無料ブログはココログ

« 加藤陽子「戦争まで─歴史を決めた交渉と日本の失敗」(2)~第1章 国家が歴史を書くとき、歴史が生まれるとき | トップページ | 加藤陽子「戦争まで─歴史を決めた交渉と日本の失敗」(4)~第3章 軍事同盟とは何か─20日間で結ばれた三国軍事同盟 »

2023年3月30日 (木)

加藤陽子「戦争まで─歴史を決めた交渉と日本の失敗」(3)~第2章 「選択」するとき、そこでなにが起きているか─リットン報告書を読む

 1931年、関東軍の謀略によって引き起こされた満州事変に対し、国際連盟によって派遣された調査団が作成したリットン報告書をめぐっての交渉と日本の選択を扱う。当時の日本の新聞は、リットン報告書が出た瞬間「支那側狂喜」などの煽情的な見出しを掲げ、報告書が中国の主張を全面的に支持していたかのような報道を行なった。しかし、中国側の本当の反応は、リットン報告書を日本側の既成事実に配慮しすぎだと厳しく批判したもので、報告書の実態も見出しとはかけ離れていた。
 ここで著者が問いかけているのは、リットン報告書が世界に公表されるという場面で、国や個人がどのような立場を選択したのか、自らの現在と将来をどのように選んでいったか、た。しかし、人は、そこで生きている時代の社会のなかで、自らを包含する国や社会の行方を選択できるのか。そこでは、国をとりまく国際環境や、国の諸制度が、選択の幅を外から規定している。人が選択する選択肢がどのように示されるかということが大事なのだ。
 そもそも、リットン報告書としてまとめられた調査の経緯は、日本の働きかけによるものだった。満州事変に対する国際連盟の理事会では、日本の撤兵が議論され、日本の立場は不利だった。不利なままで、追及が重ねられるのを避けるために、中国国内の混乱した状況を連盟に見せるために調査団を派遣させようとしたことが、発端だった。だから、日本側はこのことは、日本にとって都合が悪いこととは考えていなかった。
 リットン報告は長大なものとなったが、その要旨について、イギリスに帰国後、報告会を開いていて、その議事録が残されている。彼によれば、日本は、自らの権利を守るために、9か国条約を破る形で強行してしまった。そのやり方を承認することはできないが、世界の道というものがあるから、それを聞いてほしい。彼は日中両国が二国間で協議する。ただしそのままなら、日本が軍事的な強国で、中国は弱体だから、中国は日本の言いなりになってしまう。そこで、両者の力の差をまず埋めて、適切な二国間協議を始める多呂に準備した原理原則に対して両国から承認をとる。
 そして、彼は、報告書には、満州事変についての判断、満州国についての見方、中国で起こっている半日ボイコットについて、の三つの結論が提示されているという。ポイントはそこだという。第1の満州事変については、関東軍の行動は合法的な自衛措置とは言えないが、彼らが自営だと考えていたことは否定しないという微妙な書き方をしている。第2の満州国については、認めてはいないが、日本はたしかに満州で秩序安寧を維持し、生命財産の安全を保証し、条約義務を履行しうるべき政府の設立を要求する権利があると認め、しかし、日本軍と日本の官僚によってつくられた、日本の傀儡国家であり、現地の人々の支持を受けていないと書いている。第3に中国によるボイコットは国民党政府が組織したものだと認めている。それは、満州事変はボイコットにより中国側が日本人に与えた経済的なダメージに対して、日本が軍事的手段で解決を図ろうとしたということを、その点では間接的に認めたことになる。ただし、満州事変自体は、現地の人々の支持を得てはいないのだから、自衛とは認められない。しかし、侵略とは明言しない。それを認めてしまったら、日本が国際連盟から脱退して、日中間の武力衝突が拡大してしまう。そこで、日本には満州から手を退けと勧告することはしない。現実的に、日本を交渉の場に残そうとした。
 このようにリットンが、満州事変について考えていた本心と、公式な報告書として書かれた見解の違いを知ると、彼が十分すぎるほど日本に配慮していることが分かる。彼は、満州国の実態が欺瞞であること、現地の人々が民族自決でつくり上げた国家ではなく、日本の傀儡であると分かっていた。しかし、日本に向かって侵略者と断罪してしまえば、日本は反発して話し合いができなくなる。そこで、報告書では、日中が交渉のテーブルにつくための条件を提示し、世界の道を準備したと日本に呼びかけたのだった。
 これに対する日本側の反応は、新聞の見出しは、満州国を認めずというネガティブキャンペーンを始めるものだった。政府などは、三つの結論に対して、満州事変は自衛行動であり、満州国は民族自決で自然に発生した国家だと反論している。一方、中国側は報告書の解決策は日本のつくり上げた既成事実を重視しすぎていると反論した。
 日本は、報告書の勧告に従って協議をすれば、武力による圧力が掛けられなくなり。また、協議に西洋諸国からの介入の危険があることをおそれていた。とくに関東軍はソ連への配慮は許容できないものだった。
 この報告書が提出されて、日本がとわれる選択肢は何かを著者は考える。関東軍の立場では、報告書や国際連盟の方針に従えば、満州国の解体は免れ得ないし、日本軍の駐屯も許されない。それでよいのかどうかだ。では、リットンが提示している選択肢は、軍隊駐留という多大負担をかけて満州という中国の一部に固執して少ない利益をとるか、中国と妥協して貿易により、不確実ではあるが、より大きな利益をとるかという選択肢だった。しかし、リットンの示された選択肢は、国民は検討しようともせずに、頭から拒否してしまった。それは、ひとつにはジャーナリズムが満州国を否定するものだと扇情的に書き立てた影響もある。このとき、政府は、それを抑えようとはしなかった。当時、政府の主張を制約するものとして国家主義団体、右翼などによる運動、テロがあった。
 ただし、政府部内でも天皇の周囲など、一部には中国との妥協を模索する人々もいた。リットン報告を受けて、国際連盟の場で交渉したのが松岡洋右。外務省かららの訓令では、満州国を承認させ、関東軍の駐留を認めさせる。連盟が必ずしも認めなくてもいい。その時は、連盟の面子を立てつつ、事実上、満州問題から手を引くように誘導するというものだった。そこで、イギリスによる妥協案、日中に英米ソを加えた5国で話し合うというもの、これは外務省に拒否されてしまう。だから、松岡が率先して、国際連盟を脱退したわけではない。この時、内田外相は中国国民政府と直接交渉でまとめられる、最後まで強気に出ていれば、中国は屈服すると楽観していた。それで、妥協的な姿勢を拒否したという。そこから、国際連盟で、日和って妥協したり、突っ張って不名誉な処分を受けるくらいなら、脱退した方がましだという考え方に傾いて行った。
 その後、日米開戦前に、もう一度、リットンのように「世界の道」を選択する呼びかけがあったと著者は言う。それが、日米開戦直前にアメリカから提示されたハル・ノートだったと言う。日本は10年おきに2度までも、英米側から誘いを受けていた。日本側には、軍部の主導する満州侵略はだめなのだ、と気づく選択肢も時間もあった。さまざまな選択肢はあった。そこで、世界の道の側に行く選択肢を否定し、植民地を帝国内のブロックに再編しながら、経済をまわしていく道を選択した。

« 加藤陽子「戦争まで─歴史を決めた交渉と日本の失敗」(2)~第1章 国家が歴史を書くとき、歴史が生まれるとき | トップページ | 加藤陽子「戦争まで─歴史を決めた交渉と日本の失敗」(4)~第3章 軍事同盟とは何か─20日間で結ばれた三国軍事同盟 »

書籍・雑誌」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 加藤陽子「戦争まで─歴史を決めた交渉と日本の失敗」(2)~第1章 国家が歴史を書くとき、歴史が生まれるとき | トップページ | 加藤陽子「戦争まで─歴史を決めた交渉と日本の失敗」(4)~第3章 軍事同盟とは何か─20日間で結ばれた三国軍事同盟 »