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2023年3月23日 (木)

川田稔「日本陸軍の軌跡─永田鉄山の構想とその分岐」(7)~第6章 日中戦争の展開と東亜新秩序

 日中戦争に対して、石原は派兵は華北だけにとどめなければ全面戦争となるおそれがあるとして、不拡大の考えだった。これに対して、武藤は派兵に積極的だったが、海軍からの強い要請があり、派兵を行なった。その後も、石原は戦線を限定しようとしたが、関東軍は華北での戦線を拡大した。中央で石原と武藤が意見対立し統一した戦争指導ができない状態では、現地の軍をコントロールすることは困難だった。これが現地軍の独走を許すことになった。このようにして、日中戦争は全面戦争となっていった。石原は武藤との抗争に敗れ陸軍中央を去った。しかし、陸軍中央には石原の影響は残り、その後も不統一は解消できず、派兵が決まっても、逐次の投入となり、兵力の損害は少なくなかった。
その中で南京侵攻が開始された。参謀本部は反対で、侵攻の事前準備がほとんどなされず、兵站補給が不十分で、現地での食料・物資の略奪が多発することとなった。そのことが南京事件を誘発することになる。石原の影響の残る参謀本部が南京侵攻に反対したのは背景があった。当時、トラウトマンを仲介とする南京政府との和解工作が進められていたからだ。また、彼らは南京が陥落しても蒋介石政権が崩壊することはないと判断していた。
 1938年1月近衛首相は「爾後国民政府を相手とせず」と声明を発表。この声明は、中国のみならず国際社会に対する軽視できない意味を持っていた。当時の東アジアでは、中国の領土保全、門戸開放に関する9か国条約が重要な位置を占めていた。そして、国際社会の承認を受けている中国の正統的な政権は南京国民政府だった。その南京国民政府を日本は事実上否定し、新たな中央政府成立を求めることを表明したのだった。このことは、従来の東アジア国際秩序のあり方とは異なるスタンスに立つことを示唆していた。それが、後の東亜新秩序へとつながっていく。
 日本軍は広大な中国を軍事的に制圧するには、兵力の絶対量が不足していたため、いわゆる「線の支配」にとどまり、「面」を制することはできなかった。軍事的手段による早期解決の可能性はほとんどなくなってしまった。
 11月、近衛内閣は「東亜新秩序」声明を発表した。この声明は、国際社会に対する基本的スタンスの変更を示していた。すなわち、それまでの日中戦争は中国側の排日行為に対する自衛行為とされてきたが、それが東亜新秩序の建設を目的とするものと新たに位置づけられたのである。これは9か国条約を軸とするワシントン体制を事実上否定するもので、それに代わる新しい東アジア国際秩序をつくるという姿勢を示したのであった。この内容は、華北・内蒙古の資源確保とそのための駐兵を主眼とするもので、また、列国の中国権益や経済活動の制限を含んでいた。その意味で従来のワシントン体制の主権尊重、機会均等の原則に明らかに対抗する内容をもっていた。これは、これまでの列国の既得権益尊重の原則を修正するものといえた。
 このワシントン体制批判として「東亜新秩序」は、ヴェルサイユ体制の打破を掲げるナス・ドイツの「ヨーロッパ新秩序」のスローガンにならったものであった。ただし、当時の陸軍中央はドイツとの連携を欲してはおらず、同様に米英と軍事的に敵対すること意図してはいなかった。
 この頃、武藤が陸軍中央に復帰し統制派系が圧倒的な影響力をもつこととなった。
統制派幕僚にとって、日中戦争は必ずしも全面的な中国支配そのものを目的としてはいなかった。次期世界大戦に備え、必要な軍需資源や経済権益を確保することを主要な戦略目標としていた。そのような中国の位置付けは、永田の構想以来、統制派系に受け継がれてきたものだった。次期大戦への対処の問題が、常に彼らの念頭に置かれていたからだ。しかも、欧州ではナチス・ドイツがオーストリアを併合し、チェコのズデーデン割譲など大戦勃発の可能性が現実のものとなりつつあった。その情勢をみた統制派幕僚は、次期大戦への対応を考慮し軍事的弾力性とそれを支える人的物的国力を温存すべきと考えていた。
 一方、近衛内閣の声明に対して、中国はもちろん英米も強く反発した。それまでのアメリカ政府は日本を非難してはきたが、具体的な対日制裁や中国支援は控え、むしろ日米和平を望んでいた。当時の対日輸出は対中輸出の7倍近くを占めていたし、英国も危機的なヨーロッパ情勢への対応に忙殺され中国では権益維持を図るために日本の行動に妥協的態度をとらざるを得なかったからだ。しかし、声明を機に米英は財政的な中国支援に踏み出した。

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