井筒俊彦「ロシア的人間」
哲学者と哲学学者とは違うとして、この井筒俊彦はその典型だろうと思う。プーシキンから始まって、トルストイ、ドストエフスキー等を経てチェーホフに終わる19世紀ロシア文学を論じた著作。1914年生まれという世代からか、分析的な記述はあまり見られず、いわゆる教養主義的なメンタリティの持ち主であることがこの著作には色濃く表れている。「この本を書くことによって私は、19世紀ロシア文学の発展史を通じて、ロシア的実存の秘密を探りながら、同時に、より一般的に、哲学的人間学そのものの一つの特異な系譜を辿ってみようとした」と著者は書いている。この文章にあるように、井筒はものがたりとか表現といったことではなく、文学の内容、彼にとっては実存という生き方を文学に読みこもうとしている。そういう読み方にとって、格好の対象となるのが、ドストエフスキーだったりするので、井筒の読みの姿勢と対象が適合した結果が、この著作だろうと思う。たしかに、ベルジャーエフ、小林秀雄などをはじめとして、ドストエフスキーの小説を題材にして、「精神」とか「信仰」とか「愛」とか「実存」を論じた著作はたくさんある。また、そういう著作の言葉を丸呑みにして、ドストエフスキーの小説をろくに読まずに、ドストエフスキーの「精神」とか「信仰」とか「愛」とか「実存」を語る人を何人も見てきた。おそらく本著の井筒は、そういう心性に近いものだろうと思う。井筒本人は、ちゃんと小説を読んでいるのだろうと思う。しかし、私には、彼がドストエフスキーの小説にワクワク、ドキドキしながら心踊らせて読み耽ったとは思えないのだ。私の個人的な体験では、ドストエフスキーの小説には、そういう面白さが、たっぷりと詰まっている。例えば、『カラマーゾフの兄弟』の終盤の法廷の場面では、殺人事件の弁護で、実は殺人事件などなかったという強引な弁論がされるのだが、その意外さを通り越した荒唐無稽なハチャメチャさに驚いてしまうのだ。『悪霊』だって、言葉遣いは滑稽な物語のものだ。この著作が書かれたのは昭和20年代後半で、そのころにはウケたのだろう。今でも、生真面目な人にはウケるかもしれないと思う。しかし、この著作を読んで、ロシア文学を手に取って読みたいとは、私には思えなかった。
« 貞包英之「消費社会を問いなおす」(5)~第4章 さまざまな限界 | トップページ | ますむらひろしの銀河鉄道の夜─前編 »
「書籍・雑誌」カテゴリの記事
- 川田稔「日本陸軍の軌跡─永田鉄山の構想とその分岐」(8)~第7章 欧州大戦と日独伊三国同盟─武藤章陸軍省軍務局長の登場(2023.03.24)
- 川田稔「日本陸軍の軌跡─永田鉄山の構想とその分岐」(7)~第6章 日中戦争の展開と東亜新秩序(2023.03.23)
- 川田稔「日本陸軍の軌跡─永田鉄山の構想とその分岐」(6)~第5章 2.26事件前後の陸軍と大陸政策の相克─石原莞爾戦争指導課長の時代(2023.03.22)
- 川田稔「日本陸軍の軌跡─永田鉄山の構想とその分岐」(5)~第4章 陸軍派閥抗争─皇道派と統制派(2023.03.21)
- 川田稔「日本陸軍の軌跡─永田鉄山の構想とその分岐」(4)~第3章 昭和陸軍の構想─永田鉄山(2023.03.20)
« 貞包英之「消費社会を問いなおす」(5)~第4章 さまざまな限界 | トップページ | ますむらひろしの銀河鉄道の夜─前編 »
コメント