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2023年3月27日 (月)

川田稔「日本陸軍の軌跡─永田鉄山の構想とその分岐」(10)~第9章 日米交渉と対米開戦

 1941年、近衛首相は対米開戦を回避するため、8月にホノルルで大統領との首脳会談を提案した。一方、ルーズベルトは同じ8月、大西洋上でチャーチルと会談し、「大西洋憲章」を発表。日本を名指しこそしないが、侵略的膨張主義への批判と反ナチズムの理念を表明した。帰国後、ルーズベルトは駐米大使に日本が隣接諸国に軍事的進出を図る行動に出ればアメリカは必要な措置を取るという警告と、首脳会談提案への回答で従来の主張以外は認めないという文書を手交した。日米間には、ハルの提示する中国撤兵、三国同盟、通商無差別原則という三つの課題があった。
 一方、アメリカの全面禁輸措置によって窮地に立たされた海軍は開戦避けられずの姿勢を表わした。陸軍中央の田中は即時対米開戦の作戦準備を進めるべきと強硬に主張した。陸軍は、国家レベルの開戦決意がなければ戦争準備を整えることはできなかった。大規模な人員の召集や、軍需物資の予想戦場方面への集積、輸送用船舶の大量徴用などが準備に必要で、それらは戦争決意が国家意志として示されないかぎりできなかったからである。しかし、田中の主張は、そのような理由からだけでなく、対米戦争の決意そのものを既成事実化し、動かさざる前提としようとするものだった。田中は、アメリカの警告について、単なる脅しではなく、米英協議の上の対日強硬策と判断していた。したがって、対米艦船比率や石油備蓄の関係などから早期に開戦すべきと考えていた。田中自身は日米開戦は避けたいとは考えていた。これに対して、武藤は外交交渉に賭けていたと言っていい。ルーズベルトの文書への回答をめぐり田中と武藤は激しく対立する。陸相の東条英機も対米戦には自信がないという心情で海軍同様だった。しかし、政府の会議では、互いにそれを表明できず、互いに表明してもらい、それをもって軍部内の強硬派を抑えようとしていた。しかし、互いにその一言が言えなかった。10月、近衛内閣は総辞職し、東条内閣が成立。アメリカに暫定協定案を提示した。11月、アメリカからハル・ノートが提示される。ハル四原則の無条件承認、中国・仏印からの無条件全面撤退、南京汪兆銘政府の否認、三国同盟からの離脱、を求めるものだった。これに至って、政府は交渉打ち切り、そして開戦を決意した。
 この頃の、武藤と田中の世界戦略が概観してみよう。
 武藤は、第1次世界大戦以降、戦争は国家総力戦となり、国家の有する総合国力を戦争目的に向けて統制する挙国一致の国防国家とならなければならない。そのためには、軍備の充実とともに自給自足経済体制の樹立が必要であり、そのために南方の資源を獲得しなければならない。そこから大東亜生存権の形成が必要ということに至る。しかし、大東亜生存権は欧米の利害と正面から衝突するもので、通常の外交手段では実現困難だった。そこで、欧州大戦の勃発、そしてドイツのイギリス侵攻によって、状況が変わってきた。その際、武藤は、武力行使はイギリス領及びオランダ領に限定し、アメリカと戦争は回避すべきと考えていた。しかし、イギリスに対しては、日本の対中国政策や南方政策を妨害する頑強な敵とみており、中国や東南アジアからの放逐が必要と考えていた。しかし、ドイツのイギリス侵攻は失敗したが、日独伊三国同盟と日ソ中立条約によりドイツのイギリス侵攻が再度実施されると想定していた。
 一方、田中も国防の自主独立性の確立のためには、軍需資源の自給自足が必要であり、そのために大東亜共栄圏の建設が必須だとしていた。武藤と同様に、ドイツのイギリス侵攻を機に南方武力行使により東南アジアを日本の勢力下に置くことを考えていた。だが、独ソ戦の開始とともに、二人に対立が生じた。それが二人の三国同盟の意味付けや対米認識の相違を表面化させたのだった。
 田中は独ソ戦は短期間でドイツの勝利に終わると予想し、対ソ武力行使を主張する。イギリスの対独抗戦意志を破砕するにはソ連の屈伏が必要であり、日本の北方からの脅威を取り除くことになる。これに対して、武藤は対ソの武力行使には反対だった。独ソ戦は長期戦となり総力戦となる。そこで、イギリスへの再侵攻は遠のき、イギリス崩壊の可能性も低下する。日中戦争に相当の戦力を割いている中で、本格的な対ソ開戦をすれば、南方への展開は不可能となってしまう。武藤は、三国同盟は対イギリスの軍事同盟と想定していた。また、三国同盟を活用して、日ソ国交調整を進め、各国からの重慶政府援助を抑えようとした。最終的には日米戦を阻止するためのものと位置付けられていた。しかし、独ソ戦が始まり、イギリス攻略が遠のき、アメリカの参戦を抑えることが困難になった。
 しかし、田中は、対米戦は不可避と見ていた。三国同盟もそのためのものだった。田中も対米戦は避けたいと思っていたが、大東亜共栄圏とアメリカの太平洋戦略が衝突するとみていた。アメリカに対抗するにはドイツとの同盟は絶対に必要となる。ゆえに、三国同盟は維持しなければならない。
 これに対して、武藤は対米戦は回避可能だとみていた。アメリカは必ずしもアジアに死活的利害をもっていないので、日米間に妥協不可能な対立はないと考えていた。三国同盟と日ソ中立条約によってアメリカの軍事介入を阻止しながら、南方に進出するのは可能だと判断していた。それが、独ソ戦によって狂い始める。それはまた、南方への武力展開による大東亜共栄圏の形成が困難になることを意味した。それでは、最も警戒していた対米開戦に陥ることになってしまう。そこで、武藤はナチス・ドイツから距離を置くようになってくる。
 一方、田中はナチス・ドイツへの信頼は揺るがず、アメリカの参戦に備えるためには三国同盟は絶対に必要と考えていた。むしろ、独ソ戦は北方の脅威を取り除く好機と考えていた。また、アメリカは、欧州でドイツが対英侵攻を始めると、アジアに死活的利害をもつことになる。アメリカはイギリスの存続に安全保障上死活的な利害をもっており、そのイギリスの存続のためにはアジアの英領植民地は不可欠だった。日本が参戦すれば、その海軍によってイギリスへのアジア、オーストラリアからの物資補給が遮断されるおそれがあり、そのような事態は対独抗戦に苦しむイギリスを崩壊させかねないと見られていたからである。
 このように対米開戦は不可避と見ていた田中の対米軍事戦略はどうだったのだろうか。田中は、太平洋を渡ってアメリカを屈服させる手段は日本にはなく、日独同盟によっても、アメリカを軍事的に屈服させることは不可能だと判断していた。対米戦は必ず長期戦となる。それに対応するには、先制奇襲攻撃により緒戦でアメリカ太平洋艦隊に徹底的な打撃を与え、以後2年間(軍艦を新造し配備するための期間)は制空制海権を確保する。これにより太平洋地域の覇権を確立し、南方地域を占領する。それとともに、南方の開発獲得を促進しも自給自足体制を確立して長期持久戦を遂行できる態勢を整える。その間に日独伊の軍事協力によってイギリスを屈服させる。そのことによって、ヨーロッパらおけるアメリカの足掛かりを失わせ、欧州大陸から引き離す。また、アジアにおいて緒戦に大打撃を与えることによって足場を失わせ、孤立させる。そのことによって戦意を喪わせ、戦争終結に導く。このような対米軍事戦略にとって、イギリスをいかに屈服させるかが最大のポイントであった。だが、田中の意図は、ミッドウェー海戦の惨敗とガダルカナル攻防戦の失敗によって崩壊する。
 また、武藤の軍事戦略は次のようなものであった。
 対米戦は長期戦となる。先制奇襲攻撃によって、戦略上優位の態勢を確立し、重要資源地域および主要交通網を確保して長期自給自足の体制を整える。戦争終結の方向については、軍事的にアメリカを屈服させることはできず、独伊と提携してイギリスを屈服させ、欧州での足掛かりを失わせ、孤立させて戦意喪失させる。これは田中と方針とあまり変わらない。
一般に、対米開戦では、陸軍は戦争終結の見通しをまったくもっていなかったとの見方があるか、このように田中や武藤は一応の戦争終結戦略をもっていた。これらの案は東条も了承していた。

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