川田稔「日本陸軍の軌跡─永田鉄山の構想とその分岐」(6)~第5章 2.26事件前後の陸軍と大陸政策の相克─石原莞爾戦争指導課長の時代
1933年5月の塘沽停戦協定締結後、日中関係は小康状態が続いた。しかし、1935年になると華北分離工作が始まる。同じ頃、ヨーロッパではナチスドイツが再軍備宣言をし、ヴェルサイユ条約体制が破綻し、緊張が高まった。日本の動きは、欧州の動向と無関係ではない、永田は次期大戦はドイツをめぐってヨーロッパから起こる蓋然性が高まったと見た。のことを念頭に、国家総力戦に対応するための資源確保が現実の要請として強く意識したのだった。
永田の死亡の翌年、2.26事件が起こり、皇道派および宇垣系の政治色のある上級将校はいなくなった。永田亡き後、強い影響力を持つようになったのは、陸軍省では武藤章、参謀本部では作戦課長となった石原莞爾だった。
石原は、その頃の日本の在満兵力が極東ソ連軍の3割あまりの劣勢で、しかも戦車や航空兵力では5分の1程度であることを知り、愕然とする。そこで、8割程度の戦力を配備する必要がある。まず、ソ連の極東攻勢政策を断念させることを強調し持久戦の準備が必要で、そこでは米英との親善関係の保持を必須とする。したがって、対支工作は米英との親善関係を保持しうる範囲に制限される。
石原は、1936年「戦争計画準備方針」を策定。5年後の1941年までに対ソ戦準備を整えるとされ、その中心的な内容は、第一に兵備の充実、第二に持久戦に必要な産業力の大発展を図る。とりわけ満州国の急速な開発を行い、相当の軍需品を大陸で生産できる態勢を確立する。その具体策として、日満産業5ヵ年計画を提出した。これはソ連の社会主義経済論から計画経済による工業生産力の拡充という新しい考え方を導入した計画経済的統制経済論というべきものだった。このような考え方は、第1次世界大戦後のドイツをモデルとした永田の統制経済論には含まれていない観点だった。永田の統制経済論は、現にある工業生産力や技術を、国家的観点から合理的に再編成し統制・管理しようとするものだった。それに対して、石原は、統制・管理だけでなく、国家主導による工業生産力や技術水準そのものの高度化も、目的に含んでいた。石原は国家主導で重工業中心とした生産力の飛躍的発展を図ろうとした。そして、石原は生産力拡充の観点から、国内経済の平和的安定化を重視し、不戦方針つまり平和維持の方針を打ち出した。そのため、ソ連との不可侵条約の可能性も視野に入れていて、そのためにも対ソ戦備の充実が必要だと考えていた。石原はソ連に対しては、北方への領土拡大は求めずに、脅威の排除による満州の平和維持による産業発展や資源確保を優先させていた。これらを遂行するため政治的には、満州国は一党独裁体制とすべきと考えていた。これはソ連をモデルとしたもので、後に武藤による一国一党論に受け継がれていく。このような一党独裁の考え方は永田には見られなかった。永田は、陸軍が独自に国策の具体案を作成し、陸相を通じて内閣に強要するにとどまっていた。
そもそも、石原の長期戦略はアメリカとの世界最終戦を念頭に、東アジア、東南アジアの英国勢力の駆逐と、そこでの東亜連盟の建設、資源確保に向けられていた。つまり、基本的には南方進出論と言えるものだった。対ソ戦備の充実は、その前提としてソ連の極東攻勢を断念させ、背後の安全を確保しておこうというものだった。そのため、中国に対しても、北支は漢民族の統一運動に包含されるべきとして、従来の分断工作を中止し、国民政府との宥和を志向した。これが外務省の日英の接近に繋がって行った。
そこに、1937年の盧溝橋事件が勃発する。石原は戦線の不拡大を方針とした。これに対して、武藤や田中新一らの関東軍は拡大を主張し、対立する。石原は戦線を拡大すれば全面戦争となる危険が大きい。中国と戦争になれば長期にわたる持久戦となることは避けられない。しかし、状況としては相当数の精鋭部隊を対ソ国境に配備しておかねばならず、十分な兵力を中国に投入できない。そのような状況下で、中国の広大な領土を利用して抵抗されれば、泥沼に入った状態となり身動きが取れなくなる。今は対ソ戦備に充実に全力をあげるときであり、中国との軍事紛争となれば、その力を削がれる。その時の中国はかつての分裂状況から国家統一に向かいつつあり、民衆レベルでの民族意識が覚醒してきている。そのような中国との戦争となれば。長期の持久戦となる危険が大きく、自らの国防戦線が崩壊する。それに対して、武藤は、中国は国家統一が不可能な分裂状態にあり、日本側が強い態度を示せば蒋介石らの国民政府は屈服する。それで、軍事的強硬姿勢を貫き一撃を与え、彼らを屈服させて華北を日本の勢力下に入れるべきである。そして、満州と相俟って対ソ戦略体制を強化すべきであり、絶好の好機である。ただ、武藤の、このような中国認識は副次的な理由だった。主要な要因は、石原の欧州戦争不介入論に基づく、華北分離工作の中止や華北権益放棄の方針を打破することにあった。当時の欧州では軍事的緊張が高まっているなか、武藤は次期大戦への対処の観点から、石原の政策に強い危機感を持ち、華北の軍需資源と経済権益をあくまでも確保しようとしたのだった。
ところで、盧溝橋事件については、当時の中国では、このような小規模な紛争は珍しいことではなかった。それを武藤は事態を拡大させようとしたのか。それは、永田の指導下で自ら起案した華北分離政策を石原が放棄したことに強く反発していた。武藤による石原の不拡大政策への攻撃は、石原の華北分離工作中止への反撃でもあった。その意味で、日中戦争は、石原の華北分離政策に対する反動であり、激しい揺り戻しとして始まったとも言える。
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