川田稔「日本陸軍の軌跡─永田鉄山の構想とその分岐」(8)~第7章 欧州大戦と日独伊三国同盟─武藤章陸軍省軍務局長の登場
1939年9月、武藤は陸軍省軍務局長となった。彼はヨーロッパの大戦勃発に対しては不介入の態度をとり、国内体制の整備、すなわち国防国家体制の確立と、日中戦争の解決を当面の課題とした。この国防国家とは、国家総力戦に向けた体制を平時から整備し、物心両面での挙国一致体制にある国家を言う。言い換えると、政治・経済・文化などの国家の総力を、戦争目的に合致するよう組織・統制し、有事の際に直ちに総合国力を発揮しうる国家であった。彼に認識としては、欧州大戦の勃発によって、世界は今や戦国時代となり、弱肉強食の修羅場と化している。日本のみ局外に立ち安閑としていることは不可能で、早急に国防国家体制の確立が必要だというのである。当時、日中戦争によって中国大陸に85万の兵力が貼りつけられており、このままでは欧米列強との本格的な戦争遂行は困難と考えられた。したがって中国に展開している兵力を削減・収容することで、戦力展開の伸縮性、弾力性を回復させ、国防弾発力確保しておく必要がある。一般向けの歴史書などでは、日中戦争の解決が困難となり、その状況を打倒するために、陸軍は南方進出、対米戦争へと進んで行ったという見方が一部にある。しかし、武藤の根本的な問題意識は、次期大戦にどのように対応するかにあり、日中戦争の早期解決もそのためのものであった。彼にとって、日中戦争それ自体が目的ではなく、次期大戦に備え、中国の軍需資源を確保しようとするものだったからだ。たしかに当面の課題として、日中戦争の解決は重要視されており、南方進出も、援蒋ルート遮断を一つの目的としていた。だが、それだけが南方進出の狙いではなく、それを「看板」として、次期大戦をにらんだ国防国家体制の確立のため東南アジア全体を含めた自給自足経済圏の形成を図ろうとしたのである。
1940年6月、武藤は国防国家建設の課題について、その基本プランとなる「総合国策十年計画」をまとめた。その特徴として、永田にはなかった点として、第1に東南アジアを含む地域が、資源の自給自足等の観点から「協同経済圏」とされ、南方資源獲得の視角が示されている。これは永田というより石原の「国防国策大綱」で示されていたものだ。この「協同経済圏」の範囲は、後の大東亜共栄圏に受け継がれてゆくことになる。第2に、国策遂行のための強固な政治指導力として、親軍的な政党による一党独裁の方向が志向されていることである。これはソ連共産党に学んだものだったという。しかし、実際には近衛首相は幕府的との批判を受けて及び腰となり、大政翼賛会という政治的指導力を持たない精神運動組織を生み出すにとどまった。
この頃、ヨーロッパではドイツの快進撃が続き、6月にはパリが陥落した。武藤は、このような国際情勢の変化に対応して、日中戦争を解決するとともに、好機を生かして南方問題の解決に努めるとの方針を打ち出す。南方については対象を英国に限定し、香港、英領マレー半島を主要ターゲットにして、対米戦は避けるという、英米可分の見地に立っていた。ここで、武藤は英米の密接な関係を十分承知していたが、ドイツ軍の英本土上陸によって英国が崩壊すれば、米政府は、戦争準備態勢の未整備と孤立主義的な国内世論のなかで、南方への軍事介入のチャンスを失う。また、英本国が崩壊すれば、その植民地のために、日本との戦争を賭してまでアメリカが軍事介入する可能性は少ないと考えていたためである。この時点までの武藤は、欧州戦争不介入方針を前提に、欧州情勢に距離を置き、いわば一種のフリーハンドを維持しようとしていたと言える。それが、英本土を攻略するドイツと密接な関係を結び相互了解を得るとともに、北方対ソ関係の安定を確保しようと図り、大英帝国の崩壊を好機に、南方の英領植民地さらには蘭印を一挙に包摂し、自給自足的「協同経済圏」建設に踏みだそうとした。さらに、日中戦争の解決を仏印進駐の名目にしようとした。
その後、ヨーロッパではドイツ軍は英本土上陸には至らず、作戦は延期となった。英独間の戦争が長期化するとアメリカの軍事介入は不可避になるとして、武藤の英米可分を批判する英米不可分論が海軍から起こり、そのせいもあって、ドイツとの同盟に消極的な海軍出身の米内光正が首相を務める内閣を、陸軍は崩壊させた。そして、9月に、第2次近衛内閣が成立し、日独伊三国同盟が締結された。これにより、独伊側に立って欧州戦争に本格的にコミットする姿勢を明確にした。これは、松岡外相の主導によるものだが、松岡は、さらに日ソ中立条約を締結する。武藤は、日独伊三国同盟とソ連との連携による圧力で、アメリカの参戦を阻止し、日米戦を回避しながら、大東亜生存権の建設を実現しようと考えていた。つまり、三国同盟は日米戦争を目的とするものではなく、回避するためのものと考えていた。
南部仏印進駐をめぐって、陸軍中央で統制派内の武藤と田中新一の対立が目立ってくる。
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