川田稔「日本陸軍の軌跡─永田鉄山の構想とその分岐」(5)~第4章 陸軍派閥抗争─皇道派と統制派
1933年、一夕会内部で永田と小畑の政策的対立が表面化する。これが皇道派と統制派の抗争の始まりである。
二人の対立は対ソ戦略をめぐるものだった。日本の満州政策は、ソ連にとっては北満経営と対立するもので脅威と憤怒を生じさせていた。にもかかわらずソ連が反攻してこないのは、ソ連の国内事情からであった。したがって、ソ連の国力が回復し、英米の対日感情が悪化する等の条件が整えば、チャンスと捉えて反攻してくる明らかだ。そこで小畑は、そのような条件が整う前に、ソ連に一撃を与え、極東兵備を潰滅させる必要があると考えていた。さらに、1936年前後の対ソ開戦を企図していた。
これに対して、永田は、ソ連は第2次5か年計画が終了しても戦争準備が完了するまで数年かかると見ていた。また、現在の国際情勢は日本にとって有利なものではなく、満州国の迅速な建設が焦眉の課題である。国内的にも挙国一致は表面的なものにとどまり、もし対ソ戦に踏み切るとしても、満州国経営の進展、国内事情の改善、国際関係の調整ななどの後にすべきだと考えていた。永田は対ソ戦は、一撃や極東戦備の潰滅で終結する程度のものではなく、国家総動員を必要とする総力戦になると判じていた。そのためには、満蒙のみならず華北・華中の資源が必要であると考えていた。このため、中国への介入に積極的で、中国の反日的行動にはアメリカ海軍力の背景があるとして、対抗意識を強めていた。
しかし、派閥抗争が本格化したのは陸軍内の人事問題、荒木、真崎などの非宇垣系のトップが一夕会の勢いを抑えようとしたこと、がからんでのものだと言える。
この時期、陸軍では各部隊に配属されている隊付青年将校の間で国家改造をめざす政治的グループが形成されていた(この主要メンバーが後に2.26事件のメンバーとなる)。永田は軍の統制を乱し、軍部による国家の改革を困難にしているとして許容しない姿勢であった。それゆえか、彼らは、後に皇道派と密接なつながりを持つようになっていく。
真崎ら皇道派と永田ら統制派は陸軍人事をめぐり抗争を激化させ、ついには永田の斬殺事件が起こってしまった。
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