川田稔「日本陸軍の軌跡─永田鉄山の構想とその分岐」(3)~第2章 満州事変から5.15事件へ─陸軍における権力転換と政党政治の終焉
1931年陸軍はトップは宇垣系で「満州問題解決方針の大綱」を決定。実質的に1年後を目途に満蒙での武力行使に向けて準備を行うというものだった。宇垣系の思惑は、あくまでも既得権益の確保のためのもので、限定的なものにとどまることが想定されており、一夕会とは方向を異にしていた。しかし、1年を待たず3か月後に柳条湖事件が起こり、満州事変が始まる。しかし、海外派兵には内閣の承認と天皇の裁可が必要となるが、民政党内閣は承認しなかった。陸相や参謀本部は、これに従い、不拡大を指示。課長レベルでは、矢は放たれたとして反対。そこで、永田は時局対策を策定。それによれば、不拡大の廟議の決定には反対しないが、軍の行動とは別個の問題で、軍は任務達成のために情勢に応じ適宜の措置をとるべきであり、中央からはその行動を拘束しない。関東軍の出動は自衛権の発動によるものであり、これを機に満蒙諸懸案の一挙解決を内閣に迫るべきであると。
これに対して内閣は現状維持の方針を変えなかった。これに対して今村作戦課長は単独で帷幄上奏を主張。永田は、内閣の承認なしでの統帥系統のみによる派兵は認められないと反対。永田は、内閣を動かなくては満州事変は正当性と合法性を失い、かつ経費の裏づけを得ることができず、結局は失敗する可能性が高いと考えていた。この場合、海外派兵の経費支出には内閣の決定を必須とし、財政的裏付けのない長期出兵は不可能だったからだ。永田は一夕会をバックにして発言力を強めていく。
また、若槻内閣が朝鮮軍の満州進出を認めたが、それは南陸相の辞任による内閣総辞職を回避するためだった。政権瓦解によって事態が拡大していけば民政党政権の外交政策が根本的に破壊されるのを恐れたのだった。
10日後、永田ら七課長会議は「満州事変解決に関する方針」を策定。満蒙を中国本土より政治的に分離させるために、独立政権を樹立し、裏からこの政権を操縦して、懸案の解決を図るというものだった。内閣は南陸相の辞任をちらつかされて引きずられ、ついに10月、軍事占領と独立政権樹立を承認。国際関係でも、ここまでがギリギリ許されると考え、引きずられたのはここまでだった。宇垣系の陸軍トップも対ソ、対英考慮から同じように、これ以上の侵攻には反対だった。これに対して一夕会系は侵攻を支持。
12月、若槻内閣は総辞職。次いで政友会をバックに犬養毅が首相となった。このさなか、満州国建国が宣言された。
満州事変について、一般には関東軍に陸軍中央が引きずられたという見解があるが、関東軍に引きずられたというよりは、中央の一夕会系中堅幕僚グループが、それに呼応し軍首脳を動かしたものといえる。
永田は、また、政党政治に対する強い否定的姿勢と、陸相の進退によって内閣をコントロールすることを意識していた。
5.15事件で政党政治は終焉を迎え、岡田内閣が成立する。
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