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2023年3月31日 (金)

加藤陽子「戦争まで─歴史を決めた交渉と日本の失敗」(4)~第3章 軍事同盟とは何か─20日間で結ばれた三国軍事同盟

 1940年9月、ヨーロッパでの戦争と太平洋での日米対立を結びつけることになった日独伊三国軍事同盟の締結について、イギリスやアメリカなどの動向も視野に入れながら、ドイツとの外交交渉や国内での合意形成の過程に焦点を当てて取り上げる。日本は、このときは、ヨーロッパの大戦に中立の立場をとっていた。ヨーロッパではドイツの電撃戦によりフランス等が敗退し、実質的に戦っていたのはイギリスだけになっていた。そのドイツが東南アジアや太平洋にどうしてくるか、は日本も注視していた。
 著者は、日独伊三国軍事同盟は、ヨーロッパで戦われている戦争と日中戦争にアメリカが介入することのないように、アメリカを牽制するために、三国で結ばれた条約であるという。それは、1940年ころの日米交渉でアメリカが常に日本に三国同盟から脱退を求めていることからも明らかだ。それほど三国同盟というのは大きかった。それは、日本が加わることで、ヨーロッパにおける戦争が太平洋に結び付けられることになったからだ。
 この条約締結に際して、枢密院(天皇の諮問に答えるという、天皇の政治的決定に対する顧問のような役割)は、わずか1日の審議で承認している。ちなみに、1930年のロンドン海軍軍縮条約では2ヶ月もかけたというのに。
 三国軍事同盟がアメリカを牽制するというのは、そもそも軍事同盟は相手を恫喝することでひるませることが機能として期待される。アメリカへの牽制というのは、まさにこの機能がきたいされてのこと。しかし、仮に相手が怖れることなく、そんなことでは抑止されないと思った時には効果がない。実際、1939年にドイツがポーランドに侵攻しようとした時にイギリスとフランスはポーランドと相互援助条約を結んで、ドイツを抑止しようとしたが、かえって、ドイツとポーランドとの戦争をヨーロッパ全土を巻き込む大戦へと拡大してしまった。このような抑止というのは、想像上のもので、感情的なものに左右されがちだ。見た目は、危機に対する現実的な対処をとっているようでも、実のところ相手国の敵意だけを増幅しかねない構造を、軍事同盟は持っている。日独伊三国軍事同盟にはそういうところがあった。
 ドイツはポーランドを占領し、西に取って返して電撃戦を展開し、1940年6月にはフランスを降伏させ、パリに入場した、残されたのはイギリスだけになってしまった。この時、イギリスは内閣が交替し、チャーチルが首相となる。このとき、イギリスにはイタリアを仲介して対独講和という選択肢はあった。しかし、チャーチルは徹底抗戦を主張。
 この時、ヒトラーは次のようなことを述べている。イギリスが不屈の抗戦意識を支えているのはソ連とアメリカへの希望である。そのソ連が頼みの綱にならないことが分かれば、アメリカはイギリスを援助する気などなくなる。なぜなら、ソ連が脱落すれば、日本を北から軍事的に牽制する国がなくなり、自由にイギリスの東アジアの根拠地である香港・シンガポールやアメリカの軍事基地のあるフィリピンを脅かすことができる。アメリカは、日本の軍事的位置が飛躍的に高まると困るので、対英援助を諦めるに違いない。
 これに対して、イギリスのチャーチルは、対独和平となるとドイツは取引材料としてイギリス艦隊を要求するだろう。その艦隊を使ってアメリカ脅かすだろう。実際、ドイツに蒔けたフランスは艦隊をドイツに接収されたのだった。そのことをアメリカのルーズベルト大統領に手紙で知らせた。アメリカはイギリスと防衛協定を結ぶことになったのだった。
 これでヒトラーはイギリス爆撃を開始、バトル・オブ・ブリテンという航空決戦が6ヶ月続くことになる。
 この時、日本は中立の立場をとっていた。三国同盟については御前会議では意見が分かれていたという。例えば、海軍からは、同盟を結べば、英米とは敵対関係となり、貿易を制限し、石油などの死活的に重要な物資の入手が困難になる。日米戦争は持久戦となるはずだが、日中戦争で国力が消耗している現状で、国力を持続できるのかと。これに対して、近衛首相は、これまで、国内の原油生産を拡大し、石油の備蓄を増やしてきたので、使い方を統制すれば、長期の戦争に対応できると、説得力のない回答しかできない。この時、日本には、軍事機密や国家機密を保護する法律が制定され、政府統計がほとんど公表されなくなっていた。日本の基幹的な産業や生産能力の実態を知るデータは軍事機密とされ、軍や経済官僚の一部にだけに握られて首相は知ることができなかった。それでは、長期戦に向けての国力など正確に分かるはずがない。同盟に対しては、軍の上層部や枢密院議長、作成を担当する統帥部の上層部が強い不安を感じていた。とくに海軍の反対の気持ちが強かった。
一方、アメリカは1940年夏の時点では、戦争への準備は十分に整っていなかった。とくに訓練された常備兵が足りなかった。兵を募っても、訓練に時間がかかるという状況だった。そこで、アメリカが準備不足であることを考慮にいれ、ヨーロッパの戦争に巻き込まれるのは嫌だという国民の恐れが最大であるときを狙って、日独伊三国軍事同盟が強くアメリカに圧力をかける。それが可能であれば、同盟に抑止力が期待できる、そういう可能性しかなかった。
 では、日本は同盟を拒まなかった理由を著者は考える。アメリカの経済封鎖は怖いけれど、ジャーナリズムや国民に見えない裏側で独伊に対して確約をとりたいことがあった。それは同盟の条文にない秘密了解事項として、日本側が要求していたのは2点だった。ひとつは、日本の生存権の範囲として東南アジアの英仏蘭領、満州国さして汪兆銘率いる南京政府、それに旧ドイツ領委任統治領を貰い受けるということ。ふたつめは、対英米武力行使について、日本は自主的に決定できること。日中戦争が終わるまでは、対英米武力行使は行わず、行うとしたら、内外諸般の情勢がとくに有利な場合と、国際情勢の推移が一刻の猶予も許さない状況に限るという。
 一般に、日本が「バスに乗り遅れるな」といって、ドイツの戦勝の勢い幻惑され勝ち馬に乗ろうとして、ドイツに接近したと言われるが、必ずしもそうではない。それは、これまで見てきたことからも分かる。
 実際、日本では政策決定にあたって、トップの政治家が政策を考案するのではなく、担当各省庁の課長級の人々が集まり、合議を重ね、文案を作成し、それを各省庁のトップに上げて決裁を仰ぐという形で決定される。実際には、大臣と中堅層との認識のずれも少なくなかった。同盟に対してこのような中堅層の会議の議事録が残されているが、そこでの発言には「戦後」という言葉が頻出する。そこで、彼らは勝利を前提として、その後の取り分をどれだけ有利に勝ち取るかを議論している。ドイツは海軍力が不十分だから、仏印や蘭印などについては日本海軍がいればドイツは口出しできないという。そして、特徴的なことは、アメリカへの見方が議論されていない。つまり、中堅層は三国同盟はドイツを牽制するためものと捉えていた。仏印や蘭印が誰のものになるかが最大の関心事項だった。つまり、ドイツの勝利に便乗するのではなく、ドイツを牽制するために三国同盟を考えていたと言える。
 同盟というのは、何のために結ばれるのか、その交渉開始の地点と、出口で姿を現わすものは違っている。出口では文字通り、アメリカを抑止するための同盟となっている。そして入口の裏側では、自動参戦条項はなく、大東亜の範囲はこれだという秘密了解条項があって、日本に得となることは表に出てこなかった。
 著者は、ここには理念がないという。イギリスのチャーチルは、国論をまとめるために国民の代表である国会議員を説得した。また、中国の蒋介石は軍部のトップが対日妥協を促したにもかかわらず、中国にとって選ぶ選択肢を三つから五つ立てて考え抜いた。これに対して、日本では課長級の事務当局者が唱える目先の利益から国家のスローガンを後付けの論理で作り上げ、最も密接な協議が必要な陸海軍の組織間での検討は、十年の前からおこり得る事態が正確に予測されていたのに、行われなかった。

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