川田稔「日本陸軍の軌跡─永田鉄山の構想とその分岐」(2)~第1章 政党政治下の陸軍─宇垣軍政と一夕会の形成
1921年バーデンバーデンで、永田鉄山、小畑敏四郎、岡村寧次の3人が集まり、藩閥の打破と総動員体制の整備に意気投合、帰国後の27年に陸士16期を中心に二葉会を結成した。会員は彼らの後輩らも加わり拡大する。彼らが藩閥打破のターゲットとなったのは宇垣一成だった。総動員体制については永田が中心となって活動を進めた。また、二葉会には岡村の影響で支那通の人々が集まり(後の満州事変の関係者も何人かいた)、満蒙への関心を集めていく。7年には、彼らに倣って陸士22期が中心に木曜会が結成され、二葉会と連携していく。
1928年3月(張作霖爆殺事件の3月前)の木曜会の会合では、東条英機が、戦争準備は対ロシアを主眼として、当面の目標を満蒙に完全な政治的勢力を確立することに置き、その際中国との戦争のための準備は資源獲得を目的とすると意見をまとめた。また、東条は将来の戦争は国家の生存のための戦争となり、アメリカは南北アメリカ大陸で十分なので、アジアには軍事介入しないだろうという見解を付言した。ここで、満蒙領有方針が、陸軍中央内で初めて提起されることになる。
一般に、満州事変は、世界恐慌下の困難を打開するために、石原莞爾ら関東軍で計画・実行されたものと見られている。しかし、じつは1929年末の世界恐慌開始より1年半前に、陸軍中央の幕僚のなかで、満州事変につながっていく満蒙領有方針が、すでに打ち出されていた。したがって、満州事変は、その企図の核心部分においては、世界恐慌とは別の要因によるものだったという。世界恐慌は、かねてからの方針の実行着手に絶好の機会を与えるものだった。
また、軍部専制の要因とされている統帥権独立については、ここでは統帥権の利用には無理があると認識されていた。それで、軍人が国家を動かすには、政略がすすんで統帥に追随する、つまり政務当局が自ら軍人に追随する必要があり、それには陸軍に新しい派閥をつくって、それを通じて政治に影響力を行使すべきだと言っている。
1929年、木曜会と二葉会が合流して一夕会が結成された。この結成は陸軍内の宇垣派に対抗するためで、陸軍人事の刷新、満州問題の武力解決、非長州系将官(荒木、真崎、林)の擁立を方針とした。翌年、永田が軍事課長に就任したのをはじめ、陸軍中央の主要閣僚ポストを独占した。
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