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2023年3月16日 (木)

川田稔「日本陸軍の軌跡─永田鉄山の構想とその分岐」

11114_20230316183801  10年前に読んだ本の再読
 昭和陸軍は、満州事変を契機に、それまで国際的な平和協調外交を進め国内的にも比較的安定していた政党政治を打倒し、日中戦争そして太平洋戦争へと進んで行ったというのが一般的な見方。しかし、永田鉄山、石原莞爾、武藤章、田中新一(ここに東条英機がいないというのは、彼があくまでも実務官僚であり戦略的な構想力やビジョンを持てなかった)といった人々が、どのような政戦略構想をもっていたか、その変遷を辿ることによって、一般的な見方とは異なる点が見えてくる。とくに、最近、加藤陽子の日清戦争から太平洋戦争にいたるトップ・リーダー層の社会的・心理的な傾向の変遷を丁寧に追いかけた分析を読んだ後で、本書を読むと、トップの下で実務面をリードしていた人々の認識を追いかけるのに触れると、従来と異なる様相が見えてくる。単純化された、ある意味わかりやすい、一般的な見方は、結果的に、ある種の歪みが現れてしまうと言えるだろうことが、見えてくる。また、時代の制約だけではない昭和陸軍の認識の偏りも、従来の見方とは違った視点で見えてくる。歴史の見方について、啓発されるところが少なくない。
 例えば、著者は第二次大戦をイギリスをドイツが屈服させられるかどうかの戦いだったという視点を提示する。もしドイツがイギリスを屈服させたら、アメリカはヨーロッパでの足がかりを失うとともに、ドイツはイギリスの工業力も手に入れ、大西洋と太平洋から挟撃を受けることになる。こうしたアメリカにとっての安全保障上の重要問題だったから、あえて、日独相手の両面作戦をあえてやった、と。この視点からだと、ドイツがバトル・オブ・ブリテンでイギリスの制空権の奪取を諦めて、踵を転じて独ソ戦を開始したことに対して、ドイツにイギリスに矛先を向けさせない牽制とアメリカが見ていたということ。そのために、アメリカは日本がシベリアでソ連に手出ししないように牽制する。それが対日経済制裁に向かう。このような動きは、現代のウクライナ紛争におけるロシアと中国の位置関係が、当時のドイツと日本の位置関係によく似ている。しかもアメリカの姿勢も同じように見える(だから、中国はかつての日本を教訓としてかなり詳細に勉強したのだろうと分かる)。
 一方、日本は「英米分離は可能か」という神学論争みたいな議論をずっとやっていて、まだ大丈夫だろ、ここまでならアメリカも動かないだろうとタカをくくっているうちに、にっちもさっちもいかなくなってしまった。1939年6月に天津英仏租界の封鎖に際し、ヨーロッパ情勢に備えるためにイギリスはやむなく中国国内で日本軍の妨害となる行為を差し控えることを受けいれが、その三日後にアメリカはイギリスの代わりのような感じで日米通商航海条約の破棄を通告し、いつでも対日経済封鎖へ踏み切る構えみせて牽制する。こうした事態を観察すれば、米英不可分だということぐらいわかりそうなものだが、武藤は田中らが遮二無二ソ連に飛びかかりそうなので、それを防ぐために、アメリカの対日前面禁輸の可能性があったにもかかわらず、南部仏印進駐を実施してしまい、アメリカはソ連崩壊を恐れて日米開戦を引き起こすかもしれない対日全面禁輸に踏み切る。もし、ソ連が敗れればドイツはイギリスに向かうからだが、これ以上、日本の南進を看過すると、イギリスがアジアやオーストラリアからの物資調達が出来なくなり、それはイギリスを崩壊させるからだ、と。そこで、著者は、一般に、日米戦争は、中国市場の争奪をめぐる戦争だったと思われがちだが、それは正確ではなく、実際は、イギリスとその植民地の帰趨をめぐってはじまったのであるという主張する。
 この例もそうなのだが、中国そしてアメリカと戦争したのだったが、相手を直視していないという印象が強い。上記の例でも、イギリスを見ていてアメリカと戦争することになった。この本に書かれている事実は、いろいろと語りたくなるようなものが多い。10年前に読んだときに、どうしてこの面白さに気づかなかったのだろうか。

 

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