渡邊義浩「論語─孔子の言葉はいかにつくられたか」(6)~第6章 継承されたものと失われたもの─皇侃の「論語義疏」と邢昺「論語注疏」
道教は北魏の大武帝により国教とされ、東晋のころより本格的に受容された仏教は隋の文帝により国教とされた。この頃の中国は異民族、とくに北方民族との支配関係が大きな問題であった。北方民族による征服国家であった北魏は漢化政策を取り、隋は胡感融合策をとった。北方民族はおしなべて仏教を尊宗しており、仏教は世界宗教である点で異民族による政権の正統性を保証する存在であった。しかも、仏教と儒教が補い合うことができれば、より安定的な正統性が異民族出身の君主にも付与できる。それが唐がとった政策である。その際、唐は道教を仏教より上に位置づけた。ここに、儒教・仏教・道教の三教並立の「古典中国」が完成した。
皇侃は梁の人で、何晏の「論語集解」に以後の解釈を集め、自身の解釈を加えた「論語義疏」を著した。その新たに加わったものとして特筆すべきは仏教の影響である。そのあらわれは、第一に仏教の語彙の使用がある。第二に、注釈形式・問答体・経題の解釈といった経文をいくつかに段落分けして、段落ごとに解釈する形式で、これは仏教経典の様式である。第三に、自らの学問を「外教」と位置づける意識である。外教とは、仏教を内教とする立場から仏教以外の教えを外教と呼ぶ。ここには、内教を優れたもの、外教を劣るものというニュアンスが含まれている。そして、仏教の「平等」という概念が「論語」の解釈に入り込んでくるのである。孔子は人々を「平等であること一のように」見なしていたとして、仏教に由来する平等という理想を抱いていたと解釈している。一方、儒教には性三品説という人間の性を上中下の三種に分ける。皇侃によれば、人は生まれにより、気の清濁の多少が決まっており、それによって人の性の善悪が決まるという。皇侃の生きた梁の時代、清官(上品)に貴族を濁官(下品)に寒門を世襲的に就官させるようになっていた。貴族に生まれるか、寒門に生まれるかにより、官の清濁、それを規定する郷品の上下、郷品により表現される性の善悪が定まっているというような社会背景のもとに皇侃は、清の気からは善性が生まれ、濁の気からは悪性が導かれるとの宿命論的な主張をした。これに加えて、皇侃の性三品説は、仏教の影響を受けている。中国における仏教の「業」思想に対する関心は、その応報思想、輪廻説に集中し、その受容は「神不滅」論としてであった。これは、神の不滅を主張することにより、輪廻転生の実在性を論証する。これは賢愚・善悪は自然に定まった道標で、天から与えられた分命によると理解された。これは生まれながら気の清濁により性が決まるという性三品説に重なる。皇侃の「論語義疏」は、自らが仕える梁の武帝が尊重した平等という言葉を「論語」解釈に導入した。「論語義疏」衛霊公篇で、平等という言葉を利用しながら、孔子は人々を「平等なること一の如く」見なしているため、情愛・毀誉の心がないと説いている。しかし、人間の本質を規定する性説では、生まれながらの差別を積極的に肯定する性三品説を主張する。皇侃の「論語義疏」には、平等無差別を説く仏教を表面的に受容する柔軟性とともに、それでも本質的な人間性の規定を揺るがさない儒教の強靭性を見ることができる。
南北朝を統一した隋を継承した唐は、文化の占有を存立基盤とする漢族の帰属に対抗して、文化的諸価値を皇帝権力に収斂するための大編纂事業を行った。そのひとつに「五経正義」があり、五経の注釈書である。「正義」とは標準となる義疏を基にした正しい解釈という意味だ。この動きが宋にも継承され経書の注釈が集大成されていった。それが十三経注疏であり、ここに古注が集大成された。
邢昺は北宋の人で、「五経正義」を継承して、それを補うために「論語注疏」を著した。また、「論語注疏」は皇侃の「論語義疏」の玄学的、仏教的解釈も継承している。ただし、そのままというのではなく皇侃が何晏の注と関係なく採用した玄学的解釈は全く用いないと、いわば批判的継承といえる部分がある。邢昺は何晏の「論語集解」の諸注を継承して、それが分かりにくい場合には説明を追加するという、注に寄り添った解釈を心がけている。このように、注に従って一つひとつの章を丁寧に解釈する邢昺の「論語注疏」は、鄭玄の「論語注」での鄭玄学の展開、何晏の「論語集解」での道の重視、皇侃の「論語義疏」での仏教的解釈の導入といったような明確な特徴を持つことがなかったし、全体的な主張もなかった。多くの人々により、長い期間をかけて、異なる思想的状況の中で著されてきた「論語」全体が抱える矛盾を解決し、統一した孔子像を「論語」から描く試みは、朱熹の「論語集注」に代表される「新注」から始まる。
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