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2023年3月 7日 (火)

貞包英之「消費社会を問いなおす」(2)~第1章 消費社会はいかにして生まれたのか?

 私たちは、日常、当たり前のように消費を繰り返しながら暮らしている。その積み重ねでつくられた消費社会に対しては、批判がある。その要因のひとつに、所得の格差とかかわって成立していると考えられているところがある。その格差を克服しようとする理想が平等で、20世紀初めの資本主義の弊害が表面化したころ、共産主義やケインズによる修正資本主義が盛り上がった。それが、国民国家的政治体制を事実上の世界標準となり、社会保障制度などの福祉が整備された。しかし、これには大きな危険が伴った。平等な所得の追求や福祉の要求は国家権力の拡大を促し、市場を規制し、人々の生活を管理するようになる。そこで、20世紀後半になると、人々は平等に替わって自由を理想として掲げるようになる。規制をできるだけ撤廃し、市場の効率的な配分によってより良い社会が実現されると期待する。この時、平等は実質的な平等から形式的な機会の平等に変わった。それでは貧富の差は解消されないが、その差は努力の結果ということにされた。このような形式的な平等を踏まえた自由は、他方で、結果的には国家の肥大を招くことになる。それは、経済発展のために国家は戦略的な規制の緩和や資源の配分を決定し、それに人々が従うことを強く求めたからだ。
 20世紀の社会の理想は平等から自由に移行したが、両者の背景には資本主義の成長にどう対応するかという問題意識だった。平等または自由という方向で資本主義の発展をコントロールしようという、そのどちらでも国家の力の強大化を伴うものだった。つまり、この自由という理想は国家が主導する合理的な経済発展の道筋を受け入れることが前提だったということだ。
 このことは、言い換えれば、私が「私」として端的に存在することを許さず、むしそれを統制し管理することに結びついてきたと言える。このような理想に対して、著者が新たな理想として提示するのは、個々人が具体的に実現する私的な選択や、さらにはそれが可能にする多様性ということ。これは、平等も自由とは反対に、資本主義の可能性を擁護するという方向になる。歴史的に見れば、資本主義には、合理的または利益中心的な経済活動に収まらない多様な社会活動を拡大する過剰さが含まれていた。それを規制するのではなく、それが促す私的な選択や多様性の拡大を理想と考えるという。
 このように資本主義を私的な選択や多様性の根拠とみなす際に、「消費」という視点に著者は注目する。消費とは何か。その最大の特徴は、金を払うことで自由にモノを得ることができることにある。類似の贈与や交換では、何が欲しいかを自由に選択できるわけではない。これに対して、消費は何をどれだけ手に入れたいかは、私が決められる。価格に応じた金を払えば、好きなモノを手に入れ、好きに使用できる。消費と贈与・交換の違いは貨幣があるかないかにある。貨幣は、私たちが所属する共同体や文化から距離を取り、多様な商品の中で何かを選択することを可能にする。消費の選択の自由は、個人の人格によって支えられているのではなく、貨幣によって保障されている。
 そこで、著者は消費社会の歴史的なあり方を見ていく。資本主義は累積的に生産を拡大し、企業や市場を成長させるものだが、その下では商品が多く作られ過ぎるものだ。つまり、過剰生産。その増えすぎた商品は、資本主義の繁栄により労働者の取り分が増え(賃金の上昇とか)消費者となったことで回収された。例えば、フォード的生産方式は大量生産による価格低下と労働者の賃金上昇により、労働者が新たな購買者となることにより販売を大幅に拡大し、結果として自動車の大衆化と普及を促した。
 ただし、著者は労働者が消費者となるには、賃金上昇だけではないと指摘する。そこには一定の社会的な装置やシステムが必要だったという。それが、本書のテーマといえるものだが、消費社会という消費を私的な意思表示としてコミュニケーションのように不可欠とする社会だという。
 では、消費社会とはどのようなものか、それはマルクス主義がみるような資本主義による過剰生産の回収先として消費の活性化という、いわば資本主義の完成形態ではない。それでは、資本主義の余剰をひきうけることで、その再生産に仕える機能的な補完項でしかないことになってしまう。
 著者は消費社会を、消費が一定の拡がりと頻度でくりかえされ、結果としてある種の拘束力を発揮する社会的場と定義する。歴史的には、コミュニケーションのため、または私的な欲望を満たすために、さまざまな機会を捉えて人々が消費を繰り返してできてきたものと言える。消費社会を資本主義の補完とはいえないとしていたが、むしろ、それ以前に、広範な人々の生活のなかにモノに対する旺盛な需要が存在し、それが生産の革命を牽引した(それは間接的に、ウェーバーの近代資本主義の精神としての倹約と勤勉を批判することになる)。さらに遡ると、そもそも消費は貨幣の可能性を具体化する実践として、生産とは別の独自の行動様式や論理や感性を育んできた。つまり、貨幣が人々の生活に行き渡ることにより、消費が私的な欲望の追求の機会として受け容れられた。その例として著者はは江戸時代の遊郭、あるいは園芸などの趣味をあげる。当時の人々多様なモノに目を奪われ、自分の楽しみとしてそれを消費することに熱中した。人々は浸透した貨幣の力を確かめるように、道徳的に正しいとも言えないモノにも自由に消費をしていった。現在のわれわれが好きな衣装を身につけ、好きなものを食べ、快適に暮らすことは消費者の自由として当たり前になっているが、その背後には、後ろ指を指されながらも多様な消費を繰り返してきた無数の人々の営みの積み重ねがある。

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