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2023年3月26日 (日)

川田稔「日本陸軍の軌跡─永田鉄山の構想とその分岐」(9)~第8章 漸進的南進方針と独ソ戦の衝撃─田中新一参謀本部作戦部長の就任

 1940年10月、田中新一は参謀本部作戦部長に就任し、「支那事変処理要綱」を起案。日中戦争をそれ自体として解決するというより、南方への武力行使を伴う東亜新秩序の形成によって、日中戦争も処理されうると想定していた。翌年、「大東亜長期戦争指導要領」を作成した。日中戦争をそれ自体として解決することを断念し、より大きな国際関係の変動、すなわち欧州大戦の帰趨や対ソ国交調整、南方武力行使などを通じて処理しようとするものだった。田中も、武藤と同じように中国派遣軍の削減が必要だと考えていた。しかし、英米不可分論の認識に立って、したがって南方英領への軍事攻撃はただちに対米戦争を意味し、アメリカの参戦を避けながら南方英領への武力行使を実行することは不可能ということになる。したがって、好機を得ての武力行使は放棄され、自存自衛の場合に限り武力行使を行使することとなった。この自存自衛の場合とは、英米蘭などから対日禁輸措置を受けるか、国防上容認できない軍事対日包囲体制が敷かれたときが想定されていた。
 同じ頃、アメリカから野村吉三郎駐米大使と米国ハル国務長官との間の「日米諒解案」が送られてきた。武藤は、大東亜共栄圏の建設は必要だと考え、日中戦争の早期解決と共に、日米戦争は回避したいと考えていた。そのため、諒解案は日米間の緊張を緩和し、日中戦争解決に資するもの歓迎した。これに対して、田中は、日米諒解案を基本的にはアメリカによる対独参戦のための時間稼ぎとみていた。また、武藤と異なり、この段階ですでに対米戦争は不可避と判断していた。その準備として、国防の自主独立のために資源の自給自足を必要とし、大東亜共栄圏の建設が必須である。これはアメリカの太平洋政策と正面から衝突する。したがって、アメリカは日本の大東亜共栄圏を容認しない。そして、対米開戦までの間に、日米交渉を利用して日中戦争を解決し、さらに南方戦略資源の大量獲得を図ることが望ましいと意見した。
 武藤と田中の対立は独ソ戦によって表面化し、その後の国策決定に重大な影響を及ぼすことになる。
 田中は、独ソ戦になれば、英米ソの提携は強化され、アメリカは英ソの援助に努めるだろう。また米英蘭などによる対日経済圧迫を受けることになる。したがって、仏印とタイを押さえておかなければならない。もし、仏印当局が進駐を承諾しないなら武力を行使すべきである。また、独ソ戦はドイツが数カ月で勝利しソ連は崩壊する可能性が高い。そこで、機を逸せず、ソ連への武力行使によって北方問題を解決する必要がある。つまり、独ソ戦を機に、南部仏印進駐と北方武力行使を実施すべき。また、日本が北方の脅威から自由になることは、アメリカにとっても太平洋側からの強い軍事的圧力となり、対独参戦を背後から牽制する効果を持つ。田中はそう考えた。
 田中は、このとき、日本は三国枢軸の維持か、対英米親善への国策転換か、国家の命運のかかる根本問題に直面していると考えていた。その上で、田中は枢軸陣営を選択した。これは一般的な見解の、ドイツとの同盟は当初から硬直的な自明の方針だったというのとは異なる。陸軍は、ドイツとの関係を必ずしも固定的に考えていたわけではなく、常に米英提携など他の選択肢をも念頭に置いていて、国際情勢についての一定の判断によって、選択していた。
 一方、武藤は独ソ戦はドイツの勝利で短期的に終結する可能性は低く、長期持久戦になると見ていた。ソ連は、その広大な領土と豊富な資源、一党独裁による強靭な政治組織などから、容易には屈服しないだろうと判断していた。したがって、ドイツの英本土上陸作戦は遠のき、近い将来でのイギリス崩壊の可能性もない。それゆえ、独ソ戦については、事態を静観し、見守るしかないと考えていた。その間、当面は日米交渉によって日中戦争の解決を促すべきだと考えていた。
 他方、7月に日本の南部仏印進駐に対して、アメリカは在米日本資産の凍結、そして日本への石油輸出を全面的に停止した。この措置により、日本の北方武力行使は延期され、さらに、対米英開戦を決意することとなる。
 一般には、このとき陸海軍首脳部はアメリカの対日石油禁輸を全く予期していなかったとされている。しかし、武藤は外務省からの情報により予期していたと考えられる。武藤は、南部仏印進駐は、対日全面禁輸を引き起こすだけでなく、さらにそのことが対米英戦争に繋がる可能性を考慮にいれていた。武藤は、田中に参謀本部が対ソ攻撃を阻止するために、南部仏印進駐を認めたと言う。武藤は対ソ開戦は南北同時戦争を招くことになるとし、そのような最悪の状況に陥るよりは、たとえ対日全面禁輸を引き起こしても、なお日米交渉によって、対米戦を回避する可能性は残っていると考えた。これが田中たち作戦部の反対を押し切って、日米交渉に全力を投入していく重要な要因だったと推定される。
 これに対して田中は、タイ・仏印の確保は必須である。とくに英米にとっても資源は貴重であり、日本の先手を打って仏印を確保するおそれがある。しかし、アメリカは1942年までは対日戦争準備は整わないので、それまでは本格的な武力行使に至らないと考えていた。それゆえ、田中は強硬に南方武力行使、対米英開戦を主張し、武藤と激しく衝突することになる。
 一方、アメリカ政府は戦略的にヨーロッパ第一主義をてっており、ドイツ打倒に全力を振り向けけるべきだと考えていた。対日政策としては強硬策をとりながら対日戦を回避しつつ種々の牽制により日本の軍事的膨張を抑止しようとしていた。日本の対ソ攻撃を阻止するため、日本の仏印進駐の機を捉えて、対日全面禁輸により圧力を加えたのだった。日本軍による北進の脅威が去れば、ソ連極東軍を独ソ戦にまわすことができる。
 一般に日米戦争は、中国市場の争奪をめぐる戦争だった思われがちだが、実際は、イギリスとその植民地の帰趨をめぐって始まったものである。

 

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