮する社会的場と定義する。歴史的には、コミュニケーションのため、または私的な欲望を満たすために、さまざまな機会を捉えて人々が消費を繰り返してできてきたものと言える。消費社会を資本主義の補完とはいえないとしていたが、むしろ、それ以前に、広範な人々の生活のなかにモノに対する旺盛な需要が存在し、それが生産の革命を牽引した(それは間接的に、ウェーバーの近代資本主義の精神としての倹約と勤勉を批判することになる)。さらに遡ると、そもそも消費は貨幣の可能性を具体化する実践として、生産とは別の独自の行動様式や論理や感性を育んできた。つまり、貨幣が人々の生活に行き渡ることにより、消費が私的な欲望の追求の機会として受け容れられた。その例として著者はは江戸時代の遊郭、あるいは園芸などの趣味をあげる。当時の人々多様なモノに目を奪われ、自分の楽しみとしてそれを消費することに熱中した。人々は浸透した貨幣の力を確かめるように、道徳的に正しいとも言えないモノにも自由に消費をしていった。現在のわれわれが好きな衣装を身につけ、好きなものを食べ、快適に暮らすことは消費者の自由として当たり前になっているが、その背後には、後ろ指を指されながらも多様な消費を繰り返してきた無数の人々の営みの積み重ねがある。

2023年3月 6日 (月)

貞包英之「消費社会を問いなおす」

11114_20230306205001  消費社会という、例えばバブル経済の日本のような豊かで贅沢な浪費を重ねていたものを連想してしまうが、著者はバブル経済が崩壊し、デフレ経済の下でも消費社会は拡大し続けたという。前者のイメージが量的な消費であるならば、著者の言う消費社会は、いわば質的なもの。それこそが消費社会の本質であるという。デフレ経済の下で、誰もが豊かと言うのではなくなり、持てる人とそうでない人という経済的な格差が大きくなったが、例えば、ダイソーをはじめとした100円ショップには、富裕層の人々がけっこう買い物をしていたという。そこには、コストパフォーマンス、つまり、価格に応じた価値を得るという「賢い」消費をすることが買い物の動機となっていたからだという。そこには、豊かさとは別の価値基準があった。消費というのは、安価でもそれなりの満足感を得ることができる。というのも、消費社会は少なくとも数百年に及ぶ長い歴史的過程としてあり、短期の経済不況などですぐに揺らいでしまうようなものではなかったからだ。そういうことを踏まえると、消費社会は、単に経済的に豊かな経済社会とイコールではない。豊かさは消費社会の専売特許ではなく、共産主義社会であれ前世紀の封建制社会であれ、時代の技術水準の範囲内で一定の豊かさを人々に許してきた。むしろ、消費社会の本質は、それが私的な選択を許し、個々の好みを尊重し、結果としての多様性を促進していくことにある。そのことを著者はさまざまな事例を紹介しながら明らかにしていく。その事例が、本筋の消費社会の議論よりも面白い。この事例は、蘊蓄のおしゃべりのネタとして使えるので、そういう点でも役に立つ。

2023年3月 5日 (日)

佐藤彰宣「〈趣味〉としての戦争─戦記雑誌『丸』の文化史」

11112_20230305182801  中高校生のころ、田宮模型の35分の1「ミリタリー・ミニチュア・シリーズ」やレベル社などの72分の1の航空機のプラモデルに親しんだ身としては、「丸」という雑誌は何度も手に取った思い出がある。いわゆるミリタリー雑誌というイメージだったが。1960年代、いわゆる平和教育で教条的に「戦争はいけない」と語る大人たちに違和感や反発を抱いた少年たちが、教師や保護者が語らない戦争の真相を求めたのに応え、彼らの戦争への関心を国際情勢や歴史を把握する道筋を用意する働きをした。あるいは、1970年代には、軍事や兵器を語ることが決して好戦的でも保守でもなく、軍事を知らねばそれを抑える術も分からないとして、軍事の知識を得ることで社会や平和について考えた。あるいは、戦中派の戦後世代の若者に対して「(戦争を)体験していないから分からない」という彼らの発想が、ちょうどウラハラに、既定の所与として与えられた状況だけに、ベッタリと実感的に密着している、ということに気づいていない。体験したことしかわからぬ者に、現在の自分を取り巻く状況以外、何が分かると言うのか。戦中派の体験固執をわらう彼らが、現状況への実感ベッタリというのでは自己矛盾ではないのか。という声を載せたり、それは他方で、同世代の安易に戦争体験を語りノスタルジイにしてしまうことにも「生き残って冥福を祈るというのは生者の傲慢であり、偽善でしかない」と返す刀で切る発言を掲載した。もちろん、ミリタリー・オタク向けの兵器情報も載せていたわけで、戦争や軍事について、雑誌の「雑」にふさわしい総合的な議論の場でありえたという。
 それは、とても興味深いことだ。

 

2023年3月 4日 (土)

ウォーレン・バフェットの「株主への手紙」2022

 2023年2月25日、バークシャ・ハサウェイのホームページに、ウェーレン・バフェットの「株主への手紙」の2022年版が掲載されました。
 これから、その全文を日本語にして、ここで掲載していきたいと思います。ただし、下手な訳、というよりも直訳に近いだろうから、読みにくいと思われた人は、原文を当たってみてください。
 下のURLにあります。
https://www.berkshirehathaway.com/letters/2022ltr.pdf
 それでは、少しずつ訳していきたいと思います。このような拙い翻訳を始めて10年以上となりますが、以前は全部終わったところでまとめてアップしていましたが、数年前から、ある程度進んだところで、その都度アップするようにしました。そのため、仕事の都合や翻訳のペースによってアップの時期が一定しませんが、我慢してお付き合いください。

バークシャ・ハサウェイの株主の皆様
 私の長年のパートナーであるチャーリー・マンガーと私は、多くの方々から預かった資金を管理運用する仕事をしています。ご信頼いただき、光栄に思います。この手紙を書くにあたり、私は皆さんのことを第一に考えています。
 一般に、人は若いうちから資金の貯蓄や運用を始めます。それは、退職後の生活水準を維持するために考えているからです。この説によれば、死後に残った資産は、通常、家族に残されるか、あるいは友人や慈善団体に譲渡される可能性があます。
 私たちはそれとは違います。バークシャーに投資している個人株主の皆さんの多くは、「一度貯めた資金を、払いだすことなく、ずっと貯め続ける」タイプの人たちだと考えています。このような人たちは、生活には困らないが、最終的には資金の大半を慈善団体に寄付しています。そして、その資金を、元の資金提供者とは関係のない多くの人々の生活を向上させるために支出し、再分配するのです。時には、それは素晴らしい成果となります。
 我々は、このようなバークシャーの株主のために働くことに悦びを感じないではいられません。

我々のすべきこと
 バークシャーでは、チャーリーと私は、預かった資金を2つの関連した所有形態に配分します。第一には、私たちが管理する事業に投資し、通常はそれぞれの会社の株式の100%を取得します。バークシャーは、これらの子会社に資本配分を行い、日々の経営判断を行うCEOを選任します。大企業の経営には、信頼とルールの両方が不可欠です。バークシャーは、前者を異例なほど(極端と言う人もいますが)重視します。失望は避けられません。ビジネス上のミスには寛容に理解しますが、個人の不祥事は絶対に許しません。
 第二の所有形態は、上場株式を購入し、事業の一部をパッシブに所有するものです。このような投資では、私たちは経営に口を出すことはできません。
 どちらの所有形態でも私たちの目指すのは、長期的に有利な経済特性と信頼できる経営者の両方を備えたビジネスに有意義な投資を行うことです。特に、上場株式については、その長期的な業績に対する期待から保有しているのであって、巧みな売買の手段として見ているわけではありません。この点が重要です。チャーリーと私は、株を選ぶ人ではなく、ビジネスを選ぶ人なのです。
 長年にわたり、私は多くの過ちを犯してきました。その結果、現在、私たちが保有する多くの事業は、本当に驚異的な経済性を持つ少数の企業、非常に優れた経済性を持つ多くの企業、そして多くの限界に達した大きなグループで構成されています。また、私が投資した事業でも、その製品が世間に受け入れられず、死んでいったものもありました。資本主義には二つの側面があります。それは、敗者の山を築くという面と、同時に改良された商品やサービスを大量に供給するという面です。シュムペーターは、この現象を「創造的破壊」と呼びました。
 上場企業の利点は、時として素晴らしいビジネスの断片を素晴らしい価格で購入することが容易になることです。重要なのは、株式はしばしば、高値でも安値でも、本当に馬鹿げた価格で取引されていることを理解することです。「効率的な」市場は教科書の中にしか存在しません。市場性のある株式や債券は、実は不可解なものであり、その行動は通常、後から振り返ってみて初めて理解できるものです。
 他方、管理された事業は上場企業とは全く別です。これらは、時には正当な価格というよりはとんでもなく高い価格で取引されることもありますが、バーゲン価格で取引されることはほとんどありません。強要されない限り、管理されたビジネスのオーナーは、パニック型の評価で売却することは考えません。

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 ここで、私からも成績表を出すのが適切でしょう。58年間のバークシャーの経営において、私の資本配分の判断は、ほとんど「まあまあ」でした。また、場合によっては、私の悪い判断が非常に多くの幸運によって救われました。(USAエアーやソロモンの危機を脱したことを覚えていますか?確かにそうだ)。
 私たちの満足のいく結果は、約5年に1度の割合で12回の本当に優れた決断と、バークシャーのような長期投資家にとって有利な、時に忘れ去られがちな利点の産物です。その裏側を覗いてみましょう。

秘伝のソース
 1994年8月、そう、1994年だ。バークシャーは、現在我々が保有しているコカ・コーラ社の4億株の株式を7年間にわたって購入しました。その総額は13億ドルで、当時のバークシャーでは非常に意味のある金額でした。
 1994年に私たちがコカ・コーラ社から受け取った現金配当は75百万ドルでした。2022年までには、配当金は7億400万ドルに増えていました。毎年、誕生日と同じように確実に増えていく。チャーリーと私がやるべきことは、コカ・コーラ社の四半期配当小切手を現金化することでした。私たちは、これらの小切手は増額する可能性が高いと予想していました。
 アメリカン・エキスプレス社の場合も同じようなものでした。バークシャーによるアメックスの買収は1995年に実質的に完了し、偶然にもその費用も(コカ・コーラ社とほぼ同額の)13億ドルでした。この投資から得られる年間受取配当金は、4100万ドルから3億200万ドルへと増加しました。この小切手も、増える可能性が高いと思います。
 これらの配当の増加は喜ばしいことではあるのですが、目を見張るようなものではありません。しかし、それは株価の上昇に大きく寄与します。年末には、コカ・コーラ社への投資額は250億ドル、アメックスへの投資額は220億ドルとなりました。現在、バークシャーの純資産に占める各株式の割合は約5%であり、かつてと同じようなようなウェイトになっています。
 仮に、私が1990年代に同じような規模の投資ミスを犯したとしたら、それらは増えることなく、2022年になっても13億ドルの価値を維持しただけです。(例えば、30年ものの高格付け債券などです)。期待外れの投資は、今やバークシャーの純資産の0.3%に過ぎず、私たちに8000万ドル程度の年収には変わりはありません。
 投資家への教訓:花が咲くと同時に雑草は重要な意味を失って枯れていく。時間が経つにつれて、ほんの数人の勝者だけが素晴らしい成果を残す。そして、早くから始めて、90代まで生き残る助けになります。

昨年(今年度)の概要
 バークシャーには2022年は良い年でした。会社の営業利益(我々の用語では、一般に公正妥当と認められた会計原則(GAAP)により算出された、保有株式からのキャピタルゲインまたはロスを除いた利益)は、308億ドルという過去最高を記録しました。チャーリーと私は、この営業利益に注目していますし、皆さんもぜひそうしてください。GAAPに基づく数値は、私たちが調整しない限り、報告日ごとに激しく、気まぐれに変動します。2022年のアクロバティックな動きにご注目ください。これは決して珍しいことではありません。
 GAAPベースの収益は、四半期あるいは年次で見た場合、100%誤解を招いてしまうのです。キャピタルゲインは、過去数十年にわたってバークシャーにとって非常に重要なものであり、今後数十年にわたり重要なプラス要因となることが予想されます。しかし、四半期ごとの変動は、メディアによって定期的かつ無頓着に取り上げられるため、投資家に全く誤った情報を与えてしまっています。
 昨年のバークシャーの2つ目の好材料は、ジョー・ブランドンが社長を務める損害保険会社、アレガニー・コーポレーションを買収したことです。私は過去に彼と仕事をしたことがあり、彼はバークシャーのことも保険の両方をよく理解しています。バークシャーの比類なき財務力によって、アレガニーは、事実上すべての競合他社にはない貴重で永続的な投資戦略をとることができるため、私たちに特別な価値をもたらしてくれるのです。
 アレガニーに助けられ、2022年中の私たちの保険フロートは1470億ドルから1640億ドルに増加しました。規律ある引き受けにより、これらのファンドは長期的にコストがかからない可能性が十分にあります。バークシャーは1967年に最初の損害保険会社を買収して以来、買収、事業運営、イノベーションを通じて、保有資産を8000倍に増やしてきました。財務諸表では認識されていませんが、このフロートはバークシャーにとって特別な資産となっています。株主の皆様には、毎年更新されるアニュアルレポートのページA-2の「浮動株に関する説明」をお読みいただくことで、その価値をご理解いただけると思います。

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 2022年には、バークシャーの自社株買いと、私たちの重要な投資先であるアップルとアメリカン・エキスプレスの同様の動きにより、1株当たりの本質的価値がわずかに上昇しました。バークシャーでは、発行済株式の1.2%を買い戻すことで、独自の事業の集まりに対する皆様の関心を直接的に高めました。アップルとアメックスでは、買戻しによってバークシャーの持ち株比率を少し高めましたが、私たちには何のコストもかからなかったのです。
 計算は複雑ではありません。株数が減れば、私たちの多くの事業に対する皆さまの関心が高まります。自社株買いが価値創造的な価格で行われれば、わずかな額でも役に立ちます。しかし、自社株買いをし過ぎると、継続保有株主は損をすることになります。このような場合、利益を得るのは売却する株主と、愚かな買い物を勧めた、親切だが金のかかる投資銀行員だけです。
 価値を高める買戻しによる利益は、すべての所有者に、あらゆる点で利益をもたらすものであることを強調しておく必要があります。例えば、ある自動車販売会社の3人の株主が十分な情報を持ち、そのうちの1人が経営に携わっているとします。さらに、パッシブ所有の株主の一人が、継続的な株主二人にとって魅力的な価格で、自分の持分を会社に売却したいと考えているとします。この取引が完了したとき、誰が損害を受けたでしょうか。経営者は継続的なパッシブ所有者よりも何らかの形で優遇されているのでしょうか?一般大衆は損害を受けたでしょうか?
すべての自社株買いは株主や国にとって有害です。特にCEOにとって有益であると言われたら、あなたは経済学の疎い人か、口先だけのデマゴーグのどちらかの話を聞いていることになります(この2つのキャラクターは相互に排他的ではありません)。
 アニュアルレポートのページK-33 ~ K-66には、バークシャーの2022年の事業について限りなく詳しく書かれています。チャーリーと私は、多くのバークシャー株主といっしょに、このページに掲載されている多くの事実や数字に目を通すことを楽しみとしています。しかし、これらのページは必読ではありません。バークシャーの億万長者の中には、私たちの財務数値を見たことがない人も大勢います。彼らは、チャーリーと私が家族や親しい友人たちとともに、バークシャーに多額の投資を続けていることを知っているだけであり、私たちが彼らのお金を自分のお金と同じように扱うことを信頼してくれているのです。
そしてそのことは、私たちができる約束でもあるのです。

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 最後に、重要な警告があります。私たちが好んで使用する営業利益の数字でさえも、そうしたい経営者により簡単に操作される可能性があります。このような操作は、CEOや取締役、彼らのアドバイザーからは、しばしば洗練されたものとして考えられています。記者やアナリストもその存在を受け入れています。期待値を上回ることは、経営上の勝利と称されるのです。
 そういう行動には嫌悪感を覚えます。数字を操作するのに才能なんて必要ありません。そこにあるのは、人を欺くことへの深い欲求だけです。あるCEOが私に語ったように、「大胆な想像力に基づいた会計」は、資本主義の恥ずべき姿の一つになりました。

58年の歩み、そしていくつかの数字
 1965年、バークシャーは、ニューイングランドの老舗繊維会社のオーナーとして、一旗揚げることができました。バークシャーは、事業が死に体になっているため、すぐにでも再出発する必要がありました。今思えば、問題の深刻さを認識するのが遅かったのです。
そして、1967年にナショナル・インデミュニティ社が利用できるようになり、保険や繊維以外の事業に経営資源をシフトすることができるという幸運に恵まれました。
 2023年までの道のりは、オーナーによる継続的な貯蓄(つまり、収益の維持による)、複利の力、大きな失敗の回避、そして最も重要な「アメリカの追い風」が組み合わさってのでこぼこの道でした。バークシャーがいなくても、アメリカはうまくやっていたでしょう。しかし、その逆はありません。
 バークシャーは現在、巨大で多様な事業の集合体の主要な所有権を享受している。まず、ナスダックやニューヨーク証券取引所などで日々取引されている約5000社の上場企業について見てみよう。この中には、S&P500インデックスに採用されている、アメリカの有名大企業のエリート集団が含まれています。
 2021年の集計では、500人が1.8兆ドルを稼ぎました。2022年の最終結果はまだ出ていませんので、2021年の数字を使いますと、500人のうち30億ドル以上稼いだのは(バークシャー自身を含めて)128人だけです。実に23社がすっからかんになりました。
2022年末時点で、バークシャーはアメリカン・エキスプレス、バンク・オブ・アメリカ、シェブロン、コカ・コーラ、HP Inc.、ムーディーズ、オクシデンタル・ペトロリアム、パラマウント・グローバルという巨大企業8社の筆頭株主でした。
 この8社に加え、バークシャーはBNSFの100%、BHエナジーの92%を所有しており、それぞれ上述の30億ドルを超える利益を上げています(BNSFは59億ドル、BHEは43億ドル)。これらの会社が上場していれば、現在の500社のメンバーのうち2社が入れ替わることになるわけです。つまり、バークシャーの10社は、他のどの米国企業よりも、国の経済の将来と密接な関係を保っていることになります。(この計算では、年金基金や投資会社のような「受託事業」は除外しています)。また、バークシャーの保険事業は、多くの個人経営の子会社を通じて行われていますが、BNSFやBHEに匹敵する価値を持っている。
 将来に関しては、バークシャーは、さまざまな事業とともに、常に大量の現金と米国債を保有しています。また、金融パニックや未曾有の保険金支払いなど、不測の事態で現金が必要になるような行動は避けたいと思います。私たちのCEOは常に最高リスク責任者であり、この仕事を任せるのは無限責任です。また、将来のCEOは、純資産のかなりの部分を自己資金で購入したバークシャー株で持つことになるでしょう。そして、私たちの株主は、利益を保持することによって、節約と繁栄を続けるでしょう。
バークシャーにゴールはありません。

連邦税に関するいくつかの驚くべき事実
 2021年までの10年間で、米国財務省は約32.3兆ドルの税金を徴収する一方、43.9兆ドルを支出しました。
経済学者や政治家、そして多くの国民が、この大きな不均衡がもたらす結果について意見を持っていますが、チャーリーと私はそれについてはよく分からず、目先の経済や市場の予測は役に立たないに等しいと固く信じています。私たちの仕事は、バークシャーの事業と財務を、時間の経過とともに許容できる結果を達成し、金融パニックや深刻な世界的不況が発生したときに比類のない持久力を維持できるように管理することです。バークシャーはまた、インフレの暴走からある程度守ってくれるが、完璧とは言い難い。巨額で定着した財政赤字は結果をもたらす。
 32 兆ドルの歳入は、個人所得税 (48%)、社会保障および関連する収入 (34.5%)、法人税 (8.5%)、その他さまざまな税金によって、財務省が集めたものです。バークシャーの法人税は、この10年間で320億ドルであり、財務省が徴収した全収入のほぼ10分の1に相当します。
 つまり、バークシャーに匹敵する納税者が全米に約1,000人いれば、他の企業や1億3,100万世帯は、連邦政府に税金を納める必要がなかったということを意味します。一銭もです。

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 数百万、数十億、数百兆.という言葉は知っていても、その数字の大きさを理解することはほとんど不可能でしょう。この数字に物理的な大きさを与えてみましょう。
・100万ドルを新たに印刷した100ドル札に換えて積み重ねると、胸に届くほどの高さになります。
・10億ドルで同じことをやってみましょう。積み重ねた100ドル札の高さは空に向かって約3⁄4マイル(約1.6km)に達します。
・バークシャーの2012年から2021年にかけての連邦所得税納税額の総額である320億ドルを100ドル札で積み上げたとすると、21マイル以上の高さとなり、これは、民間航空機が通常航行する高さの約3倍に相当する高さです。
 連邦税に関して言えば、バークシャーを所有する個人は、「会社で寄付をした」とはっきり言うことができます。

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 バークシャーでは、今後10年間にさらに多くの税金を支払うことを望んでいますし、期待しています。私たちは、この国に少なからず借りがあるのです。アメリカのダイナミズムは、バークシャーの成功に大きく寄与してきました。私たちはアメリカの追い風を頼りにしていますが、その追い風は時に静まることはあっても、その推進力は常に戻ってきています。
 私は80年間にわたって投資を行ってきました。これは我が国が成立してからの年月の3分の1以上にあたります。私たち国民は、自己批判や自責の念に駆られる傾向があるにもかかわらず、アメリカに対して長期的な賭けをすることが理にかなっていた時代を、私はまだ見たことがない。そして、この手紙の読者が、将来、このような経験をすることはないだろうと思います。

素晴らしいパートナーを持つことに勝るものはなない
 チャーリーと私は、ほとんど同じ考えです。しかし、私が1ページかけて説明することを、彼は1つの文章でまとめてしまうのです。しかも、彼の説明は、いつも私より明確に推論され、より巧みに述べられています。ある人はぶっきらぼうに映るかもしれませんが。
 以下は彼の考えの一部で、その多くはごく最近のポッドキャストから引用したものです。
・世の中には愚かなギャンブラーがたくさんいて、彼らは忍耐強い投資家ほどうまくはいかない。
・世界をありのままに見ないと、歪んだレンズで何かを判断することになる。
・私が知りたいのは、私がどこで死ぬかだけだから、決してそこには行かない。そして、関連する考えもある。それは、早い段階で、自分の望む死亡記事を書き、それに従って行動するということ。
・自分が合理的かどうかを気にしないと、それに取り組めない。そうすると、不合理なまま、お粗末な結果を得ることになる。
・忍耐力は学ぶことで身につけることができる。集中力が持続し、1つのことに長時間集中できることは、大きなアドバンテージだ。
・死者から多くを学ぶことができる。尊敬する故人、嫌悪する故人のことを読め。
・船まで泳いで行けるなら、沈む船に乗って逃げるな。
・素晴らしい会社は、あなたがいなくなった後も働き続けるが、平凡な会社はそうではない。
・ウォーレンと私は、市場の喧騒に目を向けることはない。私たちは、長期的に良い投資先を探し、それを頑なに長く持ち続ける。
・ベン・グレアムは、「日々の株式市場は投票機であり、長期的には計量機である」と言った。価値のあるものを作り続けるなら、賢い人はそれに気づいて買い始めるだろう。
・投資において、100%確実なものは存在しない。したがって、レバレッジの使用は危険である。素晴らしい数字の羅列にゼロをかけると、必ずゼロになる。二度も金持ちになることを期待してはいけない。
・ただし、金持ちになるために多くのものを所有する必要はない。
・優れた投資家になりたければ、学び続けなければならない。世界が変われば、自分も変わらなければならない。
・ウォーレンと私は何十年もの間、鉄道株を嫌っていたが、世界が変わり、ついにアメリカ経済にとって極めて重要な4つの巨大鉄道会社が誕生した。私たちはその変化に気づくのが遅かったが、気がつかないよりはましだった。
・最後に、何十年にもわたって彼の決断の決め手となってきたチャーリーの短い文章を2つ付け加えておきます。"ウォーレン、もっと考えてくれ。君は賢いし、僕は正しいんだ。"
 そして、そうなるのです。チャーリーとの電話では、何かを学ばずにはいられませんでした。そして、彼は私に考えさせる一方で、私を笑わせてもくれるのです。

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 チャーリーのリストに、私自身のルールを付け加えましょう。非常に頭の良い、できれば自分より少し年上のハイグレードなパートナーを見つけ、その人の言うことを注意深く聞け、です。

オマハのファミリーの集い
 チャーリーと私は恥知らずです。昨年、3年ぶりに開催した株主総会で、いつもの商談で皆様をお迎えしました。
 開店のベルが鳴った瞬間から、私たちはあなたのお財布に直行しました。シーズの売店では、すぐに11トンもの栄養価の高いピーナッツ・ブリトーとチョコレートを販売しました。P.T.バーナムの宣伝文句で、私たちはあなたに長寿を約束しました。チャーリーと私が99歳と92歳になったのには、シーズのキャンディー以外に何があったというのでしょうか。
 早く去年の賑やかさの様子をくわしく聞きたいと思うのはわかります。
 金曜日は正午から午後5時まで営業し、キャンディ・カウンターでは2,690件の個別売上を記録しました。土曜日には、午前7時から午後4時30分までの間に3,931件の売上を記録しました。これは、9時間半の営業時間のうち6時間半が、映画と質疑応答で商業活動を制限している間だったという事実にもかかわらず、シーズはさらに売上を記録しました。
 計算してみてください。シーズの営業時間は1分間に約10件(2日間で40万309ドルの売上)、仕入れた商品はすべて1ヵ所で販売し、101年前からほとんど変わっていない。ヘンリー・フォードのT型フォードの時代にシーズが成功したことは、今も有効なのです。

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 チャーリーと私、そしてバークシャー社員一同は、5月5日、6日にオマハで皆さんにお会いできるのを楽しみにしています。私たちは楽しい時間を過ごし、皆さんもそうなることでしょう。

 これで、2022年の株主への手紙の翻訳を終わります。拙い訳にお付き合いいただき、ありがとうございました。

2023年3月 3日 (金)

坂口ふみ「〈個〉の誕生─キリスト教教理をつくった人々」(7)~第5章 個の概念・個の思想

 本書はまとめに入ります。
 レオンチウスをはじめとして試行錯誤を重ねた人々は、ギリシャ哲学の伝統の古い枠組みに新しい思想を入れ込もうとした。それは、二種のもの、本質と付帯的なもの、の区別を無意味なものにすることを意味していた。本性とか本質とか実体といったものが存在の核心をなすのではなく、ヒュボスタシスであるというギリシャ的でないキリスト教的な思想だった。ギリシャ的な思想ではロゴスのヒュボスタシス的特性は本質的なものであるから重要なものとして扱われる。しかし、人間としてのイエスを個である、一回限りのイエスとする人間のヒュボスタシス的特性は付帯性と呼ばれて、とるに足らないものとされてしまう。しかし、イエスの姿の細部はキリスト教にとって大きな意味をもつ。これについて、著者は、付帯的な付帯性、具体的な生の断片と細片が、私たちにとってどれだけ本質的であるかを、私たちは日々知っているいるはずだ。ふとした眼差し、声の抑揚、笑い方が、私たちの心に触れる。それらが出来事や人の核心を、瞬間的に照らしだすかを私たちは知っている。ある些細な出来事が、私たちの生きている社会や歴史のしくみの骨組みを、突然私たちに閃かせる。レオンチウスの「ピュシス」から切り離されたヒュボスタシスを中核とする存在論は、このような人間理解を支えることができるものだった。しかし、その後の思想史では、この存在論は顧みられなくなっていき、近代で再発見される、というのが著者の見解である。
 ヒュボスタシス=ペルソナ、それが神をも人をも包み込む愛と交流の概念化であった。この捉えがたく動的なものを、抽象化し、一般化し、凝固させ、しかしそれによって万人の思考に共通なものとする数百年の仕事、その仕上げを彼らは行った。知、情、意、身体的なもの心的なもの、すべてをひとしなみに集め、かけがえのない個として形づくるもの。しかもそれは、それら多なる要素を束ね、集め、あるいは生みだす純粋な働きであり、他のそのような働きたちと連なり、交流する存在性である。そのモデルは、神の性質も人の性質も、これほど相容れないものを、集め、束ね、一つにしている受肉した神の第二の位格、キリストである。彼は、また、神としても三位の交流関係によってはじめて存在する。存在が関係によってはじめて成り立つモデルでもある。
 原始のイエスの愛の思想が本質的に含み持っていた既成の道徳・規範・文化の絶対視への対抗と批判が、本書で扱ったいわゆるビザンツ時代に、抽象的で理論的な次元のものとなり、後のヨーロッパの思想生命の根幹をなす形・図式を示している。つまり、静的・共通的・理性的・制度的等々、普遍や本質や形相等に対して、純粋に力動的なものをぶつけていく思想であり、この二つの方向の対決の図式である。これがもっとも鮮明な形をとったのがビザンツの教義論争であった。キリスト論は古代に現われた種々の存在論を、ほとんど不可能な仕方で一つに結び合わせた。それは、キリストという存在が、もともと不可能な存在だったからである。全く人・全く神、つまり人としては私と種的に同一なもの。しかし個なる私にとっては他者。神としては私と絶対に異であり多であるもの。しかも創造者として種的にも個としても、私の存在の根源であり、私を包み、あらしめているもの。私にとって絶対に他であり、私と非連続であり、しかも私とある意味で絶対に同一なもの。キリストは超越と世界との連続でもあり切断でもある。この不可思議な存在を、ともかくも「一つの存在」として理解可能にしたこと、説明可能にしたこと、それがヒュボスタシス=ペルソナという概念の仕事であった。この概念はキリストという多義的存在、つまり、集約の集約・綜合の綜合である存在の核を言い表わすものであるから、当然、限りなく多様な意味をもつ。ただひとつ確立しているのは、ピュシス的、本質的、属性的等々のあらゆる規定以前の純粋存在性だということだけである。そして、ヒュボスタシス=ペルソナ的な存在性は私の自我の核と同じ名で呼ばれうるものなのだ。
 近代西欧は、この概念の発展形のひとつである個と自由と、そして人間と理性とを、語り続けてきた。その個や自由の主調がしかし、複雑なメカニズムで、かえって様々なレベルの束縛や抑圧の機構をつくり、支えるものにもなった。資本主義にしても、民主主義にしても、観念論にしても、マルクシズムにしても、そういう性格を示している。これは人間の思想の宿命であり、ビザンツ初期に、自由であるべき愛と個の思想、キリスト教とペルソナの思想が、正統思想の形を定め、教会がそれを中心に恐るべき組織に成長していく素地を作ったのも同じ硬化のメカニズムであった。それにしても、ヒュボスタシス=ペルソナという名自身のうちに、じつは硬化を防ぐ内容が含まれていたはずで、事実それは、自分のもたらした硬化を自分の力でうちから破る原動力をも提供してきた。ヨーロッパの歴史はそれを示している。

2023年3月 2日 (木)

坂口ふみ「〈個〉の誕生─キリスト教教理をつくった人々」(6)~第4章 キリスト教的な存在概念の成熟

 4つの公会議の最後、553年の第2コンスタンチノポリス公会議。
最後の統一ローマ皇帝となったユスティニアヌスによって招集され、対立の宥和が模索され、両派の過激な部分が切り捨てられ、中道をとった結果、前回のカルケドン公会議による西方よりの正統が東方よりに修正されたものだったが、ここで決まったキリスト論の教理は現在に至るまで東西教会の正統理論とされている。
 ユスティニアヌスの理論的支柱となったのは、ネオ・カルケドニズムと呼ばれる人々で、キリストにおける二本性を守りながら、しかもヒュポスタシス的結合の一を強調する、そのキリストの内なる基本的存在性つまりヒュポスタシスが全く神のそれであると主張する傾向だ。
キリスト論の中心は「全く神、全く人」である存在がどうやって説明できるかということが、ずっと議論されていて、神人二本性が変化することなく、融合することなく、分離せず、一ヒュポスタシスへと共合するという説明がカルケドンで与えられた。この説明には、ヒュポスタシス=ペルソナという新しい存在性が独自なものとして確立されることによって成立した。この新しい存在性の誕生は、ギリシャ・ローマからのヨーロッパの思想史の大きなエポックだというのが著者の主張で、このプロセスが本書のテーマであると言う。
 三位一体論とキリスト論はギリシャ哲学的な普遍を実体とした真実在とする存在論を逆転正面から対決するに至ったのは、このきわめて抽象的な存在論的差異が、実はごく普通の人々の信条と希求の差であり、政治的党派性の差でもあったからだ。そもそもの出発点は、また人としてのイエスの記憶がある程度いきいきしていた時期に、彼が「全く神」であるという要請である。それが三位一体論としてニカイアの公会議で公認されたことであった。さらにその存在が「全く人」であるということが再び確認を求められてくる。それがキリスト論の論点である。ここに、結合とか混合といった問題が生じてくる。神は人に成ったのか、つまり、変じてしまったのか、または人が神に成ったのか。これについては、カルケドンで、どちらかになってしまえば「全く神・全く人」の両立はないので、変化せず、とされた。そこで、異なる二つのものが、いかにして一つの存在をなすことができるのか、ということになる。
 多が一になるということは、ギリシャの哲学や科学は、例えば混合、混ざり合うという科学的な説明に近い捉え方をしていた。しかし、キリスト教の神人の結合は、そういった自然科学的なものではない。超自然、神秘、恩寵と言われるのはそのためである。それが、三位一体論では区別原理として働き、キリスト論では結合原理として働くヒュポスタシス=ペルソナであった。区別と結合という対立する機能をもつヒュポスタシス=ペルソナという不思議な存在は、キリストという単一者として現われた、単一者である人間への神の愛を、存在概念へと翻訳したものだ。
 これについて整合的な理論を与えたのがレオンチウスという人物だ。ギリシャ以来の理性主義的な伝統では本質を追求する。しかも、その本質を普遍・共通なもののうちに見出そうとする傾向がある。個々のものをそのようなものたらしめる共通の原理原因で、近代では法則という多様を単純で説明するものだ。この志向からすれば、個々のもののうち重要なのは、それを目指して個々のものを見るべきは本質であった。個々のものはそれを具現するもの、普遍的な本質の一特殊例であった。個々のものは本質に照らされてはじめて認識される。本質をもたない個体かは存在しない、認識できないことになる。ヒュポスタシス(リアルな存在)を持たないピュシス(本性)はないし、ピュシス(本性)をもたないヒュポスタシス(リアルな存在)は存在するはずはない。このような物質世界では当然な原則はキリスト教の理論化では不可能なのだ。三位一体論やキリスト論はひとの希求の具象化だからだ。しかし、キリスト教がローマの国教となり、ひろく共同の信念や文化の土台となるためにはギリシャ的な普遍を必要とした。
 しかし、キリスト教がもっとも尊貴なものとして、その意味で本質的なものとして見るのは個の個たるところだ。キリスト教があらゆる出来事と存在の真髄として説くのは、個々の人間の心の救いであり、そのために一回一回独自の仕方で、単独者として働く神の行為と愛である。そこで、「個として個」という概念が独立なものとして生まれた。これは、ギリシャ的には矛盾でしかない。それでも、キリスト者たちは、その矛盾に立ち向かった。その試行錯誤が公会議での論争に表われている。
 「個としての個」の概念化は、レオンチウスによって、ピュシスとヒュポスタシスとの間にリアルで明確な区別を置くというかたちで可能となった。まず、カルケドン正統派と反対する異端とに共通しているのは「ヒュポスタシスをもたぬピュシスは存在しない」という公式である。そこから「ピュシスとヒュポスタシスは不可分一体」という公式が導かれる。これはギリシャ文化では当たり前のことだ。レオンチウスはこの後者の公式こそがキリスト教理論の妨げになってきたと言う。
 存在論はここでは希み、愛し、生き、党派と体制をつくり、またそれに反抗し、利害と権力を争う人間のあり方をまるごと受肉しているからだという。ヒュポスタシス=ペルソナというかたちで、ここに姿を見せたものは、まさにあの透明な、いかなる属性をも顧慮しない、神の愛・隣人愛の向かうもの、その対象でもあり、またその愛を与える源泉でもある。それを、キリスト教的に信じ、人々の共通の認識の対象にしようとするか、または、もともと万人の共通に認識しうる中性的な真実在の観照を求めるか、そこにヒュポスタシスをつくるかつくらないかの分かれ目があった。
 レオンチウスはエンヒュポスタトン(ヒュボスタシスのうちなるもの、ヒュボスタシスに担われるもの)という概念を持ち出す。キリストの中の人のピュシスばかりでなく、ロゴスのピュシスもまたエンヒュポスタトンと語られる。つまり、ピュシスをもの自身ではなくもののうちなる本性つまり基体に担われるもの、エンヒュポスタトンであるとした。そして、ヒュボスタシスは何ものかをしめすがエンヒュポスタトンはウシアを示す、つまり性質であるので、両者は違うと言う。エンヒュポスタトンは、神人の両方の本性をともにもつキリストの、とくに人間性のあり方を説明するために必要なものだった。受肉したキリストのヒュボスタシスは、どこまでも神のロゴスであり、そのとき人間の本性がもともと基体に担われるものという性格であれば、それはロゴスの基体に、神の本性とともに担われることができる。基体つまりヒュボスタシスと本性が完全に切り離されるものであれば、である。この場合、基体なき本性はエンヒュポスタトンとして表われている。しかし、本性なき基体はない。ロゴスのヒュボスタシスは、いつでもロゴスの本性を担っているのであり、受肉の際に外から人の本性が付け加わるだけだ。このとき、神のピュシスは人のピュシスに綜合されるし、ロゴスのヒュボスタシス的特性とロゴスによって採られた人本性の特性とは一つの綜合された特性となって一つのヒュボスタシスを特定する。綜合されたヒュボスタシスは二人のキリストにはならない。キリストにおける神性と人性はキリストというヒュボスタシスの部分になるわけではないのである。また、総合は結合とも違うので、一本性とはならない。

2023年3月 1日 (水)

坂口ふみ「〈個〉の誕生─キリスト教教理をつくった人々」(5)~第3章 カルケドン公会議─ヨーロッパ思想の大いなる転換点

 4つの公会議の三つ目、451年のカルケドン公会議
 西方は410年のアラリックのローマ侵入により貴族階級の力が急速に衰えた。それ以前のキリスト教の布教にとっては異教と古典文化の教養を深く身につけた貴族階級が大きな障害とも助力でもあった。その貴族は蛮族侵入の影響でローマを離れ、残された教会人や聖職者たちがローマの社会を支えた。そこでは貴族的・エリート的なものがなくなり、教会の下でのある種の革新的平等主義と救いがあった。このように、最初の公会議から120年経過し、西方社会や教会は大きく変化していた。
 キリスト教が自分を理論化しようとし始めて以来、中心となった問題は「イエス・キリストはなにものか?」という問いだ。最初の全ローマ的な解決の試みであったニカイア公会議の問いもそれであり、それから120年後のカルケドン公会議の問いも同じだった。三位一体論だろうがキリスト論だろうが問いの内実は同じである。議論の糸はもつれにもつれ、しかし、切れることはなかった。二つの公会議でイエス・キリストは父なる神と実体を同じくする神である、ということになった。そこで、今度は神と同一実体であるキリストと、その人間性との関係は理論的にどう説明するのか、が問われるようになった。
 三位一体論によればキリストは「全く神」である。しかし、彼は人として生まれ、死んだ。贖罪による救いが全人類を救う最大のものであるために、贖いとして殺される者が神に等しいことは三位一体論は要請した。しかしその受苦と死が単に見せかけのものであったら、贖いは成り立たない。受苦と死がまぎれもない真正なものであるためには、彼は「全く人」でなければならない。このような「全く神」である者が同時に「全く人」でありうるのか。
 この背後にあるのは、自分たちの神に似る本性を信じ、自分たちが神に選ばれ、神と交流していることを信じ、与えられた律法の正義の理想を心に保ち、その鏡に映して現実の自分たちの不正、醜さ、欲望と思い上がりと愚かさを嘆き苦しむ精神。イスラエルの歴史のうちで多くの絶望と失意を経験してきた人々の心根。この民族は現実の苦難を道徳的堕落への警鐘ととらえ、しかし、それに解消しきれない不条理な生存の苦難の洞察へと思索を深めていた。それに伴って、人間を遥かに超える神のおおいさの観念は増した。深い罪の意識と神の偉大さの意識。そこから贖いの思想は生まれる。この償いの思想が「全く神、全く人」というパラドクスを要請した時、キリスト教思想家たちは、そのものとして文字通り受け取り。理論的説明を試みたのだった。そこから、ヒュボスタシス=ペルソナという概念の新たな出現の舞台が用意されたのだった。
結果から先の言うと、カルケドン公会議で採用されて正統なったのは、「全く神、全く人」という救済の要請を、キリストは神の本性と人の本性という「二本性」があるという説明だった。この説の始めはオリゲネスに遡る。彼は、人間イエスの魂が独立にすでに被造の人間霊魂として存在しており、そのうちへと神の第二の位格である子なる神、つまりロゴスが住み込み、ロゴスは人間イエスの清い魂を仲介して肉体と結びついた。その結果、神性と人性という二性の結合と説明される。ロゴスは住み込んだキリスト魂と肉体を次第に神化し、いわば神人ともいうべきものにし、ついには、彼は人間ではなくロゴスそのものと同一になる。オリゲネスに対抗する説は150年後のアポリナリスで、彼は、完全な人が完全な神に結合されるなら、二者があることになり、キリストが一なる存在であることと矛盾する。ところで、人間の中核となっているは理性的魂であり、キリストを動かすものが理性的魂であるなら、彼は完全な人間であり、ロゴスとは別の主体のはずである。彼のうちでは第二の位格ロゴスが理性的魂の代わりにあって、彼を動かしているはずだ。そこから、神と肉とが一つの本性をつくったという一本性という説明が生まれた。神のロゴスが人間の感覚的魂と肉体をいわば身にまとうことにより、可視の物質的な存在として現われ、人々の目に人間と見えるようになったという説明だ。
 この対立が先鋭化したのは、カルケドン公会議のころ、東方教会のアンチオキア派とアレクサンドリア派の対立によるものです。二本性はアンチオキア派のテオドルスにより、つぎのような主張となる。二本性は実体的に結合するのではなく、恩寵により、関係により結合する。ロゴスが人性をとり、またそのうちに住む。両者は思考により、活動により、あるいは意志の向かうところによって一つであるだけで、実体的に融合するわけではない。いわば道徳的結合である。ただし、人性も次第に高められ、ペルソナと語りうるようになっていく。その結果、ロゴスと人が一つのプロソーポン、つまり一つに見えるのであって、われわれは人とも神とも語りうるようになる。このペルソナは、実体よりも見せかけ、顔の意味で用いられている。
 公会議の決着はアレクサンドリア派のキュリルスの政治的手腕による解決となり、アレクサンドリア派的な二本性が結合するというキュリルスの用語で書かれ、しかし内容は西方的な二本性というものとなった。公会議の結果であるカルケドン信経で次のように記している。“唯一の同一の主なるひとり子なるキリストが二つの本性において、融合せず、変化せず、分離せず、存在すると知られるべきであり、この結合によって二本性の差異は消去されるのではなく、むしろ各々の本性の特性が保全され、一つのプロソーポンへとまた一つのヒュボスタシスへと共合し、二つのプロソーポン(ペルソナ)へと分割され分離されることなく、一にして同なるひとり子であり、神のロゴスであり、主であるイエス・キリストである。”
 これ以後の闘争は、政治的には結果を受け入れた西方と、嫌疑を差しはさむ分子の多い当方との争いであり、理論的には東方教会内部での単性説(一本性)派と正統派の争い、とはいっても論争というよりは教会内の派遣の奪い合い、が続いた。

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