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2023年4月

2023年4月26日 (水)

渡邊義浩「論語─孔子の言葉はいかにつくられたか」(6)~第6章 継承されたものと失われたもの─皇侃の「論語義疏」と邢昺「論語注疏」

 道教は北魏の大武帝により国教とされ、東晋のころより本格的に受容された仏教は隋の文帝により国教とされた。この頃の中国は異民族、とくに北方民族との支配関係が大きな問題であった。北方民族による征服国家であった北魏は漢化政策を取り、隋は胡感融合策をとった。北方民族はおしなべて仏教を尊宗しており、仏教は世界宗教である点で異民族による政権の正統性を保証する存在であった。しかも、仏教と儒教が補い合うことができれば、より安定的な正統性が異民族出身の君主にも付与できる。それが唐がとった政策である。その際、唐は道教を仏教より上に位置づけた。ここに、儒教・仏教・道教の三教並立の「古典中国」が完成した。
 皇侃は梁の人で、何晏の「論語集解」に以後の解釈を集め、自身の解釈を加えた「論語義疏」を著した。その新たに加わったものとして特筆すべきは仏教の影響である。そのあらわれは、第一に仏教の語彙の使用がある。第二に、注釈形式・問答体・経題の解釈といった経文をいくつかに段落分けして、段落ごとに解釈する形式で、これは仏教経典の様式である。第三に、自らの学問を「外教」と位置づける意識である。外教とは、仏教を内教とする立場から仏教以外の教えを外教と呼ぶ。ここには、内教を優れたもの、外教を劣るものというニュアンスが含まれている。そして、仏教の「平等」という概念が「論語」の解釈に入り込んでくるのである。孔子は人々を「平等であること一のように」見なしていたとして、仏教に由来する平等という理想を抱いていたと解釈している。一方、儒教には性三品説という人間の性を上中下の三種に分ける。皇侃によれば、人は生まれにより、気の清濁の多少が決まっており、それによって人の性の善悪が決まるという。皇侃の生きた梁の時代、清官(上品)に貴族を濁官(下品)に寒門を世襲的に就官させるようになっていた。貴族に生まれるか、寒門に生まれるかにより、官の清濁、それを規定する郷品の上下、郷品により表現される性の善悪が定まっているというような社会背景のもとに皇侃は、清の気からは善性が生まれ、濁の気からは悪性が導かれるとの宿命論的な主張をした。これに加えて、皇侃の性三品説は、仏教の影響を受けている。中国における仏教の「業」思想に対する関心は、その応報思想、輪廻説に集中し、その受容は「神不滅」論としてであった。これは、神の不滅を主張することにより、輪廻転生の実在性を論証する。これは賢愚・善悪は自然に定まった道標で、天から与えられた分命によると理解された。これは生まれながら気の清濁により性が決まるという性三品説に重なる。皇侃の「論語義疏」は、自らが仕える梁の武帝が尊重した平等という言葉を「論語」解釈に導入した。「論語義疏」衛霊公篇で、平等という言葉を利用しながら、孔子は人々を「平等なること一の如く」見なしているため、情愛・毀誉の心がないと説いている。しかし、人間の本質を規定する性説では、生まれながらの差別を積極的に肯定する性三品説を主張する。皇侃の「論語義疏」には、平等無差別を説く仏教を表面的に受容する柔軟性とともに、それでも本質的な人間性の規定を揺るがさない儒教の強靭性を見ることができる。
 南北朝を統一した隋を継承した唐は、文化の占有を存立基盤とする漢族の帰属に対抗して、文化的諸価値を皇帝権力に収斂するための大編纂事業を行った。そのひとつに「五経正義」があり、五経の注釈書である。「正義」とは標準となる義疏を基にした正しい解釈という意味だ。この動きが宋にも継承され経書の注釈が集大成されていった。それが十三経注疏であり、ここに古注が集大成された。
 邢昺は北宋の人で、「五経正義」を継承して、それを補うために「論語注疏」を著した。また、「論語注疏」は皇侃の「論語義疏」の玄学的、仏教的解釈も継承している。ただし、そのままというのではなく皇侃が何晏の注と関係なく採用した玄学的解釈は全く用いないと、いわば批判的継承といえる部分がある。邢昺は何晏の「論語集解」の諸注を継承して、それが分かりにくい場合には説明を追加するという、注に寄り添った解釈を心がけている。このように、注に従って一つひとつの章を丁寧に解釈する邢昺の「論語注疏」は、鄭玄の「論語注」での鄭玄学の展開、何晏の「論語集解」での道の重視、皇侃の「論語義疏」での仏教的解釈の導入といったような明確な特徴を持つことがなかったし、全体的な主張もなかった。多くの人々により、長い期間をかけて、異なる思想的状況の中で著されてきた「論語」全体が抱える矛盾を解決し、統一した孔子像を「論語」から描く試みは、朱熹の「論語集注」に代表される「新注」から始まる。

2023年4月25日 (火)

渡邊義浩「論語─孔子の言葉はいかにつくられたか」(5)~第5章 「道」という原理─何晏の「論語集解」

 後漢の後の三国時代になると、漢を正統化する儒教を相対化するために、様々な文化に価値が見出されていくことになり、儒教以外の諸文化が、儒教から自立的な価値を持つようになっていった。
 何晏は王弼とともに玄学を創始した。玄学という呼称は「周礼」「老子」「荘子」の三玄に兼通するという特徴を持つことによる。儒教は、「詩経」「尚書」に継ぐ経典として、孟子のころから「春秋」をとり入れてきたが、漢の初めには国家に尊重された黄老思想の宇宙観や形而上学に対抗するために「周易」を儒教経典に取り入れた。その際、すでに老荘思想からら学んだ論理により、事物の真を究明しようとした。このような儒教の方向性を継承したのが玄学だった。玄学の目的は老荘の論理により、儒教の経典の真義を究明することにある。その前提として「周礼」「老子」「荘子」に注をつけ、自らの解釈を施していく。「老子」に注をつけることで、孔子が体現したという「無」こそ「道」の上位者であり、「道」が宇宙・万物を生みだすとしている。
 何晏の「論語集解」の特徴は、その世界観の根底に「一」・「元」と呼称される原理を置くことにある。真理を探求するには、多学は無用であり、「一」によって知ることができる。何晏の論語解釈は「周易」を典拠とし、「周易」の哲学的内容を踏まえて展開する。「周易」の影響下に、万物存在の理法を究明しようとして、それを「一」あるいは「元」と表現した。何晏の「論語集解」は、鄭玄の「論語注」のような体系的・総合的な解釈ではなく、玄学により「論語」の核心的な把握を目指した。この「一」・「元」という核心的原理は、「道」・「無」と同義であり、何晏は論語の世界観の根底に置くべき形而上なる根源者としての「道」の絶対性を明らかにした。しかし、「道」を体現することは孔子でも難しいことであった。すなわち、孔子も到達できない「道」に基づく統治を実現することは困難となるだろう。何晏は、それが実現できるのは「礼記」にある堯舜のような聖人の統治である「無為の治」という。それは、人々に天地陰陽の「道」の働きに依拠して生活させながら、しかもそれを理解させない統治だ。形而上なる根源者としての「道」との一体化によって人々は幸福となる。人々には統治という作為がない「無為」に見える。この時「徳」は「無為」に重なる。それは、実際に、賢才を登用し、かれらに統治を任せるという中央集権化の体制という曹魏の体制を正統化するイデオロギーとなった。

2023年4月22日 (土)

渡邊義浩「論語─孔子の言葉はいかにつくられたか」(4)~第4章 矛盾なき体系を求めて─鄭玄の「論語注」

 「論語」が「魯論」「斉論」「古論」の三論に分かれていたころから、「張侯論」がまとめられていくころにかけては、漢帝国において儒教の地位が向上していった時期であった。儒教の国教化に関しては、武帝のときに董仲舒の献策により大学に五経博士が置かれ儒教が国教化されたと言われるが、それは間違いだという。しかし、儒教が台頭したのは間違いない。董仲舒は天子の支配を天の権威により正統化するために天人相関説を主張した。人の身体は天の全体を備えた小宇宙であり、人と天とは不可分の関係にある。したがって、人の頂点に君臨する天子が善政を行なえば、天は麒麟や豊作などの瑞祥を降してそれを褒め、天子が無道であると天は地震や洪水などの災異を降してそれを責める。これは、天は超越的な主宰者として、天子の支配を正統化するとともに、これを批判する存在と位置づけられる。ここで儒学は、天という人格的な主宰神を持つ宗教となる準備を整えた。しかし、天人相関説は特定の国家を正統化するものではない。そこで、漢という国家の支配を正統化するために生みだされたものが緯書である。経書の「経」は縦糸すなわち人としての生きる道筋という意味で、これに対して「緯」は横糸すなわち縦糸である経を補うために孔子が著した書物が緯書であるとされた。これは実在の孔子とは関係に、漢を正統化するために董仲舒の流れを汲む公羊学派が創作したものである。その多くは、予言的な要素を含み、孔子は漢の成立を祝福していたという内容が含まれていた。ここでの孔子は未来をも見通す神と位置づけられることになり儒学は儒教へと変容していく。
 後漢の光武帝により儒教国家が成立する。光武帝は儒教を利用して即位し、緯書を整理させた。ここに至って儒家は儒教に変質することで、漢の支配を正統化し、国家の支配を支える唯一の正統思想として尊重されることになった。大学に博士が置かれるなど制度的に儒教が尊重されるだけでなく、官僚にも豪族にも儒教が浸透し、国家を正統化する理論を備えた具体的な統治の場でも用いられる儒教国家が成立した。後漢の末期は外戚と宦官の抗争が常態となり、混乱した。儒教官僚は宦官から弾圧され、宦官批判から後漢という国家そのものへの批判へとエスカレートしていった。
 そのなかで漢の経学を集大成する鄭玄が現われる。鄭玄は経書や緯書その他を「周礼」を頂点として統一的・体系的に整理してまとめあげた。それが三礼体系と呼ばれる。主宰者である天の権威により、天子の正統性を保証するという董仲舒を継承した鄭玄は、現存の国家を正統化するだけにとどまらず、漢という国家の滅亡を予感し、新しい国家が革命を起こすという「六天説」を説いた。これは、国家の始祖が天命を受けて国家が成立し、その保護が終わると、国家は滅亡するという。漢が天命を失いつつあれば、次の国家が生まれる。その順が五行説によって決められる。ここに宗教性が強く表れている。これは、後に後漢が滅んで三国時代の魏の曹操が帝位の正統性をこの説に基づいて主張するものとなる。
 その鄭玄の「論語注」は「張侯論」をベースに論語の解釈を統一的なものにし、当時の標準となる。彼の解釈は「論語」の各章を有機的に結びつけた。論語の各章でバラバラで矛盾し合うような記述を整理し、章ごとに内容が異ならないようにした。また、「論語」内の章の間の解釈だけにとどまらず、他の経典と呼応した解釈にもなっている。例えば、「論語」顔淵篇で「立」と「達」の違いを孔子が説明しているが、この違いに従うように雍也篇の「達」の意味が揃えられる。同じように「孝経」開宗明義章でも「立」の意味が揃えられる解釈を行った。現代では信じられないが、それぞれで「立」と「達」の意味が必ずしも同じではなかったのである。鄭玄はそれらを揃えることで、全体の解釈に統一性を持たせたのだった。このように鄭玄の「論語注」は、「論語」の各章をそれぞれ別々に解釈するのではなく、篇を跨ぎ、他経を踏まえる総合的に解釈をしている。しかも、「論語」に注を付けることを「論語」内だけで完結させず、「礼記」など他の経書の注にも生かせるよう、体系的に整合性を持たせようとしている。そのような鄭玄の体系で頂点に君臨するのが「周礼」であった。つまり、「論語」の解釈を「周礼」に従わせる、あくまでも「礼」を基準として「論語」を解釈した。
 しかし、このような「論語注」は、後の何晏の「論語集解」に取って代わられ、宋の時代には散逸してしまった。その理由として、「論語注」は鄭玄経学の一環としての「論語」の解釈であるため、鄭玄の学問体系を修めるための基礎が身に着くという利点を持つ。経学として「論語」を修めるのであれば「論語注」は優れている。これに対して、何晏の「論語集解」は鄭玄の「論語注」の持つ経学的な広がりを放棄しているので、「論語」を「論語」の中だけで学ぶことができる。玄学にも広がりを持つ解釈であるため、仏教との親和性も高い。こうした「論語集解」の解釈は儒仏道の三教融合を目指す唐の文化風潮に適合していたのだった。

2023年4月21日 (金)

渡邊義浩「論語─孔子の言葉はいかにつくられたか」(3)~第3章 孔子は「易」を読んだのか─「論語」の形成と「三論」

 著者は孔子や弟子の伝記的な事項を司馬遷の「史記」に拠っている。しかし、司馬遷は「史記」を書いたのではなく、彼は前漢の官僚として正史である「漢書」のための資料として「太史公書」を執筆した。それをもとに後漢の時代に「史記」としてまとめられ、司馬遷を作者とされたという。司馬遷は董仲舒より「春秋公羊伝」を中心とする儒学を講義され、その学説をもとに孔子世家を書いた。司馬遷がそこで書いた孔子の言行は、彼の後にまとめられた「張侯論」とは食い違うところがある。例えば、司馬遷の孔子世家では孔子は「易」を読んでいるという記述がある(これは古注に受け継がれる)が、「張侯論」には記されていない。それだけでなく読んでいないことが分かる記述になっている。歴史的には統一王朝である秦は法家思想により帝国を支配した。その後の劉邦の建国した漢は老子の無為に基づき法の絶対性を正当化する黄老思想を国家支配の中核に置いた。老子は儒家が持たなかった存在論や形而上学を持っていたので、儒家はそれらを補足するために「周易」を経典として採用し、自らの思想の中に道家の「道」の哲学を取り入れていく。易は本来占いの書物である。それが、前漢初期に儒教の経典に取り込まれた。従って、春秋時代の孔子が「易」を経典として読んだということはありえない。司馬遷の孔子世家の基となった言行録は、「張侯論」に比べて、孔子が易を読んだという後世の部分と、当初の論語に近い古い部分の両方を持つ。したがって、両者は一方が他方の原本と言えないような差異がある。
こうしてみると、すでに漢の時代には論語の一貫性は見られず、稿本によりバラバラのものとなっていた。

2023年4月19日 (水)

渡邊義浩「論語─孔子の言葉はいかにつくられたか」(2)~第1章「論語」はいつできたのか─成立過程の謎を追う

 「論語」は孔子一門の言行録で、孔子の言葉や行動を弟子たちが書き留めたものが「論語」の素材となっている。論語は二千年以上も前のもので、現在とは生活や文化は異なるし、言葉の意味も現代とは異なっていたものもある。そのためもあって、「論語」には「注」と総称される解釈が付されている。注は「論語」で用いられている字句の意味を記し、内容を説明するものだ。その説明される内容は、時に注釈者の主義主張に基づく解釈になっているものも多い。そうした注により「論語」は読まれてきた。注の中でもっとも有名なのは朱熹による「論語集注」で、新注と呼ばれる。新があるのだから古注もあるはずで、何晏による「論語集解」がその代表とされる。
 「論語」が、いつ、誰によって編纂されたものなのかは明らかでない。「論語」はある特定の個人が編纂したものではなく孔子を学祖と仰ぐ学派(儒家)が、長い期間をかけて段々と編纂されたものだ。それには「斉論」と「魯論」の二種があり、それぞれが伝承された。現代の「論語」の原型となったのは前漢の張禹が編纂した「張侯論」である。彼は「魯論」をベースに「斉論」を対校することで作ったのだった。

2023年4月18日 (火)

渡邊義浩「論語─孔子の言葉はいかにつくられたか」

11114_20230418210201  「論語」を読めば一目瞭然だが、内容には整合性がなく、同一人物の主張としては不自然である。というのも、「論語」は多くの人々により、長い期間をかけて、異なる思想状況の中で作られてきたもので、すべてが孔子本人の言葉とは考えられず、その半分以上は編集者たちの思想を孔子に仮託して語られているものなのだ。しかも、行使の言動が孔子や複数の執筆者の意図の通り伝わっているかについても疑問が大きい。「論語」の解釈の差異によって、行使の言動は異なったものとなる。このため、「論語」から孔子という一人思想家の思想を確定的に捉えるのは難しい。そこで、この本は「論語」で孔子の言葉がいかに作られたのか、具体的には「論語」の形成過程と日本でのスタンダードとなった朱熹の「論語集注」までの解釈の歴史である。
 この書名では「論語」というテキストがどのように成立したのかということを説明しているように思えてしまうが、本書では、それもあるのだが、重点は、そのテキストがどのように継承され、様々な解釈がされるなかで、どのような経緯で今日伝わっている解釈になっていったかの方だ。だから、本書の著述は朱熹が出てきたところで実質的に終わる。のプロセスのなかで、儒家という孔子の集団は、学問として整理統合され、儒学という学派になり、そして国家の統治の正統性を根拠づけるイデオロギーとして体系化され宗教性を帯びた儒教へと変質していったことが説明される。これは、キリスト教が教祖であるイエスの言行を弟子たちが「聖書」としてまとめたのが、「論語」の成立とよく似ている。「聖書」も「論語」と同じように、一人の思想家が著したような統一性がなく、内容に矛盾を抱えているし、それで、後の人々が様々に解釈を行い、国家宗教となったのに応じて、体系を整備させていったところなど、そっくりである。しかし、「論語」の場合は、「聖書」と違って、解釈が整備されていくプロセスにおいて、老荘の道教や仏教をたくみに取り込んでいった。例えば、実践思想であった儒学は、老荘の形而上学を取り込むことで哲学的な世界観を得ていった、というような発展ができた。
 そのほか、古代の中国には「歴史」という学問はなくて、あったのは「春秋」のような思想を歴史的事例により説明するものだった。「史記」の著者とされる司馬遷は、太史公という「春秋」のような書物である「漢書」のための歴史的資料を集めて整理保管する官吏だったという。司馬遷が残した資料は、後漢から三国時代に儒教に対抗するように文学や史学が勃興し、思想を語る道具としてでなく歴史そのものを語ることが自立した学問として成立したときに、司馬遷の残した資料が、それ自体が歴史書として読まれることになり、当時の人々が「史記」と呼んで定着したものだという。そういう話だけでも、参考になる。

2023年4月14日 (金)

秋元康隆「意志の倫理学─カントに学ぶ善への意志」(4)~第5部 カントの啓蒙思想と教育論

 カントの生きた17世紀から18世紀は啓蒙運動の盛んな時代で、そのような下地があったからこそ、理性的な行為のうちに倫理的価値を認めるカント倫理学が形成されたと言える。カント自身も「啓蒙とは何か」という著作を発表している。カントによれば、啓蒙とは人間が自ら招いた未成年状態から抜け出ることだいう。この未成年の者とは他人の指導なしに自らの悟性を使用しない者、簡単に言えば、自分の頭で考えようとしない人のこと。カントによれば、多くの人がこのような状態にとどまっている。その理由は、その方が気楽だからだ。理性的に考えることがなければ、理性的善をなす可能性もない、倫理的善は理性に発する善意志からの行為だから、その反面、倫理的悪に陥るリスクもない。
 では、自分で考えることが啓蒙であるとして、具体的に何を考えればよいのか。それは、倫理的に生きるために、自分に何ができるかということだ。そこで、以前に考えた三つの格率を思い出す。すなわち、自分で考える、他者の立場で考える、そして、首尾一貫し的確に考える。このような格率に則って考えることが啓蒙された状態になることだ。
 啓蒙しその眼目は万人が理性を備えていることにある。つまり、いかに生きるべきかを考え、それを行動に移すのは、一部の特別な能力を持った人ではなく、誰もが本来できるもので、そういう勇気や決意は皆もっている。だから、それをしないのは怯懦や怠慢に他ならない。著者は、これが現代においても有意義な思想だと主張する。その後、この「自分で考える」ことが難しい状況として、自分が属する集団の判断と自分の倫理的判断が齟齬をきたす状況が取り上げられ、内部告発を例にとりながら、理性の私的使用、公的使用が論じられる。最後に、カントの啓蒙論が含む「未成年状態からの脱却」という点に注目が向けられ、それを教育論として読むことが試みられる。

2023年4月13日 (木)

秋元康隆「意志の倫理学─カントに学ぶ善への意志」(3)~第3部 カント倫理学への批判的考察

 格率とは原理・原則、つまり一度限り有効なものではなく、継続性や不変性を有する。そのため、行為者は一度立てた格率を、その後も遵守し続けねばならない。例えば、「私は約束を守る」という格率は普遍化されれば、「誰もが約束を守る」ということになり、普遍妥当性を持つ。これはこの格率の遵守が道徳法則であることを意味し、そのため我々は、あらゆる状況で約束は守らなければならないことになる。しかし、現実の場面では、はたしてそうなのか約束が現実に場面と齟齬をきたす場合もある。例えば、川岸で動かず待っていると約束して、川で溺れている子供を、その子供の救助に向かえば、その約束を破ることになる場合、約束を破るのは非道徳的なのだろうか。このような場合、カントは格率が重層構造をなす、つまり、格率には状況を捨象して導かれる抽象的な格率である「最上位の格率」と、行為者が直面する状況下で、その状況により、最上位の格率から具体的な格率である「下位の格率」を導く。最上位の格率は「約束を守る」である。しかし、これは決して約束を破らないことを誓うようなものではない。最上位の格率とは考え方(思考様式)を表わしているに過ぎないのであり、特定の行為を命令したり、禁止したりするものではない。人は最上位の格率をいくつも自らのうちにもつことになる。そのなかから自分が置かれた状況下で適切なものをひとつ選び、具体化することによって、特定の行為を記述した下位の格率を立てることができる。その際に実践的な判断力か重要な役割を果たす。川で溺れている子供を見つけた時、「困っている人には極力手を差し伸べる」という最上位の格率を選択すべきかというと、必ずしもそうとは言い切れない。自分は泳げないし、すでに多くの人が救助活動を始めている。こういう状態なら、「約束を守る」という格率の方を優先すべきだろう。そこから、約束の「ここで待っている」という具体的行為の下位の格率を導くことができる。つまり、行為主体の置かれた状況によって、行為主体の意志の持ち方によって、どちらの行為も道徳的善になりうる。
 定言命法を用いてどのように格率を立てるかについて、カントは、則るべき最上位の格率の実例として、次の3つをあげる。
 (1)自分で考える
 (2)(人々と交流する際に)自らあらゆる他人の立場になって考える。
 (3)常に、自分自身と一致した考えをする(自分自身を誤魔化すような考え方はしない)。
 これらはすべて、定言命法を遵守するためにも不可欠な姿勢だ。定言命法はまず自分の頭で考えることから始まる(1)。そこで問われるのは格率の普遍化意欲可能性で、そのためには、自分の視点からだけではなく、他者の立場に立って考えることが求められる(2)。場合によっては、そこで導かれた格率が自分の傾向性と対立する場合がある。そこで、傾向性に発する格率より普遍化意欲可能性のテストをパスした格率の方を優先し、採用しなければならない。そこで、本当はどうすればいいか自覚していながら、傾向性に屈してしまうようでは、自分を誤魔化すことになるからだ(3)。定言命法、ならびにこの3つの格率に則って振る舞うことは、自分の都合ではなく、首尾一貫した考えにもとづき道徳的に振る舞うことを可能にする。
 カントは格率を(a)意欲や意志が介在する自覚的なものであり、(b)意図せずに結果的にそうなってしまったり、他者に強制されたものではなく、主体的なものであると定義している。(a)については、選択意志が自らの自由を使用するために自己自身に設けるものであるということ。(b)については、例えば毎朝6時に起きるといっても、親に起こしてもらうのであれば、それは結果としてそうなっているので格率とは言えない。
 そして、定言命法の要求する「普遍性」については、一般的な「いつでも・どこでも」という意味ではなく「万人に妥当する」という意味で用いられる。定言命法は仮言命法の対概念であるわけで、仮言命法が自分という個人の幸福に根ざした規則や助言なので、その対概念である定言命法は自身の幸福とは無関係に発生られる命令となるはずで、それが「願人にあてはまる」ということで、それがいかなる状況でも特定の行為を命令するといったものでない。そこに定言命法への誤解が生まれるわけがある。
 しかし、誤解の原因はそれだけではない。カントは義務について間接義務と直接義務に区分していたが、それ以外にも完全義務と不完全義務という区分もしている。例えば、「偽りの約束をする」という格率は普遍化するとあらゆる人が「偽りの約束」をするようになり、約束を誰もが信用しなくなり、約束そのものをしなくなってしまう。このような格率を遵守することが完全義務違反にあたる。これに対して、例えば「困窮にある他者に手を差し伸べようとしないこと」という格率について、万人が困窮にある他者に手を差し伸べない世界など誰も望まないだろう。反対に、困窮した人に手を差し伸べようとする世界を望ましいと考える。それなら、それを行動に移すべきだが、それをあえて履行しないのは、不完全義務違反とみなされる。つまり、完全義務とはゆるがせにできない義務(思考可能性の基準)であり、不完全義務は不履行が許され、履行が功績となる義務(意欲可能性の基準)と言える。そうすると、それぞれの区分でマトリクスをつくると4つの区分ができる。これまでの定言命法の定式について、意欲可能性の基準のみみで説明されてきた。それは、意欲可能性の基準のみが道徳法則を導くための思考実験として機能するからであり、思考可能性の基準にはその機能が備わっていないからだ。というのも、志向可能性基準つまり完全義務違反は成立するのか、著者は疑問を投げかけている。カントは十分に説明できていない。そんなことから、著者はカントの倫理学に対する形式主義であるという批判には一理あるという。
 そこで著者は、カント晩年の「人間愛からであれば嘘をついてもよいという誤った権利に関して」という論文を取り上げる。愛とは感情であり、感情に発する行為には倫理的価値は認められない。しかし、そこでカントは次のような例をあげる。友人が殺人を企てる者に追いかけられ、私の家に逃げ込んできたとする。後からその者が友人を追って私の家までやってきて、私に友人の居場所を尋ねてきた場合、私は真実を告げなければならない、という。これでは、形式主義という批判が正しいように見えてくる。著者は、ここでカントが問題にしているのは倫理的な義務ではなく法的な義務であるという。それは、個人の危害がなくても社会としての利益が侵害されているという考えだ。ひとつの嘘でひとつの危害がなかったとしても、言葉への信頼が揺らぐ危険があるというわけだ。このような友人を助けようとする、いわゆる善意の嘘を認めない。これに対しては、たとえばヘーゲルなどは、これは形式主義そのもので、真実を話して友人の居場所を教えることは殺人の手助けをすることになると批判している。これに対して、カントが「すべての虚言は許されない」というとき、その「虚言」について「すべての確信的不実が虚言であるわけではなく、義務に対立する不実のみが虚言なのである」と述べている。つまり、許されないのは義務違反の不実発言のみということになる。そして、法義務においては、他者の権利を直接侵害する不実のみが虚言ということになる。つまり、カントは「すべての虚言は許されない」という「虚言」という言葉が義務違反の不実発言のみを指し、それ以外の不実発言を倫理的に許している。このような考え方は、グロティウスやブーフェンドルフのような近代法の法思想に受け継がれている。
 このようにカントという人は、ひとつの言葉を多義的に用いることが多く、虚言や不実発言の事例もそのひとつで、この二つを常に区別して用いていたわけではない。そのことが、カント哲学の解釈の幅を生んでいて、カントの思考の不明瞭さ、表現の不正確さを招いている。

2023年4月11日 (火)

秋元康隆「意志の倫理学─カントに学ぶ善への意志」(2)~第1部 カントの言葉を頼りに考えてみる

 「よい」という言葉には様々な意味がある。例えば「よい医者」というのは、技術の高い医者か献身的な姿勢の医者か、ひとによって捉え方はまちまちだ。しかし、多くの人はその多様な意味を分けることなく曖昧なまま「何がよいか」を判断している。そこで、「よい」とは何なのかをまず考える。その時に、カントを頼りに議論を始める。
 カントは「よい」を4つに分ける。①倫理的なよさ、②才能(理解力、機知、判断力)におけるよさ、③気質(勇気、果断、根気)に関するよさ、④運(権力、富、名誉、健康)のよさだ。ここでは、これらのうち、①の倫理や道徳に関するよさを「善い」、その他は「良い」と使い分ける。「よい医者」にはさまざまなカテゴリーがあるということだ。
 カントは道徳的な「善さ」というのは目に見える行為にではなく、目に見えない内的原理にあるという。例えば、困った人を助けるという行為について、下心から行うことにカントは道徳的価値を認めていない。それは自分自身のためになされた利己的な行為であるからで、これをカントは「傾向性」と呼ぶ。これは「傾き」というように、人は油断すると自らの欲望の方に転がってしまうというニュアンスで、具体的には、自然に発する感情(感性)にある。人は感情の赴くままに動いている限り、傾向性を抑えることはできない。その傾向性を抑えるために必要なのは、感情の対概念である理性、具体的にはそれに発する意志である、とカントは言う。つまり、道徳的な善の正体とは、利己的である傾向性に由来しない純粋な意志、善意志である、と言う。
 このことは、意志という行為に至るプロセスに倫理的価値が介在するのであって、行為の結果にはないと言い換えることができる。つまりこういうことだ。善意志により発した行為であっても、それが望ましい結果をもたらすとは限らない。しかし、望ましくない結果をもたらしたのは善意志ではなく別の原因だ。それは道徳的価値とは関係ない。ある行為が、善意志に発している以上は、そこからもたらされた結果に関わらず、善意志が十分条件となって、そこに道徳的な善さが認められる。
 傾向性に由来しない善意志からの行為に道徳的価値が認められるとしても具体的にどのようにすればいいのか。カントは“私はただ、次のように自問するだけでよい。「自分の格率が普遍的法則となることを意欲することができるか」と。もし、できなければ、その格率は避けるべきである。”この場合の「格率」は自分で自分自身に課するルールのようなもので、最初の内的原理がこれにあたる。このようなルールが自分の主観的な視点のうちに留まっていると、どうしても自己中心的なものになってしまう。そのような自分のことしか考えられないような状態に陥らないために、そのルールが自分だけでなく万人が遵守した場合を想定し、それが望ましいものであるかどうかを考える、つまり、普遍的な視点にたつことを求めている。その普遍的な視点に道徳的法則があることになる。このように、道徳的法則に合致する格率を利己的な都合によってではなく、道徳的法則に合致することとなることを理由として行為すべきという。これを定言命法と呼んでいる。これが倫理的善をなすための道標となる。
 カントは、人間には理性的な側面と感情的な側面の二つの面が共存しているという。二つの面は対立することがあり、それが道徳の場面で現れる。人は利己的な感情にとらわれて行動するが、それを理性で抑えて道徳法則に従わせる。そういう強制が伴う、つまり、倫理的価値とは、本来であればやりたくないようなことを自らの目的として、それを遵守するように自分で自分に強制するとこに見出される。そういうカントの倫理は義務論とも呼ばれる。ただし、このような義務を課するということが利己的な動機、下心で行われれば、それは倫理的ではなく、義務を課することを義務として行うところに倫理的価値がある、そういう義務の二重性を認めている。
 このようにカント倫理学は、行為が倫理的であるかの試金石を動機の質に求める。動機を(1)行為の結果への考慮、(2)目的、(3)意図のうちに、倫理的価値は存在しないという。例えば、ある商人が買い物に不慣れな子供に対して法外な値段で売りつけた場合、それがばれたら他の客からの信用を失い、客が減ってしまうリスクを想像することができる。これが(1)動機としての行為の結果だ。そこから、(2)客からの信頼を失わないためにという目的を設定すること、そしてその上で(3)私は不慣れな子供も公平に扱うという意図をたてることができる。しかし、これらには倫理的価値がない。これらの動機は傾向性に発していて利己的だからだ。これとは反対に、子供に対しても公平に扱うということ自体が格率として普遍化された場合には、人々が安心して買い物できるという事態を想像できる。これが(1)動機としての行為の結果ということになり、それを実際に行動に移す場合には(2)誰もが安心して買い物ができるというのが目的となり、このような目的を掲げた格率であれば、普遍化を意欲することが可能であり、その目的から(3)私は子供でも公平に扱うという意図を導くことができる。
 定言命法の対立概念として仮言命法がある。これは、「わたしが望むのであれば、○○をすべし」という言い方で、直接的に道徳的・倫理的価値を持たない。これは利己的な欲求を満たすもので、傾向性に発しているので、倫理的価値を認めることはできない。といっても、倫理的悪というわけでもない。それは傾向性は人間にとって当たり前で、最低限必要なものであるからだ。例えば、さきの例で、客の信用を失くさないために子供に公平な扱いをするというのは傾向性に発しているので、倫理的価値はないかもしれないが、倫理的悪とは言えない。この場合、子供を公平に扱うという普遍的な道徳法則に反する行為を行った場合が倫理的悪となる。いいかえれば、自分がどうすべきかを分かっているにもかかわらず、自らの弱さに負けて、それに反する行動をすることだ。
 このように、善悪は感情で判断できず、理性のみが判断できる。理性に由来しない行為は倫理的な帰責の対象にはならない。責任が生じるのは、行為者が理性によって自由に考え判断したものに対してだけである。この場合の自由は好きなことを行うことではない。これでは、感情や傾向性に支配されているから不自由ということになる。そうではなくて、傾向性の支配から自由ということ、つまり、理性的に考え、決断し、感情に流されずに行動することをいう。カントはこれを二種に区別し、前者を動物的な選択の意志、後者を自由な選択の意志とし、これを自律と呼ぶ。こうして、真に自由でないものに倫理的な責任が生じる主体とすることはできないとした。
 これは、当初は自由な意志決定による行為も、同じ行為を繰り返すうちに次第に慣れていくことで考えなくても身体が動いてしまう。カントは習癖的行為と呼ぶが、そこには自由を見出すことはできない。かならず傾向性が入り込む。例えば。ボランティア活動を始め、それを続けているうちにボランティアの仲間といることに安らぎを覚え、そのことに動機が移っていくなどだ。人間というものは無自覚的に振る舞っている限り、自分でも気がつかないうちに自分にとって都合のいい方向に進んで行ってしまうものだ。そういう習癖的行為による行為の質の低下を防ぐには定期的に理性による意志を介在させて、あるべき方向に駆り立てる必要がある。

 ここまでは、定言命法を中心として、格率の普遍化意欲可能性を吟味することを通じて義務を自覚し、それを義務から行為する「普遍化の定式」を説明してきた。定言命法では、他にもこのような定式化がある。“汝は汝の人格、ならびに、あらゆる他者の人格における人間性を常に同時に目的として使用し、決して単に手段としてのみ使用しないように行為せよ。”このような人格を目的とみなすべきと説くのを「目的の定式」と呼ぶ。人間という理性的存在を単に手段としての用いてはならないということ。この手段として用いてはならないのは他者の人格のみにとどまらず自分自身の人格もそうだ。例えば、我欲を満たすことのみを人生の目的としている人は、自分自身の人格を目的とみなす意識がなく、我欲を満たす手段としてのみ扱っていることになる。そのため倫理的には諌められることになる。
 目的の定式に従い、もしすべての人が人格を目的として扱うことになれば、すべての人の人格が目的として扱われることになる。そういう世界をカントは「目的の国」と呼ぶ。カントはそこに向かうべく「目的の国の定式」を説く。“単に可能な目的の国に属する普遍的に立法する成員の格率に従って行為せよ。”これは、いわば理想の世界である。目的の国の定式に従うということは目的の定式に従うことを前提としている。また、目的の定式が普遍化の定式から導かれる。これらの定言命法の三つの定式は様々な形で定式化されるものの究極的にはひとつであり、それは普遍化の定式に集約される。われわれは、基本的には、普遍化の定式に則って振る舞えばよい。ただ、状況によっては、目的の定式や目的の国の定式に照らし合わせた方が適切であるという場合もある。状況に合った定式を使用すれはよい。

2023年4月10日 (月)

ピーター・ウィーアー監督「刑事ジョン・ブック」

11113_20230410204201  この映画の粗筋とか、アーミッシュの村を舞台にしているというような特徴は、宣伝惹句やそこかしこでのコメントで散々言われているので、先刻承知という方は多いのではないか。で、そのことは、これ以上触れない。では、この映画について何を語るか。
 この映画は視線によって語られるものがたりということ、とくに事件の目撃者であるサミュエルという少年の視線に立たないと、犯人が見つからないし、話が進まない。それは冒頭のシーンから分かる。アーミッシュの人々が集まり並んで、画面のこちらを見つめている目が映し出される。
 また、視線のやり取りは母子が列車に乗って、車窓から少年が空に浮かぶ気球を見上げて手を振ると、切り返して宙(の気球)から列車を見返す。あるいは、乗換のターミナル駅で少年は同じ目線の少女と視線を交わし、ロビーの女神像を見上げると次は逆に少年を見返す。このように、最初の数シーンで、この映画が視線のドラマであることをあきらかにしている。
 その後で、少年は駅のトイレで殺人の場面に遭遇するのだが、そこでは少年が見つめる目だけがあって、応える視線はない。だから少年は犯人に見つからずにすむ。それは、犯人は少年の眼線の高さまで、自分の目線を下げないから視線が交錯しないからといえる。その後、事件となり少年と目線を落として話をするのがハリソン・フォード扮する刑事ジョン・ブックだった。そして、警察署内で人々が少年に好奇の視線を送るなかで、少年はさまよい表象棚の犯人の写真が掲載された新聞に行き着く。警察署のなかで、少年の視線に応え、少年と同じ目線の高さになることができたのはジョン・ブックだけで、だから彼は少年が警察署の壁に貼ってあった写真に気がつき事件の犯人を行き着くに至るのだ。これらは、言葉を介することなく、視線のやりとりでドラマが形作られる。
 また、ジョン・ブックと少年の母親レイチェルとの間に生まれる愛の、それぞれの視線で表現される。さらに、アーミッシュの村に母子がもどり、ジョン・ブックが村に入り込むと、彼らをとりまく人々のかわす視線は、村人が総出で共同の納屋をつくるシーンで最高潮に達する。材木とロープで骨組みを組むのにジョン・ブックや村の男たちが攀じ登り、ロープや材木や釘あるいは道具を手から手へと手渡しで渡っていく、それにつれて家が形づくられていく、それだけでなく一息入れるレモネードも手渡しで伝えられる。その手渡しと同時に人から人へと交わされる視線が、ジョン・ブックを見上げるレイチェルの視線と、応えるブックの視線、そのやり取りを見つめる村人でレイチェルにほのかに思いを寄せるダニエルの視線が、それらが交錯し、行き違い、重なるさまは、まるでオーケストラの交響曲のようでもある。その視線が、それぞれの人々の思いのせて、そのなかで、ブックは村人に受け容れられ、ブック自身もレイチェルへの思いを募らせていく。ダニエルとブックの間に友情の萌芽が芽生える。それが、この映画のクライマックスであり、この抒情的な風景とアクションは、何度みても新たな発見があるし、映画的興奮を何度も誘う。

 

2023年4月 8日 (土)

秋元康隆「意志の倫理学─カントに学ぶ善への意志」

11114_20230408211401  この本、著者の子供時代のエピソードによる導入がすばらしく、そこから惹きいれられる。著者は、小学生時代のある日、炊飯器から蒸気が出ていることに気付いたという。その頃の著者にはなぜ炊飯器から蒸気が出ているのかが理解できず、炊飯器が壊れており爆発するのではないかと心配になり、炊飯器のコンセントを抜いたのだという。その後、両親が帰ってきて、母親は著者を怒ったのだが、父親はそれを窘め、子供の著者に自分で考えて事故を防ごうとした、よいことをしたと声を掛けてくれたのだという。父親のこの態度が、著者が本書で提唱する意志の倫理学の本質を表しているとして、この本の内容に入る。価値の評定の対象は、行為の結果ではなく、その行為をなそうとする意志である、というのがその本質であるということ。著者は、このエピソードに代表される父親の教育の妥当性を理論的に説明するために、カント倫理学の研究に取り組んできたのだという。すなわち、このエピソードは、著者の研究の核心を、したがって、その成果の一つである本書の核心をも言い表している。
例えば、困った人に親切にするという行為について、親切にしようと意志するところに道徳的価値があるという。これによれば、親切にしているところを人々に見てもらい評判をよくしようとするのは道徳的ではないことになる。これに対して、結果として困った人は親切にされたのだからよいことではなないかという結果から考えるのは功利主義という。カントは功利主義的な道徳観を批判した。
 また、冒頭のエピソードでは、自分で考えて炊飯器を止めたことは、著者が、主体的に考えるということを重視することも反映している。自分で考えることを、著者は倫理的に生きるために自分に何ができるかを考えることだと解し、これが現代においても有意義な思想だと主張する。そして、自分で考える」ことが難しい状況として、自分が属する集団の判断と自分の倫理的判断が齟齬をきたす状況が取り上げられ、それを打ち破るものとしてカントの倫理学の意義を語る。
 これは、先日読んだ御子柴善之「自分で考える勇気─カント哲学入門」と共通するところがある。どちらの本も、自分で考えることにカントのアクチュアルな意義があるというし、カントの思想を人生論哲学的に捉える。そこが読み易さになっていると思う。

 

2023年4月 6日 (木)

御子柴善之「自分で考える勇気─カント哲学入門」(4)~第4章 自然の力で自由に生きる?─『判断力批判』を読む

 『純粋理性批判』で自然現象の領域を扱い、『実践理性批判』で自由の領域を扱ったカントは、『判断力批判』において、自由と自然とが人間を通して橋渡しされる可能性を明らかにする。人間が自由な意志に基づいて決めたことでも、それが行為として実現するはずの場所は自然の世界なのだ。このとき、この橋渡しは客観的に可能にではなく、主観的にのみ示されるのだ。
 これまで見てきたのは、この世界は、われわれがそれを自然現象として把握するとき、普遍性をもった知識をあたえてくれる(純粋理性批判)。また、われわれがこの世界を道徳法則の名において「あるべき世界」として考える(実践理性批判)とき、普遍的なルールが生まれる。しかし、われわれが見回している現実の世界は、そうした普遍性よりも、多種多様な個人・個物の世界だ。
 これまで、純粋理性批判、実践理性批判と善の普遍性について考えてきた。善は定言的=絶対的に実現すべきものとして、われわれの理性が道徳法則を介してわれわれに課したものだということになる。この善は、実際に、どこで実現されるのかというと、それはこの世界に他ならない。それはわれわれが、そこで生きているからである。しかし、この世界は多様な個人・個物の世界であり、道徳法則の普遍性とは一見したところ相容れない。
 この道徳法則の普遍性と多様なこの世界をどのように結びつけるかを、カントは、道徳法則に関わる自由の世界と自然の世界とをいかに結び付けるかに置き換える。
 この両者を結び付ける通路として浮かび上がってくるのが、現実存在する私の意識だという。この主体としての私は、自然の世界に生きつつ、自由を実現しようとしている。このような主体が個々別々のものと普遍的なものを結び付けようとする働きが判断力だ。判断力がふたつのものを結びつけるには二つのパターンがある。ひとつは規定的判断力で、「今日の天気は晴れ」という「晴れ」という普遍的な概念がすでにあり、「今日の天気」という個別的なものが関係付けられる。これについては純粋理性批判で扱われている。もう一つは、反省的判断力と呼ばれ、例えば「富士山は美しい山だ」という個と普遍を結びつけるようだが「富士山よりも北アルプスの方が美しい」という反論や異見もでてくる、「富士山」という個があるが、「美しい」という概念がまえもって与えられていない。反省的判断力の「反省」というのは、この場合、富士山について美しいと判断しながらも、実は、「富士山を美しいと私は思っている」と判断している。したがって、この判断は、富士山を見ている私の状態を判断しているのだ。このとき、富士山という見られる対象から見ている私へと判断の対象が反射される。このように、反射をうけて主体について判断することを反省的という。
 反省的判断で典型的なのは、この例のような美的経験である。カントは、このような美的経験を分析し、美との出会いには利害関心に無関係であることを指摘する。利害関心をもって対象を見る場合、対象を理解しようとして対象をそこに見えていない知識と関連づけたり、対象の利用価値を見定めようとして対象をなにかの意図にとっての手段として評価したり、対象を道徳法則と関連づけたりする。しかし、美しいと呼ばれる対象と出会うときは、そのような利害関心と一切関係しない。というより、利害関係が介入すると美と出会えなくなる。一切の利害関心から自由になるということは、自然の世界に生きている私が一切の欲望から自由になるということで、ここに自然と自由とが結合する可能性が開かれるという。つまり、利害関心という個的なものから自由であるから、誰にでも当てはまるし伝えられる。これは、個人として生きる具体的な私が、他人と共に生きる可能性がある。そこに普遍性があるというのだ。この点を踏まえて、カントは「美しいものは道徳的に善いものの象徴である」という。
 『純粋理性批判』では自然現象の世界に法則性を見出せる根拠を明らかにした。それが、対象に認識が従うのではなく、認識に対象が従うということだ。自然界の法則的秩序の源泉は、多様な自然現象の側にではなく、現象をそれとして認識する主観の側にある。そこで、今、問題としているのは、多様な個物からなる自然の世界に、自由に基づいて普遍的な目的を実現できると、どうやって考えることができるかということだ。問題の所在は、美の場合と同じように自然の側ではなく、それについて判定する主観の側にある。つまり、反省的判断力だ。その反省的判断力には個別のものと普遍性を結び付ける可能性がある。

2023年4月 5日 (水)

御子柴善之「自分で考える勇気─カント哲学入門」(3)~第3章 「善く生きる」って難しい?─『実践理性批判』を読む

 私たちが何をすべきであり、何をすべきでないかを考えるということは、何をするのが善くて、何をするのが悪いのか、善と悪とを分けることで、『実践理性批判』はこの問題を扱った。
 カントにとって善悪を問題にすることは意志のあり方を問うことだった。善悪は行動やその結果ではなく、その行動を引き起こした意志が問題になるとカントは考える。「意志がある」というのは、自分で決めたことが自分の決まりとなる(きまりとなるということは、決めたことにしたがって実行するということ)ことだ。この場合のきまりを格率と呼ぶ。カントは、理性をもった人間なら、誰でも格率をもつことができると考える。理性は原理を求める能力であり、推理の能力だから、自分のきまり(格率)を原理として、行動をそこから導くための推理ができるからだ。
 カントは、純粋理性批判のときと同じように、意志を形式と内容に分ける。意志の内容は、具体的な目的であり、具体的な行為だ。例えば、ボランティア活動に参加することで有利に進学しようという目的であり、ボランティア活動という行為。これらはア・ポステオリなものであるので、普遍的な善ではないことになる。したがって、普遍的な善の基準とはならない。これに対して意志の形式については、純粋理性批判で感性や悟性の形式にア・プリオリなものを見出したように、意志の形式にア・プリオリなものを見出すことで、普遍的な善を見出そうとする。ただし、理論においてはア・プリオリな形式は現にあるが、実践では形式はあるべきものとして見いだされる。それは、「困っているひとがいたら、手助けすべき」という「べき」の言い方となる。
 著者は、この意志の格率の普遍性を、次のような反例により示そうとする。「試験をカンニングで済ませよう」という格率に普遍性があるとしたら、試験を受ける者の全員がこの格率をもてることになる。全員がカンニンクするつもりになっていて、誰かの答案を写そうとしているから、全員が自分で答案を書こうとしない。また、試験をする先生もその確率に従うので、カンニングされたような答案をわざわざ採点して、それで成績を判断するようなことはしない。そうなると、試験の意味がなくなってしまう。したがって、「試験をカンニングで済ませよう」というのは、その人以外の人が勉強して準備した上で試験を受ける場合にだけ有効となる。「試験をカンニングで済ませよう」には普遍性がない。これに対して、「困っているひとがいたら、手助けすべき」という格率は、普遍的であったとしても、無意味となることはない。このように、カントは意志のあるべき形式に普遍性をもとめ、その形式が道徳の原理であることを見出した。つまり、自身の格率について、それが普遍性をもてるかを自身で問い、普遍性をもてるならそれを行なうべきたし、普遍性をもてないならおこなうべきでない、ということだ。
 ここで、道徳の原理は原理(法則)として客観的なものだが、問われているのは「あなたの意志の格率」という主観的なものだ。このあなたの意志の行為、言い換えれば、あなたが意志を決めるという主観的=主体的なことが普遍的な善悪の場になるということを意味する。ということは、あなたが何かを決めるのでないなら、普遍的な善悪もない。これは、法律のように、客観的に善悪の基準があって、それにしたがえばいいというものではない。あなた自身の意志の行為について、あなた自身が普遍性を問うこと自体に善悪があるというのだ。
 善とは、いつでもそれ自身として望ましく、他の何ごとかのために望ましてものではないものとして行く着いた究極の「よい」であるというのは純粋理性批判のところで見たが、そうであるとすれば、善悪は何かのために、例えば幸福のためということはあり得ない。いわゆる功利主義的な道徳を、ここでカントは否定する。「べき」はそれ自体として自分自身の自由な意志に由来するものだからだ。このような「べき」の表現を、定言命法と呼ぶ。純粋理性批判では、自由がなければ善悪は無意味だと考えた上で、自由のリアリティーを追いかけたが、ここでは、逆に善悪の基準である道徳のリアリティーから自由をつかまえることができるとカントは気づいたと言える。道徳の法則がリアルであり善悪の意識が無意味でないなら、これらを全体として成立させるのは自由が不可欠であることになる。これは、最上善を実現する可能性を確保したことになる。

 

2023年4月 4日 (火)

御子柴善之「自分で考える勇気─カント哲学入門」(2)~第2章 「自由」なくして善悪なし─『純粋理性批判』を読む

 著者は、この著作について、人間の理性はなにを知ることができ、なにを知ることができないかを分け、人間の知の限界がどこにあるかを問うものと紹介している。その中身を追いかけてみる。
 勇気をもって自分で考えるとき、われわれはさまざまな「よい」や「わるい」に取り巻かれていることに気づく。それらは、身近で細々としたことに付きまとい、人々の振舞を左右する。その「よい」がよいとされているのはどうしてなのだろうか。われわれは、普段の生活で「よい」というとき、「何かのためによい」というように考える。例えば、ペンは文字を書くのに「よい」。この「何かのため」の何かというのはペンそれ自身ではない何か。しかし、その何かもまた、何らかの意味で「よい」はず。文字を書くのは、物事を記録するのに「よい」というわけ。これを繰り返していくと、いつでもそれ自身として望ましく、他の何ごとかのために望ましてものではないものことが究極の「よい」に行き着く。カントは、そういうものとして、誠実であることとか、困っている人を助けるといったことはそれ自体がよいよいことで、道徳的なことがそれだという。それを「善」と呼ぶ。
 この「善」というのは、誰にとっても「よい」のだろうか。つまり、「善」の普遍性に考えが至る。普遍性というのは「誰か」にとってよいのではなく「誰にでも」よい。誰にでも良いということは、例外がないということで、必然性に重なる。これに対して、例外がありうるのは一般的ということで、これは経験で知り得ることだという。当時のイギリスでは経験論が盛んで、われわれの学びは経験によるということで経験を重視する。しかし、今日経験したことが明日必ず同じことが起こるとはいえない。そうでないかもしれない。このことは、われわれが何かを考えるとき普遍性や必然性を持つことができるのかという問題に行き着く。それが解決できなければ、「善」というのか誰にとっても「よい」のだろうかという「善」の普遍性を考えることはできない。
 経験からでは普遍性に辿り着かない。そこでカントは、自分で考える人だけに訪れる「思いつき」を提示する。人は自分が見たり聞いたりなど経験したしたことを信じてしまうことが多い。しかし、自分で考える人はその経験に対して、どうしてそうなったと問う。つまり、見たまま聞いたままを信じるのではなく、そういう事実を可能にしている可能性の次元に立って考える。そこから思いつきが生じる。例えば、コペルニクスは、どうして天体が動いているように見えるという感覚に従うのではなく、そう見えることを可能にしている条件を考えることにより天動説より筋の通った地動説という宇宙像に行き着くことができた。カントはコペルニクスに習うように、対象が認識に従うのではなく、認識に対象が従うという、『コペルニクス的転回』を説く。
 人が知るというとき、その場合、必ず「何か」を知る。この「何か」を「対象」と呼ぶ。認識には必ず対象がある。それゆえ、対象に認識が従うと考える。例えば、よく晴れた日に街を歩いていると、太陽光線がさんさんと降り注ぎ、道路のアスファルトが熱くなっている。これを見て、われわれは太陽光線がアスファルトを温めたと考える。そう考えるとしたら、アスファルトが温まったのは、太陽光線が照りつけるという原因に基づく結果であると判断したことになる。ここで、太陽光線に照らされたアスファルトをよく見てみると、そこで得るのは明るい太陽光線を照り返すアスファルトだけで、原因-結果という考えを見いだすことはできない。それにも拘わらず、太陽光線がアスファルトを温めたと考え、そのように自然現象を理解する。これは、見るという経験だけではできないことだ。では、原因-結果という考え方はどこから見出されたのかというと、カントは、太陽光線に照りつけられるという原因が、アスファルトの表面温度を上昇させるという結果を生みだすという原因-結果の自然現象をそれとして成立させるのは、人間の認識の働きなのだと考える。もちろん、自然現象そのものを人間が生み出すのではない。太陽光線と温まったアスファルトの関係を自然現象として認識する対象と形づくるのは人間の認識の働きだと考える。つまり、経験に由来する自然現象に対して、それを成立させるのは認識の方だという点で、認識に対象が従うというわけだ。
 この時の認識の側に、経験に依存しない、すなわちア・プリオリなものが見出されるなら、認識に普遍性・必然性を確保することができる。
ここでカントは批判哲学者としての本領を発揮する。カントは、認識を二つの要素に分ける。すなわち、認識のかたち(形づくるもの、形式)となかみ(形づくられるもの、内容)だ。認識の内容は経験に由来するもので、経験に依存するア・ポステオリなもので、認識のかたちの方はア・プリオリなものだ。著者は、このように形式に普遍性を見出そうとするところにカント哲学の特色があるという。
 カントの分けるという作業は、さらに進む。経験は「感じる」ことと「考える」ことに分ける。カントによれば、両者はまったく異なるものなのだ。「感じる」とは対象を受容することで意識に変化がうまれることで、感じる能力を「感性」という。感性は空間と時間の制約を受ける。このような制約に縛られる受動性を必然性と読み替えることができる。必然性も普遍性もア・ポステオリには捉えられないから、空間と時間の意識は、感性という認識能力が働く際のア・プリオリな形式であることが分かる。これに対して、「考える」というのは、自分の意識に自分で変化を生みだす。考えるのは外部の刺激だけに依存して起こるのではない。したがって、「考える」は自発的・能動的な能力で、「悟性」と呼ぶ。考えるには一定の方法、例えば、原因-結果というようなルールがある。これを「概念」という。
 このように、カントは感性と悟性のそれぞれにア・プリオリな形式を見出した。ア・プリオリなものとは普遍性・必然性をもつだった。したがって、人間の認識能力にア・プリオリな形式があるので、認識には普遍性・必然性があるということになる。これにより、「善」の普遍性を語ることが可能となる。
しかし、カントは、そ の一歩手前で立ちどまる。原因-結果が普遍的・必然的であるとすると、それは意志の自由を否定することにならないかという問題だ。われわれの意志決定が原因に依存するというのは自由ではないのではないか。自分で決めたからこそ、その決定に責任を持たなければならないわけで、原因によって決まってしまうのであれば、自分で決めたことにならず、その決定に責任を問うことはできないだろう。ここで、カントは認識を二つに分けたように、「考える」能力は二つに分けられるという。すなわち、感じることで得た感覚について、「それは何か」と考える能力と、「どうしてそれが起きたのか」を考える能力。前者は悟性で概念を用いて対象を理解するというもの。そして、後者は対象が起こった原因を考えて、もはやそれ以上遡れない無条件なもの、つまり原理を考えるような推理し原理を求める能力で、これを理性と呼ぶ。ここで、「認識に対象が従う」という考え方を思い出すと、認識能力である感性と悟性のア・プリオリな形式により対象は縛られる。それ以外の対象は認識の枠外となる。しかし、枠外であろうと、何かが起こっているわけで、それについて考えることは避けられない。カントはそういうそれ以外を「物自体」とし、認識できる対象を「現象」と分ける。そして、現象には原因-結果に従う必然で意志の自由が認められないが、そうではない、「物自体」では原因-結果の対象外なのだから自由が認められる余地がある。このように、現象と物自体の区別に基づいて世界の姿を二重化することで、カントは自由を考える可能性を確保した。善悪の基礎となる自由についての『純粋理性批判』の到達点である。
 まとめると、われわれが何かが分かるかどうかは、それを人間が経験する可能性があるかどうかにかかっていることになる。つまり、人間に分かるのは、人間が見たり聞いたり触ったりなどができる範囲のこと、すなわち、自然現象に限られる。もっとも、このとき分かるというのはAがBであるとわかるということ。そこからすすんで、私たちが何をすべきかについては考える準備までは、ここで整った。それを考えるのは『実践理性批判』を待つことになる。

2023年4月 3日 (月)

御子柴善之「自分で考える勇気─カント哲学入門」

11114_20230403203601  カントというと分厚い著書が沢山あって、微に入り細を穿つような緻密な論証で膨大な体系を打ち立てたというイメージがある。これまでに、沢山の解説が書かれているが、その全体像がなかなか見えてこないとこがあった。ところが、この本では、大胆に単純化して、カントの思考の筋道を取り出して、ひとつのものがたりのように提示してくれている。
 この本を読むと、カントの思考のいとなみは倫理学的な志向にあるように思えてくる。しかもソクラテス的な、よく生きるためには、「よい」ということがどういうことか分からなくてはならない。そこで「よい」とは何かを知ろうとして、そのプロセスで有名な「無知の知」の認識に至る。ただし、カントは、ソクラテスとは方向が逆で、「よい」を分かるとはどういうことかを追求し、そこから分かってどうするかを考えた。そのようにカントを捉えると、現代に生きているわれわれにもリアルに接することができると思う。
 カントが生きた18世紀というのは啓蒙の時代。著者はそれを、「ものごとを見極めることなく宗教や習俗に従うままの人間のあり方に対して、光をもたらす。そして、ものごとを明るみで見定めることによって、人間を迷妄から解き放ち、人間社会を理の通ったものにしようとする思想運動。こうした態度は、それまで人間や社会支配していた考え方や価値観を疑い、それから自由になろうとするもの」と言う。カントもその中にいたわけだが、この従来の社会で支配されていた考え方や価値観から自由になるというのが自分で考えるということで、そこには勇気が必要になる。それは、既存の考え方に従えという周囲からの圧力に対するものでもあり、自分で考えることは、それまでの自分が身につけた習慣や教育も疑うという安定した日常が崩れてしまうという内外それぞれに立ち向かうことになるからだ。カントは、これを実践して、自らの思想を構築した。書名の「自分で考える勇気」というのは、ここから来ているのではないかと思う。

 

2023年4月 2日 (日)

佐藤優「宗教改革の物語─近代、民族、国家の起源」

11112_20230402195701 中学校や高校の歴史教科書では、宗教改革は1517年にウィッテンベルク市でマルティン・ルターが贖宥状の販売に反対する195カ条の論題を発表したところから始まる。しかし、それでは宗教改革の内在的論理はわからない。
 宗教改革は、ルターがあらわれる約100年前に、チェコのヤン・フスたちによる改革運動で始まっている、このフスの宗教改革運動は、近代的な民族の起源でもあったし、キリスト教がカトリシズムの殻から蝉脱する契機となった。フスによって始められた宗教改革運動は、中世の異端運動の枠組みを超える革命運動でもあった。このフス派の運動に14世紀のイギリス、オックスフォードで活躍したジョン・ウィクリフの神学思想の与えた影響がきわめて大きい。ウィクリフはオクスフォードでウィリアム・オッカムに学んだ。オッカムは、中世の神学での大きな論争だった普遍論争の一方の側、実念論の最後の大家だった。実念論とは、簡単に言うと、イデアとか善といった理念が実在するという考え方で、ウィクリフ-フス、そしてその後のプロテスタンティズムは実念論の系譜であるという。例えば、聖書にあるイエスやパウロが述べた教会の理念の姿、使徒のペテロのころの教会、が現実に存在する(すべき)と、それに基づいて、カトリックのローマ教会はあるべき姿ではないと批判に至る。
 しかし、ローマ教会に対する批判運動は、それ以前にも、いくつもあった。いわゆる異端で、少し前のカタリ派は有名だが、それらは異端であって、改革とか革命とは呼ばれず、その運動は現在では残っていない。宗教改革だけが現在まで至っている。その原因の一つとして、この時代の社会、政治状況の変化があげられるという。14世紀、ローマ教皇庁がローマとアビニョンに分裂した。いわゆる教皇のバビロン捕囚である。原因は、権力闘争、利権抗争で、アビニョン教皇庁がフランス王の下についたようなもので、これを機に政治権力は国王に、宗教的権威は教皇にという分裂が始まった。そして、ローマとアビニョンに教皇庁が並立し、対立したことにより、それぞれの教皇庁がフランスとイタリアという地域対立に変質する契機となる。中世にはなかった民族とかナショナルといったものの萌芽がここにある。ちょうど、そんな時、ヤン・フスはチェコのプラハで宗教運動を始めた。この運動のメンバーはチェコ語を話す人々で、ローマ教会のラテン語やイタリア語を話す人々に対して、自分たちは違うという意識が生じ、ボヘミアの民族意識の萌芽を招く、そして、それを現地の封建領主が、政治的な理由で支持し保護する。このパターンは、後のマルティン・ルターがやったことの先駆けではないか。つまりフス~ルターの運動は、近代的な民族とかナショナリズムの機運に乗じると同時にその形成のきっかけとなった。
 キリストは12使徒のひとりイスカリオテのユダが祭司長たちと群衆をイエスのもとに案内し、接吻することでイエスを示したことで捕えられ、磔刑に遭った。これによりユダは裏切り者とされた。しかし、同じ使徒のペテロは、いわゆる“ペテロの否認”で三度も裏切っている。ユダは自らの行いを悔いて、祭司長たちから受け取った銀貨を神殿に投げ込み、首を吊って自殺した。同じ裏切り者でも、繰り返し裏切ったペテロは初代のローマ教皇になり、真摯に反省したユダは裏切り者として断罪された。ヤン・フスによれば、同じ使徒でペテロは救済され、ユダは救済されなかった。フスはマタイ伝の毒麦の喩えを引用する。麦畑に混じった毒麦を抜き取りたいと主張する使用人が、それでは小麦も一緒に引き抜いてしまうだろうと、両方を収穫の時まで共に育つままにするよう家の主人から命じられるというもの。これらのことから、教会を麦畑に喩えて、中に麦も毒麦もいる。しかし、誰が毒麦かは終末のときである最後の審判にならないとわからない。また、麦と毒麦はそもそも種が違うので、毒麦が麦になるということはない。このようにして、フスは、カトリック教会の教会に所属する者は皆救われるという教説を批判した。つまり、教会に属していても救済されるとは限らないことになる。これは、プロテスタンティズムのカルバンの予定説、個々の人間が救われるか滅びるかはあらかじめ定められているとする説に至るものだという。
 マックス・ウェーバーは次のように考えた。この予定説に対して人々は、「全能の神に救われるように予め定められた人間は、禁欲的に天命(ドイツ語で「Beruf」だが、この単語には「職業」という意味もある)を務めて成功する人間のはずである」という思想を持った。そして、自分こそ救済されるべき選ばれた人間であるという証しを得るために、禁欲的に職業に励もうとした。すなわち、暇を惜しんで少しでも多くの仕事をしようとし、その結果増えた収入も享楽目的には使わず更なる仕事のために使おうとした。そしてそのことが結果的に資本主義を発達させた、と。
 著者は、フスの主著である『教会論』を紹介する。フスは中世の人なので、近代的の体系的な論文とは違う書き方がされていて、預言とか詩のような書き方がされている。著者は、フスに倣うように、論文にはせず、内容を繰り返し記述する書き方をあえてしている。それが書名の「宗教改革の物語」の由縁だろう。繰り返しはくどいと感じられるところもあるが、内容は頭に残る。

2023年4月 1日 (土)

加藤陽子「戦争まで─歴史を決めた交渉と日本の失敗」(5)~第4章 日本人が戦争に賭けたのはなぜか─日米交渉の厚み

 1941年4~11月に日本とアメリカとの間で交渉が行われた日米交渉を取り上げる。陰謀論だが、人気のある解釈として、欧州の大戦に参戦したいと考えていたが、戦争に消極的な国内世論を参戦に持っていくため、日本に経済制裁をすることで参戦を促し、真珠湾の奇襲を察知しながら公表せず、だまし討ちだとして戦意を高揚させた。このような解釈は、それに先立つ日米交渉を詳細に見ていくと、間違いであることが分かる。意外なことに日本側もアメリカ側の暗号を解読し、手の内を知りつつ交渉していたのだった。
 アメリカ側で交渉を担ったのはコーデル・ハル。彼は自由貿易主義者で、1929年の大恐慌により英仏などはブック経済で乗り切ろうとし、アメリカは外国製品に高い関税をかけることで対抗しようとした。彼は、これはよくないと考え、低関税自由貿易主義へ移行させようと、1934年から中南米、英仏蘭などの欧州諸国やカナダと互恵通商協定を結び、多くの品目の関税引き下げを実現させた(現在のGATTに継承されている)。このことは、結果的に日米貿易にも恩恵があった。このことは、ハルにとって重要な事項だった。
 日米交渉の際に、アメリカは日本が政府と現地(ワシントン)で交わす暗号を解読していたことが知られている。日米開戦の真珠湾攻撃も事前に察知していたが、欧州の戦争に参戦するため、わざと現地のハワイ司令部に警告を与えず、攻撃されるままにし、だまし討ちだとして国民の抗戦意識を高めるために利用したとの説まで出ている。これについては、予測可能な情報は得ていたし、危険を指摘する声も一部にあったというが、アメリカは日本がシンガポールとかフィリピンを奇襲すると思っていた。11月からずっと、空母6隻を択捉島から出撃させて、荒海を無線封鎖してハワイまで行ってくるなんて、当時の常識では考えられなかったから。
 また、実は、日本側はアメリカの暗号の9割近くを解読していた。したがって、日本側でも自分たちの暗号が解読されていることは自覚していて、あえて敵地であるワシントンで交渉を行った。その理由は、日本国内に対する情報統制が容易だったからだという。つまり、対米強硬に傾いている新聞が交渉内容をすっぱ抜いて、軍部の中堅層や国家主義団体の反発を買うことを避けるためだった。それほど、日本側は本気で臨んでいた。
 なお、真珠湾の件と同様の風説として交渉の終盤でハル・ノートが突然突きつけられ、その理不尽な内容に日本側は開戦を決意せざるを得なくなったというのがあるが、その内容は交渉の当初からアメリカ側は基本的態度として提示していた。この風説では、アメリカが参戦するための準備の時間を確保するために日米交渉を行い、日本からの攻撃を遅らせる、いわゆる時間稼ぎのために日米交渉を行ったという陰謀論に近い説もある。
 アメリカ側も、日本と同じように本気で交渉に臨んでいた。そのころ、アメリカは欧州の戦争にき参戦していなかったが、とくにイギリスに武器などを通商という形で提供していた。しかし、その提供した武器等を運ぶイギリスの船舶がドイツの潜水艦の攻撃に遭っていた。そこで、アメリカは大西洋に海軍の哨戒部隊を展開させて、ドイツの潜水艦の位置をイギリス側に教える(アメリカが直接護衛することはできない)ようにしたい。そのためには、太平洋艦隊の何割かを大西洋に移動させる必要がある。そのためには太平洋で日米が平穏な状態でなければならなかった。しかし、アメリカは一枚岩ではなく、陸軍のスチムソンや財務省のモーゲンソーは、日本など資源・資金小国だから、アメリカが日本の出方を顧慮する必要はなく、ただ強硬な態度のみが日本をおとなしくさせられると考えていた。
 日本側は、アメリカが対英援助を本格化させていけば、大西洋でアメリカの駆逐艦とドイツの潜水艦が誤って戦ってしまって、米独が交戦状態に陥るリスクは高い。その時、三国同盟が発動して日本が戦争に巻き込まれてしまう。そういう危機感が日本側にあった。前章でみたように三国同盟をドイツの牽制するものと考えていた人々にとっては、逆にドイツに引き摺られてしまうことは避けなければならなかった。また、東南アジアを日本の生存圏として整えていくための平穏な時間も確保しなければならなかった。
 交渉は1941年4月、「日米諒解案」がハルから野村に手渡されたことから始まる。これは、日米の民間レベルでまとめられた私案という形になっているが、アメリカではルーズベルトもハルも内容を了解しているものだった。また、日本側で携わった民間人も政府の意を呈した人々だった。例えば、日米のカトリック関係者、宮内省関係者、首相や軍の関係者で、日米交渉の裏には厚い層の人々がいたということだ。
日米交渉のプロセスのなかで、最も大きな影響を及ぼしたのは、7月に日本の南部仏領進駐だったと思われる。日本海軍が、ここまで英米が怒らないと考えていたのが蘭印つまりインドネシアだった。40年6月の北部仏印進駐は援蒋ルートの閉鎖を目的とする陸軍が進めた。このとき、欧州ではフランスはドイツに降伏し、占領下のヴィシー政権で、日本はフランス外交交渉により、形式的には平和的に進駐した。この時、アメリカは、日本への鉄鋼や許可制にし、一部の高性能の石油の禁輸措置をとった。つまり、表面上は強硬なかたちをとりながら、内実は日本を追い込まないような冷静なものだった。ハルやルーズベルトは日本側を挑発することを恐れていたと言える。しかし、これに対して、それ以南は海軍による、飛行機や港湾を勢力下に置くことを目的とするので規模が違うし、蘭領植民地やイギリスの極東根拠地の奪取となるし、フィリピンのアメリカ軍基地への侵攻を有利にするものでもあった。一方、日本側では、その主体となる海軍では、アメリカとは戦争はしたくはないが、国内事情に引き摺られていた。海軍はアメリカとの戦争準備だとして、ずっと予算を獲得してきた。それゆえ、アメリカに対して弱気な慎重なしせいは弱気ととられることを恐れていた。また、北部進駐の時のアメリカの対応を見て、楽観的になっていたところもある。南部進駐もフランスとの外交交渉で形式的な協定が基にある。また、1941年7月にアメリカはアイスランドに進駐した。日本側からすれば、アメリカだって同じようなことをしているじゃないか、ということになる。しかし、5万という進駐の兵力規模はシンガポールや香港を持つイギリスへの強い圧力になる。日本側は、そこには思い至っていなかった。この時のアメリカは北部仏印のときとは違う国際環境を抱えていた。1940年ではドイツの攻撃にさらされているのはイギリスだけだったが、独ソ戦により、この時、アメリカにとってはソ連が敗退しては困る状態になっていた。アメリカはソ連の士気を鼓舞するためにも、日本を牽制する必要が生じていたのだった。それに加えて、タイミングが悪かった。このときルーズベルトやハルといった対日交渉を担った主要なメンバーが揃ってワシントンを離れているときに、対日強硬派が独断専行して石油の全面禁輸と資産凍結を実施してしまった。
 しかし、日本側は交渉を諦めることななく、日米交渉に消極的な松岡外相を更迭するなどして、8月に近衛首相のメッセージを送り、ルーズベルトと近衛首相がハワイで直接会って首脳交渉を行おうとするところまでいった。日本側とすれば、国内の担当課長、佐官級の事務担当などがうるさく、閣議や大本営連絡会議などの煩瑣な手続きに無駄な時間がかかってしまう。そこでトップ会談をして天皇の裁可を得てしまえば、その過程を省略できて、邪魔が入らずに進められる。ハワイで会談を行えば、政府内の反対派が内容をリークすることは難しい。しかし、結果として首脳交渉は実現しなかった。その原因の一つが、野村駐米大使がアメリカの新聞に漏らしてしまったのが、アメリカで報じられ、それが日本のマスコミに伝わり、日本の首相がアメリカと妥協しようとしていると思った国家主義者たちが強く反発し、近衛が国辱的な懇願をアメリカに行っていると大々的なキャンペーンを始めてしまったのだった。それで、近衛は首相を辞職してしまう。
 著者は、日本という国は、戦争や武力行使が必要となるときは、自分はやりたくない、あるいはやくたくないように見せたい、という行為を反復してきたという。南部仏印進駐をした海軍は、アメリカが全面禁輸を仕掛けてきたときには、武力行使せざるを得ないとして、戦争がもっとも起きそうな場合を、相手任せにしてしまっている。これを著者は被動者の位置と呼ぶ。このような日本の決定や選択の特徴を非決定の構図とも両論併記という。それがなし崩しに対米開戦に至った構造のひとつだろう。まさに1941年9月の御前会議で、日米交渉を諦めていないにもかかわらず、まさに両論併記により交渉の期限をきってしまったと言えるからだ。
 なお、12月の宣戦布告の通告が駐米日本大使館の怠慢によって遅れてしまったという話がある。本当のところは、東京の外務省が陸海軍の圧力に屈して、出先である大使館がどんなに頑張っても不可能な時間と方法で、ワシントンに電報を送ったためだった。つまり、奇襲を成功させるために軍部が無理をした責任を駐米大使館が押し付けらられたのが真相だという。

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